このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。
リンクを 貼 らせて頂いております。紫色のブログ・タイトルをクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)
(半角で 6万文字以内という字数制限に達しましたので、こちらのブログ記事に 前回 すなわち 7月23日(火)の「親戚からの突然の電話連絡・続報65・中篇・3」のブログの続きを記させて頂きます。前回のブログから 話が 繋 がっておりますので、前回のブログも 御覧頂きますと おわかり頂け易い と存じ上げます)
さて、本日 すなわち 7月22日(土)の『菜食のおかず・486(味噌汁)』のブログの中段やや上に、
『(前略)去る 5年前の3月6日(火)の【母親の転帰】のブログに記させて頂きましたように、母親が 亡くなりました。 また、去る 昨年の3月11日(金)の【父親の転帰】のブログに記させて頂きましたように、父親が 続いて 亡くなりました。因みに、飲み物を頂いたり 食事をしたりするときには、両親と 共に 頂いている気持ちでおります。なお、 勿論、毎日のように 御仏壇に お供えを致して お線香を あげております。序で乍ら、父親も 母親も、神様であります。従いまして、両親を想うことは、神様を想うことであると思われます。
ならびに、去る 昨年の9月22日(木)の【菜食のおかず・172(大和芋)・洗濯物】のブログの中段やや上に、
【(前略)去る 一昨々年の2月24日(日)の〖母親の一周忌の挨拶〗のブログ そして 去る 一昨年の2月27日(木)の〖母親の三回忌の挨拶〗のブログの上段に、
〖(前略)〘今日は、何が食べたい?〙、〘少し暖かくなったね。〙と、誠に有り難いことに、毎日 会話しました。(後略)〗と 記させて頂きました。なお、僧侶を招いて 供養することも 必要であるか と存じますが、人に両親の話をすることが 供養であるとされています。更に、お供えをすることも 大事ですが、一番 大切な供養は、日々 両親に 上記のように、〖少し暖かくなったね。〗と話し掛けることであると思われます。(後略)】と 記させて頂きました。
および、去る 3月5日(日)の【父親の 一周忌での 挨拶】のブログ、去る 昨年の7月11日(月)の【父親の 初盆(新盆)での 挨拶】のブログ そして 去る 昨年の3月20日(日)の【父親の告別式[家族葬]での 挨拶】のブログのそれぞれ上段に、
【(前略)当方から〖よかったね。御飯 食べられて。〗 そして 父親から〖美味しかった。〗が 毎朝の言葉の遣り取りでした。
母親との言葉の遣り取りは、〖暖かくなったね。今日は、何が食べたい?〗などでありました。すなわち、 去る 一昨々年の2月27日(木)の〖母親の三回忌の挨拶〗のブログの上段に記させて頂きましたように、毎日 会話しました。
(中略)
なお、〖よかったね。御飯 食べられて。〗は、日々 食べることが出来ることに 感謝の気持ちを捧げた言葉であります。(後略)】と 記させて頂きました。(後略)』と 記させて頂きました。
しかも、去る 7年前の9月18日(日)の『北海道旅行・6( 層雲峡)』のブログの上段に、
『(前略)去る1月5日(火)の【母親の新年会】のブログ の上段に、
【(前略)去る11月5日(木)の〖法人マイ・ナンバー〗のブログ の上段に、両親は約8年前に商売を廃業したと記させて頂きました。この商売をしていたときの 住み込みの従業員(後略)】と記させて頂きました。この親戚の長男が、上記のような住み込みの従業員として 来てくれていました。(後略)』と記させて頂きました。姉によりますと、この親戚の長男が住んでいる 北海道に行くといいとのことでありました。そして、姉によりますと、上記のように 昨年 旭川に行って いいとのことでありました。それから、姉によりますと、今は ラベンダーが綺麗とのことでありました。 因みに、以前 姪を含めた 姉家族は、ラベンダーで有名な 北海道富良野に スキーに行っています。なお、姉によりますと、去年 旭川から 電車に乗って 富良野に行ったけど、凄い いい所だったとのことでありました。序で乍ら、姉によりますと、その親戚の長男のところに行かせてもらったらとのことでありました。しかも、気を遣わなくていいから との旨でありましたが、そういう訳には 参りませんよね。
そのうえ、姉によりますと、来週から 猛暑になるとのことでありました。それで、梅雨明けすると思うと伝えました。 因みに、姉によりますと、北海道とか 涼しい所に行って ゆっくりしてきたら とのことでありました。なお、飛行機に乗って(『飛行機に乗る為に』であると思われます)、羽田迄 行かなければならないのが たいへんとのことでありました。それで、上記のように、両親の供養があることを伝えました。しかも、日々 行なっている 当家の庭の植物への水 撒きのこともあります。そこで、今は亡き 父親と同様に、冷房の中で 暑さを凌ぐ と伝えました。
