げんしけん(二代目の弐)(11) | One of 泡沫書評ブログ

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げんしけん 二代目の弐(11) (アフタヌーンKC)/木尾 士目
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以前二代目の壱についての書評を書いた。あのときは斑目についてつい熱く語ってしまったが、今回も斑目が大活躍(?)している。斑目萌えの方にはたまらないだろう。怖くて確認したことはないが、恐らく「ササ×マダ」本、ものすごい数の二次創作が生まれているに違いない。


個人的な話で恐縮だが、わたしにとって11巻は大きなターニングポイントとなった。なぜか。それは、初めて登場人物の心象描写が理解できなかったからだ。しょうもないことだが、そこそこサブカルが好きなわたしにとっては、これは割とショックなことであった。

わたしはこれまで「ぬるヲタ」として何十年もすごしてきており、『げんしけん』で描かれるような典型的な(?)ヲタ描写はある種のセラピーでもあった。笹原のような中途半端な人間が大学デビューし、なんだかんだと楽しい学生生活をすごして彼女ができるというヲタクのビルドゥングスロマン。理解するとかいう以前に、これは願望の投影に近い。自分がなしえなかったもうひとつの「楽しい大学生活」、そのひとつの答えがここにはある。

もう少し具体的に言えば、これまで笹原を中心に描かれていた本作は概ねヲタクとしての生態が理解の範囲内であったということだ。男オタの心境はまあ理解できるし、恋愛に関しても、大野さんや荻上さんという「腐」のアクセントを取り入れながらも、概ね恋愛としてはノーマルなものであった。大野さんも荻上さんも、腐りながら普通の恋愛(こういうのをヘテロというのかな?)をしているし、我らが斑目も、やや屈折しながらも咲ちゃんに横恋慕するなど、どちらかというと古典的な文脈といえる。こういう世界を妄想してニヤニヤするというのは、まあオタクにとって非常に自然なことといえるだろう。

しかし今回はどうだ。波戸くんを中心に語られる物語はなんなんだ。これはいったいどう咀嚼すればよいのか。いや、もって回った言い回しは止めよう。要するに波戸くんの感情が理解できないのだ。ついでに矢島さんの感情もよくわからない。登場人物と作者においてけぼりを食らったような気持ちになっている。

これはわたしは年をとったからなのであろうか? いまの若い人にはこれがすんなり受け入れられるというのであろうか? 今回ももちろん面白い。面白いが、わからない。なにやら少し寂しい気がするし、この感情がうまく掬い取れないのももどかしい。

以上、もはや書評ではないですが、もしもオタク文化について多少なりとも興味があるなら、読んで損はありません。