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One of 泡沫書評ブログ

世の中にいったいいくつの書評ブログがあるのでしょうか。
すでに多くの方が書いているにもかかわらず、なぜ書評を続けるのか。
それは、クダラナイ内容でも、自分の言葉で書くことに意味があると思うからです。

物乞う仏陀 (文春文庫)/石井 光太
¥650
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世界の、特にアジアを中心に、貧困地帯をまわって取材を元に書いた、いわゆるルポタージュである。タイトルと概要だけ聞くと、「ああ、そういう本ね」と、左回りの説教臭さが目に浮かんでウンザリしてしまうかもしれないが、この本にはそういう要素はほとんどない。どちらかというと淡々としすぎていて、逆に色々考えてしまう本である。

こういう貧困に興味を持つのはよいことだと思うし、豊かさの意味を考える上でも、他国の実態を知るというのは意味がある。しかし、そこから転じて妙なヒューマニズムに陥ってしまうのはただのアホだ。日本のような世界でもっとも社会インフラが整備されている国に住んで、それ自体に罪悪感を感じてしまうのは、左翼的人間がつい陥ってしまう偽善だ。つい道徳的なことを言いたくなったり、価値判断をしたくなる気持ちはわかるが、そこをぐっと堪えるのがプロというものだろう。本書はこうした読者のわがままなニーズ(?)に応えてくれる稀有な本である。

貧困とか差別というのは、結局は国そのものが貧しかったり、再配分のシステムがうまくいってなかったりするなど、一義的には経済問題であろう。これを倫理観の欠如(もちろんこれも大きな原因のひとつではあるが)に大きな原因を求めるのは小学校とかでやる道徳教育の悪しき弊害だろう。われわれのような先進国は、まずは自国の貧困や再配分のまずさについて取り組むべきであり、その上でこうした外国の貧困の解決に手助けするなら、経済成長のノウハウや、社会インフラの仕組み、作り方を教えてあげることが人道的だし合理的だと思う。たとえば、ポール・ローマー氏のように「しくみ」を提供するべきだ。実際に何とかするのは、そこに住んでいる人たちなのだから。

(もちろん、地雷除去の機器や医療用機器、医療品などの物的支援がまるで無駄だと言っているのではない。こういうことに従事することは尊いが、「一方で豊かさと安全に慣れた日本人は・・・」とつい言ってしまうことの愚かさに対して文句を言っているのである。気持ちはわかるが、それを言ってしまうと全て台無しだ。)

そういう意図を持ってわたしは本書を読んだが、その意味で出来はかなりよいと思う。しかし本書はデビュー作ということもあり、やや肩に力が入っているのは否めない。むしろ次に紹介する『絶対貧困』のほうがいい意味でライトであり、完成度としては高いと思う。ルポライタとしての著者の成熟さを感じさせる。オススメ。


絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)/石井 光太
¥540
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日本人が誤解する英語 (知恵の森文庫)/マーク ピーターセン
¥760
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わたしは一向に英語力に進歩が見られないにもかかわらず、なぜか英語関係の本を次々と買ってしまう、典型的な「英語学習難民」である。言ってみれば、まるで永遠に振り向いてもらえない美女に貢ぎ続ける哀れな非リアのようなものだろう。おそらく、わたしはこれまで英語関係の本だけで20万くらい使っているはずだが、投資に見合うだけの語学力を身につけたという実感がない。これこそまさに英語コンプ市場のいい「カモ」だろう。

わたしの観察によれば、英語関係の本を買う量と語学の伸びは反比例すると思う。色々手を出す人間は間違いなく駄目だ。「サルにでもわかる」とかいう本を買う人間はもっと駄目だ。地味だが版を重ねた良書を手に入れ、じっくりと何度も何度も使うほうが絶対に語学力は伸びる。お金をかければかけるほどだめになるもの、それが英語力というか語学力の面白いところだろう。

このような英語コンプ丸出しのわたしであるが、さすがに何冊も買っていると、たまに「これはいい!」と思える英語本に出会う。本書はその中でもかなり上位にランクすべき名著中の名著である。本書は流暢な日本語で書かれているが、著者は正真正銘の米国育ちの米国人であり、彼の母語は英語だ。日本語すらわたしより達者なこの米国人が、われわれ日本人が陥りやすいポイントをじつに的確に解説してくれる。

本書の素晴らしい点は、あえて一気に書くと、「日本で英語教育を受けた人が多かれ少なかれ犯す<典型的な間違い>を、長年それを観察した英語ネイティブが、間違いのバックグラウンドにある日本の英語教育に十分思いを巡らせた上で、英語のニュアンスについて懇切丁寧に解説している」という点である。 

たとえば鬼門のひとつ、「冠詞」を例にとってみよう。われわれ日本人はこの「冠詞」という概念そのものを持たないため、とりあえず適当にaをつけてみたりtheをつけてみたり、ちょっとまじめな人は可算名詞はa(an)をつけ、固有名詞にはtheをつけ・・・などと杓子定規に覚えようとしたはずだ。しかし著者は、そもそも冠詞というものの原理をつぎのように解説する:

さて、thea の基本的論理をどう見ればいいのか、考えましょう。まず、「名詞があって、そこに the を付けるか、 a を付けるか、それとも、何も付けないか、文法にのっとって決定する」というような捉え方をやめましょう。

(中略)

