ことのは徒然

ことのは徒然

日々の徒然に思いついたことを書き留めてます。

今日は敬語のお話。

 

「ご」とか「お」をつけると丁寧になりますよね。

でも、この付け方が結構難しい。

 

この前、メールの返事に

丁寧な連絡ありがとうございます。」

と書こうとして、「ご」が2つはしつこいな、と思い、

片方の「ご」を削って

「ご丁寧な連絡ありがとうございます。」

としたら、

「あれ?」って思ってしまった。

これ。なんかやな感じしません?

 

一度気になると、どうもそのまま送るのも気が引ける。

 

で、ちょっと考えて

「ご丁寧連絡してくださって、ありがとうございます。」

としたら、もっとやな感じになっちゃった気がするびっくり

 

で。結局。

「丁寧なご連絡ありがとうございます。」

に落ち着いたのでしたグッド!

 

「丁寧」に「ご」をつけて「ご丁寧」とすると、マイナスのニュアンスがでてくることがあるので、とっても危険。

「丁寧」って言葉がそもそも相手への深い配慮を表す言葉だから、それに「ご」をつけると、過剰になって、そこからマイナスの意味が派生しやすかったのでしょうね。

だから、使い方を間違うと「ばか丁寧」というマイナスな意味を帯びてしまい、「余計なことしやがって」みたいな感じになっちゃう。

 

例えば、

「まったく、ご丁寧なことです。」

みたいにしたら、「余計なことすんなよ」感が出ますよね。

「まったく」というマイナスを表す言葉が一緒に使われてるからなんです。

つまり、一緒に使う言葉に注意しないと、誤解を生みやすい表現だということです。

 

で。

今回私が気になった冒頭の文。

 

「ご丁寧なご連絡ありがとうございます。」

 

文法的には正しいんですよ。

これまでも多分使ってたと思うし、

まあ、普通に出回っているビジネス例文だと思う。

ただ、「ご」が2つ続くことで、過剰な敬語表現になっている。

丁寧すぎるんだと思います。

だから、マイナスのニュアンスに転びやすい。

 

ということで、解決方法としては、

どっちかの「ご」を取ればいいのだけど、

「ご丁寧な連絡」

「丁寧なご連絡」

って並べるとわかるように、

プラスにもマイナスにも取れる「ご丁寧」を残すより、

誤解のない「ご連絡」を残したほうが、スッキリするな、という結論。

 

さらに、

「ご丁寧連絡してくださって、ありがとうございます。」

と、「丁寧」を連用修飾語で使うのは、基本的に避けたほうが良さそう。

連用修飾語というのは、動詞などの用言を修飾する働き。

つまり、相手の動作を直接修飾するので、良くも悪くも相手の行為への評価として響きやすい。だから皮肉のニュアンスも出やすくなるんだと思います。

 

ということで「丁寧」は「連絡」を修飾する連体修飾語として使い、

誤解のない「連絡」のほうに「ご」をつけるということで、一件落着したということですニコニコ

 

敬語の使い方にある程度のルールはあるけど、

ルールを守っていれば大丈夫というわけでもないところが難しい。

 

今回の「ご丁寧」のような言葉。きっと他にもありそう。

アンテナ張って、「ご丁寧」の仲間の言葉を探してみようと思う。いや、探したところで何の役に立つのかというのはあるんだけど……。

 

細かいところ気にしすぎかなぁ。

まったく、ご丁寧なことですね爆  笑

 

 

今日ご紹介するのは

長谷川櫂『和の思想』


筆者は有名な俳人。俳句の人が書いているから、俳句関係の評論かと思いきや、俳句とは関係のない、本気の日本文化論でした。

 

「和」とはもちろん日本文化のこと。なのに、第一章のタイトルが「みじめな和」。衝撃です。でも決して日本文化を否定しているのではないんです。

 

「ゲイシャ、フジヤマ」に始まった自嘲気味の日本文化の捉え方が、知らないうちに日本人の中に浸透してしまって、「着物」「寿司」「和室」など、「日本文化」といわれるものが固定的で矮小なものになってしまっているのではないか、という疑問を投げつけているんです。そして「本当の日本文化」とは、「さまざまな異質のものを共存させる躍動的な力」ではないのかと提案しています。

 

この提案について、筆者はいくつかの切り口で論じていくのですが、私が好きなのは第四章「間の文化」です。

 

その中で、セザンヌが描いた松の絵と、長谷川等伯の描いた「松林図屏風」を比較した1節があります。これは東西のちがいが如実にあらわれていてとても興味深い。セザンヌの松の絵は、画面が絵の具で塗り込められていて余白がない。「間」がないんです。確かに、そう言われてみると、美術館とかでみた西洋の絵はどれも、キャンバスが全面きっちり塗られていて、白地がむき出しになっている絵は見た記憶がない。一方で、長谷川等伯は、屏風に煙るように松を描いているとはいえ、何も描かれていない部分のほうが多いくらい。その絵について、筆者は、画家は春霞を描こうとしていたのだろうと分析する。でも、霞だけを描くことはできないから、松を描くことによって、霞を見えるようにしたのだろう、と。つまり、何も描いていない部分=余白こそが、絵のメインであると。

 

これを読んで思い出したのが書道の先生の言葉。私は実は本気で仮名書をやっていた時期があったんですが、そのときに言われたのが、「白い部分を見ろ」。

書いた文字を見ていてもうまくはならない。文字を書いたことで生まれた白い部分がどうなっているかが大事なんだと。

衝撃だったのを覚えています。あまりに衝撃で、その時の場面は未だにありありと目に浮かぶほどです。私は墨を使って空白を生み出していたのか、と。

 

