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3人兄妹と共働きアラフォー夫婦のドタバタ珍道中を書いております。

 

 

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阪神淡路大震災についての記事になります。

現在の能登半島の状況とリンクし、ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんので、もし、お嫌だと少しでも思われたらここでそっとお閉じください。

 

 

 

続きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『1月17日を忘れたことはない⑩』ご訪問いただきありがとうございます。かいマムと申します  3人兄妹と共働きアラフォー夫婦のドタバタ珍道中を書いております。  2023年登場人物紹介は…リンクameblo.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続きです。

 

 

 

 

避難所暮らしが、3週目に突入しました。

 

 

 

行方不明の方の捜索も3週目にはかなり落ち着きました。

大阪に住んでいる同じ学校の保護者の方が避難所にお見舞いに来てくれました。

 

 

 

ハイヒールで香水の匂いを振りまきながら、とても可憐に包装された百貨店のお菓子を持って。避難所の人たちの視線が彼女に突き刺さるので、母は廃墟となった家の前でお話しすることにしたようです。

 

 

 

彼女は大阪(というかほぼ京都という立地にお住まいでした)から、通れる道を選んで自家用車で来てくれました。それは3週目ではまだ十分リスクのあることでした。道は部分復旧しつつあるという感じだったのでとても時間がかかったと思います。

 

 

 

 

阪神地区のあまりの惨状に、ただ目に涙を溜めていました。

 

 

 

 

私たちに電話での連絡がつかないので、(当時はまだ携帯電話が普及していません。)私の通っていた私立中学校での、学校再開のお知らせをしに来てくれたのです。

 

 

 

 

 

阪南人の夫がいうには大阪では地震発生2日後には普通に学校再開だったといっていましたが(ほんとかしら?)、被災地でも地震発生が1月17日で、3週間後はもう2月の半ばだったのです。義務教育課程にある子供達の卒業認定のことを考えると、状況的に無茶苦茶でも、この時期に学校を再開しなければ、その後の進路に響く子たちが大勢出てしまう、そういう事情があり、学校が再開されました。

 

 

 

当時中学生のマム。

 

 

 

義務教育ですからね、行かないとです。

 

 

さあ、これが大変で。

 

 

元々遠くの私立中高一貫に通っていました。

平常時でも1時間半かかるようなところです。

 

 

 

 

スマホもSNSもない時代に毎日、部分開通及びバスの代替運行が目まぐるしく状況が変わるのをその場その場で、人に聞きながら状況判断して乗り継いでいくのです。

 

 

 

 

みんな用事があって遠くまで行きたいので、係の人がメガフォンで大声でガイダンスしてるのを取り囲んでどこそこにいくにはどうしたらいい?何時間くらいかかる?と情報を求めて詰め寄ります。

 

 

 

最初の日は住吉駅から神戸の北側までバスが代替輸送されている、と聞きつけ、朝5時に避難所を出発しました。

 

 

 

芦屋から住吉駅までは5~6kmくらいでしょうか。

そこは歩きです。

 

 

 

住吉駅で代替バス乗り場はすぐ見つかりました、みんな大騒ぎしてたからです。人々が口々に質問し、駅員さんが疲弊しながら返しているやりとりをいくつか聞いて、ルートを確認しました。

 

 

 

 

初日のルートは住吉から神戸電鉄の駅までバスで、鈴蘭台や三木市を通って、JR加古川経由で東に戻る、というルートでした。

 

 

 

生まれて初めて単線電車、無人駅の電車に乗りました。

 

見たこともない風景は新鮮でした。

 

いやーこれ今私どこいってんの??と思いながら。

 

 

 

初日は6時間かけて登校しました。

5時に避難所を出て、到着したのは11時。

 

 

 

進学校だったので本来なら16時くらいまで授業があるのですが、交通状況が悪すぎるということで、当面午後13時までの授業ということになりました。

 

 

 

 

6時間かけて2時間滞在して6時間かけて避難所に戻る....。

 

 

 

それでも3週間ぶりにみんなに会えたことが嬉しかったです。

兵庫県警のお偉いさんをパパに持つ友人にも、お礼とお詫びがいえました。

本当に奇跡的に亡くなった生徒がいなかったことを知ることができました。

 

残念ながらご家族を亡くした方はたくさんいらっしゃいました。

 

 

 

 

親御さんが子供を庇ってというケースが多かったと思います。

クラスの中で片親と死別しているということが、珍しくないのが日常、あの日から数年神戸の学校の子供たちはそういう状況でした。

 

 

 

 

 

本当だったら、葬儀にも参列してお悔やみも言いたかったけれど、遠方での火葬、それすらも叶いませんでした。

 

 

 

 

13時に学校が終わっても住吉駅に戻れたのは17時頃。

そこから芦屋の避難所まで2時間弱歩いて戻りました。

 

 

 

 

電気は復旧していたので、一応街灯はついているのですが、折れてしまってるところも多かったですし、道がボッコボコになっていたので、懐中電灯で足元を照らしながら帰りました。途中までは多くの人が同じ方向に歩いていたので良かったのですが、段々と人影が減っていくと、暗がりに紛れて犯罪に巻き込まれるのではないか、という恐怖が襲ってきました。

 

 

 

 

翌日も朝5時に避難所を出ました。

3週目あたりになると、震災1ヶ月を目処に復興せねば!!!という交通機関の方々の気概がものすごく、バスが電車の代わりに代替輸送のルートを毎日開発してくれていました。

 

 

 

 

 

初日は6時間かかった通学も、ルートの開拓により、二日目には5時間、3日目には4時間と短縮されましたが、4時間から短縮されることは無くなりました。

 

 

 

 

 

 

状況を見かねた学校近くにお住まいのお友達のご両親が、通学のために下宿を提案してくれました。私の他にも3人同じ状況になっている子がいて、全員を春休みまで下宿させてくれるというのです!!!!

 

 

 

 

被災から1週間で父は東京に逃げ、

被災から1ヶ月でマムにも避難所から逃亡するチャンスが巡ってきました。

 

 

 

 

今までのヤングケアラーとしての私ならば、このお話を断って、日中苦労して学校にいき、夜は家財の整理と母と姉の面倒を見ていたと思います。

 

 

 

 

 

けれど、生きてるんだから、自由に生きていい、という新しい確信をえたマムは避難所を後にし、お友達のお宅にお世話になることにしました。

 

 

 

ちょうど、芦屋市でも仮設住宅がたち(神戸市は第1期が2/2に立ったそうですが、芦屋市は遅かった...)抽選となりました。

 

 

 

 

 

避難所での生活が1ヶ月を超え、みんな限界の中、ほんの一握りの家族が抽選に当たって、避難所を後にできました。母と姉は抽選にもれてしまいました。しかし、その2週間後、甲子園に住む母の友人が経営するアパートでガスが復旧したので、こっちに住んだら、という申し出がありました。

 

 

 

 

 

仮設住宅は海岸線近くの埋立地に建てられていましたので、結果的には母の友人の申し出がありがたかったです。

 

 

 

 

 

父は1週間で避難所生活に根をあげ、

マムは通学困難を理由に避難所生活1ヶ月で友達のお宅に移住し、

母と姉は1ヶ月半で身の回りの物を持って、友人宅へ引越し、避難所を後にしました。

 

 

 

 

 

家族バラバラの生活が始まりました。

 

 

 

 

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