身延御入山以後、大聖人様は一歩もこの山を降り給う事はなかった。
このお姿を見て、世間の者は「隠棲されたのでは」という風に見たかもしれない。
そうではない。この身延御入山には大目的があられた。
それは、いよいよ出世の御本懐成就、すなわち、本門戒壇の大御本尊を建立あそばす事であられた。
これが、身延御入山の大目的ですね。
さて、大聖人様の身延御入山後、日興上人は伊豆地方を始めとして甲州・駿河一帯に大規模な折伏弘通を開始されたんです。
恐れ多い事でありまするが、この時の日興上人の大折伏を開始された御心を拝し奉れば、それは
「日本国の人々よ、大慈大悲の御本仏ここにまします。
早く日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れ」と。
これが、日興上人が一切衆生を折伏あそばすお心であられたと私は拝し奉っております。
この日興上人の死身弘法によって、富士南麓の熱原地方において弘安元年に農民の神四郎・弥五郎・弥六郎という三人の方々が入信された。
この三人は、日興上人の御説法を聞き奉るやたちまちに宿縁薫発して「日蓮大聖人こそ末法の御本仏であられる」とこの信心が心中から湧き上がってきたんですね。一筋に日蓮大聖人信じまいらせ、熱烈な折伏に立ち上がった。
やがて、付近の農民が続々と入信して、ここに「法華講衆」と名乗る純粋健気な信心の集団が出現したのであります。
ところが、鎌倉幕府の実力者平左衛門がこの法華講衆の存在を知ったんですね。
行智の「熱原地方においてこういう熱烈な日蓮大聖人を信ずる集団ができた」との進言を平左衛門が耳にした。
彼は前々から抱いていた日蓮大聖人への怨嫉を熱原の法華講衆に向けたんです。
どういう思いを抱いておったか。竜の口でもって大聖人様を数百人の軍勢を率いて召し取りに来たのは平左衛門ですが、その時に大聖人様から
「あら面白や、平左衛門尉が物に狂うを見よ、とのばら、只今ぞ日本国の柱を倒す」
と大叱咤を受けたんですね。
大聖人様はさらに「間もなく自界叛逆・他国侵逼の大難が必ず起こる」と断言あそばした。
この師子王のごとき御気魄に、捕えに来た平左衛門が顔面蒼白になって立ちすくんでしまった。
御書にもありまするが、それを見た兵士達は『捕えに来た大将が臆して、召し捕られるべき大聖人様が厳然としておられる。これはおかしい。何か間違いがあったのではないか』と思った。
こう大聖人様は仰せになっておられまするが、そのように、この時平左衛門は心から大聖人様の絶大威徳に『怖い』という思いを抱いた。この思いが抜けなかった。
『何としても今度は大聖人様を命かけて信ずる法華講衆を退転せしめて念仏を唱えさせ、もって大聖人様を辱めよう』との思いが平左衛門の胸に湧いたんです。
捕縛され、鎌倉に押送されてきた20人の法華講衆は平左衛門の屋敷の庭に引き据えられた。
平左衛門は居丈高に法華講衆20人に対してこう言ったんです。
「汝等、日蓮坊の信心を捨てて念仏を唱えよ。さすれば直ちに故郷に帰す。さもなくば直ちに頸を刎ねるであろう」とこういう事を申し渡した。
だが、法華講衆は一人として退する心なく、一死を賭して高声に「南無妙法蓮華経」と唱え奉り、それを答えに変えた。
これを見て、平左衛門は驚き、怯え、そして怒り、ついに中心者の神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を引き出だし、その頸を刎ねた。
いいですか、平左衛門は神四郎・弥五郎・弥六郎の三人の肉身は壊す事はできたが、大聖人様に南無し奉る絶対信を壊す事はできなかったんです。
まさしく三人は「一心に仏を見奉らん欲して、自ら身命を惜しまず」との澄み切った絶対信に住しておられたのであります。
この法華講衆の入信は弘安元年ですよ。そして、この大法難は翌年の弘安2年です。わずか1年でこの大法難を受けられた。普通のお方ではないですね。
まさしく、神四郎・弥五郎・弥六郎等三人の方々もまさに久遠元初以来の大聖人様の本眷属・大菩薩であられると私はこう拝しております。
日興上人はこの事態を直ちに身延にまします大聖人様に鎌倉から飛んできて急報申し上げた。
大聖人様は深く深く御感あそばされ、そして、神四郎・弥五郎・弥六郎等の法華講衆を願主とされて、ついに、御一代の最大事、出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を建立あそばされたのであります。
どうです、不思議でしょう。
大聖人様が出世の本懐をお遂げになるべき弘安年中に、日興上人の死身弘法によって大聖人様に南無し奉る不惜身命の集団が出現して、戒壇の大御本尊様の願主となった。何とも不思議な事であります。
この不思議、ただ伏して拝し奉るのみであります。
大聖人様はこの本門戒壇の大御本尊を御入滅近き弘安5年9月に日興上人に付嘱して、本門弘通の大導師に任じ給い、同時に「広宣流布の暁の国立戒壇建立」を御遺命をあそばされた。その文証が『一期弘法付嘱書』ですね。
令和4年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導