この記事は、
の続きです。
これは、「IT/イット THE END ”それ”が見えたら、終わり。」について、映画の時系列に沿って、細かい枝葉の部分をあれこれ検証する記事です。従って、結末までネタバレしています。
記事の性格上、前編の「IT/イット ”それ”が見えたら、終わり。」のネタバレもしています。また、原作小説との比較も行なっているので、原作のネタバレもあります。それについても、ご了承ください。
エディの死
浮かんでしまったリッチーを救ったのは、再三怯えて固まってしまっていたエディでした。エディはべバリーから受け取った槍をイットに突き刺し、リッチーを救い出すことに成功しますが、怒り狂ったイットの脚がエディの胸を貫きます。
駆けつけたリッチーらに、エディは言います。「あと少しで殺せた。奴は縮んだ! あいつは弱かった。弱くなった」
原作でも、エディはリッチーを助けてイットに殺されます。エディはビルとリッチーを助けるために大蜘蛛であるイットに飛びかかって、いつも使っている吸入器の「偽薬」を吹きかけます。「偽薬」はイットにダメージを与えますが、エディは腕を食いちぎられてしまいます。
原作では、エディの最後の言葉は「エズと呼ぶのはやめてくれ」というリッチーへの言葉でした。
映画では、「リッチー、お前の母ちゃんとやったぞ」という下ネタジョークでしたね。
イットを小さくする
エディの言葉を受けて、マイクがシャカピワー族の言葉を思い出します。
「生き物はその姿形の理に準じる」
イットを小さくすれば勝てるはずだということに気づいた彼らは、洞窟が狭くなっている場所にイットを誘い込み、小さくすることを思いつきます。
強大な敵を小さくすることで勝つのは、民話の典型パターンです。
例えば、「長靴を履いた猫」。大鬼をおだてて魔法を使わせた猫は、大鬼をネズミに変身させ、すかさず食べてしまいます。
あるいは、日本昔話の「三枚のおふだ」。和尚さんが山姥に術比べを挑みます。山姥は和尚さんの挑発に乗って大きくなったり小さくなったり。山姥が豆より小さくなると、和尚さんはお餅に挟んで食ってしまいます。
悪い魔法使いへの対処の仕方が、西洋でも東洋でも似たような形なのが面白いですね。
皆は洞窟へと走りますが、イットに先回りされてしまいます。
他に小さくする手を考えた彼らは「そう思わせる。信じさせる」ということを思いつきます。
全員でイットを取り囲み、「お前はただのピエロだ」「お前はちっぽけな存在だ」と連呼する5人。
やがて、イットは徐々に縮んで、ペニーワイズの姿に戻り、子供のように小さな干からびたミイラのような姿になっていきます。
イットの力は、信じることに準拠する。これも、原作でも前編でも貫かれている原則です。
イットは基本的に、大人には見えず、子供にしか見えません。それは、子供がおばけを信じるものだからです。おばけの存在を信じない大人には、イットを見ることはできません。
(見ることができないだけで、イットの悪影響を受けないわけではない、というのがミソです。デリーの大人たちはイットの影響を受け、自分ではそれと知らないまま支配されて、邪悪なことを見て見ぬ振りしたり、もっと悪い場合は悪の手先にされたりしてしまいます。)
イットは信じることに準じるから、見るものがもっとも怖いと思うモンスターの姿をとります。
原作では、イットが見せる姿は、子供たちが日頃から怖いと思っているおなじみのモンスター…50年代のユニバーサルホラー映画でおなじみの、ミイラ男とか狼男とかドラキュラとかフランケンシュタインとか言ったものです。日本の特撮映画に登場した怪鳥(ラドン)なんかも登場します。
また、エディにとっての感染症に侵された浮浪者のように、個人的な恐怖症が形となって現れる場合もあります。
