こんばんは、かいマムです。みなさんいかがお過ごしですか?
マム、兵庫県出身なんです。
27年前の1月17日、午前5時46分、自宅で被災していました。
私にとっていい意味でも悪い意味でも、忘れられない実経験です。
本日はこの話を。
寝てましたけど、ドン!という衝撃を受け、ベッドごと持ち上がり、フリーフォールのように胃が迫り上がるような感覚の後、床にベッドごと叩きつけられる衝撃が来て、そのあとは激しく長く揺れていました。
当時マンションの3階に住んでいましたが、だるま落としのように1、2階が潰れてなくなっていました。ベッドヘッドに置いていた1.5mほどの本棚がベッドの下に倒れていたので、地震自体の突き上げと、1.2階が潰れて落ちる衝撃でおそらく1.5mはベッドごと宙に浮いていたのだと思います。
家は全壊しましたが、家族に死人も怪我人もなく、1ヶ月以上を避難所で過ごすことになりました。
当時、マムは中学生でした。
自分で言うのもなんですが、勉強ができ、機転がきき、将来を有望視されていました。私の努力と才能によって得られる将来は、知的障害の姉に奉仕するためにあるのだ、と、親にも親戚にも周囲の大人にも、生まれてからずっと圧力をかけられ、毎日ただ、死にたいと思っていました。
具体的には「マムちゃん、今だけじゃなくて、大きくなってもお姉ちゃんをお願いね」とか、「本当にマムちゃんはすごいわ、よくできた子で!!これでマム実母さんもお姉さんの先のこと、安心ね」とか、そう言う類の、言われた側には呪いにしかならない言葉を延々とかけ続けられていたのです。
中学受験の時には担任の先生にも、「お姉さんがこれだけ福祉のお世話になっているのに、よく私立中学を受験なんかするね!」と内申書を渋られました。私自身が中学受験を欲したわけではなかったのですけど...ね。
私自身に寄り添い、見守ってくれ、味方になってくれた大人は、たった一人もいなかったのです。
中学生に至るまで、子供時代に必要なケア自体受けてきていないのに、将来は姉のために奉仕するんだ、と、言われ、何のために生まれてきたのだろう、と自問自答する日々でした。
そんな中での震災でした。
大人たちは恐れ、慄き、パニックになり、避難所で人間の醜い本性を表し、コンビニや商店を襲って水や食料を奪い合い、壊れた家屋に押し入る強盗があちこちからやってきました。子供たちは夕方以降避難所から出てはいけないと言われていました。
そういう状態の中にいて、マムは「私は何も失うものがない」という身軽さを生まれて初めて感じたのです。
大人たちは、持っているから、失ったことを嘆いて、絶望して、パニックになっている。
私は何も持っていないから、ぐしゃぐしゃになった町を見て、私は自由だ、と初めて思えているんだな、と。
瓦礫となったマンションにちょこんと座ってそんなことを思っていました。
ここから私は生きることを自分自身で選べるんだ、と、興奮に近い感情を持ったことを忘れられません。
(大人になった今となっては、たくさんの方がたくさんのかけがえのないものを失くしたことを理解しています。当時中学生だった少女の考えていたことだとご理解ください。)
人生に何度か生まれなおした、と思える転機がありましたが、おそらく初めて、自分の意思で生きよう、と思った瞬間だったと思います。
あれから27年経ち、私もたくさんのものを持つ大人になりました。失くしかけそうになり、必死で守るという経験や、当然にそこにある、と思っているものも、大切に育まねばなくなってしまうことや、答えはいつも白や黒ではないことも知りました。
27年たった今、震災のニュースを見ていると、今更涙が出るのです。
私も持ってしまったから、失うことの辛さがわかるようになったのかもしれません。
完
🌀かいマムのかいまわり1月号🌀