それから、去る6月14日(水)の『自分の身体』のブログのことを伝えました。また、その親戚の長男は 風俗の話になって、話題に ついていけないからと伝えました。そして、姉によりますと、10年前 その親戚の長男を 丸の内に連れて行ってあげた とのことでありました。すなわち、兜町や東京タワーに行っているのであります。そうして、姉によりますと、その親戚の長男も、心臓の調子が悪いと言っていた とのことでありました。序で乍ら、その約10年前 その親戚の長男は 宿泊所に風俗の女性を呼んでいたので、大丈夫なのだろうかとの話になりました。すなわち、心臓だと 腹上死にならなくて よかったとの話になりました。 因みに、姉によりますと、元気、それ位 楽しんでいるんだから とのことでありました。なお、海外旅行も 行っているようとのことでありました。序で乍ら、姉によりますと、独身で話が合うとのことでありました。
しかして、去る7月6日(木)の『夢について・続報76・シンクロニシティ・後編』のブログの下段に、
『(前略)前述の 去る 8年前の8月8日(土)の【ボランティア・地域医療・その4】のブログの上段に、
【(前略)去る11月17日(月)の〖黒胡麻〗のブログ の中段に、
〖(前略)去る10月7日(火)の〘ボランティア・地域医療〙のブログ で記させて頂きました地域医療研究会で、学部生の頃から、埼玉県神泉村(当時・無医村)(ここのフィールド[英語:field]は約四半世紀続きました)に伺っておりまして、医師になってからは、9年間伺っておりました。夏の健康診断は3日間ありますので、4泊5日になることがあり、その間の食事となる玄米を酢でしめて持って行きます。夏でありますが、冷蔵庫に入れられませんので、あと梅干しで補います。古来、中国では、梅は薬用として用いられ、三毒(食物の毒、身体の毒、そして、水の毒)を消すとされています。因みに、大乗仏典・維摩経によりますと、三毒とは貪・瞋・癡とされています。
この無医村のフィールド(英語:field)へは、ディーゼル・エンジン(英語:diesel engine)であるJ.R.八高線、バス、そして、村営バスを乗り継いで行くのですが、村営バスの運行が 一日 2本であり、バスから村営バスに乗り換えるときに、約1時間40分の待ち時間がありました。(後略)〗と記させて頂きました。すなわち、一日 2本である 村営バスの運行が、化学反応に喩えると 律速段階であると 学生たちには説明しました。(後略)】と記させて頂きました。つまり、上記の埼玉県神泉村(当時・無医村)のフィールドで、診療を行なっていました。(後略)』と記させて頂きました。
なお、姉によりますと、海外旅行に 行ったら とのことでありました。それで、上記のように 宿泊分の玄米を持って行かなければならないと伝えました。そして、去る 一昨々年の2月12日(水)の『笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤小乗から 大乗へ・中編』のブログの上段に、原則として 外食しません。すると、姉によりますと、海外には vegan(英語)レストランがあるとのことでありました。それで、上記のように まず 外食をしないことと、まだまだ veganレストランは少なく、しかも、一人で レストランに入ることになると話しました。すると、姉によりますと、その親戚の長男のところは お米を作っているから 玄米を食べさせてもらえるとのことでありました。但し、学部生のときに 行ったときに、電車で 18時間以上も 掛かっているのであります。そして、行くのであれば、生命懸けで行かなければならないと話しました。すると、姉によりますと、松尾芭蕉のように 生命懸けで行ってみたら とのことでありました。それで、愛国の為に 生命懸けならば いいですが と伝えました。しかも、松尾芭蕉には、旅をする 動機があった訳であります。ところが、姉に勧められているのみでありまして、動機がないのであります。すなわち、単に 姉が 旅行を勧めるのは 上記のように 自分が 小淵沢の方に 1ヶ月位行くからであり、共犯者にしたいのでありますね。そこで、愛国の為に死ぬのであればいいがと話しました。すると、誠に有り難いことに、漸く 諦めてくれたようでありました。そして、『あなたのいい様に』とのことでありました。暑くなるから 涼しいところにと思ったとのことでありました。それで、父親と同様に エアコンの中で 凌ぐと伝えました。姉によりますと、これから 暑くなるとのことでありました。それで、『お身體 お大事にして下さい。』と伝えました。すると、姉によりますと、暑いところを逃れて、小淵沢の白州という サントリー工場がある 近くに泊ることになっているとのことでありました。それで、自家用車で行くので、足を延ばせば ビーナス ラインもあると伝えました。すると、姉によりますと、『そうそう』とのことでありました。涼しいところに行くとのことでありました。 因みに、学部生の頃 倶楽部で 先輩と 夜行の普通列車で 小淵沢の馬場に行かされたことがあります。
ならびに、『涼しい』に因ませて頂きますと、去る 5年前の8月3日(金)の『父親の食事、洗濯 そして 入浴・71』のブログの中段に、
