ミシェル・ウェルベックとお釈迦さまと絶望(『地図と領土』)
1週間、仏教書を休んで、めずらしく新刊の小説を読んでいた。
フランスのミシェル・ウェルベックの『地図と領土』というやつ。
現代の海外小説で、翻訳されたのは全部読んでいる唯一の作家だ。
なんでだろう?
どうやら私は、もっともっと絶望したいようだ。
夢や希望といった虚妄を剥ぎ取って、底なし沼の底に足をつけたら安心できるかもしれない。
ウェルベックの小説は、どれも最後は、誰もいなくなる。完全に静かな孤独がやってくる。
『地図と領土』に至っては、あからさまに「無常」で終わる。
この人に何かしら仏教と近いものを感じていたら、果たして、『地図と領土』に仏教が出てきた。
ほんの少しだけれど。
登場する警官が、スリランカに行って不浄観の修行をするのだ。
腐って白骨化していく死体の横で瞑想して、肉体の無常をオノレに叩き込む修行で、初期仏典に出てくる。
ウェルベックさんは、けっこう、お釈迦さまと話が合うかも。
皮肉屋で、ユーモアがあって、身もフタもなくて、下部構造から目をそらさず、センセーショナルで、絶対永遠なんか信じてない。
なんていうと、「それはヨーロッパの近代仏教学が作り上げた仏教観・ブッダ観であって、実際の仏教はもっと猥雑・豊穣であって…」という声がすぐさま聞こえてきて、それは仰るとおりなんだけど、わたしら現代人なので、やっぱそういう形でしかお釈迦さまにアクセスできないんじゃないか、と思う今日このごろです。
仏教ファンの方は、『素粒子』やら『地図と領土』やらが気に入るんじゃないかな?
内容を説明するのがめんどくさいので、朝日新聞の書評をコピペ!
■純然たる絶望、奇妙な清々しさ
フランス現代文学の鬼才、いや、鬼っ子の新作『地図と領土』は、世界と人間への強烈な侮蔑と、それを自らに許す作家自身のあまりにも魅力的な傲慢(ごうまん)という持ち味を遺憾なく発揮しつつ、新たな境地へと鮮やかに突き抜けてみせた、紛(まご)うかたなき傑作である。
主人公はジェド・マルタン、アーティスト。若き日の芸術的理想を捨ててリゾート開拓の分野で成功を収めたが、既に引退している寡黙な老父が買ってくれたパリのアパルトマンにひとり住みながら、孤独に作品制作をしている。だがジェドの孤独は彼自身が望んだことでもある。彼は一個人としては、他人にも社会にも興味を抱いていない。
だが、にもかかわらず彼はフランスという国と、より大きな視野での現代文明と人間生活にかんする、独創的と言ってよい芸術作品を創り出し、本人の意志とは無関係に、あっという間に美術界のスターになってしまう。写真、絵画、ビデオと媒体を変えながら、ジェドは共感とは無縁のまま、世界を冷徹かつ克明に描き出すことで、それらと否(いや)応無しにかかわってゆく。まず何よりも、この小説は、一風変わった「芸術(家)小説」である。
だが、ここにもうひとりの人物が登場する。それはなんと「ミシェル・ウエルベック」である。世間のイメージそのままのスキャンダラスで嫌われ者のウエルベックに、ジェドは自分の展覧会カタログへの寄稿を依頼し、作家の肖像画を描くことになる。孤独な芸術家と孤立した小説家は不思議な交流を結ぶ。
だが、そこに或(あ)る事件が起こる……予想もつかない展開に、読者の多くは驚愕(きょうがく)することだろう。それはまるで、小説のジャンルが一変してしまったかのようでさえある。だがその後には、深く苦い納得が待ち受けている。完璧な、決然としたペシミズム。純然たる絶望。だが、それはなぜか奇妙に清々(すがすが)しいのだ。
◇
野崎歓訳、筑摩書房・2835円/Michel Houellebecq 58年、仏生まれ。小説家。『素粒子』『ある島の可能性』など。
地図と領土 (単行本)
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フランスのミシェル・ウェルベックの『地図と領土』というやつ。
現代の海外小説で、翻訳されたのは全部読んでいる唯一の作家だ。
なんでだろう?