話すときも、書くときも、先に出てくるのは冠詞のほうで、そして、その冠詞に名詞が付きます。そればかりではなく、 the か、 a かによって、名詞の意味が変わるのです。たとえば、ネイティブ・スピーカーが喋っているとき、"I need a...a...a modem."(モデムが必要だ)と、 modem という言葉がすぐに思い出せない場合、思い出せるまでは、"a..."を繰り返します。同様に、"I need the...the...the modem."(あの例のモデムが必要だ)となることもあります。

(中略)

つまり、名詞が "a" に付くか "the" に付くかによって、その名詞が示すものが変わるわけです。言うまでもなく、ここで問題なのは"modem"に "a" を付けるのか、"the" を付けるのか、それとも何も付けないのか、いったいどれが文法的に正しいのか、なんていうことではありません。何を伝えたいのか、ということだけが問題なのです。

このように、著者はあくまで「伝えたいことはなにか」という観点で、われわれ日本人が本当に悩むポイントを丹念に解説してくれるため、中高時代、受験英語を学んでいたときに渦巻いていた「なんでだろう?」という疑問をうまく解消してくれるのだ。もちろん、英語は長い歴史を持つ言葉であり、ここで語られることが全てではないだろうが、それでも、「名詞にaをつけようかtheをつけようか」という受験英語の悩みから解放され、活き活きとした英語の論理で冠詞と付き合えるようになるわけだ。

これはまさに日本人のための英語本の真骨頂であり、すべての英語学習者が必読と言ってもいい内容だろう。個人的には、高等教育において教科書の副読本とすべきなのではと思えるほどだ。

本書はもともと集英社インターナショナルの大判本、『痛快!』シリーズとして刊行されていたものを光文社が文庫で再録したものである。いまさらあの大判の本を買う必要はないが、氏の著作には、英語学習者にはおなじみ『日本人の英語』『続 日本人の英語』(いずれも岩波新書)という名著もあるので、本書に感銘を受けた人はこちらにも挑戦すべきだと思う。内容的にはここで紹介した『日本人の誤解する英語』と重複しているのだが、やはり『日本人の英語』はもはやベストセラーを通り越して「定番」であり、こうした名著は目を通しておくべきだと思うのだ。ただし、この本を読んだからと言って英語が流暢になるわけではないのは、わたしを見れば明らかなので、その辺は十分に気をつけられたいw


日本人の英語 (岩波新書)/マーク ピーターセン
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続・日本人の英語 (岩波新書)/マーク ピーターセン
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英語の壁 文春新書 326/マーク・ピーターセン
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近年、「転職しました」的なことをブログで報告するのがはやっている(ような気がする)。これはひとえに、ネット界の重鎮であるちきりんさんが煽っているのが大きいだろう。各自色々思うところはあるのだろうが、全体的に後ろ向きな活動だなという感想は否めない。なぜいちいち聞かれてもいないのに「辞めました」というのか、正直なところ「何だかなぁ・・・」と思う人は多いのではないだろうか。

しかし、つまらない仕事や馬鹿な上司、理不尽な顧客など、日本のビジネスシーンはとかく閉塞感が漂う。隙あらば辞めたいと思っている多くのサラリーパーソンにとって、こうした言論は大いに心動かされることだろう。わたし自身、城さんやちきりんさんを中心とした「あるふぁついったらー」の有形無形の煽りに加え、昨今のSIer→Webサービスに転職しました的な風潮につい影響され、特に何の当てもなく転職してしまったクチである。ま、わたしの場合は結果的に大失敗だったのだが・・・。

思うに、成功例は巷にあふれているが、失敗例は意外にインターネット上に現れてこない(ような気がする)。これは典型的な「生存バイアス」であろう。これでは正しい情報は入ってこないのではないか。そこで、恥を承知であえてわたし自身の経験と、そこから考えたことについて軽く触れてみたい。といっても、まあ当たり障りのない範囲なので、あまり期待されぬよう。長い割に内容がないので、時間のある方だけ読んでください。

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昨今、SIerといえば非効率、低レベルの技術、ドメスティック、実装を知らない管理職・・・とまあ挙げればきりがないほどdisられまくっている業態であろう。いつも比較対象に挙がる米国の「合理的な経営」と並べると、わが国のICT産業はいかにも労働集約的で貧弱な印象を受ける。なかでも特に受託開発業界は、旧態依然とした経営のもと、一部の「プログラムを書けない」高給取りが、実際に開発の最前線に立っている人たちを不当に搾取し、業界全体として競争力を失っている、というのがだいたいの観測だろう。まあ、あながち間違ってはいないし、中の人はだいたい同じようなことを考えていると思う。もちろん例外は山ほどあるだろうが、趨勢としてSIerの現場離れ、実装離れはかなりひどいものになっていると思わざるを得ないし、大手ほどその病理は重いと感じる。

こうしたことを背景に、一部の先進的なプログラマたちは誇りあるステージを求め、続々とWebサービスの地へと旅立っていった。2008年頃から徐々にこうした動きは活発化し、いまではDeNA、GREEをはじめとしたソーシャル系、GoogleやAmazonといったWebサービス系(?)の会社に華々しく転職し、周囲の野次馬たちはみな一様に受託開発をdisる(disらない人ももちろんいますけどね)のがトレンドとなっている観がある。そしてこういう人は往々にして目立つ。いつしか、自信のない者から順に、「このビッグウェーブに乗り遅れたらヤバイ!」というような不安にかきたてられ、あせって妙な行動を起こしてしまうのではないかと思うのだ。まあ、わたしのことであるが。

