Joker(2019 アメリカ)
監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー
原作(キャラクター創作):ボブ・ケイン、ビル・フィンガー、ジェリー・ロビンソン
製作:トッド・フィリップス、ブラッドリー・クーパー、エマ・ティリンガー・コスコフ
製作総指揮:マイケル・E・ウスラン、ウォルター・ハマダ、アーロン・L・ギルバート、ジョセフ・ガーナー、リチャード・バラッタ、ブルース・バーマン
撮影:ローレンス・シャー
編集:ジェフ・グロス
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
出演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ
①怪物級の凄みを持つ映画の出現
ビックリしました。素晴らしかったです。めちゃ面白い映画でした。
今年度ベスト1…かもしれない。
重厚にして軽妙。
アンモラルにして純粋。
アナーキーでいて精微。
悲劇的で喜劇的。
陰鬱で痛快。
基本的に鬱々とした映画なんですけどね。驚くほどに惹きつけられる。
ホアキン・フェニックス凄い。もうほとんど彼の一人芝居みたいな状態が続く映画です。それでいて飽きさせない。
ジョーカーという、もっとも有名な「マンガのキャラクター」を演じながら、作り物の空疎さを一切感じさせない。
強烈な存在感。現実に生きている、一人のリアルな人間を作り上げています。
そして、ただの絵空事に終わらない。現代の社会への痛烈な批評精神。
怒っている映画です。革命を促す映画と言ってもいいくらい。
アメコミのジョーカーの物語を通して、現代の社会を撃つことをはっきりと指向しています。
映画の肌触りは、アメリカン・ニューシネマでした。反体制を真っ向から描く、最近では珍しい「正しくない」映画。
70年代の名画を思わせるような、懐かしくも重厚なタッチ。
そしてヒリヒリするような緊張感と、自分自身の価値観を裏返されるような衝撃。
いやあ…本当に。怪物みたいな映画だと思います。
アメコミ映画にまだこんな可能性が残されていたなんて。嬉しい驚きでした。
②説得力に満ちたジョーカーの誕生
本作を一言で言うと、ある一人の男が狂人になっていく物語。
それを丹念に、詳細に、徹底したリアリズムと劇的なリズムでもって描いていきます。
バットマンのヴィランとしてのジョーカーは誰もが知ってる有名キャラですが、でも顕著な特徴としてはその外見と、「狂っている」というシンプルな内面しかないんですね。
原作コミックやティム・バートン版の映画では、薬品タンクに落ちて外見が変化する誕生譚が描かれましたが、それとて絶対でもなく、コミックでは様々なオリジンが描かれているようです。
ノーラン版の映画では、ジョーカーの外見はメイクでした。また、「ダークナイト」のジョーカーはあらゆる発言が信用できない男として描かれ、過去を語ったとしてもそれが事実だとは言えない、という印象になっています。
だから、本作でまた新たな独自の来歴が描かれても、それもまたジョーカーとして受け入れることができるんですね。
また、ジョーカーは特殊な超能力を持たない、ただの人間です。
その点で、バットマンと相似形にある。だからバットマンの最大のライバルなわけですが。
超能力を持たないバットマンは、大富豪ブルース・ウェインとしての莫大な資金力をパワーにしています。
同じく超能力を持たないジョーカーは金も持たない。彼のパワーは「狂気」です。
残虐な行為にもためらわない。他人の命も、自分の命さえもこだわらない。そして、狂気ゆえに次の行動の予測がつかない。
狂っているがゆえに強い。というのが、他のヴィランとは決定的に違うジョーカーの特徴ですね。
本作のアーサー・フレックは、最初とてもとても弱い男です。
社会の片隅で、コメディアンになることを夢見て生きている。
貧乏で、ろくに仕事もなく、また障害を抱えていて、でも「突然笑い出す」というふざけた内容なので、誰からも本気にされない。
友達もなく、恋人もなく、年老いた母と二人暮らし。
もともと社会の最底辺に生きているようなアーサーだけど、そんな彼がピエロの扮装をすると、さらに人の加虐性を刺激するのでしょうか。
子供からも寄ってたかってリンチされ、何の抵抗もできない男。
そんな彼が、社会から疎外され、つまはじきにされ、笑いものにされて、だんだん正気のタガを外していく。
そして、だんだん狂っていくうちに、逆に強くなっていく。
「世界中でもっとも弱い人」だったアーサーが、狂気というパワーを得ることで、徐々に計り知れない強さを身につけ、目覚めていくことになります。