音楽も同じです。西洋の音楽は音で充満していて、その「音」を聴くものだけど、日本の音楽は音と音の間の静寂と余韻を聴くものだと言われたりします。

 

だから、日本人は、建築とか、庭園とか、空間を大事にする分野に強かったりするのかもしれません。毎日をもっとよく観察したら、私たちの日常には「間」がたくさん残っている気がするんです。例えば、日本人は人との距離感をすごく意識するとか。これだって、「余白」=「間」を意識しているっていうことなんじゃないでしょうか。

 

そして、そういう特徴を残しながらも、どんどん新しい外からの文化も取り入れていけるところが日本文化のすごいところだと、そういう動的なところも含めて、それこそが「和」なのだと、筆者は考えているのだと思います。

 

「和」というと、なんとなく安易に「伝統的なもの」「古き良きもの」と思ってしまいがちですが、新しいものをどんどん取り入れる力こそが「和」であるという考え方がとにかく斬新。

コアな部分を残しながら、恐れず新しいものを受容できる懐の深さ。

そういう自分たちの良さに気づかないと!

 

たとえば、文字が「漢字」「ひらがな」「カタカナ」「ローマ字」って、いくつも併用されているのも、

ご家庭の日常の食卓に「和食」「洋食」「中華」がさも当然のように並んでいるのも、

イルミネーションたっぷりのクリスマスを堪能した1週間後には神社に初詣に行っちゃう感じも。

本当は日本人の底しれない受容力の表れなんじゃないでしょうか。

 

実はこの書籍、文章の読みやすさと、テーマのわかりやすさから、出版後数年に渡って、高校受験などに頻出の書籍でした。古典の文章や詩歌の引用もあり、融合文としても使える優れもの。(これは、まあ、教材制作者の都合ですが爆  笑


自分の文化を他国のものさしで見るのではなくて、自分たちでそのよさを分析して理解し、自信をもって次の世代に伝える。そのきっかけになる1冊。13年も前の本ですが、時代を越えて読まれつづけてほしいと思います。

 

ちなみに、私の手元にある「中公新書」版は絶版になっていますが、2022年7月に、第1章を新たに描き下ろして「岩波現代文庫」として出版されていますニコニコグッド!

 

 

 


最近、思うんですが、

娘(成人済み)の発言が、ときどきやたらおもしろい。

日常に使えそうな表現は、

覚書として共有しておこうと思います。

 

ということで、本日の名言

「ハメハメハ大王並みに休む」

 

***

 

上の娘はどちらかというと秘密主義で、自分の話はあまりしないんだけど、最近は職場の話をすることもぼちぼち。

 

そんな中で出てきたのが、この名言。

 

職場の◯◯さん、ハメハメハ大王並みに休むんだよね。ほんと、風が吹いても、雨が降っても、みたいな。しかも当日連絡💢

日常会話にこういうのを入れられるセンスが、我が娘ながらうらやましいなぁ、って思う。

 

「南の島のハメハメハ大王」という歌、ご存知ですか?

多分どっかしらで聞いたことあると思います。

 

♪南の~島の大王は~

 その名も偉大なハメハメハ~♪

 

っていう童謡です。

いっつも「ハメハメハ? カメハメハ?」ってとっさに迷っちゃうんだけど、ハワイの王様だから「ハワイ」の「ハ」って覚えるようにしてます爆  笑

 

とにかく。歌の中では大王もその家族もみんなのんびりしてて、

雨が降ったり、風が吹いたり、ちょっと天気が悪いくらいですぐに学校休んじゃうっていう歌詞なんですよね。

 

で。

娘は、その歌詞を自分の会話に盛り込んできたわけです。

そうするとね、確かに休みがちな同僚をディスってるんだけど、なんとなく全体のニュアンスが和らいで、相手にマイルドに伝わるんですよ。

比べてみましょう。

 

職場の◯◯さん、しょっちゅう休んでばっかりなんだよね。ほんと、大した理由でもないのに。しかも当日連絡💢

 

「職場の◯◯さん、ハメハメハ大王並みに休むんだよね。ほんと風が吹いても、雨がふっても、みたいな。しかも当日連絡💢」

ハメハメハ大王の引用が的確だから状況が明確にわかる上に、優しい伝わり方になってますよね。

 

これ、和歌の本歌取りを日常に活かしてるパターンだと思うのよ。

 

本歌取りっていうのは、「典拠のしっかりした古歌 (本歌) の一部を取って新たな歌を詠み、本歌を連想させて歌にふくらみをもたせる技法。」(ブリタニカ国際大百科事典)

つまり、誰もが知っている有名な和歌を、自分の和歌に詠み込むことで、元の歌のイメージと、自分の歌のイメージをダブルで伝えられるっていう技法なんです。

 

教科書頻出の藤原定家の和歌とかが有名ですね。

 

駒とめて袖うちはらふかげもなし

佐野のわたりの雪の夕暮れ

藤原定家(新古今和歌集)

 

【意味】

馬を留めて袖に降り積もる雪を払い落とすことができるような物陰もないなあ。佐野の渡し場があるあたり、見渡す限りの雪げしきの夕暮れどきよ。

一面の雪景色。降りしきる雪。馬で進む人影。という、一幅の絵画のような和歌です。

でも、実はこの和歌には元になった歌(本歌)があります。

 

苦しくも降りくる雨か三輪が崎

佐野のわたりに家もあらなくに

長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)(万葉集)

 

