You Were Never Really Here(2017 アメリカ)
監督/脚本:リン・ラムジー
原作:ジョナサン・エイムズ
製作:リン・ラムジー、ジェームズ・ウィルソン、ローザ・アタ、パスカル・コシュトゥー
音楽:ジョニー・グリーンウッド
出演:ホアキン・フェニックス、エカテリーナ・サムソーノフ、アレックス・マネット、ジョン・ドーマン、ジュディス・ロバーツ
①YOU WERE NEVER REALLY HERE
今回、個人的な独自解釈です。
ネタバレだし、そんな映画じゃねえよ!と感じる可能性もあるのでご注意ください。
また、「サイコ」「タクシードライバー」のネタバレも含んでおります。未見の方はご注意を。
主人公ジョーは殺し屋。ホームセンターで買った金槌1本で、どんな相手も一撃必殺! 凄腕の殺し屋です。
彼はエージェントから仕事を請け負って、汚れ仕事をこなします。殺し屋と言っても、誘拐された少女を組織売春の虜から救い出すのが主な仕事であるようです。
ジョーは年老いたお母さんと二人暮らし。介護…とまではいかないが、その一歩手前という感じです。独身中年男と老いた母親の二人暮らしという、現代社会にありがちな希望の乏しい家庭状況。でも、お母さんが「サイコ」を見たと言うとジョーがノーマン・ベイツのモノマネで笑わせたり、仲良し親子で微笑ましいです。
ジョーは新たな仕事を請け負います。上院議員の家出した娘ニーナを、売春組織から取り戻すというもの。
見張りの男を金槌で殺し、ニーナを助け出したジョーですが、事態は思わぬ展開へ。上院議員は飛び降り自殺。警官が押し入ってニーナを連れ去り、逃げ出したジョーは近しい人々が次々と殺されていくのに直面します…。
冒頭、仕事を終えてタクシーに乗るジョー。運転手はラジオに合わせて歌っています
しかし、ジョーの目には、運転手がこう言っているように見えます。
“YOU WERE NEVER REALLY HERE”(お前は本当はここにいなかった)
画面には、デカデカとその文字が示されます。
実は後で気づいたんだけど、これがタイトルだったんですね。
いや、全然情報入れずに行ったので、原題も“Beautiful Day”だと思い込んでいたんですよ。
だからなんで日本語字幕出ないのかなあ、なんて思っていたんですが。
気づかないまま最後まで観たら、エンドクレジットの最後にまた出るんですよ。
”YOU WERE NEVER REALLY HERE”と。
映画全部観てきた上で、「お前は本当はここにいなかった」ってスゴいなあ、と思って。
だから、なるほど、そういう映画だったのか…と。すごく腑に落ちてしまったのです。
後でタイトルとわかったので、最後のはただクレジットとして出ただけだと思うんですが。
でもこれ、やっぱりそういう映画なんだと思うんですよね。「ジョーは本当はここにいなかった」という映画。
それについて詳しくは、後ほど。
②狂った音響が示す狂った世界
冒頭から、激しく響く不協和音。
映画の全体を通して、狂ったリズム、ずれた音程、偏ったボリューム、やけに耳につくノイズや、逆に静かすぎる静寂など、不安感を煽る不協和音が鳴り続けています。
この映画の主役は、この音であるとさえ言えますね。主人公の心境を、映像以上に雄弁に語る音。
狂った音響が、主人公の精神が深く病んでいて、狂気の淵にあることを物語っています。
音楽を担当しているのはジョニー・グリーンウッド。ついこの間も「ファントム・スレッド」で印象的なスコアを聞かせていました。
レディオヘッドのリードギタリスト。映画音楽では、不協和音的なアンビエントがおはこになっています。
この映画、正常な時間というものがほぼないんですね。
全編に渡って、不協和音が響き、ジョーは度々過去のトラウマのフラッシュバックを見ている。
街角や駅などの日常的な光景と、現実にはない幻視とが脈絡なく切り替わる。
普通に聞こえている街ゆく人の声や車の音が突然歪み、別の意味の言葉に聞こえてくる。
関係ない人がじっと見つめていたり、視線を感じて振り向いたら誰もいなかったり。
要は、神経症患者の世界。
ジョーという人の病んだ精神を通して見た世界が、この映画なんですね。
だから全編、決して見た目通りではない。鳴っている音が現実そのままでないように。
③「タクシードライバー」との酷似
ジョーのお母さんは「サイコ」に言及しています。「サイコ」自体精神病で妄想に取り憑かれた男の物語だから示唆的です。
ですが、映画全体にとって重要なのは、「サイコ」と同様カルト的な人気を誇る別の映画です。それは「タクシードライバー」。
ニーナを助けに行くミッションでは、いかにも「タクシードライバー」的なニューヨークのネオン街の様子が描かれています。
