:引用
〔 口頭説明 〕 分析的知性が統一性の観察に赴くとき、知性はすでにして同一性を超え出ているのであって、目の前にあるのは、あれとこれとはちがうというかたちの区別です。「海は海だ」「空気は空気だ」「月は月だ」、というとき、海、空気、月はたがいに無関係なものとしてあるから、わたしたちの前にあるのは同一性ではなく区別です。が、わたしたちは物をたんに異なるものと見るだけにとどまらず、たがいに比較し、比較によって、「等しい」と、「等しくない」という規定を獲得します。有限な学問の仕事は、この規定の応用が大きな部分をを占め、今日、学問的な手続きといわれる解きは、主として、観察される対象を相互に比較する方法を意味するのが普通です。こうしたやり方で多くのきわめて重要な成果が達成されたことは、見のがしてはならないことで、その点でとくに目につくのは、比較解剖学や比較言語学の分野であげられる近年の大きな業績です。けれども、比較の方法でもって認識のすべての分野で同じような成功が得られる、と考えるのは行きすぎだといわねばならないし、のみならず、たんなる比較をもってしては学問的要求が最終的に満たされることなどありえず、上にあげたような成果は、真に概念的な認識に向けての(たしかに不可欠ではあるが)予備的な作業にすぎないことが、とりわけ強調されねばなりません。
『論理学』 ヘーゲル 著 長谷川 宏 訳 作品社 266~267頁
例によって、ヘーゲルの科学思考批判であるが、この真意はなかなか伝わらない。
前回わたしは次のように書いた。
引用
分析的知性は「犬は猫とは等しくない」と判断する。だが「犬も猫も動物である」という場合は「動物」という媒介を介して「等しい」といういいかたがあって犬にも猫にも「動物」という本質が抽出される。
わたしたちの日常はどちらかというと分析的思考にまみれていて、とても「本質」から隔離されている。数学の世界では、犬一匹であっても猫一匹であっても、「1」という数に収斂するよう思考を導く。数学の抽象性は哲学への架け橋であるともいえる。
当ブログより
①「犬は猫と等しくない」と②「犬も猫も動物である」 といういいかたは「犬」「猫」「動物」の三項関係によって、①と②を矛盾率におとしめている。よってヘーゲルによれば①②は、区別という事になる。比較は区別の延長だが、同一性とはを抽出するのがまた科学の方法で、それをヘーゲルも認めており、「本質」に値する事実を摘出する。②は①の区別を下敷きに発見される「類」の本質であって、たしかに不可欠ではあるが、とヘーゲルも念を押している。
真に概念的な認識に向けての(たしかに不可欠ではあるが)予備的な作業にすぎないことが、とりわけ強調されねばなりません。
ヘーゲルは『論理学』の三篇構成を「存在の論」「本質の論」「概念の論」に章立てしいるが、これは各編の独自性に基づいて叙述しているという事を示していない。むしろ三篇は「発展的」に展開されておいる。厳密ではないが、ヘーゲル弁証法の過程ををふむ。
引用
日常の意識は、物を存在するものとしてとらえ、その質、量、限度量を観察します。そこに見てとれる直接の規定は、不動の規定ではなく
移りゆく規定であって、「本質」のもとでは、本質そのものが関係します。(存在の領域では)「なにか」が「他もの」になると、「なにか」は消滅します。「本質」ではそこがちがう。ここでは本当の「他」は存在せず、あるのはただの区別、一なるものが自分を他として関係するという関係です。本質の移行は、同時に、移行ではない。あるものが他のものに移行するといっても、あるものが消滅するこはなく、二つのものがともに遇って関係しているのですから。たとえば「存在」と「無」というとき、存在も無もそりぞれ独立に存在します。が、「陽」と「陰」となると話はまったくちがう。二つの存在は、無の規定をもつが、陽は陽だけでは意味をもたず、陰との関係のなかで陽であるしかない。陰についても同様です。「存在」の領域では関係は潜在的なものにすぎず、「本質」においてそれが顕在化される。そこに存在の形式と本質の形式とのちがいかある。坂財のもとではすべてが直接的だが、本質のもとではすべてが相関的です。
『前掲』 250頁
これは今対象としている第2編「本質の論」に先立つ、第1篇「存在の論」の最後の叙述で。 このブログ記事のヘーゲル『論理学』を遡っていて、§111の後半の記述である。「陽」と「陰」は、存在の論の過程で、「存在」と「無」という対立過程が最後に到達し、「本質の論」への架け橋として位置づけられる。
すなわち、ヘーゲルの章立ては、独立に孤立しておらず、重層的に篇と篇が浸透しあっていると見るべきであろう。
最初に引用した「区別」や「同一性」に対する議論は、なるほど本質の論の入り口であろうが、いまだ存在の論の延長でもある。
上にあげたような成果は、真に概念的な認識に向けての(たしかに不可欠ではあるが)予備的な作業にすぎないことが、とりわけ強調されねばなりません。
注目すべきは、「真に概念的な認識に向けての」という言葉で、実はこの段階で論理学の到達点たる第三篇「概念の論」に全編が向かっていることを示唆しているということです。
引用
本質は客観のうちに設定された概念である。本質のもとにある規定は相関的であるしかなく、その反省は徹底性を欠いている。だから、概念が「自分とむきあう」ところまで行っていない。本質とは自分を否定する力によって自分と媒介の関係に立つ存在なのだが、そこでの関係は、他との関係であるかぎりで自己との関係であるような、そういう関係である。そこで他は、直接に存在するものではなく、設定された他、媒介された他なのであるが。
存在は消滅したものではなく、自己と単純に関係する本質は、まず存在である。たが、他方、直接そこにあるという一側面をもつ存在は、いまや、たんなる否定的な存在へと格下げられ、「外見」となっている。本質は、自分のうちに自分を映しだす形で、外見をかかえこむ存在である。