わたしはこうした流れに勝手に焦り、意を決してSIerからWeb業界の末席に向けて転職に踏み切ったのだが、入った会社がいわゆる「ブラック企業」であった。このブラック企業というのもあいまいな定義だが、「日本最大のブラック就職先を知る私が教える、本当のブラック企業の見分け方」によればブラックの条件を全て満たしているので、まあブラック認定してもよいだろう。いまにして思うと、わたしが元々居た会社はどれにも当てはまっていないので、相当なホワイト企業だったのかもしれない。なんのことはない、ホワイト企業からブラック企業への転落だったわけだw。もちろん年収も大幅に下がったし、色々あって一時期無職になる羽目になって散々であった。個人的には色々と学ぶところもあり、決して無駄なだけではなかったが、客観的には明らかに「大失敗」であり、思い出すのもはばかられる。

もしかしたら他にも同じような人がいるのかもしれない。しかし、冒頭にも述べたようにこうした「失敗事例」をブログ等で敢えて語る人は少ないように思う。おそらく多くの無数の敗残者が、威勢のいいことを言いながら夢破れ、現実の前に再度自分自身と向き合わなくてはならない、そんな状況におかれているのではないかと推測する。俺はフリーランスになる、といって飛び出したがやはり受託の世界に戻るとか、生活ができないので勤め人に戻るとか・・・。悲喜こもごもであるが、やはり失敗する人には共通点があるのではないか。そこで、あくまでわたしのケースを参考にし、業界を俯瞰して、以下、転職に関して考えるべきポイント、注意すべきポイントを考えてみた。あくまでも、業界の端のほうでうごめく凡人の先例という認識で参考にしていただければ幸いである。あと、文章がへたくそなので言いたいことの半分も言えていませんw

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(1)技術力がないならSIerでがんばったほうがいい

技術力が身につかないといって焦るのは成長のためにはいいことかもしれないが、転職によって一気に技術力を身につけようと思う程度なら、現職に留まったほうがいいと思う。そもそも現在の仕事をしながらどのくらいの技術力があるかどうかくらいは、自己評価でだいたいわかるはずだ。技術力がないとわかっているなら、半年なり一年なり、いまの環境において圧倒的な成果を挙げられるようにしてから、そのとき改めて転職について考えたほうがいいと思う。

というのも、やはり旧態依然としたとはいえ、SIerだって捨てたものではないと思う。単純に記事だけ読んで業界のトレンドをわかったつもりになり、「やっぱりSIerはダメだ!」なんて一般論に終始していると、怪我をするだけだろう。まず、個人としてそれなりの成果が目に見える形で世に出ている(たとえばマイナでも何かのオープンソースプロジェクトのコミッタとして活躍しているとか、@ITに記事を書いたことがあるとか、ブログで名が売れてるとか)レベルでないなら、考え直したほうがいい気がする。少なくとも、その程度のレベルには達していないと、なかなか転職は難しいのかなと感じる。

ちなみにいまの自分の技術力がどのくらいかわからない、というレベルの人は、はじめから転職など考えないほうがいいだろう。周りにいるオッサンが駄目すぎて自分を過大評価している可能性もある。Excelもメールも満足に使いこなせないようなオッサンがいて、そういう人に「あいつら仕事できねえ!」とムカついているレベルであれば、むしろそこがその人にとってピッタリな会社である可能性のほうが高い。

(2)どうしても環境を変えたいなら外資がオススメ

それでもやはりドメ企業はいつまでたっても旧態依然、周回遅れで、このままだとヤバイ、と思っているのなら(そしてそれは事実でもあるのだが)、SIerからのチェンジという観点では、転職先は外資系を目指すのも良いかと思う。特に専門分化している外資系であれば、規模が小さくても教育にかけるコストは負担してくれることがあるようだ。報酬も大手に比べて遜色はないどころか、内資の15%~30%増しという印象である。レポートラインもはっきりしていることが多いので、評価が厳しい一方で、比較的やりやすく、やりがいもあるのではないだろうか。もちろんITコンサルや戦略系を目指すという「一昔前の王道」だってぜんぜんありだろう(なんと言っても報酬とネームバリューが段違いだ)。 

また、これも個人的な感想だが、外資は結構「受け入れてくれる幅が広い」と思う(いわゆる「Up or Out」ということで、とりあえず採用してみて使えないなら解雇する、という考えなのかなと)。チャレンジしてみる価値はあると思う。

(3)安易にベンチャーに行かないほうがいい

そもそも「ベンチャーって何か?」という話はあるが、とりあえずその辺は一般的なイメージに沿った「設立10年未満の成長企業」とでもしておけばよいだろうか。ベンチャーとかスタートアップというのは、なにやら非常に魅力的に映るものである。特に、お堅い社風だったり保守的な環境で長年過ごすと、社長が同い年とか、下手したら年下で、経営陣も皆若くエネルギッシュに映るスタートアップ企業は、それだけで「何かができそうな気がする」ものである。彼らの放つ一種怪しいオーラは、キャッシュフローを気にしたこともないサラリーパーソンには毒が強すぎる。冷静な判断がつかなくなる可能性はあるだろう。

