哲学総論 自然哲学 自分の記事の向かうところ(後編) | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

5. 語学がわたしにもたらしたもの 論理学の限界

 

 大学を出てから、社会人となったわたしは哲学を放棄せず、56歳の今でも鍛錬を続けている。

 

 わたしは語学が得意で、英語のみでなく、ドイツ語。イタリア語にも手を伸ばしたし、哲学科では「古代ギリシア語」の講義にも出ていた。そこてわたしが実感したのは、古い言語ほど「主語が抜け落ちる」とい現象であった。これはラテン語などに顕著で、「活用」の多さでまかなわれる。動詞、名詞の活用が抜け落ちた主語の「人称」「格」「時制」などを示していて、主語が単語として示されなくてもわかる、という事である。

 

 論理学は「思考が思考の前提として従う前提」の学であるとされるが、考え行動しているわたしたちは、論理的に思考を働かせながらも、その判断は人それぞれである。

 哲学において、常に問題となる「主体と客体」「主語と述語」「意識と対象」という問題は、たとえば「主客同一」という言葉で説明されていたり、ヒュームのような懐疑論は、「客体到達不可能」を説いたりもする。

 

 「主観」の介在と「論理学」の関係は、わたしには大事な始点であったが、言語の中に、わたしたちの日常が「論理学」の一定の影響を受けていることは認めても、意識はもっと自由であり、それが想像であるし、創造でもある。それこそ「神を信じる」という想像は「神を主語に置く」が、「神を創り出す」という意味では「人間(の無限者の意識)が神を造る」のであり、この場合わたしたちは「主語」である。

 

 神ではなくて。非宗教的に「本質」という言葉がある。

 

 A=B という時、人は「本質」を語ろうとしている。

 

 この、SVC構文のみを受け入れる言い方は、実は 

 

 A=Bと「わたしは考えている」が正しい。つまり人の主観的判断が媒介している。

 

 したがって、Aという対象の補語(述語)を判断している意識の側の中で対象が現象する。この関係が問題だと気がついた時、わたしは本格的にヘーゲルの『精神現象学』に向き合うようになることができた。30歳頃である。古い言語の「主語の抜け落ち」はむしろ「論理学」を成立せしめるヒントでもあった。

 

 語学に向き合う時に、わたしは新しい境地に達したと思う。ちなみに英語は特に、わたしたち日本人の日常会話がいかに「主語、述語の抜けまくり」であるかを自覚させてくれて、英語に取り組むことは「日本語への反省を促す」という事にも気がついた。

 

6. 論理学、自然哲学と音楽

 

 わたしは幼少よりピアノを習っていて、今年で54年目です。過去11人の先生に師事し、そのうち7人はもうこの世には生きていない。そのほかフルートを奏で、声楽もつづけ、作曲もする。

 

 哲学には「美学・芸術論」というのがあって、音楽という感性的なものに対してこれを哲学を関連付ける時に、「論理学」や「自然哲学」まして「神存在」と音楽は無縁だと思い込んでいた。

 よって音楽への哲学的探求では、カントの『判断力批判』やバウムガルテンの『美学』、ヘーゲルの『美学』ばかり読んでいた。

 

 転機は、高校時代に音大を目指して勉強していた「楽典」にもう一度向き合った35歳のころ、「音階の物理学的な背景」を意識しだした頃である。

 

  引用

 

 

 

    4.(引用記事の番号)世界と認識の架橋としての自然哲学

 

  ① (存在論)論理学と自然哲学

 

 自然哲学が必要なのは、存在論が、有、量、質、類など存在一般の抽象概念を扱うのに対して概念の具体性への移行を自然を介して果す必要があるからで

 例えば 

 有=元素=水=酸素、水素

 量=定量=密度=質量

 というように、抽象から具体概念に移行する世界の対象的具体性の獲得です。

 ところで自然哲学の内容の中には、存在と思考の同一性を証明するような事項が出てくる

 

