意外。「如来常住」や「仏性」の、そもそもの意味(『如来蔵と仏性』)
細々と読んでいる『シリーズ大乗仏教8巻 如来蔵と仏性』(春秋社)。
第三章「仏性の宣言―涅槃経」(幅田裕美先生)は、
如来常住や仏性を、サンスクリット語のそもそもの意味に戻って
解説していて、面白かった。
思想だけでいうと、
無常だって言ってるのになんで「常住」なんだよ?
と疑問がわいてくるけど、
「常住」はeternalという時間的概念でなくて
そもそもは「仏がここにいる」という空間的概念だとか。
しかも(在家の?)観想という実践と結びついていて、
「瞑想してるときに、仏が家の中にいる」ということだとか。
なんと。これだったら、私やってますわ。
部屋で坐禅してるとき、横にお釈迦様が座ってる気がして
そう思うとスーパーハッピーなんですよね。
一番最初の如来常住って、こういう感覚だったのか?
あと「仏性」も、
「みんな本当はいい人なんだよ」みたいに聞こえて
イチャモンつけたくなりますが、
「仏性」の「性」と訳されたdhatuは
仏舎利の意味を持っていたとか。
やっぱり訳の影響は大きいなあ…。
===以下は同書からの自分用メモ===============
「大般涅槃経」=釈尊が死んでも如来は常住である、と繰り返し主張。
如来常住、悉有仏性
「如来常住」の意味。
サンスクリット原文では
nityo bhagavam buddha
(サンスクリット語の点とか線が出ない・・)
「仏陀釈尊はnityaである」
nitya(ni-tya)
ni=「ここに」「このなかに」という場所を指示する副詞
nityaの本来の意味は「ここに(ある)こと」という空間的な語義。
それがeternalという時間的な意味と理解された。漢訳では「常住」
「大般涅槃経」ではnityaが重要な言葉。
「『如来はnityaである』と実践する者たちの家に如来は留まる」
<仏陀の死後であっても、仏陀がここにいることを観想すれば
仏陀はここにいる>という(思想だけでなく)実践を伴う
nityaの観想が「私の家」から「私の上」「私のカラダ」
へと進んでいると考えられる→私の中に仏がいる=如来蔵
「仏性」の言語は Buddha-dhatu
dhatuは「構成要素」という意味
Buddha-dhatuは「仏陀の構成要素」。「仏界」。
明らかに「仏舎利(ブッダの遺骨)」という意味で
崇拝を勧める記述も出てくる(「大般涅槃経」)
これを「仏性」と漢訳したことで、
サンスクリット語の原語にない哲学的な意味を付与された。
(性=もともと備わっている心、本質、というような)
悉有仏性=サンスクリット原文は今のところ残っていない(?)
「大般涅槃経」を正確な訳すと「大般涅槃大経」。
「大経」(マハースートラ)は、
比丘でなく在家信者が伝承したものと推測される。
(律の雨安居の規定より)

にほんブログ村
第三章「仏性の宣言―涅槃経」(幅田裕美先生)は、
如来常住や仏性を、サンスクリット語のそもそもの意味に戻って
解説していて、面白かった。
思想だけでいうと、
無常だって言ってるのになんで「常住」なんだよ?
と疑問がわいてくるけど、
「常住」はeternalという時間的概念でなくて
そもそもは「仏がここにいる」という空間的概念だとか。
しかも(在家の?)観想という実践と結びついていて、
「瞑想してるときに、仏が家の中にいる」ということだとか。
なんと。これだったら、私やってますわ。
部屋で坐禅してるとき、横にお釈迦様が座ってる気がして
そう思うとスーパーハッピーなんですよね。
一番最初の如来常住って、こういう感覚だったのか?
あと「仏性」も、
「みんな本当はいい人なんだよ」みたいに聞こえて
イチャモンつけたくなりますが、
「仏性」の「性」と訳されたdhatuは
仏舎利の意味を持っていたとか。
やっぱり訳の影響は大きいなあ…。
===以下は同書からの自分用メモ===============
「大般涅槃経」=釈尊が死んでも如来は常住である、と繰り返し主張。
如来常住、悉有仏性
「如来常住」の意味。
サンスクリット原文では
nityo bhagavam buddha
(サンスクリット語の点とか線が出ない・・)
「仏陀釈尊はnityaである」
nitya(ni-tya)
ni=「ここに」「このなかに」という場所を指示する副詞
nityaの本来の意味は「ここに(ある)こと」という空間的な語義。
それがeternalという時間的な意味と理解された。漢訳では「常住」
「大般涅槃経」ではnityaが重要な言葉。
「『如来はnityaである』と実践する者たちの家に如来は留まる」
<仏陀の死後であっても、仏陀がここにいることを観想すれば
仏陀はここにいる>という(思想だけでなく)実践を伴う
nityaの観想が「私の家」から「私の上」「私のカラダ」
へと進んでいると考えられる→私の中に仏がいる=如来蔵
「仏性」の言語は Buddha-dhatu
dhatuは「構成要素」という意味
Buddha-dhatuは「仏陀の構成要素」。「仏界」。
明らかに「仏舎利(ブッダの遺骨)」という意味で
崇拝を勧める記述も出てくる(「大般涅槃経」)
これを「仏性」と漢訳したことで、
サンスクリット語の原語にない哲学的な意味を付与された。
(性=もともと備わっている心、本質、というような)
悉有仏性=サンスクリット原文は今のところ残っていない(?)
「大般涅槃経」を正確な訳すと「大般涅槃大経」。
「大経」(マハースートラ)は、
比丘でなく在家信者が伝承したものと推測される。
(律の雨安居の規定より)

にほんブログ村