ハメハメハ大王並み | ことのは徒然

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日々の徒然に思いついたことを書き留めてます。

最近、思うんですが、

娘(成人済み)の発言が、ときどきやたらおもしろい。

日常に使えそうな表現は、

覚書として共有しておこうと思います。

 

ということで、本日の名言

「ハメハメハ大王並みに休む」

 

***

 

上の娘はどちらかというと秘密主義で、自分の話はあまりしないんだけど、最近は職場の話をすることもぼちぼち。

 

そんな中で出てきたのが、この名言。

 

職場の◯◯さん、ハメハメハ大王並みに休むんだよね。ほんと、風が吹いても、雨が降っても、みたいな。しかも当日連絡💢

日常会話にこういうのを入れられるセンスが、我が娘ながらうらやましいなぁ、って思う。

 

「南の島のハメハメハ大王」という歌、ご存知ですか?

多分どっかしらで聞いたことあると思います。

 

♪南の~島の大王は~

 その名も偉大なハメハメハ~♪

 

っていう童謡です。

いっつも「ハメハメハ? カメハメハ?」ってとっさに迷っちゃうんだけど、ハワイの王様だから「ハワイ」の「ハ」って覚えるようにしてます爆  笑

 

とにかく。歌の中では大王もその家族もみんなのんびりしてて、

雨が降ったり、風が吹いたり、ちょっと天気が悪いくらいですぐに学校休んじゃうっていう歌詞なんですよね。

 

で。

娘は、その歌詞を自分の会話に盛り込んできたわけです。

そうするとね、確かに休みがちな同僚をディスってるんだけど、なんとなく全体のニュアンスが和らいで、相手にマイルドに伝わるんですよ。

比べてみましょう。

 

職場の◯◯さん、しょっちゅう休んでばっかりなんだよね。ほんと、大した理由でもないのに。しかも当日連絡💢

 

「職場の◯◯さん、ハメハメハ大王並みに休むんだよね。ほんと風が吹いても、雨がふっても、みたいな。しかも当日連絡💢」

ハメハメハ大王の引用が的確だから状況が明確にわかる上に、優しい伝わり方になってますよね。

 

これ、和歌の本歌取りを日常に活かしてるパターンだと思うのよ。

 

本歌取りっていうのは、「典拠のしっかりした古歌 (本歌) の一部を取って新たな歌を詠み、本歌を連想させて歌にふくらみをもたせる技法。」(ブリタニカ国際大百科事典)

つまり、誰もが知っている有名な和歌を、自分の和歌に詠み込むことで、元の歌のイメージと、自分の歌のイメージをダブルで伝えられるっていう技法なんです。

 

教科書頻出の藤原定家の和歌とかが有名ですね。

 

駒とめて袖うちはらふかげもなし

佐野のわたりの雪の夕暮れ

藤原定家(新古今和歌集)

 

【意味】

馬を留めて袖に降り積もる雪を払い落とすことができるような物陰もないなあ。佐野の渡し場があるあたり、見渡す限りの雪げしきの夕暮れどきよ。

一面の雪景色。降りしきる雪。馬で進む人影。という、一幅の絵画のような和歌です。

でも、実はこの和歌には元になった歌(本歌)があります。

 

苦しくも降りくる雨か三輪が崎

佐野のわたりに家もあらなくに

長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)(万葉集)

 

【意味】

なんともつらいことに、雨が降りしきっていることよ。三輪の崎の佐野の渡し場には、雨宿りする家もないというのに。

これは万葉集の歌なので、心情が直接的に歌われてますね。

早く帰りたいのに、雨が降ってしまって渡し船が出ていない。雨宿りする家もない。こんなところでみじめに雨に濡れてないで、早く家に帰りたい。つらい。

みたいな。

 

で。

「雨」を「雪」に変えてちょっとひねってるあたり、さすが定家なんですが、孤独な旅路、悪天候、「佐野のわたり」というロケーションなどを重ねることで、元歌のイメージを引っ張ってきてる。定家の歌には直接的な心情表現はないんだけど、本歌を知っている人は、「早く帰りたい」「つらい」という本歌の内容もそこに重ねてしまうという作りなんです。