映画では、時代が80年代と2010年代に移されたので、モンスターはより現代的なゾンビとかJホラー的悪霊をイメージさせるものが多くなっています。
「遊星からの物体X」的モンスターが出現するのも、実はルーザーズ・クラブがその映画を観ていたから……と解釈することもできますね。前編の舞台は1989年、「遊星からの物体X」は1982年です。
しかし、「信じることに準拠する」イットの特徴は、同時にイットの弱点にもなっています。
原作では、子供達は銀の弾丸を作ってパチンコで撃ち、ニーボルト・ストリートのイットに対抗します。「狼男を殺せるのは銀の弾丸」という定番の伝説を、彼らが信じているからです。
イットが信じることを力にしている以上、弱点の面でも信じることに準じなければならない。それが物事の理というものです。
パチンコで撃った銀の弾はイットにダメージを与え、さらには弾丸が尽きても、空っぽのパチンコをべバリーが引き絞って放っただけでも、イットはダメージを受けて逃げ出します。
つまり、魔法的なパワーは銀の弾丸などのアイテムに宿るわけではない。あくまでも、信じる力こそが魔法であり、パワーであるということですね。
物語の中で、繰り返し描かれる物理的な暴力。ヘンリー・バワーズや、その取り巻きたちや、エイドリアン・メロンを川に放り投げた奴らや、べバリーの父アルビンや、べバリーの夫トムや、そしてもちろんペニーワイズの暴力。
そういった暴力の力よりも、強いパワーが存在するということ。
それは信じる力である、ということ。仲間との絆を信じる力であり、愛を信じる力であり、魔法を信じる力であり、物語を信じる力である…ということ。
それが、「イット」という物語の中心的なテーマになっています。
「銀の弾丸」をめぐる展開も前編から省略されたところで、前編では何の策もないまま子供たちがイットに対抗するように見えてしまって、ちょっと不満なところだったんですが。
でも、その要素はあえて外されて、このクライマックスに持ってこられたということだったんですね。
皆が強固にそう信じることで、相手にもそう信じさせてしまう。
強力な信念の力で、現実の方を動かしてしまう。
そういうパワー。信じることの魔法。それを使って強大なイットを小さくする。映画版のこのオリジナルのクライマックスは、実は原作の精神にとても忠実なものになっていると思います。
イットの最期
イットは赤ん坊のようなサイズになり、哀れっぽい目で皆を見上げます。
皆が取り囲んで「言葉で攻撃」し、ペニーワイズがどんどん縮んでいって、哀れな目つきになっていく。このシーンは、ちょっと「いじめ」っぽい雰囲気にも見えてしまいます。
いや、イットは邪悪な人殺しなのでそんなふうに見る必要はないんだけど。でも、ここだけ切り取るとそんなふうにも見えてしまう。
原作のイットはとにかく超自然的な存在なんだけど、映画におけるイットは、どこか人間的な性格も残しているように思えます。
踊るピエロ、ペニーワイズ/ボブ・グレイとしての性格。いじめられ、疎外され、その結果として精神を歪めてしまって、殺人鬼と化し、巨大な悪の一部になってしまった哀れな男。
「ジョーカー」に毒されすぎかな? でも、そういうニュアンスが若干込められてるように思えちゃう。
演じているビル・スカルスガルドの魅力というのも、あるかもしれない。
ペニーワイズは終始ルーザーズ・クラブと「遊びたかった」わけですが、それはやっぱり両者にどこか似たところがあったからじゃないでしょうか。
学校で疎外され、いじめられ、馬鹿にされていたルーザーズ・クラブの7人の子供たち。ペニーワイズとの違いは、彼らが一人ではなかったこと。
強い絆で結ばれた仲間を得ることができたことで。