 難しい話にしないと宣言しておいてもやはり難解となっていますがここからは具体的で判りやすいと思います。

 いまから述べることは、対象と思考の同一性ということであり、デカルト的二元論の克服への糸口だと思っている。

 

 ② なぜ人間が音階を心地よいと思うか。

 

 (1)  音の無限 

 

 音というのは、天然界に無数にある。もちろん人間の感性である聴覚には限界があってある一定の周波数の領域以外は聞き取れない。

 

 (2) 音は、聴覚と触覚で捉えうる

 

 また音というのは、空気を媒介にした音源からの空気の振動(周波数)であるから、例えばロック音楽を大音量でスピーカーから流すと、耳ではなくて全身で空気の震えを感じるということがある。だから聴覚以外に触覚でもとらえることができる。

 

 (3) わたしたちの音楽は音を12に限定している

 

 音楽、音階というのは無限にある音の高さのうち、使う音程を12音に限定する世界である。(下記「鍵盤図」参照)

 

 (4)  音程の倍数 1.0594

 

 以前も述べたが今日は難しい数式は使わないが、計算式は、2の12乗根が下の鍵盤の線の差です。Cに1.0594をかけるとC#になります。C#に1.0594をかけるとD。Dに…と言うように半音の差はすべて同じ比率となる。

鍵盤図

 

  鍵盤図の2音、すなわち、CとC#の間の飛躍が、2の12乗根という

 1.0594ではなく、1.05だとその音階は人間にとって「心地よくない」ことになる。音の倍数を1.05にする音階では人間には美しく聞こえないのです。

 

音程と音程の計算式

 

 ピタゴラス音階では、D音(「レ」ナチュラル)を基準とした場合、上の一覧と鍵盤において①と⑦すなわち「A♭」と「G#」は鍵盤上同一音だが、音程の計算式の結果は異なる。実際「A♭」を省いて「E♭~G#」で音階を構成すると「A♭~G#」より全音×約1/8短くなる。純粋なハーモーニーを維持しようとした際、どこかに他の飛躍より半音×1/4の飛躍をしのばせることが必要になり、その位置は自由だが、必ず他の五度音程より短い音程が入り込み、そこだけよい響きが得られない。これを「ウルフ(狼のうなり声から)の五度」と言います。

 詳しい話は省くとして、バッハが『平均律クラヴィーア曲集』全24曲(2巻あるが)を書いたのは、実は上記の誤差を平均化して、同飛躍の音階に均した(ならした )上で、響きが音楽足りうるかを実験したということです。

 今日わたしたちが使っている音階は、純粋な共鳴によるピタゴラス音階や純正率に比べて、ほんの僅かだが濁っている。しかし転調や楽器の重ねあわせを考えるとこうするしかないのです。

 

 (3)  長調と短調

 

 なおかつ1オクターブを14ではなく12で割って、

    全―全―半―全―全―全―半 が楽しげに長調

    全―半―全―全―半―全―全 が悲しげに短調

 聞こえる。

 クロード・ドビュッシーのように、全音階(全ー全ー全ー全ー全ー

全)という不思議な音階による音楽(『前奏曲集』を聴くと良い)もありますが、わたしたちが学校で習うのは一般的な長調と短調です。

 

 さてここからが「自然哲学」です。

 

 音というのは、人間がこの世界に現れる以前からあったものであるということです。

 仮に宇宙空間のような真空のところで、星と星がぶつかったとしても「無音」なのは、その衝突した場所の回りに気体や液体がないからであって、衝突により両者の保持していた物質はそれそれ振動している。よって衝突が無音ではなく、離れた場所へ伝わる媒介がないだけの話です。

 地球上には空気や水があって、物と物、物質と物質がぶつかり合えば必ず音が鳴ります。ただし物質任せの音は、音階の様な選択され、限定されたものではない。

 物質に生命が宿っても、多細胞生物に発展して口やのどや肺を持たねば音を発することができない。例外は足音とか羽ばたきとかだが、鳥はすでに「声」を持っている。

 