ニーナを救出する売春宿の建物も、「タクシードライバー」でトラヴィスがアイリスを救出する建物そっくりです。
そもそも、ボンクラ男がポン引きをぶっ殺して売春宿から少女を救い出す、というプロットがまんまなんですが。
後半、ニーナを連れ去った黒幕として知事候補の男が出てくるに至って、「タクシードライバー」との酷似は極端になります。
再選を目指す選挙事務所の様子からして、そのまんま。
ここに至って、観ている方もなんだかおかしいぞ…と思い始めます。
「タクシードライバー」では、トラヴィスは「大統領候補の暗殺」と、「売春宿からの少女の救出」の2つの目的を持って行動します。
彼にとってその2つはただ「積もり積もったルサンチマンの解消」であって、前者に失敗し、後者に成功したのは「たまたま」でしかないのですが、彼はその結果英雄として祭り上げられることになります。
トラヴィスが政治家を殺そうとするのはトラヴィスの狂気の表れであって、正当性はかけらもないのですが、本作においてはジョーが政治家を殺そうとすることは正当化されています。何しろ少女買春マニアで殺人の黒幕という完璧な悪人ですからね。
「タクシードライバー」における無関係な2つのプロット、政治家暗殺と売春宿を繋げている。
この展開は、要するに「ジョーにとっての理想のタクシードライバー」なんじゃないでしょうか。
主人公が狂人でなく真の英雄である、彼にとって望ましいタクシードライバー。
タクシードライバー(1976)予告編
④タクシードライバー妄想
「タクシードライバー」といえば、今やボンクラ男の聖典と言えます。
学もなく女もいない何の取り柄もない童貞男が、悪い奴をブチ殺して美少女を救い出し、英雄になる。
真面目に勉強して働いて金を稼いでカッコよくなって…というのではなく、ただ自分の鬱憤をぶちまけるだけで大事を成し遂げるという、努力を嫌い棚ぼた式の成功を夢見るすべてのボンクラにとっての夢。
つまりこの映画は、何者でもないボンクラ男ジョーの、「タクシードライバー」になぞらえた妄想に他ならないのではないでしょうか?
そういう視点で見直してみれば、ジョーの無敵の「凄腕の殺し屋」ぶりはいかにも不自然でリアリティがない。
特に作戦もなく正面から乗り込んでいって、ホームセンターで売ってる金槌1本で屈強な相手も倒してしまう。
政治家のボディガードもいとも簡単に倒してますからね。でもジョーの様子を見ても、そんな強いようにも、鍛えてるようにも見えない。
トラヴィスはまだしも筋トレしてましたけどね。ジョーはそんな努力もしてる様子がない。
過去のフラッシュバックを見ても、軍で特殊な戦闘力を身につけたとか、すごい殺し屋になれる要素は特に見当たりません。
ジョーが金槌で敵を倒すシーンは、実は映画の中で一回も直接的に描かれていません。
売春宿のシーンでは白黒の監視カメラ越しの映像でよく見えないし、他の場合も映すのは既にやられて倒れてる死体だけ。
つまり、ジョーが凄腕の殺し屋である実際のシーンは、ことごとく誤魔化されているんですね。
それに、ジョーの行動は常にすごく雑です。
なんかあちこちに証拠とか証人残してるし、警察の捜査を欺こうとする形跡がほぼ見えない。
そもそも、売春宿での一部始終は監視カメラに撮られてる!のですよね。こんなん、一発逮捕やん。
こんなんで、これまで逮捕されずにやってこれたとはとても思えない。
有力な政治家の家なのに、セコム一つないとか。どんなに証拠を撒き散らしても、逮捕されることは決してないようです。
殺しの仕事を仲介して金をくれる連絡役が、近所の小さな雑貨屋のオヤジであるというのも考えてみれば変ですね。
そんな「映画みたいな」秘密組織のはずなのに、舞台は独身男の日常の行動範囲の中にこじんまりとまとまっている。
そんなふうに見ていって思い出したのは、最近の映画「アイ,トーニャ」に登場した妄想童貞男ショーンです。
客観的には両親と同居してお菓子ばっかり食っている童貞デブなんだけど、本人の中では「特殊部隊で活動した経験を持つ凄腕エージェント」のつもり。妄想なんだけど本人は本気でそう信じ込んでいて、周囲にそんな言動を撒き散らしています。
「アイ,トーニャ」はコメディだったので、ショーンの有り様は面白おかしく描かれていましたが、でもこれって本人にすれば笑い事じゃないはずです。
本人は至って真剣なのに、周囲は理解してくれない。主観的な世界と客観的な世界が分裂してしまって、彼の体験している世界は大変な混乱の中にあるはずです。
ジョーもショーンも、親と同居している独身でデブ、という点でとてもよく似ています。
ジョーの有り様というのは、要はショーンのような人をコメディ色を排して、彼の妄想の側から描いたものなんじゃないか…と。
⑤ラストシーンの意味