それは「ジョーカー」のアーサー・フレックとの違いでもありますね。つまり、これもまた大事な「パワー」であり「魔法」であると言えます。
マイクが手を伸ばしてペニーワイズの心臓を取り出し、皆は手を合わせて、それを握り潰します。
死の際にペニーワイズは「お前たち、すっかり大人になったな」と言います。なんかもう、彼らの成長を見守ってきた親戚のおじさんみたいな言い分ですね。
心臓が潰れると同時に、ペニーワイズは崩壊していきます。
原作では、エディが死んだ後、イット/大蜘蛛は逃げ出し、再び眠りにつこうとします。
今度こそとどめを刺すために、ビルとベンとリッチーが後を追い、イット/大蜘蛛の体内に腕を差し込んだビルが心臓を握り潰し、今度こそそれを絶命させます。
外へ
イットが死んで、地下世界は崩壊を始めます。飛沫型の岩は上方へ向けて崩壊していき、洞窟は崩れ始めています。
死んでしまったエディはやむなくその場に残して、一行は外へ向かいます。誰よりも嘆き悲しみ、エディに執着するのはリッチーです。
イットの巣窟から給水塔へ、下水道を通ってニーボルト・ストリートの家へ。
家を出ると、その敷地に大きな穴が開いて、ニーボルト・ストリートの家はその中に飲み込まれてしまいます。
映画ではニーボルト・ストリートの家だけが崩壊するのですが、原作ではデリーの街がまるごと崩壊していくことになります。
嵐がやってきて強風が吹き荒れ、給水塔が倒れて水が流れ出し、ダウンタウンは押し流されます。
イットの死とともにデリーが崩壊するのは、つまりデリーはイットそのものだったということです。
一同は子供時代に水浴びをした荒れ地の湖に行き、下水や血の汚れを落とします。
泣き続けるリッチーに、皆が寄り添います。そのシーンは、前編でジョージィのレインコートを抱いて泣くビルに皆が寄り添うシーンと呼応しているようです。
リッチーが眼鏡をなくし、皆は潜って探します。
ベンとべバリーは水の中でキスを交わします。
デリーの街に戻ってきた一同は、手のひらにあった傷が消えていることに気づきます。
「DERRY IS CALLING YOU」と書かれたショーウインドウの前に立った6人は、そこに子供時代のルーザーズ・クラブ…エディとスタンを加えた7人が立っているのを見ます。
原作の、デリー崩壊のスペクタクルはありませんが、これは静謐でいいシーンですね。
原作では、デリー・タウンハウスのドアのガラスに映った一瞬を、べバリーが見るシーンがあります。そこに映っていたのは、エディとスタンを加えた6人でした。マイクは入院中ですが生きていたので、そこには映らなかったのです。
子供時代のルーザーズ・クラブは冒険を終え、自転車で家に帰って行きます。
映画館には、「エルム街の悪夢5」の看板が見えています。
「エルム街の悪夢5 ザ・ドリームチャイルド」は1989年8月11日公開。この映画は、第10回ゴールデン・ラズベリー賞で最低主題歌賞を受賞しています。同賞にノミネートされていた「ペット・セメタリー」を押しのけての受賞です。
忘却について。原作もバッドエンドじゃない!
自宅に帰ったビルは、新作の原稿を書いています。
それは、原作「イット」の中の一節です。骨折したエディが、友達について思いを巡らせるシーン。
「きみのギブスにサインしようと思うんだ」ビルが言った。彼の目がエディの目をまっすぐに見つめた。
でもそれはサインじゃない。エディの頭に忽然とそれはひらめいた。それは契約だね。契約なんだ。ビッグ・ビル、そうだろ、さもなきゃ契約にいちばん近いものだ。彼は怯えた……そんな自分が恥ずかしくて腹が立った。夏になる前にもし腕を折っていたら、だれがギブスにサインなんかしてくれただろう? 母か、たぶんハンダー先生? ヘイヴンにいる伯母さんたち?