 だが人間が見つけ出した音階の不思議というのは次のようなことであると思う。(音階は人間が作ったものではない。自然の中から取り出したに過ぎない。よって「発見」である。)

 

  1)  地球上のあらゆる各地の古代からの音楽の音階は、このピタゴラス音階の共鳴を「美しい」と感じてきた証拠がある。

 沖縄音階は、ピタゴラス音階から「レ」「ラ」を取り除けば良い。中国音階は「ファ」「シ」を取り除けば良い。全世界の音楽が、西欧音階へと繋がるように歴史的に発展してきた。これはいつの時代も、どんな人間にも、自然の「共鳴」という法則に合致した音階を美しいと思う共通の感性があるということになる。

 

 2)  短調と長調に対する印象も、全世界、全人類共通の心証であるし、また協和音、不協和音というものに対する心証も共通している。おそらく途中に半音が混ざるのが心地よいのは、われわれの世界が「非対称」であることで存在を確定させていることに関係する。宇宙の始まりは「対象性の揺らぎ」であるからだ。もし対象図形として最も美しい円周率を解ききってしまうと「宇宙」が終わるのだとも思う。

 ちなみに、ジョンウォリスのパイの公式

 

    

 

 この分子2*2+4*4とは2の二乗、4の二乗という偶数の二乗を永遠に計算し、分母は同じく奇数の二乗ということだが、直感的には「円軌道とは偶数と奇数の歪ないし揺らぎ」ということではないかと思われ、また音階の数式について、似たような世界に思われる。

 これはわたしの直感的な思いであって中の根拠もないが・・・・

 

 3)  すでに示したのピタゴラス音階の音程表の計算式は、音楽とはまったく関係ない数学として自立的にある分数だが、その飛躍の法則性が、整然とした並び(規則的な周波数)としてある。ということはこれは物質の存在形式であって、物理法則に等しい。

 

 4)  わたしはこのブログで再三述べてきたのだけれど、「生命」も「物質」の発展形態であり、物質はわたしたちの「ふるさと」である。故に、物質が自然にあるように実現する音の形式について、わたしたち人類の心に調和した美意識を満たす音階として、全人類の共通の心証として獲得しているということは、人間が自然を理解するということは、物質自身が物質自身を理解するという過程としてあるということです。

 

 5)  よって、わたしは昨日のブログ「哲学の日に寄せて その1」において、以下のように述べた。

 

 「結局わたしが「新実在論」に加わるものであるかどうかは、わたしにもわからないが、20世紀の主流に背を向けた「体系」をめざす方に一貫してたち続けてきたのは事実です。」

 

 なぜ体系かといえば、音階のようなものが、人間が世界に現れる前から整然と法則化されて認識されるべき対象として、物の理(ことわり)として、あらかじめ自然由来として歴然としてあって、それを後から生まれてきた人類が「美しい」と思う観念に合致しているということが、人間が物質の発展として、物質の形式と法則をその思考の認識にまで高めるべき存在としてあるということを証明していると思うのです。以前も述べました。

 

 人間の認識とは、物質の最高の自己実現である、と。

 

自然哲学、論理学、認識論に音楽、音階を照合したモデル図

 

当ブログより

 

 自然の音が美しい響きを持つ。

 

 わたしはひとつの仮説を立ていて、

 

 たとえば2羽の小鳥の二重唱が美しく聴こえるのは、鳥たちには音程を採る能力はなく、音階を越えた自由な無限の音程をさえずるが、それでも12音の共鳴の法則は生きているから共鳴しない音の重なりは空間の後景に追いやられて消滅し、共鳴だけがわたしたちの耳に届く。川のせせらぎが美しく聞こえたり、海の潮の音が美しくあるのは、共鳴する音のみが空間をつき進むことができるか響きだからではないか?火山のけたたましい爆発音や飛行機が墜落する瞬間の大音響が不快なのは、共鳴しない音同士の関係を無理やり前面にする大きなエネルギーがあって、ここでは一瞬音階が破壊されるからではないのか?