よって、もとからベンチャー企業にいて独立志向が高いとか、重要なポジションとして三顧の礼で迎えられるとか、個人的なコネクションでTech系の会社に呼ばれたとかいうケースでもない限り、SIerの人間がWeb系ベンチャーに入るのは控えたほうが賢明だと思う。特にWeb系はほとんどがベンチャー企業になると思うが、業界そのものが(顧客も含めて)特殊で、デスマーチになりやすい体質になっていると感じる。これはソーシャルゲーム開発だけでなく、Webプログラムの受託、デザインの受託なども同様だ。25歳以下、職歴3年程度であれば耐えられるだろうが、おそらく仕事を始めて10年20年の選手は適応できないのではないだろうか。

あと、これもかなり重要なことだが、ほとんどのWeb系スタートアップはほとんど受託で食っているという事実は強調しておいて損はないと思う。サービスだけで食えているのはほんの一握り。ここは強調してもしすぎないことはないでしょう。

(4)嫌だから辞めたいのか、成長したいから移りたいのかをもう一度よく考える

これが一番重要かもしれない。何かやりたいことがどうしてもあって、今の会社ではどうしてもそれができない、ということでもない限り、転職してもいいことはないのではないかと思う。どこの会社も似て非なる問題を抱えており、現実的には理想の会社というのはないだろう。どんなに素晴らしい会社だと言われているところでも、自分の適性と合わないことだってあるかもしれない。やりたいことがあるなら、まず、いまの会社で本当にできないことなのかどうか、じっくり考えてみたほうがいいし、じっくり考えた結果、今の会社が嫌だから辞めたいという理由なら、転職はまた来年にしたほうがいいと思う。

(もちろん労働強度が高すぎてブラック企業であるなら話は別。ブラック企業はどんな理由であろうと可能な限り早く逃げだすべき。金銭的な余裕があるなら辞めるべきだ。金銭的理由が原因で辞められないなら、当面の生活費を貯めて一刻も早く辞めるべきだと思う。)

まあ、迷いつつ判断を留保し続ければ、いずれ年をとり、いよいよ身動きができなくなるというのは事実。「選択しないという選択」による機会損失は当然ながら発生する。しかし、やはり「やりたいことがどうしても今の環境だとできない」という理由でないならば、もう少し考えたほうがいいと思う。

(5)それでもやはり転職してみたいなら、それはそれでアリ。失うのはお金くらい

と色々と難癖をつけてみたが、それでもまあやってみようと思うなら、無謀な転職でも変化を起こしてみるのはアリだと思う。矛盾するようだが、はっきり言って、失敗しても失うのはお金くらいのものである。むしろ、今までと違った風景が見え、お金以外のところは得るところも大きいと思う。視野も広がるだろう。人によっては、環境の変化によって初めて奮起するというパターンもあるだろう(人間は往々にして怠惰なため、必要に迫られないと本気で変化しないものだから・・・汗)。したがって、お金のことさえ気にしなければ、とりあえずやってみるというのはぜんぜん「アリ」だというのが、わたしの実感だ。労働市場は恋愛のようなものだ。つきあってみないとわからないし、他の人と付き合ってみて初めて最初の恋人のいいところ悪いところも見えてくる。

まあ、そもそも目先の生活費が気になるなら、転職などやめて社内で出世する道を考えたほうがいいだろう。そのほうが圧倒的にリスクが少ないし、そういうマインドセットだと転職はあまりうまくいかないような気がする。

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いきなり飛躍するが、以上述べてきたようなことは、誤解を恐れず言えば、凡人向けのライフハックである。したがって、世の中を変えるような熱い思いを持ち、かつ実際に行動力を持っているのであれば、ここに書いたような「凡人ライフハック」は無視して、もう自分の思うがままに行動してもらいたいと思う。やはり行動を起こす人が社会を活性化し、雇用を生んでいるのだ。会社を作る人、経営する人は尊い。人を雇う人はもっと尊い。しかしそういうことができる人は一握りだ。だから、できる人はぜひやって欲しい。無責任な発言かもしれないが・・・。

もちろん、できないからと言って卑下することはなく、できない人はできない人なりに精進すればいいのだと思う。起業やフリーランス、新しい働き方を目指せばいいというものでもないし、サラリーパーソンとして仕事を続けることが馬鹿だというのも乱暴な議論だ。要するにプロフェッショナルの意識を持ち、顧客や社会に対して誠実に事業を行っていれば、それはそれで十分尊いのだとわたしは信じている。しかし、やはりある一定数の人が仕事を作り、会社を興し、人を巻き込んでくれないと、凡人は居場所を失ってしまう・・・・・・。

・・・・・・などと書いていたら「起業論」みたいになってきた。本旨とずれているし、このへんの大上段の議論はわたしには手に余るので、このへんでやめておこう。だいたい、転職の話だったはずなのにw



以上、わたしの偏見で色々書いてみたが、まあ結局は自分の人生、自分で選んで生きていくしかないということで、やや尻切れながらも筆を措くことにします。この駄文が何かの参考になれば幸いです。これからもお互い精進していきましょう。

サラ金トップセールスマン物語―新入社員実録日誌/笠虎 崇
¥1,785
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「つぶやきかさこ」とかいうタイトルでぐぐると著者が運営しているサイトが出てくる。著者はトラベルライタ(兼カメラマン)の方で、かつて新卒で入社した某消費者金融で不動産担保融資をやっていたらしい。本書はそのときの体験をベースにした体験記というか、まあ小説になるのだろう。