【意味】

なんともつらいことに、雨が降りしきっていることよ。三輪の崎の佐野の渡し場には、雨宿りする家もないというのに。

これは万葉集の歌なので、心情が直接的に歌われてますね。

早く帰りたいのに、雨が降ってしまって渡し船が出ていない。雨宿りする家もない。こんなところでみじめに雨に濡れてないで、早く家に帰りたい。つらい。

みたいな。

 

で。

「雨」を「雪」に変えてちょっとひねってるあたり、さすが定家なんですが、孤独な旅路、悪天候、「佐野のわたり」というロケーションなどを重ねることで、元歌のイメージを引っ張ってきてる。定家の歌には直接的な心情表現はないんだけど、本歌を知っている人は、「早く帰りたい」「つらい」という本歌の内容もそこに重ねてしまうという作りなんです。

 

三十一文字という文字数に制限があるからこそ、より有効に使える技法ですよね。本歌がもつイメージを言外に重ねることで、歌に奥行きが生まれ、定家が大好きな幽玄の世界(今で言うエモい感じ)が広がる。

 

この技法は現代の歌詞なんかにも使われてますね。「オマージュ」と言われるものは、本歌取りみたいなものだと思っていいと思います。

 

例えば米津玄師。

私が彼を知ったのは『BOOTLEG』というアルバムだったんですが、そこにあった「かいじゅうのマーチ」という曲を聴いたときはびっくりしましたね。「今日の日はさようなら」の歌詞がほぼ丸々入ってた! しかも全然違うメロティでびっくり

 

比べてみましょう。

 

【かいじゅうのマーチ】

 

燃えるようなあの夕陽を待っていた

言葉が出ないんだ

今日の日はさようならと あの鳥を見送った

 

いつまでも絶えることなく

友達でいよう

信じ合う喜びから もう一度始めよう

 

【今日の日はさようなら】

 

いつまでも 絶えることなく

友達でいよう

明日の日を夢みて

希望の道を

(中略)

信じあう よろこび

大切にしよう

今日の日はさようなら

またあう日まで

ガッツリ引用してる。

 

しかも、この「今日の日はさようなら」は、『エヴァンゲリオン』でかなり特徴的に使われている曲。「かいじゅう」というテーマがなんとなくエヴァともつながるので、「今日の日はさようなら」を介して、エヴァのイメージも引き込んでる……気がする。

 

いや、こいつ、若いのにやるな、と。

こういうことをしれっと軽やかにやっちゃうあたり、ただもんじゃないな、と。

 

まあ、とにかく、そんなわけで。

「本歌取り」とか「オマージュ」という技法は、平安時代の藤原定家から現代の米津玄師に至るまで、芸術の分野で脈々と生き続けているわけです。そんな技法を日常生活に取り入れるのは、なかなか会話が豊かになって楽しい、という話です。

 

娘の場合、意識してるのか無意識なのかわかりませんが、「同僚をディスる」というかなり攻撃的な発言に「ハメハメハ大王」というゆる~い童謡の世界観を取り入れることで、なんとなく角が立たない感じになってる。

 

見事な国語力だと思います。(親バカ失礼します爆  笑

 

ただし、この技法には問題点もあって。

「ハメハメハ大王」の歌を知らない人には「なんのこっちゃ?」ってなるんですよね。「え、どういうこと?」って、その場で質問してもらえれば、説明しながらさらに会話が進むので問題ないけど、「何こいつ、わけわからん」と思われることもあるわけです。

 

あと、こういう技法はわざとらしくなると知識のひけらかしに見えるので、聞く側の鼻についてしまったり、

「は? 知らないの?」みたいな、聞き手への見下しにつながることもある。

 

どんなよい道具も、使いようといいますか。誰との会話で、どういうタイミングで、どんなふうに使うのかも大事ですね。まあ、そこも含めて国語力かな、と思ってます。

 

 

ちなみに、ここからは職業病なんですが。

 

「南の島のハメハメハ大王」の歌で、

「風」や「雨」でサボるのは、

実はハメハメハ大王ではなく、

彼の子どもたちなんです。

 

南の島の大王は

子どもの名前もハメハメハ

学校ぎらいの子どもらで

風がふいたら遅刻して

雨がふったらお休みで

ということで、

ファクトチェック校正をするなら

 

ハメハメハ 王子 並みに休む」

 

が正解。

でも「ハメハメハ王子」ってあまり知られてない表現だし、「王女」かもしれないし、さらに語感もイマイチなので、

 

ハメハメハ 一族 並みに休む」

 

が、国語教材的ベストアンサーかなニヤリ

 

まあ、この技法は厳密さよりイメージ喚起が大事だから、

「ハメハメハ大王並み」でもいいと思います。

 

よかったら、

今後の日常会話で使ってみてくださいニコニコグッド!

