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この記事は「ジョーカー」の細部について情報をまとめ、検証する内容です。従って結末に至るまでネタバレしています。映画を未見の方はご注意ください。

この記事は、

「ジョーカー」ネタバレ徹底解説その1

「ジョーカー」ネタバレ徹底解説その2

「ジョーカー」ネタバレ徹底解説その3の続きです。

マレー・フランクリン・ショー

いよいよマレー・フランクリン・ショーの生放送が始まります。

映画のこのクライマックス…アーサーのテレビ殺人生中継…は、意外にもバットマンのもっとも有名な原作コミックに由来しています。

「ダークナイト・リターンズ」(1986)では、ジョーカーがテレビのトークショーに出演し、ゲストだったセックス・セラピストの女性にキスをして殺し、司会者や観客を含め毒ガスで皆殺しにします。

「ジョーカー」では、アーサーは登場するなり先にゲストとして登壇していたドクター・サリーに熱烈なキスをして、目を白黒させます。

ドクター・サリーはセックス・セラピストであるような描写をされていて、実在のドクター・ルース・ウェストハイマーを彷彿とさせます。ドクター・ルースについては、2019年のドキュメンタリー映画「おしえて!ドクター・ルース」で描かれています。

 

アーサーは華々しく踊りながら登場します。彼は「想像してた通りだ」と感想を述べますが、びっくりしているドクター・サリーを見てマレーは「君だけはそうだろうね」と言います。

ピエロの扮装についてアーサーは、「政治には興味はない。人々を笑わせたいだけ」と説明します。

マレーにジョークを求められ、アーサーはネタ帳をめくります。そこで、I just hope my death make more cents than my life.のラインが目にとまります。

ここで、アーサーは自分の死をもっと高く売ることを考えたのかもしれません。

 

「ノック・ノック」で始まるアーサーのネタは、「はい、どなた?」「警察です。あなたの息子さんは酔っ払いの車に轢き殺されました」と続きます。

マレーは「笑えないね」と切り捨てます。「そういうのは番組向きじゃない」観客も皆ブーイングします。

アーサーにしたら、あれ?不謹慎な方が受けるんじゃないの?って感じでしょうか。だって僕がスベってるの見てみんな笑ってたやん?

 

その「ネタ」を否定されたアーサーは、「本当のこと」を話すことに切り替えます。

ウォール街の男たちを3人殺した」とアーサーは言います。「オチはない。これはジョークじゃない。失うものはない。僕の人生はまさにコメディだ」

「コメディなんて主観だ」とアーサーは言います。アーサーがスベってるのを笑うのがまさにそうですね。アーサー以外の人には笑えるけど、当の本人であるアーサーには笑えない。「自分で決めればいい。笑えるか、笑えないか」

 

「奴らが最低だから殺した。音痴だったから、死んでもらった」

この発言、ですね。そんなクールなものじゃなかった。アーサーは一方的にボコボコにされ、仕返しとして撃ったはずです。

「マレー、外の世界を見たことがあるのか?」とアーサーはマレーに尋ねます。「誰もがののしりあってる。誰もが他人の気持ちなど気にかけない」

マレーはそんなアーサーを否定します。「自分を憐れんで、殺人のいいわけを述べているだけだ」

 

「あんたは最低だ」とアーサーは言います。「笑い者にするために僕を呼んだ」

これは結構図星をついてるはずですが、マレーは取り合いません。「君のせいで殺人が起きてる」となおもアーサーを責めます。

「心を病んだ孤独な男をあざむくとどうなるか…」アーサーは拳銃を取り出します。「報いを受けろ、クソ野郎!」

"You get what you fucking deserve!"がアーサーのセリフです。「お前にファッキング値するものを受け取れ!」というところでしょうか。

 

至近距離からマレーの頭に銃弾を撃ち込み、アーサーは返り血を浴びています。激しく貧乏ゆすりをしているのは興奮している現れでしょうか。

アーサーは前に進み出て、言います。

「おやすみ。そして最後にこれが…」

ここで放送が打ち切られます。最後にアーサーが言おうとしたのは、「これが人生(That's Life)」だったでしょう。

各チャンネルは一斉に、生放送中のマレーの殺害とアーサーの逮捕のニュースを流します。

なぜマレー・フランクリンを殺したのか

アーサーはなぜ当初の予定通りに自殺をせずに、マレー・フランクリンを殺したのか。

マレーのことを愛し、尊敬し、父親のように崇拝していたというのに。

父親のように崇拝していたからこそ、でしょうね。父親になってもらえないなら、殺すしかない。

 