『(前略)51年前の8月初旬 つまり 今頃の季節に、上記のように 東京都新宿区から 東京都下に 引っ越しました。このとき、朝 起きて 母親 と 姉と話したことですが、東京都新宿区に比べて 涼しかったです。それで、この話を 上記の介護福祉士の方に話しましたら、東京でも 三鷹を超えて 西側に来ますと、都心に比べて 涼しいと感じられるのだそうです。(後略)』と記させて頂きました。すなわち、この話をしました。
および、姉によりますと、私自身も いいときに生まれたなと思うとのことでありました。それで、例年でありましたら、梅雨明けしている頃と話しました。
また、去る 昨年の8月20日(土)の『赤とんぼ』のブログの上段に、
『(前略)53年前 すなわち 昭和44年の今頃、家族 三人 つまり 母親、姉 そして 当方で 蓼科・霧ヶ峰に行きました。因みに、中央本線で 長野県 茅野の駅で降りましたら、霧の中でした。そして、バスで 宿泊先の旅館のようなホテルに向かいました。それから、バス停で降りると、美智子皇太子妃(当時)が 車で通るというので 皆が待っていました。それで、当方たちも 約40分待って 美智子皇太子妃(当時)を見送りました。そうして、そのホテル迄 数分以上 歩きました。なお、その途中に 楽焼が行なわれていましたので、三人で 行いました。序で乍ら、赤の染料を使うと 別料金が掛かるというので、母親と当方は使いませんでした。ところが、姉は、赤の染料を使いました。因みに、最近 姉に これらの旅行の思い出を伝えても、覚えていませんでした。
なお、去る 7年前の11月5日(木)の【法人マイ・ナンバー】のブログの上段に、両親は 約8年前(現在からですと、15年前)に 商売を廃業した と記させて頂きました。ところが、当時 当家は 金物業をしていて、毎月 8月20日頃に 請求書の発送がありました。その為に、8月下旬にならないと、母親は 時間が取れませんでした。序で乍ら、父親は 数年間 続いた 8月下旬の 家族旅行には行きませんでした。すなわち、父親は、自宅で 祖母と待っていました。
ところで、上記の赤とんぼが、沢山 飛んでいました。それで、子供ですから 珍しくて 持ってきた虫取り容器に 採取した 赤とんぼを入れました。因みに、クルクルと 赤とんぼの目を回しても、簡単に取ることが出来ました。なお、虫取り容器が一杯になりました。母親は 何も言いませんでしたので、それを そのまま 自宅に持ち帰りました。すると、皆 死んでしまいました。可哀想なことをしたと思われました。因みに、現地で 逃がしてやればよかったと思われました。そこで、赤とんぼのお墓を作りました。序で乍ら、去る 4年前の3月6日(火)の【母親の転帰】のブログに記させて頂きましたように、母親が 亡くなりました。生前の母親に このことを伝えましたら、逃がしてやるように言えばよかったとのことでした。しかし乍ら、後の祭でした。なお、自宅の前で 赤とんぼが 交尾をしていました。因みに、沢山 孵化してもらうように 心より祈りました。(後略)』と記させて頂きました。すなわち、上記のように、昭和44年の8月下旬に 二泊三日で、母親 と 姉と 三人で 蓼科・霧ヶ峰に行きました。 因みに、今回も 姉に 上記の 楽焼のことを話しましたが、覚えていませんでした。また、姉によりますと、母親は 美智子皇太子妃(当時)のことが好きだったので、感激して 喜んだでしょうとのことでありました。ファンだからとのことでありました。誠に有り難いことに、姉によりますと、品があったでしょうねとのことでありました。しかも、姉によりますと、霧ヶ峰は夕焼けが綺麗だったとのことでありました。そのうえ、グライダーが飛んでいたと話しましたら、誠に有り難いことに 覚えてくれていました。おまけに、霧ヶ峰は 馬の糞が 道に 一杯 ありました。思い出が共有出来て 誠に有り難いと伝えました。そして、当方は、あの思い出で 生きていくから と話しました。なお、生前の母親にも、二人で 一緒に お経を唱えた後 仏壇の前で、母親との思い出で 生きていくから と伝えたことがありました。
それから、去る 6月29日(木)の『武漢ウイルスのワクチンについて(拡散希望)・続報28・前編』のブログ そして 去る 6月29日(木)の『武漢ウイルスのワクチンについて(拡散希望)・続報28・後編』のブログなどを記させて頂きました。
そして、姉によりますと、これからでも 伊に行きたいとのことでありました。因みに、伊は 女性に人気がありますね。すると、姉によりますと、早く コロナがすっかりという訳には いかないでしょうけど とのことでありました。それで、世界的には 武漢ウイルスは 終わっていると答えました。日本だけ と伝えました。すなわち、マスコミが 煽り立てているからと回答しました。つまり、国際金融資本家たち(左翼系ユダヤ人 そして その影響を受けた資本家たち・共産主義者)が、マスコミを支配しているのであります。
すると、姉によりますと、誠に有り難いことに マスクをする必要がないのかしら とのことでありました。因みに、去る 昨年の5月25日(水)の『菜食のおかず・61(ひじきの煮物)』のブログの上段に、