 

 

最近のマイブーム。

井村屋のスポーツようかん。

 

 

まず、名前で二度見。

 

「スポーツ」と「ようかん」

どう考えても交わりのない2つの事柄が結び付けられていて、

二句一章かよ?と。

 

ちなみに、「二句一章」というのは、俳句の一形態。相互にまったく関係のないものを合わせて一句に仕立てることで、新たな世界を創出する技法です。「二物衝撃」とも言うそうです。

たとえば、こんな句。

 

菊の香や 奈良には古き仏たち

芭蕉

「菊」と「古き仏」は、直接何の繋がりもないんだけど、取り合わせることで、咲き誇る菊のの香りと、古い仏像の並ぶ古都奈良の落ち着いた佇まいが相まって、俳句の世界が広がってますよね。

 

逆に「一句一章」というのは、1つのことだけを詠んだもの。「一物仕立て」とも言われます。

 

行く春を近江の人とおしみける

芭蕉

「過ぎ去っていく春を近江の人たちと惜しんだ」と。出来事そのままの内容ですね。これはこれで春の終わりの情景や惜春の情がしみじみ伝わってくる。

 

で。

こういう俳句の言葉選びの感覚って、商品のネーミングやキャッチコピーを考えるのにも役立ちそうだと常々思ってたんで、今回の「スポーツようかん」は、まさにこれ!って思っちゃいました。

 

ただ、この「スポーツ」と「ようかん」は、全く違うものを取り合わせたというよりも、思いもよらないものを強引に自社製品に寄せてくると言いますか、スポーツを羊羹に引きずり込むような、井村屋さんの熱意を感じますけどね。

 

しかもパッケージはローマ字書き。

「SPORT  YO-KAN」

 

井村屋さん、攻めてます。

 

私は特別和菓子が好きなわけではないのですが、どうしても気になって買ってしまいました。届いたパッケージをよく見てまたびっくり。なんと、袋を切らなくても、真ん中をギュッと押すだけで、ようかんがにゅうっと出てくる! 運動している最中に手軽に食べられるように、パッケージも工夫されてるんですよ!

 

井村屋さん、本気だ!

 

で、食べてみると。

そりゃ、井村屋だからね。信用を落とすような怪しいもののはずないよね。こしあんですが、ちゃんと、あずき感があって、ほんとに「羊羹」でした。すこし甘さ控えめなんじゃないかな。味のせいなのか、にゅるっと薄べったい形状のせいなのか、そこは判然としないのですが、普通の羊羹より食べやすいです。

 

血糖値が下がって、

頭が回らなくなったときに、

ちょっとひと押し。

にゅるっ、ぱくり。

 

一瞬で血糖値上がります。

即効性がえげつない。

 

スポーツに限定なんてもったいない。

仕事のお供に。

勉強のお供に。

 

「羊羹って、たまーーに食べたくなるよね」派だった私が、

毎日羊羹食べてます。

 

糖分とりすぎじゃね?

でも、豆だし。

体にいいからOKかな?

 

完全に井村屋さんの術中にはまった感じですが、血糖値下がりすぎて頭痛になるのを食い止めるのにすごく役立ってるのでWin-Winということで爆  笑

 

俳句的新たな世界の創出。

 

井村屋の回し者じゃないけど、

でも、おすすめニコニコ

大人買いしてますメラメラ

 

 

 

 今日ご紹介するのは

『中谷宇吉郎随筆集』

 

中谷宇吉郎は、大正から昭和前半に活躍した物理学者で、雪の結晶を研究し、人工雪の生成に成功した人。と同時に、随筆家としても知られています。

 

おっ?

大正から昭和に活躍した科学者で随筆家って、どっかで聞いた気が???

そうです。こちらでご紹介した寺田寅彦。彼は中谷宇吉郎の師匠です。東京帝国大学から、理化学研究所での研究生活で寺田寅彦に師事し、大きな影響を受けたと言われています。実際、今日ご紹介している随筆集の第Ⅲ章には、寺田寅彦先生との思い出を著した随筆が集められています。

 

科学者なので、科学や自然についての随筆が多いのは寺田寅彦と同じなんですが、雰囲気は全然違います。寺田寅彦の文章は科学者っぽい明快な感じなんですが、中谷宇吉郎の文章は、ゆったりした上品な語り口で、とても文学的に感じます。

 

随筆、随想、エッセイ……言い方がいろいろあるように、このジャンルは、実はとても分類が難しくて、例えば英語でEssayというと論文のことなんです。私は、ずっと随筆は文学的な文章のことだと思っていたので、大学生になって英語の論文のタイトルが「Essey of……」となってるのを見て、強烈なカルチャーショックみたいなのを受けました。実際、その流れで評論が「エッセイ」と呼ばれていることもあるんです。

 

つまり、日本でエッセイとか随筆とか呼ばれるものは、その幅がめちゃめちゃ広いんです。なので、国語の問題を作る場合、私は「評論的随筆」と「文学的随筆」に分けて考えます。明快なロジックをもって書かれているけど、かっちりした論説文とまではいかないのが「評論的随筆」、叙情的で雰囲気があるのが「文学的随筆」。

 

で、私の中では寺田寅彦はどっちかというと「評論的随筆」寄り、中谷宇吉郎は「文学的随筆」寄りというイメージ。異論はあるかもしれません。あくまで個人的なイメージということでご了承下さい。

 

なので、中谷宇吉郎の随筆は、表現を楽しむという面も多々あります。特に、日常のことを書いたものはその傾向が強くなりますね。印象深いのは、「おにぎりの味」とか「サラダの謎」などの食べ物のエッセイ。

 

「おにぎりの味」で出てくるのは、おこげの塩おにぎり。筆者が小さいころ朝ごはんを作っている台所に行くと作ってもらえたそうです。お釜の蓋を開けて炊きたてのご飯のおこげのところを握っもらう様子を読んでいると、ほんのり塩味と香ばしいおこげの香りが漂ってくるようで、思わず食べたくなってしまう。

取り立ててきらびやかな描写とか、盛り上げるような表現などはないのに、お釜の前に立って、おこげのおにぎりができるのをワクワクしながら待っている少年に、自分がなっているような気持ちになります。

 

「サラダの謎」は、筆者がイギリスに留学したときに下宿先で作ってもらったサラダの記憶から始まります。そこで作ってもらったサラダの味の秘密が、30年を経て明らかになるんですが、さてそれは何でしょう?