マレー殺しは本作のクライマックスですが、「バットマンのジョーカー」としては、まるでらしくない殺人だと思います。

例えば上記の「ダークナイト・リターンズ」では、ジョーカーは司会者もゲストも観客もまとめて、スタジオにいる数十人を皆殺しにしています。

そういう「意味のない残虐犯罪」が「バットマンのジョーカー」らしい犯罪でしょうね。本作のマレー殺しは、「笑い者にされたから殺した」「尊敬していたのに、失望したから殺した」「愛していたのに、報われないから殺した」極めてオーソドックスな動機に基づく「とっさの犯行」です。

それ以前の犯行も全部同じですね。「サラリーマンたち:暴行されたから殺した」「ランドル:クビになった怨みで殺した」「ペニー:幼少時に虐待したから殺した」すべて(共感できるかはさておき)、人間的な動機に基づく犯行です。

 

やっぱり、徹頭徹尾、本作のジョーカーはいわゆるアメコミ世界のジョーカーとは別物なんだと思います。服装が出来上がって、見た目はジョーカーになりきってるけど、それで殺人も犯したけれど、彼は全然ヴィランではない。

あくまでも、人間。人間アーサーの、心理的な彷徨の果てに辿り着いた突発的な出来事として描かれたのが、本作のマレー殺しです。

 

もし仮に、マレーが優しくアーサーを抱きしめてやっていたら……アーサーの妄想の中のように、「君が息子だったら名声も捨てる」と言ってくれたら、アーサーはマレーを殺したりはしなかったでしょう。…そんなことはあり得ないけど。

父親になって欲しかったマレーに完全に否定されたので、アーサーはマレーを殺しました。悲しみと、怒りのあまりの衝動的な行動として。

 

母親殺しの次に、父親を殺したのがマレー殺しでした。ということは、もう一人の「父親候補」であるトーマス・ウェインも、アーサーは殺していておかしくなかったことになります。

彼がトーマスを殺さなかったのはたまたま…でしょうか。劇場のトイレで殺さなかったのは…。

どことなく、上院議員を殺すはずだったけど殺せず、ポン引きを殺してヒーローになった「タクシードライバー」のトラヴィスを思い出します。

 

ただ、その後で……おそらく妄想の中で……アーサーはトーマスを殺すことになります。ピエロの仮面の暴漢という姿を借りて。

マレー・フランクリン・ショーは妄想か?

ところで、このマレー・フランクリン・ショーのシークエンスはいったい現実でしょうか、妄想でしょうか。

本作の中の出来事はもとより全部が妄想という可能性もあるのですが。

しかし、いくつものシーンの中でも、アーサーが人気テレビ番組のゲストに招かれるというのは、それらの中でも飛び抜けて嘘っぽい……いかにも、アーサーの妄想臭く見えるというのがあります。

何しろ、これはアーサーが日頃夢見ていた願望そのものですからね。そんな都合のいい話は、ないはず。

 

仮に、マレー・フランクリン・ショーを妄想と考えて、それ以外のことをほぼ現実と考えるなら(ソフィーのことは除いて)。

アーサーは母親を殺し、その数日後にランドルを殺して、警察から逃げ出し……切れずにどこかで逮捕されて、パトカーに乗せられ護送される。そこで次の「ホワイト・ルーム」のシーンにつながることになります。

それはそれで、さほどの不自然は生じないようです。

例えば仮に拳銃が妄想で、地下鉄殺人が存在しなかったとしても、上記の流れはつながることになります。

ホワイト・ルーム

アーサーはパトカーに乗せられて、どこかへ運ばれていきます。

夜の街には暴動が起こり、ピエロの仮面の男たちが暴れ、あちこちで炎が上がっています。アーサーは後部座席の窓から、うっとりとそれを眺めています。

警官が、「町中火に包まれてる。お前のせいだ」と言います。

アーサーは「知ってる。実にきれいじゃないか?」と答えます。

車の窓越しに夜の街の灯りを眺めるアーサーは、これも「タクシードライバー」のトラヴィスを連想させます。

 

クリームはエリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースの3人による1966年結成のロック・トリオです。1968年には早くも解散して、クラプトンは次の(ブラインド・フェイスやデレク・アンド・ドミノスなどの)活動に移っていきます。

ドラマーのジンジャー・ベイカーは2019年10月6日に亡くなっています。合掌。

 