これこそがまさに、「ジョーカーという状態」ですね。狂気というパワーを得ることで、アーサーは少しずつジョーカーになっていくのです。
③狂っているのはどちらか
狂っているのは本当はどっちなのか…狂人なのか、それとも彼を取り囲む社会なのか…というテーマ。
「カッコーの巣の上で」など多くの作品で描かれてきた、普遍性あるテーマです。
格差が拡大し、治安が悪化し、衛生局のストライキでゴミが放置され悪臭漂うゴッサム・シティ。
人々の心はすさみ、誰もが寛容さを失っています。
何の悪もなしていないピエロが袋叩きにされ、人々は見て見ぬ振りをする。
地下鉄の中での歌を歌いながらの襲撃シーンは、「時計じかけのオレンジ」を連想させますね。
しかし、襲撃者は「一部の暴走した若者」ではなく一般市民。
スーツを着た一流企業のサラリーマンや、無垢であるはずの少年たちです。
そして、近未来ではない。時代設定は1970年代から80年代なので、むしろ過去です。現代はもっと酷い、という含みもはらんでる。
そんな社会で、人々のよりどころはテレビ。
マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会をする人気バラエティ番組が、高い人気を誇っています。
バラエティショーが、政治家よりも強い影響力を持っていて、人々をやんわりソフトに支配している。
そしてその笑いの本質は、アーサーが舞台でスベッているのを馬鹿にして笑い、さらに本人をスタジオに呼んで晒し者にしようとする。差別の笑いです。
庶民の娯楽であるはずのテレビも、弱者を笑い、蔑む構造を支えている。
自分より弱い者を踏みつけにすることで誰もが心の平穏を保ち、一部の富裕層の支配を支えている社会。
そんな社会の最底辺にいるピエロのアーサーは、いわば吹き溜まりのようなものですね。
上から下へ、どんどん流れて溜まってきた、社会のあらゆる矛盾や抑圧を一身に受け、その果てに狂気へと追い込まれていくことになります。
そんなふうにして狂わされた男と、彼を狂わせた残りの社会のすべて。果たして、どっちが狂っていると言えるのか…?
どちらが悪とも、正しいとも言えない相対性は、映画のいたるところで貫かれています。
アーサーの母ペニーは、貧困に苦しみ報われない人生を生きてきた、社会の被害者です。
でも同時に彼女は、アーサーから自由を奪い、彼の人生を規定する加害者でもあります。過去が明らかになることで、彼女が加害者であることはより露わになっていきます。
富豪トーマス・ウェインも、慈善家で正義の人という面と、結局のところ貧者の気持ちを理解しない傲慢な面を同時に併せ持っています。
それはまさに、ジョーカーの話すジョークのようです。何が本当か嘘か分からず、たった一つの真実なんてものは幻想に過ぎない。
やがて、映画の中でずっと描かれてきた、アーサーをめぐる世界それ自体ですら、確かさを失い始めます。それはアーサーの狂気が生み出した妄想だったかもしれない…という形で。
何が本当なのか、嘘なのか。
正常であるとはどういうことで、狂っているとはどういうことか。
何が善で、何が悪なのか。
映画を観ている我々の固定観念も、どんどん揺さぶられていきます。そうして、あらゆる価値が確かさを失ったジョーカーの世界に、観客も巻き込まれていくのです。
④現代を撃つ暴動の描写
ゴッサム・シティの混乱はやがて、ピエロの格好をした庶民たちによる大規模なデモへと発展していきます。
「ピエロによるエリートサラリーマン殺し」に快哉を叫ぶ人たちによって、「金持ちを殺せ!」というスローガンが掲げられ、デモはやがて暴動へとエスカレートしていく。
このデモにしても、正当性はあるようでない。エリートサラリーマン殺しに共感を表明した上での「金持ちを殺せ!」デモだから、非常に危うい、アナーキズムに満ちたものになっています。
政治的な主張というより、むしろ日頃の鬱憤をぶちまける側面の方が強い。
実際、参加者の多くはただピエロのお面をかぶって匿名の破壊行為に参加したいだけだったり、あるいはこの機に乗じて略奪をしたいだけだったりします。
そういう正当性を欠いたデモなんだけど、一方でそれを批判する「良識ある人たち」に正当性を感じるかといえば、それもない。それはそれで、うさんくさく感じてしまいます。
さらに、観客はずっと社会の底辺にいるアーサーに感情移入してきていますからね。貧困層を見下す金持ちたちより、そこに抵抗する側にシンパシーを抱かせられてしまいます。
混乱状態のデモが玄関前で繰り広げられている一方で、きらびやかな劇場の中では着飾った人々が、チャップリンの「モダンタイムス」を観て笑っている。
そんな劇場は燃やしちまえ…というような気分になって、暴動を心待ちにする気分にシンクロさせられてしまうのです。
「狂った人殺し」であるジョーカーを象徴として掲げる暴動に、心を同調させられてしまう本作の流れ。