ラスト、ニーナを救出したジョーは、ダイナーにやって来ています。タクシードライバーでトラヴィスとアイリスがやって来たような、日常的な安いダイナー。
ニーナが「これからどうするの?」と聞くと、ジョーは絶望的な気持ちになります。彼には、これからどうするのかさっぱりわからないから。
なぜって、「タクシードライバー」はそこで終わりだから。少女を救出したら映画も終わり。その続きはない。
だから、ジョーにはその先どうしていいかわからない。
絶望したジョーは、ニーナが席を立った隙に、おもむろにピストルを出して頭を撃って自殺します。
飛び散る脳漿、溢れ出る血。
でも、周りの人は誰一人騒ぎません。顔に血を浴びたウエイトレスは平然として、ジョーのテーブルに伝票を置いていきます。
ニーナが席に戻ってくると、ジョーはただテーブルに突っ伏していただけで、血は消えています。
彼が自殺したシーンは、本当ではなかった。
ということは……自分を撃ったシーンが現実じゃないということは、他人を撃ったシーンだって同じなはず。他人を金槌で殴るシーンも同じ…。
自殺シーンとまったく同じに、この映画で描かれた様々なシーンのほとんどは、ジョーの脳内の出来事だった。そういう着地が可能になるわけです。
ニーナも存在しないんでしょうね。冒頭、ビニール袋をかぶってジョーが自殺しようとするシーンから、彼女は出現しています。この時点でジョーが彼女を知っているはずはないのだから、彼女もまたジョーの脳内のキャストであるということになります。
ニーナがジョーと同じく、数を数える癖を持っているというのも、ニーナとジョーが同一であることを示しています。考えてみれば、そんな偶然あるわけない。
ニーナはそれこそ、アイリスなんでしょう。
ジョーは妄想の中で、少女時代のジョディ・フォスターとデートしているのです。
映画の中の何が現実で、何が妄想だったのか。
ジョーに仕事を斡旋するマクリアリーは何者だったのか。「仕事を斡旋する人」の部分が現実で、仕事の中身は妄想か。
そうするとジョーに金を払う雑貨店の店主は、ただ彼に給料を払ってくれていたのか。ジョーはこの店で働いていて、妄想が高じて辞めてしまったのか…。
いろいろと想像するのも楽しいです。
お母さんとのシーンでわざわざ「サイコ」が言及されているのも、そうなるとますます意味深ですね。
「サイコ」は既に死んでいる母がまだ生きていると、息子が妄想する話だから…。
母親の死体を湖に捨てに行くジョーですが、母親は実際はいつ、どのようにして死んだのか…。
冷蔵庫の食品が腐っている、というのも伏線だったりして。
母親との親密な関係を軸に、ジョーの精神は過去のトラウマと繋がっています。
断片的に描かれるそれは、どうやら父親による虐待。
ジョーの体が傷だらけなのも、母親の精神が不安定なのも、父親による過去の虐待が原因になっているようです。
つまりこの映画は、児童虐待がいかに長年に渡って、人間の一生に破滅的な影響を与えるか、それを告発した映画であるとも言えます。
自身が幼少期に虐待を受けたからこそ、ジョーは少年少女への虐待を許すことができない。
少女を金で買うような卑劣な奴は、ブチ殺してやりたくて仕方がない。
だからこそ、彼は「タクシードライバー」に激しく入れ込んだのでしょう。
自分自身のトラウマに起因する、児童虐待への激しい怒り。でも無力な一般人である彼の正義感は、妄想にしかはけ口が見出せないのですね。
⑥ラストシーンの向こう側
ニーナが「いい天気よ(Beautiful day)」と言って、ジョーとニーナはダイナーのテーブルから消えます。
映画は、誰もいないダイナーのテーブルを映して終わります。初めから誰もいなかったように。
ジョーとニーナの物語はジョーの妄想だったから、彼らは本当はここにいなかった。初めから。
タイトル通りの状況を明示して、映画は終わる。
それでもこのラストにちょっとだけでも希望を感じるのは、「ジョーが妄想を脱した」という結末にも見えるからでしょう。
「タクシードライバー妄想」を最後までやり切って、とりあえず彼は妄想から脱した。
妄想の中でニーナが示した希望を彼が感じているなら、ジョーは今度は現実世界で前向きに生きることができるかもしれない…。
という解釈も、数ある一つに過ぎないわけですが。
彼はまた別の妄想に移って、ニーナと逃避行を続けているのかもしれない。
今度は「ペーパー・ムーン」でしょうか。「俺たちに明日はない」だったりして。
以上、個人的解釈でした。
多様な解釈を許す映画はとても面白いです。いくらでも妄想を広げたくなります。
これが唯一の解釈とは思いませんが、伏線はいろいろはられていると思います。皆さんもそれぞれの解釈を考えてみてはいかがでしょう。
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