お話形式で手軽にすんなり金融知識が入ってくるのでオススメだ。と言っても、扱っている商品が「不動産担保融資」なので、少々マニアックな気がしなくもないが、いわゆる無担保ローンと違い、担保の確認方法などがわかって勉強になる。この手の読み物だと『ナニワ金融道』『ミナミの帝王』『闇金ウシジマくん』などがメジャーだろうが、わたしはこれらのいずれも読んだことがない(長いんだもん)。それに、そこまでグロテスクではないので、さらっと金融の世界を覗いてみるにはちょうど良いサイズと内容だと思う。

こうした金融に関する読み物の底流に流れるのは、「無知な者は永遠に搾取される」というテーゼだろう。複利を知らない者はアホだし、連帯保証人の判子を押すのも馬鹿だ。クレジットカードのリボ払いをするのも情弱だし、無担保で10万円貸してくれるのはなぜか考えたこともないのもダメだ。結局、借金というリアルな世界をいかにリアルに感じられるかが、この世界を生き抜くための秘訣なのだろう。もちろんわたし自身、実際の金銭消費貸借契約書や抵当権設定、委任状などは見たことがない金融弱者である。人のことは言えない。

ところで作中の「岡田先輩」が、「こうした死に金の融資ではなく、生きる投資をしてみたい」というようなことを語っているところは非常に興味深かった。確かに、連帯保証人を取ったり、担保を取ったり、本人確認をしたりする「借金を返さないことを前提とした融資」より、たとえばエンジェル投資家やシリコンバレーのように、「将来性にかけて金を融通する投資」のほうが、同じ「融資」といえども、やる立場を考えるとモチベーションに天と地の差があると思う。もちろん「金に色はついていない」のだが、結局、金を活かすも殺すもその人次第、ということだろう。

本書はもともと著者のホームページで『サラ金!』というタイトルで連載(?)されていた読み物を、出版用に再構成したものだそうだ。ちなみにホームページもとっくにリニューアルしていて、昔のよすがをみることはできない。ということでこれを読むには本を買うしかない。マーケットプレイスで安く手に入るので、興味をもたれた向きは探してみてください。
げんしけん 二代目の弐(11) (アフタヌーンKC)/木尾 士目
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以前二代目の壱についての書評を書いた。あのときは斑目についてつい熱く語ってしまったが、今回も斑目が大活躍(?)している。斑目萌えの方にはたまらないだろう。怖くて確認したことはないが、恐らく「ササ×マダ」本、ものすごい数の二次創作が生まれているに違いない。


個人的な話で恐縮だが、わたしにとって11巻は大きなターニングポイントとなった。なぜか。それは、初めて登場人物の心象描写が理解できなかったからだ。しょうもないことだが、そこそこサブカルが好きなわたしにとっては、これは割とショックなことであった。

わたしはこれまで「ぬるヲタ」として何十年もすごしてきており、『げんしけん』で描かれるような典型的な(?)ヲタ描写はある種のセラピーでもあった。笹原のような中途半端な人間が大学デビューし、なんだかんだと楽しい学生生活をすごして彼女ができるというヲタクのビルドゥングスロマン。理解するとかいう以前に、これは願望の投影に近い。自分がなしえなかったもうひとつの「楽しい大学生活」、そのひとつの答えがここにはある。

もう少し具体的に言えば、これまで笹原を中心に描かれていた本作は概ねヲタクとしての生態が理解の範囲内であったということだ。男オタの心境はまあ理解できるし、恋愛に関しても、大野さんや荻上さんという「腐」のアクセントを取り入れながらも、概ね恋愛としてはノーマルなものであった。大野さんも荻上さんも、腐りながら普通の恋愛(こういうのをヘテロというのかな?)をしているし、我らが斑目も、やや屈折しながらも咲ちゃんに横恋慕するなど、どちらかというと古典的な文脈といえる。こういう世界を妄想してニヤニヤするというのは、まあオタクにとって非常に自然なことといえるだろう。

しかし今回はどうだ。波戸くんを中心に語られる物語はなんなんだ。これはいったいどう咀嚼すればよいのか。いや、もって回った言い回しは止めよう。要するに波戸くんの感情が理解できないのだ。ついでに矢島さんの感情もよくわからない。登場人物と作者においてけぼりを食らったような気持ちになっている。

これはわたしは年をとったからなのであろうか? いまの若い人にはこれがすんなり受け入れられるというのであろうか? 今回ももちろん面白い。面白いが、わからない。なにやら少し寂しい気がするし、この感情がうまく掬い取れないのももどかしい。

以上、もはや書評ではないですが、もしもオタク文化について多少なりとも興味があるなら、読んで損はありません。
だいぶ過ぎてしまったが、12月1日は「世界エイズデー」である。Yahoo! JAPANでレッドリボンキャンペーンを毎年のようにやっているから、もしかしたらだいぶ浸透してきているのかもしれない。実はこの「不治の病」は日本において増加傾向にあるらしい。2008年くらいのデータによれば、たしか東京では年間約1,000人程度毎年純増していたはずだ(今はもっと増えているのかもしれない)。これは統計に表れているものだけだろうから実態はもっと酷いものであると推測される。