《注解》 「絶対者は本質である。」― この定義は、存在が単純な自己との関係であるというかぎりで、「絶対者は存在である」という定義と同じものである。が、同時に「絶対者は本質であるという定義はより高度なものといえるので、というのは、本質は自分へ還ってきた存在であり、その単純な自己との関係は、否定の否定として設定された関係であり、自己内で自分との媒介の関係だからである。
ところが、絶対者が本質と規定されるとき、そこに働く否定の力が、限定された述語をすべて捨象するという意味にしか解されないことがしばしば生じる。捨象という否定の行為が本質の外からやってきて、本質をなりたたせるさまざまな条件を奪いとるため、本質そのものは単なる結果だけのもの、抽象の果ての残りかすとなる。が、否定の力は存在の外にあるのではなく、存在そのものの弁証法運動であって、存在の真理である本質は、自分に還ってきた自分に安らう存在である。直接の存在と本質をわかつのは、自分のうちに自分を映しだす反省の力であって、反省の作用は本質のに特有の規定である。
本質は客観のうちに設定された概念である。本質のもとにある規定は相関的(自分と他者の比較において、自分を固定して自分にしがみつき、他者を自分に対する単なる否定的存在としてつき放つような関係)であるしかなく、その反省は徹底性(他者が自己を否定する要素を自己の反省の契機として取り込む姿勢)を欠いている。だから、概念が「自分とむきあう」(否定の否定として否定体を自らに取り込む)ところまで行っていない。本質とは(存在とは違って)自分を否定する力によって自分と媒介の関係に立つ存在なのだが、そこでの関係は、他との関係であるかぎりで自己との関係であるような(他は媒介として自己のための他であってそこにある単なる自己に対する否定体ではないが、自己を他者を否定する単なる存在と捉える)、そういう関係である。そこで他は、(本来は、つまり概念に到達するには)直接に存在するものではなく、設定された他、媒介を経た他なのであるが。
存在は消滅したのではなく、自己と単純に関係する本質は、まず存在である。だが、他方、直接そこにあるという一側面をもつ存在は、いまや、たんなる否定的な存在へと格下げられ、「外見」となっている。本質は、自分のうちに自分を映しだす形で、外見をかかえこむ存在である。
『論理学』 ヘーゲル 著 長谷川 宏 訳 作品社 254頁
赤字はわたの補筆
当ブログより
これは、第1篇 本質の論の最初の§112の書き出しで、早くも三篇の過程の連続性を覗うことがができる。
「区別」「同一性」「分析的知性」という言葉の意味合いが、わたしたちの日常のそれらの言葉の使い方とは違い、ヘーゲル自身は「論理学」全体の過程の中にこれらの言葉を使い分けようとしているのだが、一方叙述の途中でヘーゲルがこれらの言葉の日常的な使い方を用いることもあって、ゆえにヘーゲルを読むことは至難の業というほかない。
余談とおことわり
わたし自身も、ここでわたしのブログから引用している「哲学総論 つれづれ 37」のヘーゲル『論理学』§112の冒頭に与えているわたしの「赤字の補筆」において、ヘーゲルの用語使用の精査に不十分なところを認める。「哲学総論 つれづれ」の連載をはじめて2年になるが、最初の頃に書いたわたしのブログ記事の内容を、すべて自分で記憶しておらず、この記述の矛盾は、この連載終了後に再吟味し、再構成、再校正するつもりである。
余談終わり
それはともあれ、第1篇最後と第2編の最初が、存在の論と本質の論を章立てとして隔てられていながら、叙述として相互に浸透しあい、発展の過程を歩みつつ、第三篇を予告しているのである。
ヘーゲルの叙述にもどると、ここの記述で、本質をめぐる過程で、同一性とか区別ということを問題としているが、これは二つのものの存在を前提としているように見えるが、そこに自己と他者という二つのものの位相を持ち込みつつ、それを思考する「外なるもの」を想定する重層構造を作り出している。「外なるもの」とは「個人」の意識ではなく、それを外から判断しようとしている主観の中に現象する区別されたものの認識をいっていて、しかも区別された二つのものの双方を相関しつつ、それぞれの現象が他者を媒介して自己に帰り、自己の否定体として他者を承認しない段階に終わるのが本質であると述べている。二つのものという措定自体が、具体性を帯びた独立のものではない。
二つのものとは「犬と猫」ではなく、どちらにも介在する「外なるもの」からみて、「犬の現象(自分を映しだす作用の発展したもの)」と「猫の現象」(映しだす媒介)を比較して、とりあえず「等しいもの」と「等しくない」ものを抽象する貧困な判断を批判的に語っている。この場合注意なければならないのは現象は、犬の意識に現れているのではない。犬と猫を区別する人間の意識に現象する思考のありようを語っているのである。
論理学が思考の担い手を目指すとしても、思考は個別人間の意識の活動で、AとBを相対化する主体は人間の意識である。日常的な意識または分析的知識に対する「批判」というヘーゲルの態度は、『論理学』がやがてヘーゲルが「エンティクロペディー」の最後に語る『精神哲学』を導出するものとして位置づけられている。
「外なるもの」とはわたしたち主観的判断の「不確実性」を示し、しかしその「不確実性」の克服を目指すためには、思考そのものの吟味が必要となる。よって「犬は犬」「猫は猫」というわたしたちの判断は、大変貧弱で貧しい判断で、そこに本質は到底見出されない。
この場面では、ヘーゲルは背景としてアリストテレスの『自然学』の批判的態度にじませ、その批判的検証が見受けられ、つづく「円の正方形化」の議論にそれは示される。
続く