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かいマムと申します
3人兄妹と共働きアラフォー夫婦のドタバタ珍道中を書いております。
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阪神淡路大震災についての記事になります。
現在の能登半島の状況とリンクし、ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんので、もし、お嫌だと少しでも思われたらここでそっとお閉じください。
続きです。
JR神戸線が4月1日に全面復旧を果たしました。
新学期が始まり、復興したばかりのJR線で、一面の焼け野原となった新長田を目の当たりにしました。私たちは互いにようやく被害の全貌を知っていくことになったのです。
その日学校についてすぐに新長田に住んでいる友達に話しました。
「ねえ、今日初めて見てびっくりした。大変やったね。火事だいじょうぶやった?」
「見た?びっくりしたやろ?地震からあっという間にあちこちで爆発が起きて、すごい燃え広がって、もうどっちに逃げていいかわからんくて、煙はくっさいし、みんな右往左往してん。芦屋の方はどうやったん?」
という具合に、ようやくみんながそれぞれの状況を、起き終わったこと、として語り始めたのです。何が起きたか知ること、私たちにとってこれが復興への第一歩でした。
今はスマホとSNSであっという間に互いの状況を知ることができるかもしれませんが、当時はそういうものがなく、交通が分断された中では互いのことを知ることすらできなかったのです。
私も小学校の時の親友などにボツボツと連絡を取り始めました。
富裕層が住むことで有名な六麓荘町の親友は家屋倒壊などの被害は町内に一件もなかったそうです。そもそも平安時代に開拓された荘園で、1000年以上の地盤の頑強さがウリなところに手抜き工事など許されぬ高級住宅が立ち並んでいます。
加えて六麓荘町は当時から電柱電線が一切ありませんでした。
(現在は芦屋市の多くが無電柱化しています。)
そのため、停電すら地震発生当日だけだったというのです!
へーお金持ちは安全で快適なところに住んでていいね、天災の沙汰も金次第?ところが、そういう問題でもないのです。六麓荘町内に避難所が一切たたなかったため、公共情報が定期配信されるところがなく、どこに情報を取りに行っていいのか、何をどうしていいのかわからなかったというのです。
六麓荘町は市内でも標高の高いところにあるため、買い出しなどは街のスーパーに降りてきて行うほかないのですが、そもそもスーパーへの物流自体が幹線道路がガッタガタになってるため長らく不能でした。入荷してもすぐにものがなくなる状態が長く続いていたはずです。
避難所に食料を分けてもらいに行こうにも、当時関西では防災意識が低く、避難所の備蓄が最低限で、避難所に避難している人の分すら足りない状態でした。とても、「電気水道が通ってるので家で避難してるんですけど、食べ物だけもらえます?」などと言いに行ける状況ではなかったと思います。準備のない状態での在宅避難はそれはそれで過酷だったでしょう。
マム実家も幸いなことに震災発生から3ヶ月で、ご縁で新しく住むところを手に入れました。父も東京から時々帰ってくるようになりました。(本当に勝手)このスピード感は本当に幸運だったとしか言いようがありません。家財のいくつかを持ち出せたことも。
母は真っ先に私や姉のアルバムを荷造りしてくれていました。
家族を失い、家族との思い出が詰まった写真までを失った人も大勢います。
阪神淡路大震災での死者数6,437人、負傷者43,792人
全壊104,906棟、半壊144,274棟
サリン事件発生のせいで、義援金の打ち切りが地震発生より実質2ヶ月。
公的資金(税金)は投入されましたが、高速道路の崩壊、鉄道の崩壊、幹線道路の崩壊、市庁舎、病院の崩壊、公的に投入する先が多すぎて、多くの人が自力で立ち上がらねばなりませんでした。
「ボランティアが寝泊まりするところがないからうっとおしい。」東日本大震災の時から出てきた意見です。それはそれで事実だと思います。けれど、神戸の人は、泥棒よりもボランティアの人に来て欲しかった。と思っていました。
東日本大震災の死者数3,792人、行方不明者22,215人
全壊約83,000棟、半壊155,000棟
記憶に新しい未曾有の震災、津波と比べても、すぐに忘れ去られた阪神淡路大震災がいかに甚大な被害だったかがわかります。
応急仮設住宅は昭和22年に制定された災害救助法第23条を根拠として設置され、その入居期限は2年間まで、と決まっていますが、阪神淡路大震災では最後の仮設住宅が撤去されたのが2000年で、5年間もかかってしまいました。
国内からの義援金は打ち切られたものの、海外からの義援金と国際援助がその後届けられるようになりました。神戸は伝統的な国際都市です。古くは遣唐使の派遣が兵庫県の港から行われ、ずっと海外との交易が盛んな街です。全世界に姉妹提携都市があり、震災の復興に手を貸してくれました。
震災の発生した1995年の12月、復興、復興、立ち直ろう、という気持ちと、多くの人、物を失いすぎた、という喪失感の間で、年末、という日本人特有の一年の総決算を感じてしまう時期にやるせない気持ちが湧き上がっていました。
神戸一の繁華街である三宮と元町の間のアーケードも粉々に砕け落ち、寒々としていましたが、この年の12月にベネチアのガラス職人さんたちの協力を得てルミナリエが開催されました。
時に文化は衣食住よりも人を生かします。
まだ明日をもしれぬ人がたくさんいる中で、イルミネーションより先にやることがあるだろう、という意見は至極真っ当です。けれど、心に火を灯すことがいかに大事なことか、私が故郷で一番誇りに思うことは、文化の重要性をよく知っている、という風土です。
かつてアーケードのあった寒々しい空に、荘厳な光のアーチができて、ひと目見ようと、神戸中から人がやってきました。多くの人で賑わっているのに、みんな無言で、ゆっくりと歩いていきました。
空回りして挫けそうな復興せねば!という気持ちも、もう二度とあの人には会えない、もう二度とあの場所に住むことはできない、という途方もない喪失感、両方の気持ちが、音も派手な演出もない、ただ静かでまばゆい光に浄化されるようなひと時で、多くの人が泣いていました。
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