こちらも、なんかサラダの味が伝わってくるような気がするんです。この描写力の秘密、なんとか見つけ出したいですね。

 

ところで私、もともと中谷宇吉郎なんて知らなかったのに、なんでこの随筆集を買ったんだっけかなぁ、と思い出していたんですが、購入年を見たら2012年。中谷宇吉郎が亡くなったのが1962年なので、おそらく著作権切れを狙っていたんだと思います。結局、仕事には使えていませんが、出会えてよかったと思える著者の1人です。

 

 

 

 

 

 

 

 

夏の思い出その3

 

  台風一過

一人暮らしの次女の初帰省。

部活の休みが1週間しかないとかで、

嵐のようにやってきて嵐のように去っていきました。

 

あれも食べたい、これも食べたいと言っていた割に、滞在中は、ほとんど地元の友達との予定で埋め尽くされていて、手料理出すヒマなかったような。

 

それでも、

小、中、高。一通りの友人と、お世話になった先生には会えたようで、地元とは完全に切れてしまった私に似なくてよかったなと。喜ばしく思ってます。

 

最終日の夕食は、

浴びるほど唐揚げを食べたい!

というので、揚げましたよ。

2kgぐらいびっくり

 

乗り切らなかったので、ひとまず第一陣爆笑

 

なに、この唐揚げの山!

しかも、唐揚げオンリーてへぺろ

女子3人、爆食いの晩餐でした爆  笑爆  笑爆  笑

 

さて。

最近は割とサバサバした親子関係になってるけど、別れ際はやっぱり切ないもので、空港の保安検査。姿が見えなくなるまで見送っちゃったよ。

 

帰省あるあるだと思うんですが、

帰り際、実家を出るとき。

当分帰ってこないんだから、

「行ってきます」

ではないし、

「おじゃましました」

も変な気がして、

結局

「じゃ!」

みたいな、曖昧な挨拶になっちゃう感じ。

かつての自分と重なって、何だかなつかしかった。

「帰りたくないなあ〜」

と、何度も言ってるのを聞きながら、

ちょっとほっとしたりして。

 

破綻寸前だった親子でございましたが、ここまで来たことを改めて実感するとともに、いや、私、頑張ったわ、と自画自賛。(誰も褒めてくれないのでてへぺろ

 

 

  握手のススメ

ところで、我が家には別れ際に欠かせない儀式があります。

それが「握手」。

 

いつから始めたのか忘れちゃったけど、

小学生のころからだと思う。

子供が「いってきます」と出かけるときには、

必ず玄関まで行って握手。

学校に行くときも、

遊びに行くときも、

毎回。必ず。

 

学校があるのに朝からモタモタしていて、

明らかに遅刻の時間になり、

私がギャンギャン言ってしまって、

険悪なムードになったときも、

それでも「いってきます」&「いってらっしゃい」&握手はする。

 

腹が立ちすぎて、

「いい加減にしろ!」って思って、

今日は無視してやる!って思うことも何度もあったけど、

そこはぐっとこらえて握手。

 

正直に言うと、何回かは腹立ちすぎて、意図的に握手しなかったこと……あります爆  笑

 

娘のほうも、私を無視してこっそり出かけていったことは、何回かあります。

わたしよりちょっと多いくらい。

それでも2桁はいかないね、多分。

え、改めて思い起こしてみるとすごい継続力だな。

 

娘が何も言わずに出ていきそうだな、と思ったときは、

玄関で待ち伏せして迎撃ニヤリ

無理やり握手したことも少なからずありますね。

でも、こっちがどんなときもぐっとこらえて握手してると、

向こうも相当怒ってないかぎり「行ってきます」は言うし、

しぶしぶでも握手するのよ。

おもしろいよね。

 

始めたきっかけは北島三郎。

なんかのトーク番組で、娘さんと一緒に出てたときに、

さぶちゃんのお家では出掛けの握手がルールなんだって話してたの。

「これ、いいんだよ。手を握るからね、その日の好不調がわかるの。おすすめだよ」

って。

 

で。

やってみた感想としては、めっちゃオススメです。

もうルーティーンになってるから、

高校生とかになっても当たり前にやるわけ。

普通に生活していたら、高校生の娘とスキンシップなんてなかなかないからね。

でも、少なくとも1日1回は、何かが確認されるのよ、握手を通して。

いろいろ行き違いのあるお年頃で、親子の距離が離れていきそうになるところを、握手で毎日リセットできる感じ。

 

さぶちゃん、すごい!

 

今回、次女が北海道に帰っていく時。

空港で別れ際に「じゃあね」っていいながら、こっちもふつうに手が出るし、

そうすると向こうも普通に握手するのよ。

習慣ってすごいな、って改めて思いましたね。

 

言葉で伝えることはもちろん大事だけれど、

スキンシップもやっぱり大事。

スキンシップも1つの言語なんです。

意図をもって行うことで、

何か伝わるものがある。

 

毎日の本当にちっさなルーティーンも、

10年続ければ財産です。

 

ピンときた方、ぜひ今日からやってみてください。

後悔はさせませんグッド!飛び出すハート

 

 

友人の出版記念講演で、

登壇してきました。

 

20分ほどでしたが、お時間をいただき、

家庭における国語教育についてお話させていただきました。

 

人生初登壇。

前夜は、いろいろ考えちゃって

なかなか寝られなかったんですが、

本番は思ったより緊張しなかった。

 

ヨカッタ、ヨカッタ。

 

 