 

 自然哲学は論理学と無関係ではないのです。

 

7. 意識と現象

 

  そうすると、対象を捉える認識は、対象を観念的に現象としてつかみとる時間論が支えとなる。よって「認識論」が必要で、ここにヘーゲルの『精神現象学』やフッサールを吟味して行く課題が浮き彫りとなってくる。

  しかしわたしはまだこの問題に深く踏み込めていない。

 

8. 哲学の目的、倫理  40歳の体験

 

 しかし哲学の目的が人々を救う方法論の提起にあるとすれば、論理学、自然哲学、認識論の三本立てでは過不足です。

 

 ここに引用するわたしの過去の記事は、もう4回目の掲載ですが、やはりこれがわたしが哲学する根本なのです。ご容赦を。

 

 引用

 

 勝手ながら、ここからわたし個人の体験を述べます。ご勘弁ください。

 今から13年ほど前、わたしは「派遣社員」として、ある「X工務店」の女子大学の建物改修工事の現場施工管理者として派遣されました。その現場はとても大きな現場で、施工管理の職員、事務員、施工図担当、設計など現場事務所は、ビルの3階を借り切って、50人ぐらいが働いていました。
 配属されて2ヶ月ぐらいたち、わたしはひとつの事実に気がつきました。この現場事務所のあるビルの前は、6車線道路で、(阪神大震災前は8車線だったが、直上の高速道路の補強のため6車線になった。)道路幅は50m以上あります。その国道を、毎週火曜日と木曜日の午前10時頃、必ず一人の80歳以上のおばあさんが渡って買い物に行くようでした。しかしそのおばあさんは足が衰えていて、その国道の真ん中でいったん信号が「赤」に変わってしまい、おばあさんは中央でもう一度信号が「青」になるのを待って、8分ぐらい掛かってその国道を渡っていました。
 ある木曜日、いつものようにおばあさんがやってきました。それを1階の出入り口で見ていて、わたしはとっさにおばあさんのところへ駆け寄って、彼女を負ぶって国道を渡り、帰りの時間を聞き、11時前にまたそこに行っておばあさんを負ぶってもとの所まで連れて行きました。それは考え抜いた行動ではありませんでした。突然「そうしたい」と心に「湧いたもの」で自分でも説明がつきません。でも、一度やってしまうと「恥ずかしさ」はなくなるもので、以来週2日、わたしは彼女を送り、引き返しを続けるようになりました。そして6週間ぐらいたって、「X工務店」の現場所長に呼び出されて、
 「〇〇さん。君は仕事中におばあさんを負ぶっているそうだが・・・」
 怒られると思いました。しかし所長は次にこう続けました。
 「それは一向に続けてもらって構いません。あなたが休んだら私がやってあげますよ。」
 といってくれました。
 わたしは自分のしている行動に意味が見出せず、何となく始めて、いまさら止めたらおばあさんに悪いし、でも積極的な意味は確信できていませんでした。少し恥ずかしい気持ちもあり、また「こんなことは自己満足に過ぎない」という思いもあった。
 ところが所長の一言で、ちゃんと見てくれている人がいて、「私もやる」と言ってくれたということを理解しました。
  勇気を持って「善き行い」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』に述べられた深い「善」)を実践していれば、見ている人は見ている。見ている人に気持ちが伝わる。「善」の心は行動で示すことで人に伝わる、と実感しました。そのことに気づかせてくれた所長には大変感謝しています。
 同時に、このことがあったとき、わたしは40歳でしたが、そのとき考えたのは、「わたしは哲学を志して20年以上だが、『倫理学』だの何だのと机上の学問をなにか崇高なものと信奉してきたけど、「お前(わたし)」は頭で倫理を説いて、何もしてない。実践はからっきし実績なしだ」ということです。
 一冊の書物も残さず、ただ実践の生き方を残された人に賞賛されて、語り継がれているわれらが哲学開祖ソクラテスの実践。命を惜しまずに人倫をといたイエス。そういうものを「研究」しているだけでよいのか?