これはもう、ほとんど暴動を扇動しているような。
危険なきな臭さに満ちています。
何しろ、格差社会はアメリカのみならず、世界中で表面化している根深い問題です。
資本主義の行き着く果てとしての貧富の差が極限まで広がり、新たな貴族が生まれ、大多数の貧困層から搾取する構造が固定化されていく。
政府との対立ではなく、テロリストでもなく、市民同士が分断されていく構造。
そんな時代にあって、本作の暴動はあまりにもタイムリーですね。映画を観た人々が、「金持ちを殺せ!」と叫び出しても不思議じゃない。
ただ、アーサーはあくまでも扇動者であって、暴動の主導者にはならないんですね。テレビで語ったように、彼には政治的な目的も意図もない。
彼はただ、常に心のままに振る舞うだけです。
走っていくパトカーの窓から、アーサーは暴動の炎に照らされる街を眺めます。「タクシードライバー」を連想させるシーンです。
「タクシードライバー」のトラヴィスは悪徳にまみれた街に憤って、呪詛を撒き散らしていました。
アーサーはそんな街が暴動によって破壊されていくさまを「美しい」と感じ、うっとりと微笑みます。
もしニューヨークに暴動が起こっていたら、トラヴィスも微笑んだでしょうか。このシーンは、「タクシードライバー」のその先であるとも言えます。
「タクシードライバー」のトラヴィスと「ジョーカー」のアーサーはともに、あまりにも純粋であったために、社会の矛盾に耐えられなかった男であると言えます。
あまりにも純粋である人は、そんな社会では生き延びられない。気が狂って殺人者になるしかない。
彼らから見れば、そうならずにこの社会に順応している我々の方が「狂っている」ように見えるはずです。
そして、社会に順応できなかった者がヒーローになるかヴィランになるか、それは成り行き次第でしかないのかもしれません。
トラヴィスは気が狂って殺人者になりましたが、それでもヒーローと呼ばれることになりました。上院議員を殺さずポン引きを殺したのはただ成り行きでしかなく、トラヴィスにとっては大きな違いではなかったはずですが。
バットマンはヒーローになり、ジョーカーはヴィランと呼ばれます。でもトラヴィスの例を見るなら、それも紙一重の差でしかないのかもしれません。
…というふうに、本作は行って回ってアメコミにおけるヒーロー論という、アメコミ原作としてもふさわしいテーマにも辿り着くのです。これまた、驚きです。
⑤笑いと恐怖の紙一重
ホアキン・フェニックスは本当に、乗りに乗っていると言えるんじゃないでしょうか。毎回、新鮮な驚きを感じさせてくれます。
つい最近見たのは「ドント・ウォーリー」の障害のあるシニカルな漫画家役だけど、本作と同一人物とは思えない変貌ぶり。
体型面でも作品ごとに様々で、その前の「ビューティフル・デイ」の時は、でっぷり太った大男を演じていたと思います。
作品ごとに風貌も変えてしまう、これはまさにデ・ニーロ・アプローチ。
ロバート・デ・ニーロはなんだか久しぶりの印象です。
テレビのバラエティショーの司会者という役柄だからか、軽い印象で、ベテランらしさを感じさせない。それもまたデ・ニーロという人の凄みですね。
軽くて、むしろデ・ニーロのモノマネしてる人みたいに見えちゃうくらい。
「タクシードライバー」や「キング・オブ・コメディ」など、多くの往年の作品にオマージュを捧げてる作品なので、デ・ニーロの存在感は本作をグッとシメてます。
監督のトッド・フィリップスは「ハングオーバー!」シリーズの人ですね。
コメディで頭角を現した人ですが、笑いが撮れる人は怖い映画や鬱映画も撮れる。ジョーダン・ピールなんかを思っても、共通して言えることじゃないかと思います。
それに本作には、笑いの要素も少なくないんですよね。徹底して鬱展開の暗い物語なんだけど、そこには苦い笑いの要素が常にくっついていて、本作の奥深さになっています。
ピエロというものがそもそも、人を笑わせる存在でありながら、どこか物悲しさを含んだ存在です。メイクも、涙を描くのがつきものですからね。
素顔を隠した存在であるからか、どこか怖さも秘めている。「IT/イット」のような作品でモンスターになるように。
そんなピエロの多義性をうまく作品のテーマに絡ませて、一面的でない、シリアスドラマ、コメディ、アメコミエンタメのどれとも言い切れない、重層的な物語に仕立てていると思います。
映画全体が、ジョーカーのような人を幻惑する道化師になっている。次に観たときには、また別の印象を感じるだろうと思います。もう何度かは観たいですね。
ホアキン・フェニックス主演。僕のレビューはこちら。
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