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かいマムと申します指差し

 

 

3人兄妹と共働きアラフォー夫婦のドタバタ珍道中を書いております。

 

 

2023年登場人物紹介はこちらからどうぞびっくりマーク

 

 

アメンバーはコメントを交わして仲良くなった方を承認させてもらっています。ご容赦ください。まずは気軽にコメントをどうぞ〜にっこり

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災についての記事になります。

現在の能登半島の状況とリンクし、ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんので、もし、お嫌だと少しでも思われたらここでそっとお閉じください。

 

 

 

 

 

 

 

マムは中学生の頃、阪神淡路大震災を被災し、マム家は当時住んでいた家も持ち物も車も全てを失いました。幸い家族を失うことはありませんでした。その後1ヶ月を避難所で生活しました。家族は引き続き避難所生活でしたが、学校が再開したものの鉄道が復旧せず、学校近くに住んでいた友人の家に下宿生活を3ヶ月もさせていただきました。

 

 

 

あれから30年近くたった今。

 

 

 

 

能登半島の地震の被害の状況が、特にSNSを通じてとても身近に感じられ、今ならあの時のことを書ける気がすると思って、書いてみようと思いました。

 

 

 

 

 

当時はまだ携帯電話すら持っている人が珍しく、かつ地下鉄サリン事件が同じ年の3月に起きたため、阪神淡路の震災のことは世の中の人にあっという間に忘れらたように感じられ、そのことが、物理的にも心理的にも長く被災者に爪痕になったと思います。

 

 

 

 

 

別にそう言われてるわけではないのですが、より大きな事件が報道され、震災関連のニュースが全国版ニュースではあっという間に流れなくなって、被災者は被災者でなんとかやっといて、こっちはこっちで大変だから、自分たちでどうにかして、みたいな、そんな辛いムードを被災した人たちは共有していたように感じます。

 

 

 

 

 

辛いことを具体的に語ることを禁じられているような、そんなムードと言ったらいいのでしょうか。

 

 

 

 

 

断層地震であったため、一口に阪神淡路、と言っても被害の大きかったエリアとそうでないエリアの温度差、格差も激しかったのもそうした疎外感の一因になっていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

SNSは不確かさという要素はあるものの、同時性と多様性を包括するメディアなのだな、と今、改めて思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1995年、1月16日夕方

 

 

 

 

その日の夕日は格別赤く濃く、母親に、ねえなんかすごい色、見てみなよと言われたのを覚えていてます。

 

 

 

カラスが大騒ぎしていて、ヒッチコックの「鳥」のように方向を失ってぶつかり合いながら飛んでいたのもその時に母と一緒に見ていて、誰かイタズラしたのかな?やだね、カラスって覚えてるっていうから、などと話していました。

 

 

 

 

友人の誕生日が1/17で、彼女の好きなスイートポテトを山ほど作っていました。

天板ぎっしりに並んでいて、まだ熱いから、明日詰めるのでこのままにしておいて、と、オーブンの上にシートをかけて置きっぱなしにして就寝しました。

 

 

 

 

 

翌日、1月17日朝5時46分

 

 

いつも7時15分の電車に乗るために6時に起きていたのでもう少しで起きようかな、とトロトロと朝い眠りを貪っていた時に突然それはやってきました。

 

 

 

まるでフリーフォール。

 

 

咄嗟にかけ布団を掴み引っかぶりました。(今思うとすごい判断力)

 

 

一瞬の後激しく地面に叩きつけられるのと感じると同時に、本棚の上に置いていたオーディオコンポや、重たい辞書などもいっぺんに頭の上に降ってきて激痛を感じました。

 

 

 

何が起きたかわかりません。

 

 

 

生まれて初めて経験した縦揺れでした。

 

 

 

 

のちに宮崎駿監督の「風たちぬ」で関東大震災の視覚表現を観ましたが、ああ違う、これは横揺れだ、とわかるほど、縦揺れの経験は鮮烈でした。

 

 

 

 

 

すぐにグラグラと横揺れがやってきて初めて理解しました。

 

 

 

 

地震が起きた!と。

 

 

 

10秒?15秒?

 

 

 

横揺れも含めて僅かな時間だったと思います。

一度静止したのち、再びめまいのような大きなぐらつきがきました。

 

 

 

 

私はこの時オーディオセットで頭を打ったせいでめまいがした!大変だ!と思ったのですが、後からよく考えてみると、当時住んでいたマンションの1Fと2Fが潰れて、なくなってマンション全体が斜めにかしいだ瞬間だったのです。

 

 

 

 

 

これだけの出来事がおそらくわずか1分以内に起きました。

 

 

 

 

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