 こうして、40歳にしてわたしは、哲学的思考と思索のための「実践」に踏み出したのです。

 それ以来、わたしは、鉄道通勤ということもあって、階段を下りるのに苦労している老人に「ここもっていいよ」と袖を差し出し、手押しの「車椅子」の人が電車に乗ろうとするときに押したり、駅のホームと電車の床が離れたり、大きな段差があるときに見かけるベビーカーの前を持ったりするようになりました。

 わたしは「善」に対して、その行為の「継続」を強く意識します。19歳で始めた「マイ箸」の持ち歩きという行動も、19歳のまさに始めたそのときもうひとつの義務をわたしは自分に課しました。それは自然保護など「箸」を持ち歩く理由を周りの人に30年説明しない、というものです。「なぜ割箸を使わないのですか?」と聞かれても、「自分で調べてください。」としか言ってこなかった。「善」に対する自分の行動を「他人」にも強要するには、その背景を自分の中にしっかりと確立しておかねばならない。そうしなければ説得力はない。わたしがこのブログで「原発反対派」「戦争反対の主張」に賛成しつつも、その反対の「質」を厳しく批判するのは、「思い」だけで「他者」の生き方を変えてはならない、という信念に基づいており、それがわたしのスタンスがあるからです。
 30年続けられたら、「マイ箸」について大いに他人に語ってもよい、と自分に課して35年たちます。
 
 さて、「X工務店」の現場所長に「優しさ」が伝播することを教わったわたしが、ささやかながら実践を試みるようになって10年。ついにその素晴らしい日がやってきました。

 2013年 5月11日 土曜日 午後8時ごろ。関西のある私鉄電車の駅のホームでわたしは家路へ、電車を待っていた。するとホームを一人の男性が歩い近づいてきた。見ると彼は「視覚障害者」らしく、杖で「点字ブロック」を頼りに歩いていたようだが、駅がちょっとした「改修工事」の都合でなのか「点字ブロック」が外されていた。
 わたしは彼の左手を取り、乗車位置まで連れて行った。すると乗車位置に並んでいた10人ほどの人が、さっと後ろに下がり、わたしたちを一番前に入れてくれた。
 しばらくして、20歳ぐらいの少し背の高い女の子が来て、わたしが持っている手と反対の、その「視覚障害者」らしき人の右手を取り、「電車がホームに近づいてきたので、下がりましょうね。」「電車の中の床が少し高いので足を上げてください。」とやさしく語りかけて、わたしとともに「シルバーシート(優先座席」)に連れて行ってくれました。
 わたしは、その女の子とは何も会話せず、少し離れて電車の座席に座りました。
 電車が動き出してしばらくして、わたしの耳元で何者かがささやくのです。誰かがささやいたのではなくわたしの「空耳」なのか、「神様」なのか、よく分かりません。「あの子のやさしい気持ちをあなたが褒めて上げなさい。」そのようにささやかれた気がしたとき、わたしは左手を見て「はっと」しました。 2013年 5月11日 土曜日は第2土曜で、明日は「母の日」でした。その日わたしは「母の日」のことなど忘れていましたが、その駅のコンコースの中にたまたま「お花屋さん」があり、「明日は母の日だ!」と思い出し、わたしはピンクとモスグリーンのカーネーションをその駅で買っていましたが、「視覚障害者」らしき人をお世話していて、お花を買ったことを忘れていたのです。
 そうか!「褒めてあげなさい」とはこのことなのだな、と悟り、その女の子の所に行って、そのカーネーションをその子に手向(たむ)けたのです。
 そのとき、その子は「こんなの貰えません。」みたいに手を振りましたが、わたしは顔で「貰っておいてね」というように笑い、そのまま何も会話なく別れました。
 わたしにとって、その女の子のことははじめてあった見知らぬ人で、名前も住所も知りません。
 