『(前略)マスクを していると、鼻水を処理しなくて そのまま 出していればいいと言う人が居ました。但し、不衛生ですね。(後略)』と記させて頂きました。
それで、厚労省が 漸く 『令和5年3月13日以降、マスクの着用は、個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本』としました。それで、Hp.(hospital[ホスピタル]の略です。日本語では、病院のことです。以下、Hp.と示させて頂きます)の中には マスクをすることを求める 施設も ありますが、マスクは、全く 必要ないと されています。しかも、マスクをすると 酸素の取り込みに 支障をきたすことがあると伝えました。すなわち、酸素を取り込みにくくなるということでありますね。つまり、低酸素になる怖れがあるということでありますね。そのうえ、マスクを 頻繁に交換していても 口の周りとか 不衛生になることがあると話しました。すると、誠に有り難いことに、姉によりますと、マスクを止めるとのことでありました。それで、『お身體 お大事にして下さい。』と伝えました。なお、上記のように 武漢ウイルスのワクチンのことも これ迄 再三 伝えてきましたが、漸く マスクのことは 分かってくれました。
更に、姉によりますと、上記の叔母(三女)のことは 今のところは ちょっと 連絡待ちとのことでありました。そして、叔母(四女)が ひょっとしたらと言っていたから とのことでありました。それで、季節の変わり目は 気を付けないとねと答えました。すると、姉によりますと、ope.(手術のことです)した後に 上記のように やっぱり体力が落ちちゃうから、食欲が もう あまりないみたいで、心臓のこともあるし とのことでありました。因みに、そもそも 年齢的に高齢であります。なお、姉によりますと、一人で よく 頑張ってきたとのことでありました。それで、本当に よく 頑張ってこられたと答えました。そこで、姉によりますと、上記のように お見舞いに行きたいと思ったのだけれど そんなんで とのことでありました。そして、ちょっと まあ 行かれないからとのことでありました。
それから、姉の誕生日である 今頃は、幼少の頃は 夏休みで いい思い出があります。序で乍ら、誠に有り難いことに、姉によりましても、いい時期に生まれた とのことでありました。因みに、このことは、誠に有り難いことに、両親に関係することであり、あの世の両親に報告しました。
なお、誠に有り難いことに 身體 気を付けてとのことでありましたので、『お身體 お大事にして下さい。』と伝えました。序で乍ら、約22分もの通話時間でありました。因みに、この電話に対応する為に、食料品の買い物に行く時間が 大幅に 遅れてしまいました。
次に、叔母(三女)の お見舞いのことで、叔母(四女)に 丁重に手紙を添えて 速達の現金書留で お見舞い金を送りました。
お見舞い
しかも、上記のように 姉から聞かされたので、北海道の親戚の長男を含めて 更に 2名の親戚に 速達の手紙を書かなければならなくなりました。それで、合計で 3名の親戚に、速達の現金書留、速達の特定記録郵便 もしくは レターパック(速達扱いです)の 便りを発送致しました。因みに、兄弟姉妹の対応は 修行であります。(後略)」と記させて頂きました。
次 に、去る 4年前の11月19日(木)の「鰻の蒲焼・786(野菜スープ・カレーうどん・父親の食事)」のブログの中段やや下に、
「(前略)一昨日 すなわち 11月17日(火)の『鰻の蒲焼・784(カレーうどん・父親の食事)』のブログの中段やや下に、
『(前略)一昨々日 すなわち 11月14日(土)の【鰻の蒲焼・781(カレーうどん・父親の食事)】のブログの中段やや上に、
【(前略)一昨日 すなわち 11月12日(木)の〖消火器のリサイクル・続報〗のブログの中段やや下に、
〖(前略)本日 すなわち 11月13日(金)の〔父親の食事(カレーうどん)、洗濯 そして 入浴・190〕のブログの下段やや上に、
〔(前略)一昨日 すなわち 11月11日(水)の〘鰻の蒲焼・779(カレーうどん・父親の食事)〙のブログの下段やや上に、
〘(前略)昨日も、その宅配食の配達員 そして その宅配便の配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように いつもの りんごの100%ジュース と 飲み物(乳酸菌飲料)を あげました。(後略)〙と記させて頂きました。昨日も、その宅配食の配達員 そして その宅配便の配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように いつもの りんごの100%ジュース と 飲み物(乳酸菌飲料)を あげました。(後略)〕と記させて頂きました。今回も 同様に、運搬作業員 二人に それぞれ 上記のように いつもの りんごの100%ジュース と 飲み物(乳酸菌飲料)を あげました。
感謝の印として 上記のように 直接 青森から取り寄せた りんごの100%ジュース そして 乳酸菌飲料など
感謝の印として 持ち帰り易いように 袋に詰めて 作業員に 手渡した お土産
