そのような中、老僧ろうそうの一人みんこうが突然のぶに登山してきたんです。
 老僧ろうそうとはどういうものかといえば、だいしょうにんさま入滅にゅうめつ直前に門下の法将ほうしょう六人をえらんで「ほん弟子でし六人」とこう定めたんです。
 これは「それぞれの任地において我が滅後にしっかりづうをせよ」との勧奨かんしょうということを目的とした選定せんていです。
 そのほん弟子でし六人とは、日昭にっしょう日朗にちろう日興にっこう上人しょうにんみんこう日頂にっちょうにちの六人であります。
 この順序は師徳によるものではなく入門にゅうもんの次第による。
 この中の日興にっこう上人しょうにんを除いた五人を老僧ろうそうというのであります。
 この五人はだいしょうにん滅後たちまちに敵対てきたいおちいってしまったんですね。だいしょうにんさまに背いてしまった。
 彼らは一同に「日蓮にちれんだいしょうにん」というたちを捨ててしまったんです。
 そして「てんだい沙門しゃもん」と名乗った。彼らがばくに奏上するその申状もうしじょうに「日蓮にちれんだいしょうにん」と書かずして「てんだい沙門しゃもん」と名乗った。
 そして彼らは「日蓮にちれんだいしょうにん仏法ぶっぽうてんだい・伝教の余流だ」などということい出した。
 さらに、邪宗の坊主らと肩を並べてこっ安泰あんたいとうまでするようになった。
 老僧ろうそうはこのような数々のほうをするに至った。
 なぜ、老僧ろうそうとあろう者がこのようにたちまちに日蓮にちれんだいしょうにんおんに背いて敵対てきたいおちいったのか。この理由は2つです。
 一つは、老僧ろうそう鎌倉かまくらばく弾圧だんあつを恐れたから「住房を破却する」などと脅かされて震えがってしまった。
 ゆえに、老僧ろうそう鎌倉かまくらばくに捧げる状には「てんだい沙門しゃもん日昭にっしょう」あるいは「てんだい沙門しゃもん日朗にちろう」などという名乗りが真っ先に書かれておって「日蓮にちれんだいしょうにん」との名乗りは弾圧だんあつを恐れて書かなかった。
 日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにん申状もうしじょうを拝してごらんなさい。必ず「日蓮にちれんしょうにん日興にっこう」「日蓮にちれんしょうにん日目にちもく」とおおせになる。
 ところが、老僧ろうそうは「てんだい沙門しゃもん」と名乗った。これはまっただいしょうにんさまに対する敵対てきたいであります。
 もう一つの理由は、彼ら五人はだいしょうにんづうの所詮が文底もんていじん’の大法である」というがまだ分からなかったんです。
 御法門の上からえば、彼ら老僧ろうそうの理解は権実相対ごんじつそうたいまでだったんですね。
 その上の本迹相対ほんじゃくそうたいも理解できない。
 いわんや、本門ほんもん寿量品じゅりょうほん文底もんていちんされたしゅの大法、三大さんだいほうなどは想像だに及ばない。
 それは、日興にっこう上人しょうにんのごとくだいしょうにんさまつかたてまつる機会が少なく、また、だいしょうにんさま内証ないしょうを知りたてまつるにはあまりに智恵があさきゆえであります。
 だいしょうにんさまどうほうなんの連続の中にあそばされている。
 その間、終始一貫体に影の添うがごとく付きしたがい、身命を賭してだいしょうにんさまを守護したてまつったのはただ日興にっこう上人しょうにん一人いちにんですね。
 老僧ろうそう佐渡さどざいへの同行も叶わず、だいしょうにんさまから教導きょうどうを受ける機会も少なかったんです。
 しゃく身命しんみょうけつなき老僧ろうそうはたちまちに臆病風おくびょうかぜに吹かれて鎌倉かまくらばくけんりょくへつらってしまったのであります。
 そして、日興にっこう上人しょうにんが「だいしょうにんさまの一回忌・二回忌・三回忌とだいな法要をあそばす時に必ずのぶに登山するように」ということうながしても老僧ろうそうは最初の百箇日だけは参詣したんですが「あとは日興にっこう上人しょうにんに任せたてまつる」とって鎌倉かまくらんでしまったんです。
 ここに、日興にっこう上人しょうにんは非常に寂しいおもいをされた。


令和4年 2月7日 日興上人御報恩勤行会 浅井先生指導