 でも、後で考えてつくづく思うのは、わたしはお花屋さんで、カーネーションを買うとき、色を迷った。7分か、8分ぐらい迷った。選んだ2本を包んでもらうとき「母の日のプレゼントですか?なら丁寧に包みます」といわれ包装してもらうのにも5分ぐらい掛かり、少しいらいらしました。わたしが乗る私鉄電車は10分おきに出ている。だからそのお花屋さんに寄らなければ、わたしは1本早い電車に乗っていたのであり、その「視覚障害者」らしき人にも、あの女の子にも出会うことはなかった。

 だから、お花の神様か何かが、「お前はささやかながら毎日小さな人助けを10年もしてきたので、ご褒美をあげよう」と、素晴らしい瞬間をくれたのかなあ?と思っています。

 自慢話みたいで恐縮なんですけど、こんな瞬間が訪れるのだという熱い思いを、今も忘れることができません。

 でも、分かったこと。

 1.このような素晴らしい瞬間は、人に手を差し伸べる努力をし始めて、すぐに訪れはしない。積み重ねた10年の「善」を目指す行動の果てにこういうことがあるということ。よって止めてはいけない。

 2.わたしはその駅の近くで、「声楽」を習っていて、月2回土曜日は夜の8時頃、このことがあった後も電車を利用しているのに、あれから3年半一度も、その子に会ったことがない。

 もしかすると、あの子は、処女のまま「受胎」された「マリア」さまに、「あなたは神の子を宿したのですよ」と伝えにきた大天使ガブリエル(「受胎告知」)の生まれ変わりで、きらきらと湖面に輝く鏡のように「お前にもほんの少しだが、イエスの心が根付き始めているよ」と伝えにきた天使なのかもしれない。だから彼女に手向けた花は同時にわたしにも手向けられている。それを鏡に映し出すために彼女が使わされたのか?

 3.もし、彼女が「天使」ではなく「人間」だったとしても、とてもかわいらしい人だったので、きっと素敵な男性と結ばれ、新たな命を育む。そのとき「お母さんはね、目の不自由な人を助けたら、お花を貰ったかだよ。」と自分の子に語り、その優しさをその子も引き継いでいく。わたしの名は彼女とその子達に知れることはない。しかしその行為は、「善」として語られる。
  
 「X工務店」の所長に教えてもらった「優しさ」は伝播するということ。そしてイエスが語り継がれる存在であることの理由が、なぜか分かるような気がします。

 「神」を信じない、ということと、「神」にすがりたい現実と、人の優しさと自然の優しさに触れたときに感じる「神」的なもの。この「神」に、仮定法(「もし」神がいたら=if)に生きる我々の真実がある。人間の科学や文化はこの「ifという想像力」のマジックだ。世界=宇宙は人のエゴより強く自己完結する存在であり、人間ごときものが滅ぼすのはせいぜい自分たちが生きていく環境を破壊することぐらいだ。人間が滅んでも宇宙には「蚊」に刺されたほどでもない。にもかかわらず地球が大切であり、他者が大切であり、自分が大切であり、今の地球環境が大切だというのは、「神」を観念できる我々が、我々の我欲を超えてヘーゲル的な「理念」を求める存在であるからです。

 わたしはそう信じたい。確かにわたしは個体として滅ぶ。だが自分が生きている間だけ、この世界が美しくあってくれたらそれでいいとは思わない。わたしは「死」を迎えるが、それは「無」になるのではない。「物質」に戻るのです。そしてその一部はまた新たな生命に取り込まれ、また生命の一部になることもあります。ありきたりだが、将来の人々にこの世界の美しさを残してあげたいし、その果てに「不条理」な人間の社会に「神の国」が おとずれるかもしれない。その思いを変えようとは一瞬たりとも考えたことはありません。

 

 2020年の出発によせて 

 完