(後略)〗と記させて頂きました。昨日も、その某・新聞の集金人(通常 26日集金ですが、今回は 昨日 すなわち 13日、すなわち、18日も 集金が 遅 れました。それで、済みません とのことでした)、その宅配食の配達員 そして その宅配便の配達員 すなわち 三人に それぞれ 上記のように いつもの りんごの100%ジュース と 飲み物(乳酸菌飲料)を あげました。(後略)】と記させて頂きました。昨日も、その宅配食の配達員 そして その宅配便の配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように いつもの りんごの100%ジュース と 飲み物(乳酸菌飲料)を あげました。(後略)』と記させて頂きました。昨日も、その宅配食の配達員 そして その宅配便の配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように いつもの りんごの100%ジュース と 飲み物(乳酸菌飲料)を あげました。(後略)」と記させて頂きました。
ならびに、去る 昨年の6月18日(日)の「菜食のおかず・452(ひじきの煮物)」のブログの中段やや上に、
「(前略)去る6月13日(火)の『菜食のおかず・445(小松菜)』のブログの中段やや上に、
『(前略)去る6月7日(水)の【菜食のおかず・438(小松菜)】のブログの中段やや上に、
【(前略)去る6月3日(土)の〖菜食のおかず・434(ピーマン と 茄子)〗のブログの中段やや上に、
〖(前略)去る5月31日(水)の〔菜食のおかず・430(小松菜)〕のブログの中段やや上に、
〔(前略)過日も、その宅配便の配達員 そして 郵便配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように 説明を しっかりして いつもの りんごの100%ジュースを あげました。 因 みに、宅配便は、〘相馬真一〙という配達員でありました。それで、久しぶりとのことであり、記録を調べましたら、その〘相馬真一〙という配達員は、昨年 すなわち 令和4年11月17日以来でありました。そこで、これ迄 は 当家の割り当ては 小平営業所(小川中央)でありましたが、割り当てが 移動になり これからは 小平南営業所(茜屋橋)の担当になるとのことでありました。なお、〘染谷岳史〙 そして 〘鈴木博〙という配達員も、そのまま 小平営業所(小川中央)に居るとのことでありました。序で乍ら、その〘相馬真一〙という配達員は、小平営業所(小川中央)から 小平南営業所(茜屋橋)に異動になったとのことでありました。 因 みに、その宅配便の配達員は、前述致しましたように 〘済みません。〙を連発する人なので、以前も 何度も お伝えしましたが、疲れる人なのであります。
誠に有り難いことに、届いた 玄米
(後略)〕と記させて頂きました。
および、通信販売の業者によっては、配送する時間帯を指定することが出来ない場合があります。しかも、その業者によりますと、不在であれば 再配達を通知すればいいとのことでありました。 因 みに、極力 再配達にならないように、苦心しているのでありますがね。しかも、宅配便 業者の方でも、再配達で 苦労しているとのことであります。なお、再配達を勧める 通信販売の業者は、極力 利用しないように と思われました。(後略)〗と記させて頂きました。
また、過日も、その宅配便の配達員 そして 郵便配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように 説明を しっかりして いつもの りんごの100%ジュースを あげました。 因 みに、宅配便は、〖ぬまの〗という配達員でありました。それで、いい方に 担当してもらって と伝えました。(後略)】と記させて頂きました。過日も、その宅配便の配達員 そして 郵便配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように 説明を しっかりして いつもの りんごの100%ジュースを あげました。(後略)』と記させて頂きました。
しかも、去る3月24日(金)の『菜食のおかず・354(人参の煮物)』のブログの上段に、
『(前略)去る3月20日(月)の【菜食のおかず・350(味噌汁)】のブログの上段に、
【(前略)本日も、その宅配便の配達員 そして 郵便配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように 説明を しっかりして いつもの りんごの100%ジュースを あげました。 因みに、同じ宅配会社の その配達員に 〖他の 二人にも伝えたが、留守のときは 玄関前に置いて構わない。〗との旨を伝えました。すると、その宅配便の配達員によりますと、〖助かる。助かる。〗とのことでありました。(後略)】と記させて頂きました。 因みに、上記のように 前回 その宅配便の配達員が 【助かる。助かる。】と言った理由がわかりました。すなわち、ニュースを見ましたら、扱う荷物の およそ2割から3割が 再配達とのことでありました。