ご訪問いただきありがとうございます。

かいマムと申します指差し

 

 

3人兄妹と共働きアラフォー夫婦のドタバタ珍道中を書いております。

 

 

2023年登場人物紹介はこちらからどうぞびっくりマーク

 

 

アメンバーはコメントを交わして仲良くなった方を承認させてもらっています。ご容赦ください。まずは気軽にコメントをどうぞ〜にっこり

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災についての記事になります。

現在の能登半島の状況とリンクし、ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんので、もし、お嫌だと少しでも思われたらここでそっとお閉じください。

 

 

 

続きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『1月17日を忘れたことはない⑩』ご訪問いただきありがとうございます。かいマムと申します  3人兄妹と共働きアラフォー夫婦のドタバタ珍道中を書いております。  2023年登場人物紹介は…リンクameblo.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続きです。

 

 

 

震災発生から

1週間で父は避難所生活に根をあげ東京のマンションに単身逃げ、

マムは通学困難を理由に避難所生活1ヶ月で友達のお宅に移住し、

母と姉は1ヶ月半で身の回りの物を持って、アパート経営をする友人宅の空き部屋へ引越し、避難所を後にしました。

 

 

 

家族バラバラの生活が始まりました。

 

 

 

携帯電話(スマホ)がない生活って皆さん思い出せますか?

 

 

 

 

 

交通も郵便もうまく機能していない被災地で家族がバラバラに生活すると、まさに全くの断絶となるのです。私にとっては人生初のヤングケアラー生活からの離脱でした。

 

 

 

 

下宿させてくれた友人の家はそれこそ震源地の淡路島が見えるような場所でした。明治時代に建った古い日本家屋と洋館の和洋折衷の、ちょっとした観光名所のような、ものすごい素敵なお宅でした。下宿先のお母さんは寒い!寒い!と文句を言っていらっしゃいましたが笑。

 

 

 

 

 

彼女のひいおじいさんが日本を代表するある企業の創設者でお宅でも長い間書生さんを預かる習慣があったようで、木の作り付けの二段ベッド(というか寝所というか)のある部屋があり、4人くらいの受け入れなどスペース的にへっちゃらだったのです。

 

 

 

 

 

今回書いていて思いましたが、マムの交友関係ってかなりお嬢様たちだったんですね。

 

 

 

 

 

 

当時淡路島と本土を繋ぐ明石海峡大橋が建設の真っ只中で、橋桁の建設は終わっていたのですが、震源地の真上だったので、橋桁が1Mずれて、設計図の作り直しになったそうです。

 

 

 

 

けれど、不思議なことに震源地の真向かいの垂水や舞子、須磨の地域は源平合戦の歴史的建造物も残る古い建物の多い地区ですが、被害は軽微でした。

 

 

 

 

 

 

ヤングケアラーから解放された生活は正直に言って、味わったことのない快適さでした。衣食住の全てが提供され、勉学だけをしていて良いのです。素敵な音楽室と手入れの行き届いた古いグランドピアノがあって、好きにピアノを弾くこともできました。

 

 

 

 

 

おじさまは大企業の社長なのに、帰宅したら自分でご飯を温め、自分でお風呂を再加熱し、自分でお布団を敷いていました。

 

 

 

 

 

テレビのチャンネルですら自分で変えない、それでいて自分だけ東京にさっさと逃げる父との違いに仰天しました。それをおばさまに言ったら、しつけだとおっしゃいました。育児に参加しないんだから自分の身の回りのことをやるくらい成人として当然だそうで。

 

 

 

 

 

本当に仰る通りなのですが、当時はまだまだ男尊女卑が社会に根強くこびりつき、男性は会社に行ってお金を稼ぐだけで偉い、家事育児は全て女性がやって当然感謝は不要、という世界観を多くの人が共有していました。

 

 

 

 

 

今でもなお、そういう親に育てられた男性には、大人なのに身の回りのことをお世話になってしまい申し訳ない、という感覚のない人もいます。(うちの夫もそう。)

共働きなのに、家事育児の分担比率のおかしな家庭がたくさんあり、保育園で疲れた顔をしているお母さんたちをたくさんみます。

 

 

 

 

それを結婚してから奥さんがしつけなおすことすらおかしな話なんだな、と今なら思います。

 

 

 

 

このホームステイをきっかけに、目が覚めました。

女性が男性に仕える必要などないのだ。

私は自立できる能力が十分にある。

家を出て行こう、と。

 

 

 

 

震災をきっかけに家族バラバラの生活を手に入れ、初めて人としての尊厳を構築することができたのです。私個人の内的変化としては素晴らしい復興でした。

 

 

 

 

遅れて始まった3学期の成績は素晴らしいものになりました。

なんせ勉強する時間がたくさんありましたから。

 

 

 

3学期の終業式は例年よりも後ろ倒しになりました。震災から2ヶ月半が経ち、春休みに突入しました。

 

 

 

 

 

 

電車が部分開通してきたため、とても名残惜しかったですが、下宿生活も終了し、みんな親元に帰ることになりました。私は母と姉がお世話になっている甲子園のアパートに帰ることになりました。

 

 

 

 

 

 

 

さて、自覚がなくとも、ヤングケアラーであるマムに寄りかかって生きてきた母は、マムという存在がいなくなって、姉との生活が立ち行かなくなってしまっていました。10kg以上痩せほそり、毎日ガソリンと言って飲んでいたお酒ですら飲めなくなっていました。

 

 

 

 

 

いますよね、病院嫌いな人って。

どういう理屈かわからないけど。

周りに迷惑がかかるほど体調が悪いなら、病院に行って解決策を模索するべきだと思うのですが...。

 

 

 

 

 

「病院に行きなよ」

 

 

 

そう言っても

 

 

 

「だって、あねちゃんがおるし、あねちゃんの専門学校のお迎え行かなあかんし。」

とグチグチグチ言って行こうとしません。

 

 

 

 

ヤングケアラーの家庭の特徴の一つだと思うのですが、親が子供にケアを強要しているわけではないと思うのです。子供が自分を自発的に犠牲にする環境を親が作ってるんだと思うんですね。自分がやらないと、お母さんが困る、という気持ちにさせてしまう。この時も、母はマムから、全てをマムが変わってあげるから、自分の治療をしていいよ、と言って欲しかったのです。

 

 

 

 

 

 

マムは望み通りのことを言ってあげました。

 

 

 

 

 

母の症状は胃潰瘍でした。

胃カメラを飲んで、薬をもらってしばらく通院したら改善しました。

その間、毎日、あねちゃんの専門学校への送迎を行いました。

(姉は重度の知的障害がありますが、手先が非常に器用で、和洋裁の専門学校に通っていました。)

 

 

 

 

今まではただ無となって、介護と労働を提供してきました。

とにかくすり減って死にたい毎日だったけれど、私も人間としての尊厳を持っていい、と、考え始めたマムには猛烈な怒りが湧いてきました。

 

 

 

 

 

怒る、それは生きるということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

震災から2ヶ月半が経って、一向に進まぬ復興に、世間の皆が我慢の限界、怒りが渦巻く時期に突入していきました。有り体に言うと第一次義援金の分配が決定されたのに、資格認定調査が難航し、一向に進まぬ義援金分配に皆がイライラしていました。元手がなくては当面の生活を建てることもままならなかったからです。

 

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下矢印下矢印やっとROOM始めました泣き笑い下矢印下矢印