 

三十一文字という文字数に制限があるからこそ、より有効に使える技法ですよね。本歌がもつイメージを言外に重ねることで、歌に奥行きが生まれ、定家が大好きな幽玄の世界(今で言うエモい感じ)が広がる。

 

この技法は現代の歌詞なんかにも使われてますね。「オマージュ」と言われるものは、本歌取りみたいなものだと思っていいと思います。

 

例えば米津玄師。

私が彼を知ったのは『BOOTLEG』というアルバムだったんですが、そこにあった「かいじゅうのマーチ」という曲を聴いたときはびっくりしましたね。「今日の日はさようなら」の歌詞がほぼ丸々入ってた! しかも全然違うメロティでびっくり

 

比べてみましょう。

 

【かいじゅうのマーチ】

 

燃えるようなあの夕陽を待っていた

言葉が出ないんだ

今日の日はさようならと あの鳥を見送った

 

いつまでも絶えることなく

友達でいよう

信じ合う喜びから もう一度始めよう

 

【今日の日はさようなら】

 

いつまでも 絶えることなく

友達でいよう

明日の日を夢みて

希望の道を

(中略)

信じあう よろこび

大切にしよう

今日の日はさようなら

またあう日まで

ガッツリ引用してる。

 

しかも、この「今日の日はさようなら」は、『エヴァンゲリオン』でかなり特徴的に使われている曲。「かいじゅう」というテーマがなんとなくエヴァともつながるので、「今日の日はさようなら」を介して、エヴァのイメージも引き込んでる……気がする。

 

いや、こいつ、若いのにやるな、と。

こういうことをしれっと軽やかにやっちゃうあたり、ただもんじゃないな、と。

 

まあ、とにかく、そんなわけで。

「本歌取り」とか「オマージュ」という技法は、平安時代の藤原定家から現代の米津玄師に至るまで、芸術の分野で脈々と生き続けているわけです。そんな技法を日常生活に取り入れるのは、なかなか会話が豊かになって楽しい、という話です。

 

娘の場合、意識してるのか無意識なのかわかりませんが、「同僚をディスる」というかなり攻撃的な発言に「ハメハメハ大王」というゆる~い童謡の世界観を取り入れることで、なんとなく角が立たない感じになってる。

 

見事な国語力だと思います。(親バカ失礼します爆  笑

 

ただし、この技法には問題点もあって。

「ハメハメハ大王」の歌を知らない人には「なんのこっちゃ?」ってなるんですよね。「え、どういうこと?」って、その場で質問してもらえれば、説明しながらさらに会話が進むので問題ないけど、「何こいつ、わけわからん」と思われることもあるわけです。

 

あと、こういう技法はわざとらしくなると知識のひけらかしに見えるので、聞く側の鼻についてしまったり、

「は? 知らないの?」みたいな、聞き手への見下しにつながることもある。

 

どんなよい道具も、使いようといいますか。誰との会話で、どういうタイミングで、どんなふうに使うのかも大事ですね。まあ、そこも含めて国語力かな、と思ってます。

 

 

ちなみに、ここからは職業病なんですが。

 

「南の島のハメハメハ大王」の歌で、

「風」や「雨」でサボるのは、

実はハメハメハ大王ではなく、

彼の子どもたちなんです。

 

南の島の大王は

子どもの名前もハメハメハ

学校ぎらいの子どもらで

風がふいたら遅刻して

雨がふったらお休みで

ということで、

ファクトチェック校正をするなら

 

ハメハメハ 王子 並みに休む」

 

が正解。

でも「ハメハメハ王子」ってあまり知られてない表現だし、「王女」かもしれないし、さらに語感もイマイチなので、

 

ハメハメハ 一族 並みに休む」

 

が、国語教材的ベストアンサーかなニヤリ

 

まあ、この技法は厳密さよりイメージ喚起が大事だから、

「ハメハメハ大王並み」でもいいと思います。

 

よかったら、

今後の日常会話で使ってみてくださいニコニコグッド!