つまり、デリバリーサービスの取締役によりますと、【デメリットだけしかないですね。再配達は。ドライバーさんの労働時間も増しますし、経費も ガソリン代も含めて。1度で配送が完了しても、3度同じお客さんの所に行っても報酬は全く変わらないです。】とのことでありました。なお、当家では、まず 再配達になっていません。序で乍ら、本日も、その宅配便の配達員 そして 郵便配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように 説明を しっかりして いつもの りんごの100%ジュースを あげました。すると、その郵便配達員によりますと、誠に有り難いことに、【助かる。】とのことでありました。(後略)』と記させて頂きました。
そのうえ、過日も、その宅配便の配達員 そして 郵便配達員 すなわち 二人に それぞれ 上記のように 説明を しっかりして いつもの りんごの100%ジュースを あげました。すると、誠に有り難いことに、その宅配便の配達員によりますと、嬉しいとのことでありました。因みに、その宅配便の配達員が 初めての人でありましたので、上記のように 『他の 二人にも伝えたが、留守のときは 玄関前に置いて構わない。』との旨を伝えました。すると、その宅配便の配達員によりますと、今回も 『助かる。』とのことでありました。そして、誠に有り難いことに、他の担当者にも 伝えておくとのことでありました。すなわち、立川に配達担当店があり、そこから 来ているのであります。なお、その宅配便の配達員によりますと、再配達だと 夜間の配達になるからとのことでありました。序で乍ら、当初 再配達は 夜間にしか行わないということを言っているのかと思われましたが、そうではなくて 再配達を依頼する顧客は 昼間 在宅していないので 夜間に 頼むのであることが分かりました。因みに、その宅配便の配達員によりますと、そうなると 地獄 と ハッキリ 言いました。なお、ここ迄 言われますと お互いの為になりますので、この方法は お勧めであります。(後略)」と記させて頂きました。
しかして、去る1月13日(土)の「親戚からの突然の電話連絡・続報55・後編」のブログの中段やや下に、
「(前略)去る 昨年の8月3日(木)の『親戚からの突然の電話連絡・続報54・後編』のブログの下段に、
『(前略)去る8月1日(火)の【親戚からの突然の電話連絡・続報53・後編】のブログの下段に、
【(前略)お便りのことは お気になされませぬようにと 丁重に伝えたにもかかわらず、本日の午前10時21分に、上記の お見舞いを送った 叔母(四女)から 簡易書留で 返事が届きました。因みに、宛名のところで 当方の名前の漢字が間違って記載されていました。なお、郵便配達員が配達に来まして 上記のように 説明を しっかりして いつもの りんごの100%ジュースを あげました。序で乍ら、〖生前の両親も 申しておりましたが、お返しは 呉々も お気になされませぬように。何卒 宜敷く お願い申し上げます。〗と しっかり 伝えたにもかかわらず、その返事の封書の中に 半分返しの商品券が入っていました。それで、家政婦に あげました。
すなわち、
〖毎日の猛暑の中、お変わりなく お過ごしの事、と存じます。私達は 何とか 過ごしております。
先日は、姉に お見舞いを頂きまして ありがとうございました。ご心配を おかけ致しました。
6月26日 サニーライフ板橋(西台)から サニーライフ板橋 成増へ引っ越しの予定でしたが、前日 大腿骨を骨折しまして、大山の医療センターへ運ばれました。手術は 年齢の事も 有りますし、心臓が弱っていて 負担も大きいので どうするか迷ったのですが、姉の希望でも有り 行いました。一時は 心配しましたが、どうにか 手術をして 三週間後に 退院致しました。サニーライフ板橋 成増へ 入居しました。
ここは 家から 8分程で行けて 4階建ての新築で 良い所です。
三週間 立(〔経〕でありますね)ちますが、車椅子にも すわれる様になり 元気にしております。
先日、治枝さんが 面会に来てくれました。絹枝姉さん、智惠子姉さん達が生きていた頃が良かったわね!と思い出話をしました。
尚、姉も 90歳になります。いつ どうなるか 分かりません。万が一の時には、お香典等のご心配は しないで下さい。私達 少人数で 見送りたいと思っております。姉も それを望んでいますので・・・まだまだ 暑い日は続きます。呉々も お体 ご自愛頂き お過ごし下さいませ。姉からも 呉々も 宜しくとの事でございます。かしこ〗以上であります。
そこで、その返信の作業が 加わることになってしまいました。これらの作業が 朝迄 掛かり 更に お昼になりました。すなわち、今回も、寝ないで 作成させて頂き 翌日の 夕方になりました。
さて、一昨日 すなわち 7月31日(月)の〖母親から父親への家書〗のブログの上段に、
〖(前略)去る 一昨々年の6月28日(日)の〔母からの手紙〕のブログの中段に、
