続々編 就活の話ばっかりだけど入ってから誰にどんな教育を受けるかが君の一生を決めるんじゃないの?
会社に入ってどんな上司に出会いどんな指導をうけるかが就活の選択が正しかったか否かを決定する。極論すると自分では決められない大きな流れ、出会い、まさに縁が横たわっていると思う。 欠員募集の入社試験で他社の志望動機を朗々と話して面接官の役員が帰り際に会社の説明をしてくださったあの日、1日3回も面接を受け東京から姫路に帰ったら、合格が決まっていたあの夕刻、思いもよらぬ経理部配属で面食らった新入社員の春。夜間の講義やセミナーと様々な教育機会を与えられ上司の卓越したアドバイスや新人にかかわらず多くを任されたことで燃えに燃えた新人時代。経理部でずっと頑張りたいと思っていた矢先に突然通達が出て営業に配属になった入社3年目の秋。初日に「お前を希望した覚えはない。」と、部員の前でカミソリのように切れる凄腕の部長に言われた営業デビュー。親身になった指導とすべてに答えがあった課長との1年、部長から受けた計り知れないアドバイスと交渉面で見せつけられた実力。業績表彰を取り続け課長になった矢先に部長のご配慮で営業を離れ大学院留学をさせていただいた29歳の夏。営業TOPの常務から「あんたは面白い。そのままでいいんだよ。」と皇居の近くの如水会館のラウンジでいただいた一言。夜中の2時に主力工場を出るとき警備員さんが「あんたいくら営業さんでもこんなに働いていたら身体を壊す。私が東京の部長さんに電話を入れたげる。」と言われ、深々と頭を下げタクシーに乗ったあの晩。仕事もしたが入社以来誰よりも学んだと自負できる20代がそこにあった。学んだことのスクラップブックは数十冊になっていた。毎日のように部課長に回覧される新聞記事や業界資料にマークを入れてアシスタントにコピー迄させた。就活時全く想像しなかった日々、出会い,すなわち学びがあった。営業部長は今なお連絡をいただくことがある。師匠であり恩人とはまさにこういう人を言うのだと思う。電話をいただくと直立不動になって話す自分がそこにいる。 もう一つ、特筆すべきは夜の教育だった。講師は人事部長、のちの社長だ。入社時の採用責任者だった。今では理解できないだろうが毎週のようにクラブやラウンジでお酒とカラオケ。馴染みのホステスさんがついた。口数が少なく怖いくらい迫力があった。「おい 1曲歌えよ。」それくらいしか言われないから余計にたまの一言が心に残った。組織の在り方や理不尽の極め付けが人事なのだなぁと学んだ。夜の1時頃タクシーで帰るのだが多摩川辺りで先に降りられある夜,「お前だけだなぁ。何度言ってもうちに泊まらないのは。」そう言ってから「運転手さんあとよろしくお願いします。」と付け加えられた。 飲み代,タクシー代を含めて毎月凄い出費だったことだろう。ある晩2人きりの時「今日は私に払わせて下さい。」と言ったら,ホステスさん達が「はまちゃん(監督のこと)それはやめた方がいい。そんな事しなくていいのよ。」部長はただ笑っていた。当時初めて持てたクレジットカードで払った。大卒の手取りが15万程度だったあの頃、73,000円だった。これも部長なりの教育の一端だったと思う。「いくらだ?」とも聞かれずに「ありがとう。」とだけ言われた。 カードと控えを革製のトレイに入れて持って来たママも微笑んでいた。この日以来後輩たちや部下達と飲む時は全て自分が払うと決めて実際そうした。半分は恩返しのつもりだった。何がいいたいかというと想定外の得難い学びが至るところにあったと言う事かな。 こんな事もあった。人事と経理の合同忘年会で渋谷にみんなで出た。1次会を出たところで大学生かなあ,乱闘騒ぎになっていた。大きな方が相手の学生を蹴り倒していた。みんな無視したがこの人事部長が止めに入った。さらに蹴ろうとするお兄ちゃんと倒れそうなお兄ちゃんの間に身体を入れて強い方を睨みつけている。慣れているのかそのでかい方が笑いながら「怪我をしない内に離れた方がいいですよ。おじさん!」と言った。こうなると黙ってみているわけにいかなかった。飛び込んでいって部長を引き離し、ゆっくり微笑みながらこう言った。「全然力が違うんだからこれ以上蹴ったら相手怪我しちゃうよ。やめてあげてよ。な!」その学生は何も言わずニコッとしてくれた。監督は本社でただ1人パーマをかけてオールバック、4年間武道で鍛えていたから拳立ての跡が両手にガッツリ残っていた。合い通ずるものがあったのだろう。一方で蹴られまくった奴とは一言もはなさなかった。部長を取り囲んで女子社員が「全く何考えておられるんですか。怪我をされたらどうされるのですか。」部長は「誰かがとめてやらねえとだめじやねえか・・」それだけ言われた。 まだある。道を知らないでゲートを通り越した沖縄出身のタクシーの運転手さんに激怒して首都高速で車を止めさせた事があった。プロらしくないからが理由だった。 東京駅の山手線で出入り口をあけろ、あけないで昇降客と小競り合いになり駅員が来る前に、間に入って平謝りに謝った事もあった。そのおじさんが監督の顔を見つめてニコニコしながら「俺は絶対真ん中に立つ主義なんだけどいいねー!あんたに免じて空けたげるよ。今日は。」と言ってくれた。監督はそれ以上もめないよう部長の腕を掴んで2人を引き離すよりに乗り込んだ。相手のおじさんは終始笑っていたが監督は全く余裕がなかったな。周りが通報したりして電車を遅らせたら翌朝新聞記事になると思った。相手のおじさんの方が上司みたいに思えたな。感謝した。 こんな調子だからここに書けないこともふくめ様々な意図せぬ想定外の勉強をした。つまり「あの課長カッコいい!」とか「いいソフト紹介してくれた!」とか「転職がうまい!」とか「自分があるんだよねーあの人!」とか 「社外のネットワークが凄い!」etcそういう次元でない長持ちする人生という旅路に落ちる雫のような教育、出会い 経験だった。それらすべてはおよそ就活のときには全く意図していなかった計り知れない体験となったし、その後の人生の方向性を決めた。 母親の介護で社内初の介護休職を1年間とり、休職明けの日,社長室で直接辞表を出した。43歳で営業部長になっていた。奇しくも社長は20年前の入社試験の責任者、そして夜の教育担当人事部長だった。社長室にかけてある漢詩を読まれて「また1人俺の仲間が去って行くなあ。」と言われた。社長室を出る時社長はソファに座ったまま「来週月曜日10時 第3応接室でまってるからな!」とまで言ってくださった。お互いこれが最後だとわかっていたが・・最後のあたたかいお言葉だった。おわり