日興上人が御弟子になられて2年後の文応元年、大聖人様は『立正安国論』をもって幕府を諌暁し給うた。
それより、大聖人様の御身には法難が波のごとく押し寄せてきた。
全ての始まりはこの『立正安国論』の御諌暁にあったんですね。
まさに、それ以後は法難の連続の御生涯であられた。
以下、大聖人様の御化導の大綱を拝し奉りますが『立正安国論』奏進の翌月にもう法難が始まったんですね。
すなわち、念仏の暴徒数千人が真夜中に大聖人様を殺害せんとして松葉ヶ谷の草庵を襲った。
小さな草庵を取り囲んで殺害せんとする。絶対に失敗はない。
普通の凡夫であったらこの法難でもって殺害されています。
しかし、大聖人様は不思議にもこの大難を逃れ給うたのであります。
そしてさらに、その翌年には「松葉ヶ谷の夜討ちで死なずに生き延びたのがけしからん」という事で今度は国家権力による伊豆流罪が行われた。
この理不尽な流罪というは、時の執権を務めておった北条長時が父親の北条重時が大聖人様を深く憎悪していたという事を知って、国の法律を無視して断行したんですね。
この父親の北条重時は大の念仏者であり、そのために大聖人様を憎んだんです。
その父親の心を汲んで時の執権である息子の北条長時が法律を曲げて流罪に処した。これが、伊豆流罪であります。
御本仏を憎んで流罪したこの罰はどのようなものであったか。恐ろしいですね。
父親の北条重時はその翌月ににわかに発病し、夜ごとの発作が高じてついに狂乱状態となって、地獄の悪相を現じて死んでいった。
次いで、執権の北条長時がその3年後に35歳で夭死をした。
三男の茂時は30歳、四男の義政は39歳で夭折、かくて、北条重時の一門はことごとく亡んでしまったんです。
御本仏を怨む罰の恐ろしさに慄然とするものであります。
さらに、この伊豆御流罪よりお帰りになったその翌年の文永元年に小松原の剣難が起きました。
房州の地頭の東条景信が数百人の軍勢を率いて小松原で待ち伏せておったんですね。
そして、大聖人御一行がそこに差し掛かるや、この御一行に対して矢が雨のごとく降り注いだ。
その中、東条景信が馬を躍らせて大聖人に近づいて大刀を振り下ろした。
凶刃は大聖人の頭に四寸(12㎝)の大きな傷を負わせ奉った。
さらに、左の手を打ち折られ、まさに、御命も危うしと見えた。
しかし、不思議にも大聖人様はこの大法難をも逃れ給うたのであります。
で、東条景信でありまするが、この男はまさしく御本仏の御身から血を出だしたんですね。
仏様に対する犯罪として「出仏身血(仏の身から血を出だす)」との犯罪が最大のものであります。
仏を殺すという罪はない。なぜならば、仏というのは絶対に凡夫に殺されるものではない。ですから、仏を殺す罪は経文に書かれていない。
東条景信は「出仏身血」という大逆罪を犯した。
彼はこの直後に重病を発して、大苦悶の中に狂い死にをしているんです。これもまさに現罰であります。
令和4年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導