なぜHIVは感染の拡大が防げないのであろうか。色々な理由があるとは思うが、ひとつには「人権」によって情報が公開されないことにあるのではないか。わたしがリスペクトして止まない"世捨て人氏"などは、たしか「エイズより怖い人権」というエントリを起こし、人権の壁に阻まれ、誰がHIVポジティブか判らない状況のことを揶揄して「ロシアンルーレット」だと評していた。さすがにそれは言い過ぎだと思うが、それでも事実として「誰がポジティブなのかわからない」というのは否定できない。

もちろんHIVポジティブの方やAIDS患者に対するいわれのない偏見は厳に慎まねばならない。しかし、こうしたむずかしい問題に対して、わが国の一般大衆は理性的に反応することができない。「うわーヤダ!」とか言って脊髄反射するのが容易に想像できるであろう。そしてすぐに村八分だ。ポジティブの方がふつうの生活を送ることはほとんど不可能だろう。いくら手をつないだくらいでは感染しない、と広報しても、ポジティブの人間をコミュニティから排除しようとすることが目に見えている。こうした状況では感染拡大を防ぐための「情報公開」が不可能であろう。これでは民度が低いといわれても仕方がない。

ではどうしたらよういのであろうか。このような根源的な問題について、わが国は戦略的に対応することができないのであろうか。感染症は、当然のことながら感染者と非感染者の間で利害が衝突する。感染者を特定しないことには対策は打てないし、かといって感染者に対する差別をなくすこともおそらく(短期的には)できない。結核などの感染症であれば、現在においても患者は法律に従って強制隔離されるし、その他の感染症も、たとえばかつてDDTなどを直接散布するなど今の常識で考えるとむちゃくちゃをしていたのだが、逆にいうとそのくらいしなければ感染症を封じ込めることはできないわけだ。感染症にはこのような「感染者に対する強制的な対応」がどうしても必要なわけだが、この現実を直視しないと「不特定多数のパートナとの性交渉はやめましょう」「コンドームをつけましょう」というような対象者不明、意味不明なキャンペーンにならざるを得ない。わたしは、この問題は童貞問題と並んで非常に難しい問題だと常々感じている。シモが絡む話はかように難しいのだ(もちろん、すべてのHIVポジティブの方の感染経路が性交渉ではないのは言うまでもない)。


大上段の話はさておき、とりあえず現実問題として、市井に生きる大衆としては個人的に防衛する方法を身につけるしかないであろう。もっとも感染リスクを下げる方法としては、新しく付き合う相手と以下の手順を踏むしかない。

・HIV/AIDSについてよく話し合う。その仕組みをよく知る。
・ウィンドウ・ピリオド(約3カ月)を置いたのち、保健所に行ってHIV抗体検査を受ける
・お互いにネガティブであることを確認したのち、セックスを行う。もちろんその後、異なるパートナとセックスをする場合は同様の手順を踏む。


これ以外に精度の高い防止法はないだろう。言うまでもないことだがウィンドウ・ピリオド期に不特定多数のセックス・パートナと性交渉を持つようなことがあっては意味がないので、その辺もよくよく信頼できる人をパートナに選ばなければならない。「童貞」や「処女」だということでも安心はできない。男も女もどこで何をしているかわからないし、前述したようにそもそも感染経路は性交渉だけでなく「薬害」「医療過誤」というケースもある。このへんの実態は調べていないので恐縮だが、疑ってかかるくらいがちょうどいいと思う。企業などで行っている集団健康診断などでも、注射針の使用には十分注意したほうがいいし、歯科なども果たして感染症をどこまで考えているのかわからない。


・・・と、いうことで、HIVから身を守る術を簡単に書いてみたが、これがいかに実現困難かはあらためて説明するまでもないだろう。恋愛で盛り上がっている男女が、おもむろに

「じゃあ、そろそろHIVについてまじめに勉強しよう。そして、お互い、どういう経路で感染しているかはわからないから、念のため検査に行こう。検査まではウィンドウ・ピリオドとして3カ月おかなければならない。お互い、出会う前にどういうことをしていたかはわからないから、再来月まで何もせずにおこう」

と言って3カ月後に仲良く手をつないで検査に行くことができるだろうか?(わたしは行ったが)

そもそも保健所などで行っている無料のHIV抗体検査に対する偏見も根強い。検査に行くということだけで「不潔」と言われるのが落ちだろう。「わたしを疑ってるの?」とか、「なにかやましいことでもあるの?」というような反応が大多数ではないか。実際わたしも保健所で抗体検査したことを人に言うと「酷い、彼女を信用していないの?」などという反応がほとんどであった(特に女性にはそういう人が多い)。このように無知な人を説得するのは容易ではないが、それが自分の未来のパートナであるのなら、色々な意味でやっておいたほうがよいと個人的には思うのだが、感情と理性を分けて考えるというのは案外難しいのかもしれない。

政治家の殺し方/中田 宏
¥1,000
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「民主主義は最悪の政治手法である。ただし、これまでつくられた政治体制をのぞいては」
一般にチャーチルの言葉と伝えられる冒頭のことばは、じつはチャーチルが発言したかどうかはっきりしないという。原典にあたったわけではないので確かなことは言えないが、これほどまでに民主主義の本質を言い表したことばはないだろう。チャーチル云々の是非はさておき、人口に膾炙するのも頷ける名文句である。