「ホワイト・ルーム」は1968年のアルバム「Wheels of Fire/クリームの素晴らしき世界」の収録曲。ジャック・ブルース作曲、歌詞は詩人のピート・ブラウン。

 

In the white room with black curtains near the station

Blackroof country, no gold pavements, tired starlings

Silver horses ran down moonbeams in your dark eyes

Dawnlight smiles on you leaving, my contentment

 

白い部屋の中、黒いカーテンがかかっていて、駅のそばにある

黒い屋根の街並、黄金の舗道もなく、疲れたムクドリたち

お前の黒い瞳を射す月の光に、銀色の馬が走った

夜明けの光が去りゆく君に微笑み、俺に満足をもたらす

 

I'll wait in this place where the sun never shines

Wait in this place where the shadows run from themselves

 

太陽が届かないこの場所で俺は待っている

影自身の影が走るこの場所で

 

とても幻想的な歌詞。時代柄、ドラッグの影響も感じさせる歌詞です。

燃え上がるニューヨークにぴったりのイメージですが、「白い部屋」というタイトルを額面通りに受け取れば、アーサーが最終的に閉じ込められる「白い部屋」を思い出してしまいます。

「白い部屋の中」というフレーズから、少しずつ言葉を増やして、イメージを豊かにしていくのは、ずっと白い部屋の中にとどまり続けながら、想像力で世界を紡ぎ出していく妄想症患者を思わせなくもない…です。

バットマンの誕生…?

カークラッシュが起こり、アーサーは意識を失います。

この事故現場では、背景に”Ace in the Hole"というネオンサインが目立ちます。これはポルノシアターであるようですが、DC世界ではテレビシリーズ「バットマン・フューチャー(Batman Beyond)」(1999-2001)でこのタイトルのエピソードがあります。シーズン3の第4話です。

また、「ダークナイト」では(ヒース・レジャーの)ジョーカーが、ハービー・デントを「穴の中のエース(Ace in the Hole)」と呼んでいます。

 

ピエロ姿の男たちが横転したパトカーに近づいて、失神したアーサーを引きずり出します。

その一方で、通りに面した映画館が映し出されます。そのビルボードには「BLOW OUT」「ZORRO THE GAY BLADE」のタイトルが見えます。

 

「BLOW OUT」は邦題「ミッドナイトクロス」。ブライアン・デ・パルマ監督、ジョン・トラボルタ主演の犯罪サスペンス映画です。アメリカでの公開は1981年7月21日。

音響効果マンである主人公が、偶然録音した犯罪の証拠をめぐって、犯罪組織との攻防を繰り広げます。デ・パルマ作品の中でもカルト人気の高い作品です。

 

「ZORRO, THE GAY BLADE」は邦題「ゾロ」。ピーター・メダック監督、ジョージ・ハミルトン主演の映画で、アメリカでは1981年7月17日に公開されています。

これはいわゆる「怪傑ゾロ」ものの映画です。元はといえば1919年に発表された小説で、1920年にダグラス・フェアバンクス主演の映画が大人気になりました。

スペイン領メキシコを舞台に、仮面の剣士ゾロの活躍を描きます。賞金首のお尋ね者でありながら、弱者の味方である紳士。現れた後には、壁にサーベルで「Z」の文字を残します。

アメコミ・ヒーローの元祖、義賊バットマンの祖先と言える存在です。

原作コミックのヒントとなっただけでなく、コミックの中でも「ゾロ」を観に行った帰りに両親が殺されるという悲劇がバットマンの誕生譚として描かれることになります。コミックのルーツと同様、劇中でもブルースはゾロをヒントにしてバットマンを生み出します。

 

「怪傑ゾロ」は何しろ人気キャラだったみたいで、1920年の「奇傑ゾロ(The Mask Of Zorro)」を皮切りに、1959年代までに7作品が作られています。

その後、やや下火になりますが、1975年に「アラン・ドロンのゾロ」、本作に登場した1981年の「ゾロ」、更にアントニオ・バンデラス主演の1998年の「マスク・オブ・ゾロ」、その続編である2005年の「レジェンド・オブ・ゾロ」と、定期的に新作が作られ続けています。

 

暴動を受けて、この映画館からも人々が続々と逃げ出しています。トーマス・ウェイン夫妻とブルース少年も、その中にいました。彼らは裏通りへ逃げていき、そこでピエロマスクの男に襲撃されることになります。