新生児から就学前のお子さんを持つママ向けに、子育てを考える人たちの集い。

ワンオペで孤立する母親。

ママががんばるあまり、親も子も苦しくなる悲劇。

母も子もHAPPYになるためには

どうしたらいいのか。

 

幼児期だけではなく、大学入試に至るまで。

親ががんばりすぎて、子供の才能をつぶし、

親子関係までダメになってしまう例を、

いくつも見てきました。

 

本当は子供もがんばりたかったのに。

がんばる余地が与えられず。

無気力になってしまう。

あるいは、

なんとか頑張り続けてたけど、

途中でポッキリ折れてしまう。

 

それが親の深い愛情のせいだなんて。

 

親御さんが真面目で熱心であればあるほど、起こりうることなんですよね。

 

例えば、ちょっと想像してみてください。

大好きなアイドルについて熱く語ってくる友人。

もう、尋常じゃないほどお金も時間もつぎ込んでて、会うといつもその話。

これね。

自分もそのアイドルが好きだったら、2人で延々盛り上がれるから問題ないんです。

 

でも、自分がもともとそれほど興味がなかった場合。

かえってしらけちゃうってこと、多いんですよ。

一応、友人の手前、話は合わせますけど、

あまりにいつもいつも同じ話が続くと、

めんどくさくなってその友人に会うのも億劫になったりします。

高っかいコンサートに誘われたりするとなおさら。

で、そのアイドルを見ると

「なんでコレがそんなにいいのかねえ?」

みたいになる。

あるいは、アイドルってばかばかしいよね、って全否定にもなりかねない。

 

すごく残念じゃないですか?

好きになるチャンスを奪われちゃった感じ。

 

そういうのは、なんとか避けたい。

親の愛情と努力を子供の幸せにつなげたい。

私のいちばんの思いです。

 

ということで、

自分(親)が熱くなるのではなく、

相手(子供)を熱くさせるにはどうしたらいいか。

 

今回は「放牧のススメ」というお話をしました。

 

放牧は、牛や馬などの家畜を草地に放し飼いにして、自由に草を食べさせながら飼育する方法。

親の役割は、

・最高に栄養価の高い草地を整えること。

・子供が目の届かない範囲に飛び出して行ってしまわないように見守ること。

あとは自由に草を食べさせましょう。

食べなくても放っておきましょう。

一生何にも食べないということはありません。

お腹が減ったら、自分から好きな草を探すもんです。

というお話。

 

あ、講演では言いませんでしたが、

もちろん、こちらで「食べさせたいなぁ」と思っている草があれば、それがめちゃめちゃおいしそうに見えるような演出はしますよ。っていうか、ほとんどそこに全力投球ですかね。

これは一般的なコツと、それぞれのお子さんの個性を掛け合わせて考えていかなくちゃならない真剣勝負なので、正解がないんですよ。なんというか、臨機応変というか、人生かけたゲームというか爆  笑

 

ロールプレイングゲームがあるじゃないですか。私はあまりゲームはやらないんですが、ン十年前の出始めのときはちょっとかじってました。(最初に買ったRPGはカセットテープだった。年齢がバレる笑い泣き

 

あのころは、クリアできるルートって1つだったんですよ。

でも、今のRPGはいろんなルートがあって、どのルートでも「クリア」の道がある。

 

子育てもそうなんですよね。

ン十年前は、正解のルートは1つと思われてたフシがある。

でも、今は違う。

 

いや、時代を反映していておもしろいな、と思いますね。

 

だから、現代に生きる私たちは、選んだルートの行き先をそれぞれ模索するしかない。

 

ウチの娘2人は、18年計画で、谷あり谷あり(誤字じゃないですよ。マジでほとんど谷だった爆  笑)。同じ環境で育ったのに、全く別のルートをたどってなんとか目的地に到達。あとはそれぞれ自分でやってね~、ってところまでやっとたどり着きましたグッド!

 

ちょっと脱線しましたが。

ということで。

子供の主体性が発揮されたときに

学びの効率は最高潮になります。

親がやるのは、

どうやって子供の主体性を発現させるか。

 

言うは易し行うは難し、なんですが。

でも、目指さなければ実現はしない。

信じて見守るしかないんです。

 

例えば「読み聞かせ」一つとっても、

やり方をちょっと工夫するだけで、

親もラクになり、

子供もHAPPYになり、

言葉の力も効率的に身につくようになったりするんです。

そんなお話もしました。

 

ただ、この「効率的」というのがクセモノで、

教育においては、「本当の効果」はすぐには出ないということ。

その子供に「ホンモノの力」がついているかどうかは、10年後、15年後に見えてくるものなのです。

ほんと、気の長い作業なんですよね。

 

で。

結果が見えない間はどうしたって不安になる。

(私なんか、不安どころか、七転八倒したからね爆  笑

 

本当にこれでいいのか。

本当にこれで大丈夫なのか。

迷って苦しんで不安になっているママたちの支えになりたい。

最近はそんなことも考えています。

 

今回の登壇は、その第一歩になったかも。

 

リアルでお話をし、質問などいただいたことでわかったのは、熱心な方ほど悩んでいるということ。

私の知識や経験を言葉にすることで、人の役に立てそうだと実感したこと。

 

普段は「文章」という間接的なコミュニケーションばかりの仕事なので、どうしても「ほんとうにこれ、役に立ってるのか?」「書いてて意味あるのか?」という一抹の不安がどこかに残る。(なのでブログの「いいね」はすごく励みになってるんです。)

 

今回はいつもと違う、音声出力&対面コミュニケーションで、けっこうモチベーション上がりました。

 

 

講演会後は、他の登壇の方たちと遅めのランチ。

子供の幸せのためにはママのケアだよね、とか。

ママの負担を物理的に減らすにはどうしたらいいか、とか。

話が盛り上がりました。

 

今回の講演内容は、

・まんまる抱っこ(姿勢)

・脳育と心育

・おウチde国語力

・口・体・心(口元から天才脳)

と、なかなかバリエーションがあったんですが、

みんな同じことを考えていて、

しかも全部つながっているね!という発見がうれしかった。

 

そして、とにかくみなさん、すごく勉強されてる!!

