半跏思惟ポーズに驚きの事実が(「大乗仏教興起時代」2)
先日触れた『大乗仏教興起時代』(グレゴリー・ショペン教授・著)
を読み進めていますが、驚愕の事実が次々と明らかに!
玄人筋は別に驚かないのかもしれませんけれど。
半跏思惟像ってありますよね?
中国・韓国・日本では、弥勒菩薩がこのポーズをとっていて、
「衆生の救済について深い思索をめぐらしているように」などと紹介され、
実際、広隆寺や中宮寺で拝むと深遠なる菩薩の慈悲を感じるものです。
ところがこのポーズが、”ワケあり”らしいのです。
『大乗仏教興起時代』のなかで教授は、
まずロサンゼルスのカウンティ博物館にあるガンダーラの仏像に触れます。
それは片足を膝にのせ、左手で蓮華を持ち、右手を頬にあてています。
ネットで探したら、画像が見つかりました。
カウンティ博物館の像
カウンティ博物館の副館長さんは、論文で「困惑もしくは熟考のしぐさ」
「菩薩の内観的な表情は、彼が本質的な思考に専心していることを表現
している」と表現します。
ところが、この論文に対してショペン教授は、
「歴史家をかなり苛立たせる」と書いています。
これと全く同じポーズは、ガンダーラ美術の中によく登場する。
しかしそれは、「心配・不安・気遣い」などの記号であって、
深い思索や慈悲とは、何の関係もない、と。
たとえば同様のポーズで「フリーア画廊」にあるガンダーラ・レリーフは、
やっつけられて落ち込んでいるマーラ(悪魔)の像だと、
ある美術史家は分析しているそうです。
しかも、カウンティ博物館のように、装飾品や「お守り箱」を身につけた像は、
「絶対に菩薩ではなく、
金持ちの寄進者や支援者を理想化した肖像である」と。
(これは数人の美術史研究家によって論証されているそうです)
悩みを抱いて仏陀のところにきたから、頬に手を当てているわけです。
菩薩どころか在家信者なの!?
想像ですが、ある金持ちが土地や財宝を寄付してくれたら、
お礼の意味で僧院の工房が像やレリーフをつくって、僧院内に祭った
・・・ということでしょうか?
スポンサーを肖像にするのは、後代まで美術作品の定番ですしね。
教授がこのように断言するのは、
専門である「根本説一切有部律」(最有力部派のサンガの規則)に
このポーズに関する記述があちこちに出てくるからだそうです。
===============================
・頬に手を当てる、顎を頬に乗せる、といった記述は、
常に「意気消沈・憂鬱・不安」といった言葉を伴い、
文脈上もそういう場面である。
(たとえば尼僧を殺して、地獄に落ちると悩んでいる僧が
手に頬を置いて思いにふけった、とか)
図像はそういった負の感情の記号であると考えていい。
・片脚を膝に乗せて頬に手を当てるようなポーズについて、
文献では品が悪い、ふさわしくない、という扱いである。
律に「僧はそんな座り方をするな」という記述もある。
そのポーズを「菩薩」だとするのは不自然である。
===============================
にもかかわらず、ガンダーラのこれらの像やレリーフは、
なぜか軒並み「菩薩」と書かれています。
平山郁夫コレクションのガンダーラ・レリーフにも似たポーズ。「菩薩」と書かれてますね。
なぜこのような齟齬をきたすかというと、
文献研究者と美術史研究者がほとんど没交渉で、
せっかくの2つの証拠(文献・美術)が、
十分にすりあわされていないのだそうです。もったいない。
このガンダーラポーズが中国・韓国を経て、
弥勒=半跏思惟の図像になった・・・かどうかまでは、
教授は触れていませんが、ポーズはそっくりですしねぇ。
こういうことを知ったあとでも、
広隆寺の弥勒菩薩像の美しさは、いささかも損なわれはしないのですが。
にほんブログ村