かつて数百年前は、政治力を行使する際は文字通り「命がけ」であった。政権には「野党」などという平和的な考えはなく、常に為政者は一人(あるいは一つの体制)であり、簡単にいえば「オール与党」しかありえなかった(つまり野党勢力は押さえこまれるか、殺されるかしていたわけだ)。ようやく民主主義の萌芽がみえはじめた明治期~昭和初期においても、行き過ぎた政治家は文字通り暗殺され命を落とすこともあり得た。あれからまだ100年も経っていない。そう考えると政治家が殺されない現在の政治体制は、それよりは多少進歩したといえるだろう。最近では「既得権益」との対決姿勢を明確に打ち出した橋下徹氏(前大阪府知事・現大阪市長)なども、世が世なら危なかったかもしれない。しかしあくまで「暗殺」などという前時代的な方法が初めから捨象されている現代政治というのは、まあその面だけ見ればいいものである。

さて、むやみに長い前振りをおいたが、むろん、中田氏は前横浜市長として「改革」を推し進めた政治家であり、「抵抗勢力」からの攻撃はものすごいものだったのだろう。かれは2002年、当時としては史上最年少となる37歳で国際都市横浜の市長に選ばれ、それ以来、2期にわたって市政改革を行ってきたわけだが、その間に受けた誹謗中傷、政治的な攻撃、スキャンダル報道は大変にひどいものであったらしい。本書はかれが現職市長であったときの回顧録であるが、内容のほとんどはこうした一連のスキャンダル報道に対しての弁明と、マスコミや反社会勢力などから受けた攻撃について生々しい報告がほとんどであり、どちらかというと「暴露本」に近いかもしれない。タイトルの「政治家の殺し方」というのは、「わたしはこれほどまで酷い目に遭った」という切り口で自らの体験を語ることで、転じて「こうすれば政治家生命を絶てる」というある種の諧謔でもあろう。

本書は政治家を志す人間が、政敵の手口を知るという目的で読むのが一番しっくりくるものだ。一般の読者にとっては、地方政治というものがいったいどのような形で行われているのかという雑学を得るための本、あるいはマスコミ報道というのがいかにして作られるのかを学ぶ「メディアリテラシ」の参考書のようにも使えるだろう。果たして中田氏の弁明がどこまで正しいのだろうか?という視点はもちろん必要ではあるが。記述は至ってシンプルであり、著者の率直で裏表のない(日本的には最悪な)性格がよく伺えておもしろい。「ああ、これは役人や既存の議員から反発されるだろう」というのがすぐわかる。逆にいえばこのアンチパターンでいけば地方議員、地方自治の首長としては「成功」できるということかもしれない(笑)。

一点だけ気になるポイントがある。著者は自ら率先して歳出カットに手をつけたことをアッピールするために、あまりにも安い報酬について開示しているが、これは後進のことも考えるといかがかと思う。実際、かれ自身、次のように語ってもいる。

―――世の中があまり理解していない現実を話せば、主張の退職金叩きは一見、留飲が下がるだろうが、それでは民間から優秀な人材を首長や副市長・副知事などの政治職に迎え入れることができなくなってしまう。
 そもそも優秀な人材は民間分野ですでに活躍しているわけで、それを辞めて政治職に就いてくれる人は極めて稀なのだ。たとえ首長が民間人をヘッドハンティングしても、彼らの収入に見合う条件を提示することはできない。それでも引き受けてくれる人は、ひとえに社会に対する正義感によることが多い。そういう意味では、給与や退職金というのはトータルで考える必要がある。(本文178ページ)

このような奥歯に物が挟まった言い方ではなく、できれば莫迦な大衆にめがけて「いい仕事をする有能な人材を得るには金も必要だ」という常識をはっきり語って欲しかった。「清貧の政治家」を求める大衆心理こそ、まさに政治に人が集まらない最大の隘路でもあろう。逆に言えば、この部分だけは、さしもの中田氏も大衆心理に迎合せざるを得なかったということかもしれないが。。。


ところでわたしは中田氏が居た自治体に税金を納めていたこともあるのだが、中田氏がそういうスキャンダル報道をされていたことを本当にまったく知らなかった。当時は稀に日経新聞朝刊を読むことはあったが、週刊誌はもとより、テレビなどは深夜番組以外ほとんど見なかったからであろう。これは首長の政策や行政そのものをよく知らないという意味では、タックスペイヤーとして甚だ不見識だが、同時にくだらないレッテル貼りについてまったく関知せずにいられたわけで、精神衛生上大変ありがたいとも思う。政治家を志すならばこうした「敵情」を知る必要もあろうが、改めて一般のサラリーマンにとってイエロージャーナリズムに時間を浪費するのは無駄であると感じた次第である。

安易なメディア・公務員批判に走らず、”構造”に目を向けろ~中田宏インタビュー~
あきらめの悪い人 切り替えの上手い人 (講談社プラスアルファ文庫)/下園 壮太
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このたびアマゾンのウィジェットがどういうふうに表示されるのか試してみたいと思い、なんとなくアマゾンアソシエイトに登録してみた。実際に色々試してみると面白い発見にもなるのでヒマな人はやってみることをお勧めしたい。左側のバナーエリアにウィジェットを追加してみたのだが、実際にやってみると結構うっとうしいものであることがよくわかった。そのうち消そう。

