今日ご紹介するのは
長谷川櫂『和の思想』
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筆者は有名な俳人。俳句の人が書いているから、俳句関係の評論かと思いきや、俳句とは関係のない、本気の日本文化論でした。
「和」とはもちろん日本文化のこと。なのに、第一章のタイトルが「みじめな和」。衝撃です。でも決して日本文化を否定しているのではないんです。
「ゲイシャ、フジヤマ」に始まった自嘲気味の日本文化の捉え方が、知らないうちに日本人の中に浸透してしまって、「着物」「寿司」「和室」など、「日本文化」といわれるものが固定的で矮小なものになってしまっているのではないか、という疑問を投げつけているんです。そして「本当の日本文化」とは、「さまざまな異質のものを共存させる躍動的な力」ではないのかと提案しています。
この提案について、筆者はいくつかの切り口で論じていくのですが、私が好きなのは第四章「間の文化」です。
その中で、セザンヌが描いた松の絵と、長谷川等伯の描いた「松林図屏風」を比較した1節があります。これは東西のちがいが如実にあらわれていてとても興味深い。セザンヌの松の絵は、画面が絵の具で塗り込められていて余白がない。「間」がないんです。確かに、そう言われてみると、美術館とかでみた西洋の絵はどれも、キャンバスが全面きっちり塗られていて、白地がむき出しになっている絵は見た記憶がない。一方で、長谷川等伯は、屏風に煙るように松を描いているとはいえ、何も描かれていない部分のほうが多いくらい。その絵について、筆者は、画家は春霞を描こうとしていたのだろうと分析する。でも、霞だけを描くことはできないから、松を描くことによって、霞を見えるようにしたのだろう、と。つまり、何も描いていない部分=余白こそが、絵のメインであると。
これを読んで思い出したのが書道の先生の言葉。私は実は本気で仮名書をやっていた時期があったんですが、そのときに言われたのが、「白い部分を見ろ」。
書いた文字を見ていてもうまくはならない。文字を書いたことで生まれた白い部分がどうなっているかが大事なんだと。
衝撃だったのを覚えています。あまりに衝撃で、その時の場面は未だにありありと目に浮かぶほどです。私は墨を使って空白を生み出していたのか、と。
音楽も同じです。西洋の音楽は音で充満していて、その「音」を聴くものだけど、日本の音楽は音と音の間の静寂と余韻を聴くものだと言われたりします。
だから、日本人は、建築とか、庭園とか、空間を大事にする分野に強かったりするのかもしれません。毎日をもっとよく観察したら、私たちの日常には「間」がたくさん残っている気がするんです。例えば、日本人は人との距離感をすごく意識するとか。これだって、「余白」=「間」を意識しているっていうことなんじゃないでしょうか。
そして、そういう特徴を残しながらも、どんどん新しい外からの文化も取り入れていけるところが日本文化のすごいところだと、そういう動的なところも含めて、それこそが「和」なのだと、筆者は考えているのだと思います。
「和」というと、なんとなく安易に「伝統的なもの」「古き良きもの」と思ってしまいがちですが、新しいものをどんどん取り入れる力こそが「和」であるという考え方がとにかく斬新。
コアな部分を残しながら、恐れず新しいものを受容できる懐の深さ。
そういう自分たちの良さに気づかないと!
たとえば、文字が「漢字」「ひらがな」「カタカナ」「ローマ字」って、いくつも併用されているのも、
ご家庭の日常の食卓に「和食」「洋食」「中華」がさも当然のように並んでいるのも、
イルミネーションたっぷりのクリスマスを堪能した1週間後には神社に初詣に行っちゃう感じも。
本当は日本人の底しれない受容力の表れなんじゃないでしょうか。
実はこの書籍、文章の読みやすさと、テーマのわかりやすさから、出版後数年に渡って、高校受験などに頻出の書籍でした。古典の文章や詩歌の引用もあり、融合文としても使える優れもの。(これは、まあ、教材制作者の都合ですが)
自分の文化を他国のものさしで見るのではなくて、自分たちでそのよさを分析して理解し、自信をもって次の世代に伝える。そのきっかけになる1冊。13年も前の本ですが、時代を越えて読まれつづけてほしいと思います。
ちなみに、私の手元にある「中公新書」版は絶版になっていますが、2022年7月に、第1章を新たに描き下ろして「岩波現代文庫」として出版されています
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