ブルース少年の目の前で、父トーマス・ウェインと母マーサが行きずりの強盗に撃ち殺される…という悲劇は、「バットマン」の物語の発端となる重要エピソードとして、これまでの映画でも繰り返し描かれています。

「バットマン」(1989)では、ジョーカーがブルースの両親を殺した張本人だったことが判明します。

「バットマン ビギンズ」(2005)では、オペラを観た帰りに悲劇が起こります。

「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」(2016)でも、裏通りの悲劇はきっちり描かれてブルースのトラウマになっています。

 

というわけで、表通りでジョーカーが華々しく誕生している一方で、裏通りで密かにバットマンが誕生している…というシーンになっています。

ここも、ヴィランとヒーローの立場が表と裏に逆転しています。

 

ところで、このシークエンスの間、アーサーは気を失っています。このシークエンスそのものが、混沌としたアーサーの意識の中の出来事であるという可能性があります。

というのは、後にアーサーは見ていないはずのこのシーンを「回想」しているからです。

ジョーカーの誕生…?

アーサーはパトカーの上で目覚め、その上で立ち上がります。暴動の参加者たちが彼を取り巻き、ヒーローのように讃えます。

ジョーカーを取り囲み仰ぎみるピエロマスクの男たち…は後の映画での「ジョーカー一味」を連想させますが、ここではまだそんな関係ではない。アーサーはただ祀り上げられているだけに過ぎません。

 

それでもアーサーは満足そうです。歓声を浴びて、彼はパトカーの上で踊ります。

血を口の左右に塗り広げて、彼はハッピー・フェイスを作ります。冒頭の、指で口角を押し上げる場面と呼応したシーンです。

ヒース・レジャーのジョーカーにも似た、つり上がった「笑顔」を持つジョーカーの顔がここに完成します。

 

「バットマンのジョーカー」を前提に考えるなら、彼はここに爆誕しここで周りに集ったピエロの仮面の男たちを手下として、これ以降ゴッサム・シティを恐怖に陥れる悪の帝王として君臨していく…ということになります。

バットマンの時代がやってくるのはまだ10年以上先で、ジョーカーはそれまで一人寂しく悪を行うことになりそうですが。

そういう物語……なんですが、それはもはやアーサーとは関係ない存在と言えそうです。手下を引き連れて(個人的な理由でなく)社会的な悪を行なうなんて、ここまで見てきたアーサーとはまるで接点がないように見えます。

 

ここで描かれたのは、要するに「そういうジョーク」なんでしょうね。

アーサーが思いついた、ジョーク。

「心を病んだ孤独な男」が「悪の帝王」になって人々の喝采を浴びたりして…というジョーク

現実のアーサーは、こんなところにはいない。全然別の、白い部屋にいるんですね。

白い部屋

というわけで、現実のアーサーは緑の髪でも白塗りでもハッピーフェイスでもなく、精神病院の面接室にいて、ソーシャルワーカーと向かい合っています。

またタバコを吸っていて、また笑いの発作に襲われています。

時刻はまたしても、11時11分

これまでとの違いとしては、アーサーの手に手錠があることです。

 

アーサーは、トーマス・ウェイン夫妻が殺され、ブルースが取り残されるシーンのビジョンを見ます。

彼はそんなシーンを実際に見てはいないはずですが。

「ジョークを思いついた」とアーサーは言います。つまり、このシーンもアーサーが思いついたジョークであるということですね。

「目の前で両親を殺された孤独な少年」が長じて「コウモリ男」になって、悪の帝王と戦ったりして…というジョーク

みんなが知っているバットマンの物語は、アーサー・フレックという心を病んだ孤独な男が、白い部屋で思いついたジョークだった!ということになります。

それが、僕らの知ってるバットマンの物語のことかどうかはともかくとしてね。このアーサーの世界、1981年なのにバットマンのコミックが存在しないらしい世界では、そうだということです。

 

コメディアンになることが、子供の頃からのアーサーの夢でした。

みんなを笑わせ、楽しませ、ハッピーにしたいと思ってきた。

ある意味で、彼はその夢を叶えているのだと思うんですよ。「面白い物語(ジョーク)」を思いついて、それを彼自身の内面というシアターで上映する。そういうことができるようになったわけだから。

面白いジョークの世界に生きていれば……現実がどんなにみじめで、辛くても……とりあえずハッピーだから。

 

