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かいマムと申します指差し

 

 

3人兄妹と共働きアラフォー夫婦のドタバタ珍道中を書いております。

 

 

2023年登場人物紹介はこちらからどうぞびっくりマーク

 

 

アメンバーはコメントを交わして仲良くなった方を承認させてもらっています。ご容赦ください。まずは気軽にコメントをどうぞ〜にっこり

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災についての記事になります。

現在の能登半島の状況とリンクし、ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんので、もし、お嫌だと少しでも思われたらここでそっとお閉じください。

 

 

 

続きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続きです。

 

 

 

 

父は東京へ一人逃げていき、姉は毎日寒空でひとりずっと待っていて、母と私はひたすら使えそうな家財を折れたマンションから掘り起こし、住んでいたマンションのオーナー会社がもつ倉庫に運ぶ日々でした。

 

 

 

 

避難所の暮らしは2週間目にはだいぶキツくなりました。

 

 

 

 

たくさんの人が同じ空間で生活しているので、私はまず匂いがしんどかったです。換気のために窓を開けたくとも、年配の方はほとんど動かれないので寒い!!!と反対されてしまいます。

今と違って不織布マスクなど簡単に手に入りませんでしたので、埃を避けるためにも、泥棒よろしくバンダナで口元を覆うよう心がけていました。

 

 

 

 

私たちの避難所は自家発電設備があったので、照明と暖房が得られたのですが、多くの避難所で電気が復旧したのは7日目だったはずです。毎日不特定多数の人がいる中で太陽のある時間しか周りが見えないという状態は想像を絶するストレスです。

 

 

 

 

多くの避難所で7日目までに持病のあった方、抵抗力体力の弱い方が震災関連死を遂げました。

 

 

 

 

朝、冷え切った体育館の中で目覚めたら隣の人が死んでいる、そういう状況が多くあったはずです。

 

 

 

 

遺体を安置する場所がどんどんなくなっていきました。

非常に現実的な考え方ですが、夏じゃなくてよかった。

と、毎日思いました。

それでも街には死臭が漂っていました。

 

 

 

 

家族が対応できた方は被害の少なかった兵庫県の西や北の方の葬儀場で火葬をされたそうです。遠くに家族のいる方はご遺体のまま引き取った方もいると聞きました。独居老人の方は母のように民生委員で確認のとれた方から順に市の方で集団火葬を兵庫県の北部にお願いした、と聞いていました。またもや現実的な話になってしまうのですが、火葬してしまわないと、遺体の腐敗を止める手段がなかったのです。

 

 

 

 

 

兵庫県は六甲山脈によって南と北が分断され、一つの県でありながら、南北の行き来が非常にしづらいという地理的特徴があります。南部の人は大阪や岡山に行く方がずっと近く感じるのです。しかし火葬は埋葬許可証の縦割りの問題などがあり、他県での対応はすぐには難しかったのだと思います。遥か彼方の山中に火葬しに行ったという話をよく聞きました。

 

 

 

 

 

 

 

照明と暖房のあった、破格の設備の私たちの避難所でもお年寄りの方が肺炎を発症しました。隔離できる場所がなく、手をこまねいてる1日のうちに重篤化し、幹線道路が復旧せず救急車が通れないことからヘリ搬送になりました。

 

 

 

 

 

 

とにかく感染症対策をということで消毒液が配られたのですが、今主流のアルコールや、次亜塩素酸ナトリウム系ではなく、おそらくクレゾール(昔の病院や老人ホームの匂いといったらわかりやすいでしょうか?)だったと思います。今は使用禁止なはずです。

 

 

 

 

 

この匂いもキツくて、神経がすり減りました。

 

 

 

 

 

配給されるのは遠くで作られたお弁当で、相変わらず暖かいものは食べられなかったのも、体力のない人たちの生命力を削ったと思います。また、生の果物野菜がずっと食べられなかったため、ビタミン群が圧倒的に不足していました。

 

 

 

みかん食べたいなぁ。

りんご食べたいなぁ。

 

 

 

そんなことを思っていました。

 

 

 

 

しかし、思春期の私にとっては悪いことばかりではなく、いつも偉そうに子供を縛っている大人たちがあまりにも無力なことで、憑き物が落ちたような気分がしていたのも事実です。

 

 

 

 

 

全ての家財を捨ててサッと次に進んだおじいさんもいれば、

失ったものに執着して、どうしても動けなくなってしまっている人も。

自身も被災している中であろうに、公共活動に身を呈する人もいれば、

泥棒にやってくる人もいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤングケアラーとして生まれ育ち、この先も姉と両親を一生介護するのだ、という呪いを背負って、人生に疲れ、毎日死にたいと思っていた私は、生きてるんだから、自由をつかんでもいいのではないか、そう思えるようになっていたのです。

 

 

 

 

 

もしもこの時、震災で街中が破壊され、燃え、毎日簡単に人が死に...そして対照的に、わずか10kmほどしか離れていないところでは、イルミネーションが輝き、何不自由なく美味しいものが食べられている、どちらも日常、そういうコントラストを経験しなければ、私は今生きてブログを書けていたかどうか自信がありません。

 

 

 

 

 

 

 

若く、死を望んでいる子供たちに、生きていればきっといいことがある、と言葉をかけることは簡単です。そうとしか声をかけられないのも事実かもしれません。けれど、少なくとも私は「生きてるんだから」という、単純なそのことを実感するのに、日常の方が完全に破壊され、たくさんの人が死んでいるそのそばで、きらびやかな生活を送ってる人もいる、という、ちょっとあり得ない経験がなければ、そう思うことは不可能でした。

 

 

 

 

 

そもそも人間という存在は無常なものなのだ、ということを実体験しなければ、ほぼ死んでいる状態の人に生きてることを認識してらうのは難しいのだと思います。誰かと比べてどう、とか、一般論ではこう、とか意味がないのです。

 

 

 

 

 

 

そういう意味で、苦しい思春期に震災を経験したことは、不謹慎ながら、私にとっては僥倖でもあったのです。

 

 

 

 

 

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