そのような中に、民部日向が弘安8年に突如身延に登山したんです。
日興上人は大いに喜ばれた。そして、地頭の波木井実長も喜んだ。
そして、日興上人はこの民部日向を学頭職にお就けになったんです。
だが、この民部日向は世才家でまことに口がうまい。
そして、名利の心が強くて、いつの間にか地頭の波木井実長に取り入って、その心を誑かすようになったんです。
やがて、波木井実長は信心が逸脱し、世間の名利を求めて次のような謗法行為を相次いで犯すに至った。
その第一は、釈迦仏の仏像を作って本尊としようとした。とんでもない事でしょう。
第二には『立正安国論』の御意に背いて神社への参詣を始めた。
「三島明神とかそういう所に鎌倉の武士として行かないわけにはいかない」など世間体を気にして神社への参詣を始めたんです。
第三には、身延の領内に念仏の塔や念仏の道場を建立した。
これも、地元の者から「地頭様、どうぞ寄付を願います」と言ってきたら名利があるからそれに応じてしまって、念仏の塔を立てたり、念仏の道場を建立したりした。
まさに、信心が狂いに狂った。
しかし、これらの謗法行為もその全て民部日向がこれを許し、あるいは唆したんです。
これを知り給うた日興上人は直ちに民部日向を擯斥処分に付した。
同時に、地頭の波木井実長に対してはその謗法を再三に渡って厳しく諫められた。
だが、地頭波木井実長はその時すでに民部日向と心を合わせていたんですね。
そしてついに波木井実長は日興上人に何と言ったかといえば「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」「自分は民部日向殿を師匠とするんだ」とこういう事を言い切ったんです。
ここにおいて、これまで清浄の地であった身延山は謗法汚濁の地と化してしまった。
かかる汚濁の地に大聖人様の御魂たる本門戒壇の大御本尊をこしまいらせる事は大聖人様の御意に叶わない。
また、大聖人様も兼ねて地頭の波木井実長の信心を見抜かれておられたんですね。
そして『美作房御返事』には大聖人様から兼ねて「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由」という思し召しを日興上人に仰せになっておられた。
その通り、大聖人様の御遺言を見て「いよいよその時が来た」という事で、日興上人はついに身延離山の重大決意を固め給うたのであります。
令和4年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導