さて久々の更新ですが、例によって今回も自己啓発本というか、セラピーの本のご紹介。著者は陸上自衛隊の心理カウンセラーという異色(?)の経歴をお持ちの下園壮太氏である。

現代は一つのことにかかずらって思い悩みストレスを抱えて自滅するパターンが増えており、これはなかなか「あきらめられない」という性質に起因しているというのが著者の分析だ。これに対して、世の中をうまく渡っているように見える人は、往々にして「適当なところであきらめ、切り替えて次の道を探す」という術を身につけている人が多いという。日本人は往々にしてあきらめの悪い人が多いため、意識的に切り替える技術を身につけ、ラクに生きていこう、というセラピー本である。

さらっと読めるので、気休め程度にはなります。
絶対ブレない「軸」のつくり方/南 壮一郎

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2011年10月6日、Steve Jobsが亡くなった。ネット上にはかれに関するものすごい数のブログやニュース記事、つぶやきが溢れたが、その中でも何度も参照されたのは、2005年のスタンフォード大学において行われたこの講演だろう。

今更わたしが引用するまでもないだろうが、たぶん多くの人の心をうったのはこの部分かなと思う。

When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I've looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

(意訳)わたしが17歳のとき、こんな一節に触れた。「これが最後の日だと思って一日一日を生きることができれば、いつかきみはきっと正しい道を選ぶことができる」わたしはこのことばに大きな影響を受け、それ以来わたしは、33年間、毎朝鏡の前で自分にこう問いかけた:「今日が自分の人生の最後の日だとしたら、今日、やろうとしていることは本当に自分がやりたいことなのか?」と。そして、その答えが何度も続けて「いや、これは本当にやりたいことじゃない」になっていたら、わたしは何かを変える必要がある。

拙い訳は間違っているかもしれないので、英語が達者な人はぜひ原文にあたってほしい。「これが最後の日だと思って毎日を生きる」というのは、どちらかというと仏教の教えに近い気がする。聞くところによれば、かれは禅の修行をどこかで受けたことがあるというから、ここに反応するのは日本人的な感覚なのかもしれない。(根拠はない)

さて、そんなどうでもいい前振りは置いておいて…といいたいところだが、実はわたしも、死を意識したときに「このままでいいのだろうか?」という悩みに耐えきれず、変化を求めて中途半端な行動を起こしてしまったのだが、その結果、実に中途半端な結果を引き起こしてしまった。

この一件で、自分の中途半端さを厭というほど思い知らされ、深い自己嫌悪に陥ってしまった。頭で考えていることと、実際に自分で経験、体験することの間には大きな溝がある。いくら自己啓発本を読んでも、深い問いかけと、地道な努力を伴わない行動は、中途半端な結果にしかならないという大きな教訓を得た。


そこで、敢えてもう一度自己啓発本を手に取ってみることにし、栄えあるその一冊に選んだのがこの本だ。南氏のことは存じ上げていたが、きっかけとなったのは、ダイヤモンドオンラインでやっていた成毛さんとの対談である。その後、成毛さんが南氏を評して「この男は幅が広い」とおっしゃっていたので、ちょっと読んでみようと思ったのだ。そして、たまには、本で読んだことを実行してみようと思ったのだ。

…ということで、書評と大きくずれた「自分語り」をしていたら紙数が尽きたようだ(笑)。最後にまったく文脈を無視して思うところを書いておく。自己啓発本は何冊も読んでうんうん頷いていても全く何も変わらないばかりか、莫迦が勘違いして逆に悩みの原因になりがちであり、読まずに越したことはない。わたしのように、救いようのない莫迦は変な影響を受けて取り返しのつかない失敗をしてしまうだろう。自戒も込めて言うが、自己啓発本の取り扱いには十分気をつけてほしいものである。
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本業の方が色々あって大変忙しいためブログは完全放置状態となっていた。ありがたいことに「海外ニート」さんのエントリを上げてからそこそこ定期アクセスが増えて(といっても10とか20とかだけど)、まあそれなりに皆「ニート」とか「社畜」とかいうワードにつられているのではないか?とありがたく思っています。(ちなみに、当ブログにアクセスしていただいている方のほとんどは「海外ニート」か「世捨て人の庵」関連で流入しています。つまりわたしの実力はほとんどゼロw)


わたしの近況・・・というわけでもないのだが、更新が滞ってしまった大きな理由は、自己啓発にかぶれて色々行動を起こしてみたものの、環境の変化に適応できず悶々とした日々を送っているためだ。この辺はほとぼりが覚めたら是非エントリとして認めてみたいので、酔狂なお方はご期待いただければ幸いである。自分でいうのもなんだがかなりの「メシウマ」展開なので、人の不幸が好きな方には気に入っていただけると思うw


さてそんな生存確認を兼ねて(笑)、最近イチオシの漫画をご紹介。ご存知京極堂シリーズなのだが、どうやらコミック版があるのだ。現在までのところこの『魍魎の匣』が完結している唯一のものなのだが、現在『狂骨の夢』が鋭意連載中(?)らしいので、続きが楽しみでしかたがない。メインストーリと平行して『百器徒然袋』シリーズも続々公刊される予定のようで、生きる勇気が出てきたよ、という感じであるw


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百器徒然袋 鳴釜   薔薇十字探偵の憂鬱   (怪COMIC)/志水 アキ

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