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ことのは徒然

日々の徒然に思いついたことを書き留めてます。

 

 TODAY'S
 
今日は本紹介の日

 

今日ご紹介するのは

内田樹『ぼくの住まい論』

 

入試問題頻出の思想家でありながら、武道家でも知られる内田樹が、大学を定年退職後に自宅兼道場(能舞台付)である「凱風館」を建てる過程のあれこれを描いたもの。もしかしたら、内田樹の本の中で一番好きかもしれない1冊。「道場」という社会的な「居場所」を提供することへの強い思いと、道場づくりへの尋常じゃないこだわりが詰まっています。それを、経済、社会、思想などを織り交ぜつつ論じていく軽いエッセイという位置づけだと思います。

 

このくらいだと、中高生でも気楽に読めそう。

こういうところから入るのがいいと思うんですよね、敷居が低くて。オススメです。絶版だけど。

 

まず目を引くのは、大きなカラー写真がふんだんに掲載されていること。写真掲載にはすごいこだわりがあったんだと思う。本冊の紙も厚めのしっかりしたもので、コート紙ではないけど、印刷は色鮮やか。そして、どの写真にもエネルギーが溢れてる。

 

筆者が、建設で何よりこだわっていたのは「木造」であること。だから、良い木を求めて、自ら京都美山へ、岐阜加子母へ。そこで写された深い山林や茅葺きの里、山とともに生きる人々の姿は、多くの日本人の原風景なんじゃないかしら。いつまででも眺めていたくなります。

それから職人探し。瓦職人やら左官やら。で、みなさん、そろいもそろってホントいい顔なんです。作業中の真剣の表情も、屈託のない笑顔も。自然と近いところで生きている人たちはなんて豊かなんだろう。眩しいんだろう。そう思いました。

 

だから、「凱風館」は、豊かな自然の恵みを受けた木と土でできている。その自然のエネルギーに満ちている感じが、写真からも伝わってくるんです。木の美しさと温もり。そして豊かな空間。心惹かれます。ほんとです。写真だけでも、ぱらりと見てほしい。

 

「凱風館」は、自然と人のエネルギーでできている。こんな空間を作れるんだから、内田樹はきっといい人! って思いましたよ。

 

筆者のもう一つのこだわりは、「凱風館」は私物ではなく(法律的には私物かもしれないけど)、そこで自分を磨き、目標に向かっている門人たちの未来のためのものだということ。つまり、社会的共有物という認識なんだと思います。この本には、筆者が道場に込めた思いが、経済や社会、思想などの切り口を交えながら語られています。この道場は、内田樹が研究者として長年積み重ねてきた思想を、具現化した場所なんだろうなぁ、と感じました。思想を机上の空論で終わらせない実践主義者っていうんですかね。

 

思想家でありながら(だからこそ?)、身体を修める武道家でもある、っていう筆者の生き様と重なってて、ホント興味深いです。

 

ということで、筆者は「凱風館」を「出会いの場」と位置づけていて、人間ネットワークの「ハブ」としての活動がいろいろ紹介されています。「甲南麻雀連盟」「おでん部」「巡礼部」などなど。板張りの清々しい空間で雀卓囲んでる写真とか、なかなか興味深いものがあります。おもしろいところでは「ジュリー部」(沢田研二ファンクラブ)とか? 10年以上前の本なので、今はどうなっているのかそれも興味がありますね。

 

ちなみに、本書の終わりのほうに「書生日記」という、凱風館の書生さんをしている方のコラムがあります。そこに書生部屋の写真が載っているのですが、畳2枚を縦に長くつなげたスペースで、そこに文机が置いてあるんです。その細長い微妙な形と適度な狭さがすごく心地よさそうなんです。こういう、ちょっと不思議なゆとりのスペース大事だなぁ、と。機能的なだけでは息が詰まる。それは空間も時間も同じかも、なんて、その写真を見ながら思いました。ゆとり。大事にしたいです。

 

 

 

 

 

夏の思い出第2弾。

 

紹介の紹介でオンラインでつながった福岡の方と初めてリアルで会食。

これは、もしや「オフ会」というヤツでは???