どうやら私は、もっともっと絶望したいようだ。
夢や希望といった虚妄を剥ぎ取って、底なし沼の底に足をつけたら安心できるかもしれない。
ウェルベックの小説は、どれも最後は、誰もいなくなる。完全に静かな孤独がやってくる。
『地図と領土』に至っては、あからさまに「無常」で終わる。
この人に何かしら仏教と近いものを感じていたら、果たして、『地図と領土』に仏教が出てきた。
ほんの少しだけれど。
登場する警官が、スリランカに行って不浄観の修行をするのだ。
腐って白骨化していく死体の横で瞑想して、肉体の無常をオノレに叩き込む修行で、初期仏典に出てくる。
ウェルベックさんは、けっこう、お釈迦さまと話が合うかも。
皮肉屋で、ユーモアがあって、身もフタもなくて、下部構造から目をそらさず、センセーショナルで、絶対永遠なんか信じてない。
なんていうと、「それはヨーロッパの近代仏教学が作り上げた仏教観・ブッダ観であって、実際の仏教はもっと猥雑・豊穣であって…」という声がすぐさま聞こえてきて、それは仰るとおりなんだけど、わたしら現代人なので、やっぱそういう形でしかお釈迦さまにアクセスできないんじゃないか、と思う今日このごろです。
仏教ファンの方は、『素粒子』やら『地図と領土』やらが気に入るんじゃないかな?
内容を説明するのがめんどくさいので、朝日新聞の書評をコピペ!
■純然たる絶望、奇妙な清々しさ
フランス現代文学の鬼才、いや、鬼っ子の新作『地図と領土』は、世界と人間への強烈な侮蔑と、それを自らに許す作家自身のあまりにも魅力的な傲慢(ごうまん)という持ち味を遺憾なく発揮しつつ、新たな境地へと鮮やかに突き抜けてみせた、紛(まご)うかたなき傑作である。
主人公はジェド・マルタン、アーティスト。若き日の芸術的理想を捨ててリゾート開拓の分野で成功を収めたが、既に引退している寡黙な老父が買ってくれたパリのアパルトマンにひとり住みながら、孤独に作品制作をしている。だがジェドの孤独は彼自身が望んだことでもある。彼は一個人としては、他人にも社会にも興味を抱いていない。
だが、にもかかわらず彼はフランスという国と、より大きな視野での現代文明と人間生活にかんする、独創的と言ってよい芸術作品を創り出し、本人の意志とは無関係に、あっという間に美術界のスターになってしまう。写真、絵画、ビデオと媒体を変えながら、ジェドは共感とは無縁のまま、世界を冷徹かつ克明に描き出すことで、それらと否(いや)応無しにかかわってゆく。まず何よりも、この小説は、一風変わった「芸術(家)小説」である。
だが、ここにもうひとりの人物が登場する。それはなんと「ミシェル・ウエルベック」である。世間のイメージそのままのスキャンダラスで嫌われ者のウエルベックに、ジェドは自分の展覧会カタログへの寄稿を依頼し、作家の肖像画を描くことになる。孤独な芸術家と孤立した小説家は不思議な交流を結ぶ。
だが、そこに或(あ)る事件が起こる……予想もつかない展開に、読者の多くは驚愕(きょうがく)することだろう。それはまるで、小説のジャンルが一変してしまったかのようでさえある。だがその後には、深く苦い納得が待ち受けている。完璧な、決然としたペシミズム。純然たる絶望。だが、それはなぜか奇妙に清々(すがすが)しいのだ。
◇
野崎歓訳、筑摩書房・2835円/Michel Houellebecq 58年、仏生まれ。小説家。『素粒子』『ある島の可能性』など。
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