ここにいるのは彼の友達だ。母はまちがっている。悪い友達なんかじゃない。きっと、いい友達とか悪い友達とかいうのはないんじゃないかなーーきっとただ友達っていうのがいるんだ。傷ついたときにそばにいてくれる人たち。きっとそういう人たちというのは、たとえばこっちが怖い思いをするだけの値打ちのある人、信頼できる人、いっしょに生きていく値打ちのある人なのかもしれない。それからその人たちのために死ななければならないとしたら、たとえ死んでも悔いがない、そういう人たちが友達なのかもしれない。いい友達なんてない。悪い友達なんてない。いっしょにいてほしい、いなくちゃならないんだと感じる人たち。自分たちの家をこっちの心の中にも築いてくれる人たち。
「オーケー」とエディはちょっとかすれた声で言った。「オーケー、そりゃあ最高、ビッグ・ビル」
(小尾芙佐訳)
マイクからの電話に対してビルは「まだ第1章だ」と言ってますが、実際には第16章ですね。
ビルとマイクは、今回はデリーを離れても「忘却」がやってこないことを話し合います。
「それが死んだからか、忘れたくない気持ちが勝ったのか」とマイクは言います。
「後の方がいいな」とビルは言います。
これは、原作と映画で違っているところ。原作では、イットを倒した仲間たちは、再びすべてを忘れていくことになります。
原作では、ベンはべバリーをネブラスカに誘い、べバリーもベンと一緒に行くことに同意します。べバリーは夫の失踪届を出しますが、トムがどうなったかは忘れてしまっています。
リッチーやビルは、スタンやエディの姓を忘れてしまっています。
今度はマイクにも忘却が訪れていて、もう見張り役は必要ないという意味であることを、マイクは理解します。
この違いを指して、原作をバッドエンドと捉える人もいるようなんですが、僕はまるっきりそうは感じませんでした。
特にパンフレットの風間賢二氏の文章で、「映画と原作とではその結末が真逆」「前者はハッピーエンドだが、後者は実はバッドエンド」とあって、僕は「ええっ!?」って思ったんですよ。「まさか、そんなはずは?」って。
「最悪なのがべバリーの場合で、ベンと一緒になるどころか、昔のことを忘れて暴力亭主のもとに帰ろうとする」
嘘、嘘。そんなシーンないですよ。ていうか、トムは原作では死んでるんだから、映画以上に原作では「彼のもとに帰る」なんてできない!
原作でも、ベンとべバリーは一緒になります。忘れるのはデリーでの出来事だけなので、べバリーは夫が暴力亭主だったことは自覚しているし、親友がトムに殴られたことも知っています。ベンとこの先どうなるかはさておき、暴力亭主のもとに帰ろうとするなんてことはあり得ない。
風間賢二氏はキング翻訳や研究の第一人者なので信頼していたんだけど、この記憶違いはどうしたことだろう……と思いました。
映画と同様に、原作「イット」もハッピーエンドです。このパンフレットの文章を読んで、「文庫4冊も読んだあげくにバッドエンドなのは嫌だから読まないでおこうかな…」と思ってる人は安心して読んで欲しいです。爽やかなハッピーエンドだから。
映画と原作との違いとしてオードラがデリーに来るかどうかがあって、トムに誘拐されて死の光を見てしまったオードラは意識を喪失して目覚めない…ということになるんですけど、これにしても原作のエピローグでしっかりと解決されます。
確かに、原作ではみんな再びデリーでのことを忘れてしまうので、ルーザーズ・クラブの絆はまた失われてしまいます。特に、エディやスタンが忘れられてしまうのは悲しい結末と言えます。
ただ、それはハッピーエンドの中に残された「ほろ苦い余韻」というようなものになっていると思います。27年の人生を捧げ、命を賭けて戦ったルーザーズ・クラブの面々にしても、宇宙の巨大なサイクルの中では、一瞬だけ関わって通り過ぎていくだけの、ほんの一要素に過ぎない…というようなところを感じさせる要素ですね。
それに、やっぱり子供時代というものは、誰にとっても「通り過ぎていくもの」であって。
それがどんなに大事でも、やっぱり誰しもが「忘れてしまうもの」なんですよね。人間である以上、それはどうしようもない運命なわけで。