 

お会いしたのは、国語をメインに子どもたちへの学習支援をしている方です。

「国語」なんてニッチな業界なので

あっというまに意気投合。

初対面とは思えない盛り上がりでした。

やはり。興味が同じというのは大事ですね。

国語オタク2人。

話が尽きません。

 

インターネットは、パソコン通信(な、なつかしい)と言われる時代から、やっていたのですが、「インターネット=危険」みたいな先入観のある世代なので、オンラインで知り合った方と、こんなに短時間でここまで懇意になれるとは思いませんでした。

 

しかも、私のようなニッチな分野の人間は、半径数キロメートルではなかなか仲間がみつからないので、こういうふうにネットワークで遠距離の人と繋がっていけるということが本当に貴重。

 

なかなかよい世の中になったもんです

 

そして、彼女が無事帰宅したという連絡のメールで

新単語発見!

 

「帰福」

 

福岡に帰ることだそうです。

いや、確かにそのとおりだけど!

そんな言葉があるのね?と。

 

帰阪」は聞いたことあるけど、「帰福」かぁ。

ちなみに熊本は「帰熊」だそうです。

なんか強そう。

「きぐま」かと思ったら「きゆう」と読むそうです。

 

私は栃木出身ですが、「帰栃」は聞いたことない。

首都圏だから?

ギリ通勤圏ではあるんだよね。

埼玉とか千葉もなさそう。

 

「上京」に対して「帰●」っていう発想だと思うから、

首都から遠いところに使われる可能性が高いのかな。

 

で、娘は北海道だから、「帰北」なのなかなぁ、と思ったら、

札幌は「帰札」らしい爆  笑

確かに北海道は広いしね。

 

楽しくなっちゃって、ネットで調べてみると、

そんな記事がありました。

 

https://j-town.net/2017/12/27253890.html?p=all

 

どうやら「帰●」は意外とあちこちで使われているらしい。

 

で、「帰●」ではないんだけど、

関連コメントに

「北海道出身者が結婚、住居購入などして本州に定住することを脱北と言っています。」

というのがあって、笑った爆  笑

 

すごいよね。

「脱北」という、たった2文字で

「裏切り者~」感が漂ってる。

 

日本語すご~い! って思う瞬間です。

 

ちなみに英語だと「North Korean defection」。

確かにわかりやすいし、誤解の余地はないけど、そこはかとないニュアンスもない。

これは漢字という表意文字の持つ威力だと思います。

 

でも、漢字だけでもだめなんだよね。

漢字を和読みしちゃったことで、

漢字の意味がイメージで頭に入ってくるのがミソだと思ってる。

 

例えば「ダツ」って言われても

は?

って感じだけど、

「ぬぐ・ぬげる」って言われたら

服がするりとぬげる感じが伝わるじゃないですか。

だから「脱」という漢字のイメージがしっかり定着するんですよね。なんか、あるべきところから抜け出る感じ。あるいは抜き出す感じ。

 

脱獄

脱税

脱走

脱落

脱出

逸脱

解脱

 

で。

そこで「脱北」。

北朝鮮から、いろんなものを捨てて逃げ出てくる感じ。

泣く泣く脱ぎ捨てて、本国に残してきたものがいっぱいあるんだろうな、ってところで、

この「北」を「北海道」に掛けて「脱北」。

 

北海道を捨ておって~、裏切り者~!!!

 

となる。

 

文字のイメージが定着しているからこそ、こういう言葉を生み出したり、おもしろく転用したりできる。

文字をどう選んで、どう組み合わせるか。

すごく詩的な作業を、ごく日常的にやってるんですよね。

 

私は、言語学者ではないので、世界にどんな言葉があるのかよくわかっていないけど、

表音文字が2種類(ひらがな・カタカナ)あって、

表意文字(漢字)もあって、

なんならローマ字もOKみたいな、

なんでもありありな言語って、そう多くはないと思うんです。

 

いろんな言葉遊びができるの、文字のバリエーションが多い日本語の特権だよなぁ、って、つい思ってしまう。

 

いたい

イタイ

痛い

itai

 

同じ言葉なのに、どの文字を使うかで伝わり方がぜんぜん違う。

 