私もがんばらねば、と心を新たにしました。

 

貴重な機会をいただいたこと、

他の登壇者のすばらしい話がきけたこと、

感謝です。

 

今後の発信に活かしていきますメラメラメラメラメラメラ

 

 

 

 

テレビでニュースを見てたら、

ロシアのプーチン大統領が出てきた。

 

プーチン政権長いなぁ。ああ、これ、ロシアはこの人が消えないと何も始まらんな、とか、ふと感じたときの会話。

 

:ロシアはプーチンが消えないと何も変わらないね、きっと。

:あー。でも、今のは何人目のプーチン?爆  笑(娘は「プーチン影武者説」推し)

:確かに、全然年取らないよね。どうする? もう少ししたら、若干 若返ったプーチンが出てきたりして。

:えー、プーチンが代々続くの? やだな、プーチンの概念化。ヤバい。

親ばかですがね。

「プーチンの概念化」って!

なんておもしろいこと言う子なんだろ、と。

我が娘ながら、心の中で称賛 グッド!ラブラブ

 

「概念化」とは、文字通り、今までになかった新しい「概念」を作ること。辞書を引くと「事物の本質的な特徴をとらえて表現すること。」などとありますが、要は、個別のものの「いかにも」な特徴を抜き出して「こんな感じのやつ」ってふわっと示す感じです。

 

プーチンは唯一無二の個人なんだけど、際立った特徴があるじゃないですか。

見た目は地味なのに静かに圧をかけてくる感じとか。喜怒哀楽が薄そうでアンドロイド的な冷たさを醸し、何にも執着ないですよ的な空気をまといながら、自分のために平然と法律を変え、このご時世に半永久的権力を手にして、好き放題やってるとか。

その冷血で寿命とかなさそうな印象が影武者説を生んでるんだと思うんですけどね。

(あくまで、テレビ越しの個人的な印象ですてへぺろ

 

これらはプーチン個人の性質なんだけど、それを概念化するということは、プーチンっぽいものは、全部「プーチン」と呼びましょう、ということになるわけです。

 

だから、

「いや、ウチの息子、ほんっっとにプーチンでさぁ。参ったよ。」

みたいに使えるようになる。

 

概念化と似た言葉に、「抽象化」「一般化」「普遍化」などいろいろあって、訳わからなくなることは多いと思います。同じ言葉も、分野が変わるとちょっと違う意味合いで使われてたりして、私もいまだに戸惑うことがよくあります。その度に辞書引きまくります。

 

で、そういうのをきっちり覚えるのが苦手な私が行き着いた結論。

用語の厳密な意味を知ることは大事だけれど、だいたいこんなイメージ、って自分なりのイメージで言葉を心にとめておくほうが、実際には応用がきく。

 

だから、日常で「わ、おもろ」って思った表現を自分の心の辞書に書き留めておくのがおすすめです。こんなバカな例文でつかんだ言葉のイメージが、難解な論説文を読むときにけっこう役立ったりするので。

 

私は、しばらく「概念化」という言葉を見聞きするたびに、プーチンを思い出しそうです。

 

娘よ、ありがとう。

 

ちなみに、この娘、

中2から学校行ってません。

国語教育は学校だけじゃないニヤリ

 

 

夕方買い物に出かけたら、うろこ雲。

秋ですね。

 

 

「うろこ雲」と「いわし雲」は同じ雲の別名で、

正式には「巻積雲」と言うそうです。

で、似てるけど「ひつじ雲」は別物で「高積雲」。

 

どっちも秋の空の雲なんですが、発生する高度が違うらしい。

巻積雲は、高度が高いので小さく見え、高積雲は高度が低いので大きく見えるそうで、手をかざしてみて、人差し指の先よりも小さかったら巻積雲(うろこ雲)、大きかったら高積雲(ひつじ雲)なんだそうです。

 

今となっては、検証の方法がないですが、私が今日見たのはもしかしたら「ひつじ雲」かもしれないです。

 

でも、まあ、いずれにせよ、秋ってことです爆  笑

 

で。

まさに今日の午前中。

仕事で和歌をやっていて出てきたのがこの歌。

『古今和歌集』に収録されています。

 

秋来ぬと目にはさやかに見えねども

  風の音にぞ驚かれぬる

藤原敏行

秋が来たと、目には はっきり見えないけれど、風の音ではっと秋だと気づいてしまったよ。

 

今の時期の歌だよねぇ、って話していたところだったんです。

日中は暑いし、まだみんな半袖だったりして、

見た感じ夏っぽいんだけど、

朝の空気はなんか違う。

秋だな。

みたいな。

 

こういう微妙な季節の移ろいを詠む感じが、

すっっごく日本人ぽい。

 

なのにねぇ。

まさにその日の夕方。

うろこ雲を発見して、

目にはっきり見えちゃいましたとさ、というお話。

 

移ろう時期は、本当に一瞬の短さで、

あっという間に次の季節が来ちゃうんですね。

 

 

さて。

この「秋来ぬと……」の歌。

私、なぜかすごく好きなんです。

そして、教科書でも問題集でも頻出。

おそらく多くの方が見たことあるのでは?