〔(前略)去る 一昨年の3月6日(火)の〘母親の転帰〙のブログに記させて頂きましたように、母親は 亡くなりました。なお、唐代の代表的詩人である杜甫の代表作〘春望〙の一節に、〘家書万金に抵たる〙と あります。正しく 上記の手紙は この詩に相応しいと思われました。すなわち、〘万金に抵たる〙と感じられました。(後略)〕と記させて頂きました。
ときに、去る 5年前の3月6日(火)の〔母親の転帰〕のブログに記させて頂きましたように、母親が 亡くなりました。 また、去る 昨年の3月11日(金)の〔父親の転帰〕のブログに記させて頂きましたように、父親が 続いて 亡くなりました。
ところで、整理をしていましたら、約32年前に 母親が書いたと思われる ノートが出てきました。(後略)〗と記させて頂きました。
すなわち、上記の 叔母(三女) そして 叔母(四女)宛てのノートであります。
つまり、
〖小沢 お姉さん
発生川 お兄さん
徳原毬子さん
田中祥子さん
ありがとうございます。
ふしぎな 縁で 兄姉妹として 今日迄 皆 元気で まいりました。考えてみると けんかした事 一度もありませんでした。皆 やさしい人達ばかりなのですね。
私が いつも 集まる日を かってに きめてしまいますのに いつも その日に合(〔会〕でありますね)ふ事にして 本当に ありがとうございました。皆が 今日迄 元気で過(ご)す事が出来ますのは 両親が健康で この世に 生んで下さった お蔭です。
楽しい事 いろいろありました。話しているだけでも 時間がたつのがわかりませんでした。本当にありがとうございました。皆様 御家族の皆々様の御健康をお祈りいたします。(原文通り。但し、お読み頂き易いように 漢字にして 送り仮名を振った部分もあります)〗以上であります。
次に、父親のノートであります。
すなわち、
〖毬チャンへ、祥子チャンへ
今迄 長い間 大変 お世話になりました。
私の死後も よろしく お願いします。
毬チャンと その昔 ママと 3人で 奥日光へ行って 岩ツバメを見た事を かすかに おぼえてゐます。
今一度 あの頃に 戻りたいですね!!
どうか 体に気を付けて 長生きして下さいね!!
祥子チャンにも くれぐれもよろしく。
帰りには ママさんと 3人で 軽井沢駅より 帰りましたよネ!!
そのときの写真 大切に持ってゐます。(原文通り。但し、お読み頂き易いように 漢字にして 送り仮名を振った部分もあります)〗以上であります。
さて、これらの両親のノートの遺言を 文字に起こして、上記の 叔母(四女)宛ての もう一通の手紙(速達)に 加えました。しかも、その遺言のコピーも同封しました。因みに、そのコピーをする為に 何枚も コピー用紙を使ってしまいました。なお、両親の遺言を伝えることは とても 大きいことであると思われました。(後略)】と記させて頂きました。
ときに、お便りのことは お気になされませぬようにと 丁重に伝えたにもかかわらず、本日 上記の お見舞いを送った 叔母(三女)からも 葉書が届きました。
すなわち、
【○○○君 お久しぶりです。
お姉さん、お義兄さんも 残念で たまりません。
今でも 心に 深く残って たえています。
私も 又 右足を骨折し 今は サニーライフ板橋成増に来て 良好に向かっていますので、ご安心下さい。
○○○君も おそらく 良い年が 沢山 くると思いますので、がんばって下さいネ。
又 いつか お会いできます様 神さまに祈りつつ、さよなら(原文通り。但し、お読み頂き易いように 漢字にして 送り仮名を振った部分も あります)】以上であります。因みに、父親によりますと、若い頃 その叔母(三女)は 天地真理のようだったとのことでありました。
そこで、その返信の作業が 加わることになってしまいました。これらの作業が 朝迄 掛かり 更に お昼になりました。すなわち、今回も、寝ないで 作成させて頂き 翌日の 夕方になりました。なお、上記の両親のノートの遺言を 文字に起こして、その 叔母(三女)宛ての手紙(速達)にも 加えました。しかも、その遺言のコピーも同封しました。因みに、そのコピーをする為に 何枚も コピー用紙を使ってしまいました。序で乍ら、前述致しましたことと同様に、叔母(三女) そして 叔母(四女)宛ての 両親の遺言を伝えることは とても 大きいことであると思われました。(後略)』と記させて頂きました。
ところで、一昨々日 すなわち 1月10日(水)の『本の進呈・続報119・後編(シンクロニシティ)』のブログの下段に、
『(前略)本日 1月10日(水)の【年賀状のこと・続報2】のブログに記させて頂きましたように、本日になって 元旦に届いた 年賀状の返信が、親戚から 手紙で 届きました。それで、その便りに対する 返信の作業が、加わることになってしまいました。 因みに、これらの作業が 朝迄 掛かり 更に お昼になりました。すなわち、今回も、寝ないで 作成させて頂き 翌日の 夕方になりました。なお、下の画像のように 本の見返しに 一筆入れました。(後略)』と記させて頂きました。すなわち、昨日 上記の返信が 先方に届きましたら、本日の午後2時17分になって 電話が入りました。すなわち、
速達で送ったことを 誠に有り難いことに、言ってくれました。