トッド・フィリップス監督はインタビューで、最後の病院での笑いだけが、アーサーの本当の笑いだと語っています。それ以外の笑いはすべて、苦しい病気の発作であったり、作り笑いであったり、悲しさや辛さを覆い隠すための仮面の笑いだったわけです。

アーサーはこれまで、いろんなジョーク、いろんな物語を「思いついて」きました。拳銃一つで世間のヒーローになっちゃうジョークとか、美人のおとなりさんとデートするジョークとか、テレビ司会者を殺すジョークとか。

どれもこれも、どうにも上手くいかなかったけれど、最後に来ていよいよ本当に「面白い」と思えるジョークに辿り着いた。

だから、本当の笑顔になれた……ということでしょうか。

 

ただしその物語は、彼専用の、彼一人だけが楽しむことのできる物語なんだけど。

ソーシャルワーカーが「思いついたジョークを聞かせて」と頼んでも、彼はバッサリと切って捨てます。

「お前には理解できない(You wouldn't ger it.)」と。

 

だから、やっぱりこれは…最後まで、喜劇だし悲劇なんですね。

辛い現実に耐えかねて、妄想の中に逃げ込んで、もうその中でしか生きられない。そんな悲しい男の悲劇

現実は全然違うのに、妄想の中のあれこれを現実だと思って、楽しそうに踊ったり笑ったりしている、変な男の喜劇

ジ・エンド

「ザッツ・ライフ」に合わせて踊りながら、廊下に出てくるアーサー。

一見何もないみたいだけど、その足跡は赤く染まっています。

ぺたぺたと続いていく真っ赤な足跡。廊下の向こうに消えたアーサーは、やがて看護人に追われて右に左に逃げ惑います…。

 

映像からは、アーサーがソーシャルワーカーを殺し、その血を踏んで逃げ出してきた…ように見えます。

でも、これにしたって本当かどうか怪しいですね。赤いのは血じゃなくてペンキかもしれないし。これ自体がアーサーの悪ふざけ、ジョークかもしれない。またピエロのドタバタ走りしてるしね。

 

さらに言えば、このシーンこそが「お前には理解できない」ジョークだったかもしれないわけで。

もはや、何が現実で何が妄想かなんて区別できない。アーサー自身にとっても、もう違いなんてないのかもしれない。

どっちの世界に生きるにしろ……。

 

……というような解釈に辿り着いてしまいました。やっぱり、「みんな妄想だった説」が近いでしょうか。

アーサーが母親と暮らしていて、ピエロをしていて、いろいろと上手くいかなくて……という日常生活の描写自体は、基本的に現実だと思うんですが。そこまで全部妄想だと、ソフィーとのことが妄想だったと気づくシーンが意味がわからなくなっちゃいますからね。

でも、地下鉄殺人、トーマスとの対話、テレビ出演、マレー殺し……といったあたりはほぼ妄想じゃないでしょうか。

ペニー殺しとランドル殺しはどうかな…。この2つは、事実だった気がする。拳銃を使ってないし、なんか生々しさを感じるんですよね。……って、いうほどの根拠はないけど。

この2つの殺人を原因として、アーサーは逮捕され、再び過去に収監されていた精神病院に収容された。というのがラストシーンなんじゃないのかな。

 

「妄想」と言っちゃうと「夢オチ」みたいで、つまらないと受け取る人もいるみたいですけど、僕はこの辺が全部妄想でも本作の価値が見劣りするとは感じないです。

人にとって、何が夢か現実かは主観的な問題だから。何が善で何が悪か、何が笑えるか、笑えないかと一緒でね。真に迫った妄想の中で生きるなら、それは別に現実を生きているのと何も違いはない……のかもしれない。

映画が作り物だから価値がない……わけではないのと一緒で。

映画「ジョーカー」の中で我々が見たことはすべて、アーサーにとっては主観的に経験した「事実」なんですよね。

その主観の中での、アーサーの喜びや悲しみ、愛や憎悪や怒りや苦しみはやはり鮮烈に感じられるし、我々の心を動かすものに違いはないと思うのです。

 

…という解釈にしても今回はたまたまそこに辿り着いただけで、また観れば別の解釈になるかもしれません。

悲劇でも喜劇でも、現実でも妄想でも、見る角度によっていかようにも変わる。ザッツ・ライフ!ってところでしょうか。

 

 

 

 

 

ダークナイト・リターンズ収録の原作コミック。

 

 

シナトラ・バージョンの「センド・イン・ザ・クラウン」がエンドクレジットで流れます。