 

情緒ありますよね。

風の音で秋を感じるなんて。

ゆったりした時の流れと

心豊かな暮らしぶりを思わせます。

 

ですが。

教材に頻出なのは、内容がすばらしい歌だから、というのが唯一の理由じゃないんです。

朝に晩に歌を詠んでた時代なんだから、内容的にいい歌というのは、たくさんあるに決まってるじゃないですか。

 

この歌の教材的萌えポイントは、

意味が分かりやすいくせに、文法的な学習ポイントと、語彙的学習ポイントが満載!というところ。

 

ざっと列挙するとこんな感じ。

 

【重要古文単語】「さやかなり」「驚く」

【動詞】カ変動詞「来」の活用

【助動詞】「ぬ」の品詞の識別「る・らる」の意味の識別

【助詞】「と」「ども」

【和歌の表現技法】視覚と聴覚の併用

【その他】会話文を表す「 」部分の理解

もうね。

この1首でいくらでも問題が作れる。

国語教材ライターからしたら神作品爆  笑

 

この1首を初見でカンペキに品詞分解できるとしたら、けっこう古典文法わかってるな~って感じだと思う。

 

特に「来ぬ」のところ、「こぬ」と読むのはダメですよ。「こぬ」は「来ない」という意味です。

ここは「来た」という意味なので「きぬ」と読みます。これも文脈でなく、文法的に「きぬ」であることが導けますグッド!ラブラブ

 

なのでね。

奈良・平安の時代に作られた和歌が、全部で何首あるのかは知らないけど、

たとえば『万葉集』が4500首以上、『古今和歌集』が1100首以上、ほかにわんさと歌集があって、それらに収められているというだけで、すでに選ばれた和歌たちで、

その中からさらに厳選に厳選を重ねて選ばれた5首とか10首なわけですよ。

教科書に掲載されているのは。

もう、びっくりするくらい狭き門をくぐり抜けた、内容的にも、文法学習的にも秀逸な作品ですから。

 

学生さんは、きっちり理解しておくと、その後の応用にぜったい役立ちますグッド!

 

こういう神作品。

他にもいくつかあるんだけど、また別の機会にご紹介できたら、と思いますニコニコ

 

 

 

やっちまった!

 

先日の内田樹の本紹介。

誤字脱字がないか、改めて読み直していて大変なポイントを発見!

 

「敷居が低い」を使ってしまった。

 

私はこんな仕事をしているくせに、言葉は生き物だから流通していて通じる言葉がいちばん、と思っているところが心の奥底にあって、語源的に正確かどうかは二の次と思ってるフシがあります。なので、いわゆる誤用も使いがち。

 

で、「敷居が低い」は、そもそもの意味から外れた用法なんですよね。

 

私なりに解説してみますと、

「敷居が低い」は、「敷居が高い」から派生した言葉です。

でも、「敷居が高い」は、本来は「不義理・不面目なことなどがあって、その人の家に行きにくい」(『大辞林』)という意味。「不義理・不面目」という特殊事情があるから生じる意味なので、ここから直接「敷居が低い」という意味は出てこないんですね。だって、そもそも「不義理・不面目がない状態」が普通だから、「不義理・不面目がないので、その人の家に行きやすい」っていうのは、「いやそれ、わざわざ言うこと? 普通だよね?」っていうくらい当たり前のこと。当たり前の現象に慣用句は不要だから、「敷居が低い」っていう言葉は必要ない=発生しないんです。

 

じゃ、どうして発生したかというと、「敷居が高い」は、現在は誤用が流通していて「高級すぎたり、上品すぎたりして、入りにくい」という意味で使われることが増えているんです。

 

この意味だと、反対の意味の生成が可能で、「それほど高級じゃないし、上品すぎないので、入りやすい」となります。

 

「誤用」というワンクッションがあるから生まれた言葉なんですよね。なので「敷居が低い」は誤用前提ということです。私の理解によれば。

 

で。さらに問題なのは、現在、誤用の方が圧倒的多数になりつつあるということ。既に「誤用」と言っていいのかどうか。過渡期なのかなぁと思います。

 

参考までに国の調査を見てみましょう。

 

令和元年度「国語に関する世論調査」の結果より

P21「(2)敷居が高い」

https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/92531901_01.pdf

 

平成20年度はギリギリ五分五分って感じでしたが、

令和元年には誤用の方が圧倒的に優勢になってますね。

 

元々の意味:29%

  vs

誤用:56.4%

民主主義的には、誤用の圧倒的勝利爆  笑

 

ちなみに私は両刀遣いですてへぺろ

どっちの場面でも使いたくなる。

 

ただし、国語教材作成という仕事では、グレーゾーンの言葉は絶対NGです。

「敷居が低い」は避けます。「敷居が高い」は、元の意味でしか使わないようにしますね。

 

自分で文章を書くときは、そこまで神経質にならなくてもいいよね、と思いつつも、公表する場合はできるだけグレーな表現は避けるようにしています。

でも、今回はチェック漏れしてしまった。

 

読み直してて気づいたときは、ヒヤッとして、こっそり直そうかな、とも思ったんですが、よい機会なので、改めて訂正文を書くことにして、まあこうして長々と言い訳しているわけです。

 

ということで、

 

【誤】

「こういうところから入るのがいいと思うんですよね、敷居が低くて。」

 ↓

【正】
「こういうところから入るのがいいと思うんですよね、ハードルが低くて。」

いかがでしょう?