原作のラストは、そういう人生そのものの切なさ、儚さを感じさせる、深い余韻のあるものになっています。
でも、後味は決して悪くない。十分、ハッピーエンドと言えると思います。
このシーンでビルが書いている次作は「イット」であるようなので、ビルは「作品をバッドエンドにしてしまう傾向」から脱したと言えそうです。
イットを殺し、ジョージィの呪縛を脱して、ビルはようやくハッピーエンドが書けるようになった…。
…ということが言えるのも、小説「イット」がハッピーエンドであるという前提あってのことなので。ここは大事なところですね。
スタンの真意
スタンが自殺の直前に書いた遺書が、パトリシアを介してルーザーズ・クラブの皆に届きます。
それで初めて、スタンの真意がわかります。スタンは、恐怖でデリーに来ることはできませんでした。また、スタンは臆病な自分を知っていたので、自分がいるとルーザーズ・クラブが一つになれないと予期していました。
そこで、スタンは「自分を消す」という手段をとることで、イットに対抗することに決めました。自分がいて団結が乱れるよりも、自分が最初からいないことで団結が乱れない方が、勝機があると考えたのです。
スタンの自殺は、決してただ皆を見捨てて自分だけ逃げるようなものではなかった。イットに勝てる、最良の道を考えた上での選択、頭のいいスタンらしい行動だった…。
ちょっと強引な話ではありますが、原作ではこの「真相」はないのでね。
でも、原作では本当にスタンは影の薄い子になっちゃっているので。冒頭で自殺する役回りなので、どうしても感情移入させにくいキャラになってるんですよね。
それを、映画では救ってあげている。しっかりと役割を持たせて、その存在感を強調しています。これはやっぱり原作のキャラクターへの愛情あっての改変だと思うし、原作のある種の欠落を補う改変であると思います。
エピローグ
リッチーはキシング・ブリッジに行って、エディへの思いをあらためて彫りつけます。
「R +E」
キシング・ブリッジはバッシー公園の運河にかかる覆い付きの橋で、天蓋がついているので人目を避けられるのが「キスの橋」の由来ですね。
欄干には多くのイニシャルが彫られていて、「ここに名前を彫ると結ばれる」的なジンクスがあることを感じさせます。
リッチーはずっと、自分の中の同性愛をひた隠しにしてきました。それをばらされてしまうことが、リッチーにとって最大の恐怖だったと言えます。
「ピエロへの恐怖」は、本当の自分を隠すためにかぶっている「道化の仮面」に気づかれることへの恐怖だったのかもしれません。
更に言えば、「這う目玉」への恐怖は、自分の内面を見通す「目」への恐怖だったと言えるかも。
(原作ではリッチーのゲイ要素はないので、「這う目玉」は眼鏡をかけているリッチーの視力喪失への恐怖を反映したものだと思われますが)
リッチーのこの行動は、スタンの手紙の「自分らしく生きろ。誇りを持て」の部分に合わせて描写されます。
リッチーがイットとの戦いを決意する背中を押したのもスタンでしたが、今度はリッチーが本当の自分を隠さず生きる背中を押したのかもしれません。
ヨットに乗っている、ベンとべバリー。大きな犬も飼っていて。
この二人は、高名な建築家とデザイナーのカップルということになるわけで。すっかりセレブな生活に入っていきそうですね。
この部分は、スタンの手紙の「大切な人を見つけたら、決してその手を離すな」のところで描かれます。
マイクは図書館を出て、旅に出ることになります。
子供時代に行きたいと言っていた、フロリダを目指すのでしょうか。
「見張り役」をようやく終えて、マイクの人生はやっと始まることになります。
スタンの手紙は、「どこへ行っても自分の道を進め」と語ります。
スタンの手紙は、こんなふうに締めくくられます。
「この手紙に約束してくれ。自分に、お互いに、誓おう。
ルーザーズには、これ以上失うものはない。
だから正直に、勇敢に、立ち上がれ。信じろ。
そして忘れるな。僕らはルーザーズだ。永遠に」
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