それから、檀那は亡くなって 自分は嫁とのことでありました。それで、贈った成書を見てくれて、誠に有り難いことに、『食は大事』とのことでありました。そこで、もっと早く 食事のことが分かっていれば とのことでありました。それで、第一に 必ず お伝えしなければならないことでありますが、御健康な お方には それに 相応しい食事が あることを伝えました。そして、菜食なので、食事の付き合いは 適わないことを話しました。それから。笑いは、万人に いいことを伝えました。すると、誠に有り難いことに、立派とのことでありました。そこで、まだまだですと伝えました。そして、その親戚によりますと、電車賃を出してもらったとのことでありました。
ならびに、名古屋の『まり』という親戚が divorce(英語)(ネガティブ[英語:negative]で 御座いますし、お読み下さっている 方々に影響を お与えすることの無いように、日本語で 綴ることを控えさせて頂きましたが、以前 それではわからない と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。離婚のことで御座います。以下、英語で divorceと示させて頂きます)をしたとのことでありました。それで、心配とのことでありました。そこで、年賀状を送っても 返信がないのかと思われました。 因みに、その親戚によりますと、その『まり』という親戚の 父親(故人)は 立派な人なのに とのことでありました。なお、上記のように 叔母(三女)も 『毬子』という名前で、『まり』が付きます。序で乍ら、生前 両親は 歌手 天地真理のように 「まり」と付く名前の女性は 不幸になる との旨を話していました。
および、その親戚によりますと、自分は 手紙が下手とのことでありました。
なお、誠に有り難いことに、ボランティアを行なっていることが 素晴らしいと話してくれました。
また、自分は dementia(英語)(ネガティブ[英語:negative]で 御座いますし、お読み下さっている 方々に影響を お与えすることの無いように、日本語で 綴ることを控えさせて頂きましたが、以前 それでは わからない と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。認知症のことで 御座います。以下、英語で dementiaと示させて頂きます)とのことでありました。すなわち、自分のことを 『痴呆』と言っていました。
しかも、息子が 二人が居て 独身とのことでありました。
そのうえ、インターネットは 行なわないとのことでありました。
しかして、八人姉妹の 末の親戚のことを言及されたので、『清水』という親戚のことですねと伝えました。そして、父親の従兄弟に当たる 檀那が 数年前に 亡くなったので、父親の名前で 香奠を送ったことを話しました。但し、今は お嫁さんなので、年賀状の交換に至っていないことを話しました。
のみならず、三重県の親戚のことを言及されたので、年賀状を送っているが、返信がないことを伝えました。
更に、今年 90歳になると伺い、誠に有り難いことに、卒寿 誠におめでとうございますと伝えました。
加うるに、年齢を尋ねられましたので 答えましたら、誠に有り難いことに、若いねとのことでありました。
また、去る 8年前の4月4日(月)の『不思議な一致(「清明」の日)』のブログの上段に、
『(前略)話を 【清き 明き心(清明心)】に戻しますと、この言葉は 二心がないこととして 中世では 【正直】、そして、近世では 【誠】に移って 行ったとされています。(後略)』と記させて頂きました。すなわち、その親戚によりますと、自分は 正直とのことでありました。それで、上記のように、正直は 『清き 明き心(清明心)』 そして 『誠』のことであることを伝えました。
それから、誠に有り難いことに 親孝行と言ってくれましたので、その親戚も含めた 家系が 親孝行であることを伝えました。
しかも、約40年前 すなわち 昭和59年(1984年)の春に、上記の三重県伊勢の親戚の家に 一人で 法事に行きました。 因みに、その帰りに、今回 電話をくれた 親戚と 近鉄線の特急で 名古屋迄 二人で 乗車しました。なお、その親戚も、一人で 法事に参加したのでありますね。序で乍ら、このことを 今年 差し上げた 年賀状に書きました。すると、誠に有り難いことに、その親戚も、そのことを 覚えてくれていた とのことでありました。
そのうえ、その親戚が、『裕司(茂)』という親戚のことを言及しました。それで、父親と 岐阜県立大垣商業高等学校(県内の商業高等学校としては最も古いです)で 同期生であったことを伝えました。
おまけに、その親戚によりますと、義理の兄の大学は 一橋大学だったね とのことでありました。
ならびに、その親戚によりますと、自分の家は 貧乏とのことでありました。
および、姉が出産したときには 手伝いに行った とのことでありました。
(再度 半角で 6万文字以内という字数制限に達しましたので、次のブログ記事に この続きを記させて頂きます。なお、義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)