実は私、マンガ・アニメが好きで、ときどき若い人たちの投稿を覗きに行ったりしてるんですが、若い人たちは本当に上手なんですよね。そういう文字の使い方とか、言葉遊びとか。「やられた」と思うこと多いです。

 

で。

どんな言葉を「おもしろい」と感じるかは、人それぞれですが、なんであれ、まずは「おもしろい」と感じることが大事。

なぜなら

「おもしろい」→「真似したい」→「使ってみる」

が、言語習得の最短距離だからです。

日常何気なく使っている言葉の中に、学びのタネがたくさんあります。

ぜひ、皆さんの周りにあるタネを探してみてください。

 

そして、なんかおもしろい言葉があったら、是非ワタクシにネタ提供お願いしますニコニコ

 

 

こちらのテキストは、

ライブ授業で使うためのもの。

 
国語のパートを執筆してます😊
 

自学用の教材や各種試験については、
厳密に正解が1つに絞り込めるように細心の注意を払いますが、
授業と併用されるテキストは、
先生の講義と合わせて、
より理解が深まることを最優先に設計されています。

ぜひライブ授業と共に活用してほしい。
そして、1人でも多く国語好きが増えますように。

 

 

『兎、波を走る』レビュー(前半)からの続きです。

 

  ストーリー

『兎、波を走る』というタイトルを聞いたとき、ああ、次は不思議の国のアリスなんだな、ってすぐ想像ついたけど、実際は、アリスは、なんというか、物語の外枠って感じ?

 

ざっくりいうと、アリスの世界を大枠にして、チェーホフの『桜の園』とピーター・パンを散りばめつつ、テーマのメインは脱北スパイの安明進の話で、そこに現代の仮想現実(メタバースとか)の問題を重ねているというイメージ。

で、野田秀樹のいつものパターンなんだけど、メインテーマは後半にならないと出てこない。「平熱38度の一線」というワードは早いうちから出てきていたから、北朝鮮の問題が後半フィーチャーされるかもなぁ、って予想はできたんだけど、高橋一生扮する兎が、脱北スパイとは気づかなかった。あとで役名を見たら「脱兎」ってなってた。ああ、なるほど、と後から合点がいきました。

 

前半は、現実世界のおとぎの国(=遊園地)と、妄想の世界(=後に仮想現実と重なっていく)を行き来しながら、仮想現実と現実の問題が前面に押し出される感じで進んでいくんだけど、その仮想現実と現実の間の「一線」と重なり合うように、南北朝鮮を分断する「38度線」がフィーチャーされてきて、最後は、完全に安明進と拉致被害者の話になるっていう流れ。

 

毎度のことながら、言葉の情報が多すぎて、話についていけないんだけど、全体の半分くらいしかわかってないはずなのに、なぜか場面場面で涙がこみあげてきちゃって。なにこれ?って自分でもびっくり。これってもう演出力の為せる業だよね。明確な意図をもって、まるで言葉を語るように積み上げられていく演出。そこに散りばめられる言葉のイメージ。そのコンビネーションによって、理解はできてないのに、肌で納得させられちゃう感じ。

 

ラストシーンがとにかく切なかった。

アリスママが、探し続けていた娘にやっと会えてね。ひしと抱き合ったと思った瞬間。アリスだけが消えて、アリスママが、何もない空間を抱きしめてるの。

ずっと「いない」と思って探し続けてきた娘に、やっと「会えた」と思ったのに、それすら妄想だったという切なさ。

これはもう涙が……。

 

 

  演出

もうおもちゃ箱のように、次から次から、印象深い演出が繰り出され続けて終わった感じなので、いちいち挙げてたら書き終わらないレベル。

 

まずは、やっぱりですかね。波を表す白もいいけど、私は、やっぱり、国境の38度線の鉄条網を表す何本もの赤い縄のシーン。

高橋一生扮する兎が、脱北のために「平熱38度の一線」を越えようとするんだけど、何本もの赤い縄に阻まれて先に進めない。白い兎に絡みつくような何本もの赤い線が、黒い背景に映えて、とにかく美しかった。

 

あと、を使って、アリスが大きくなったり小さくなったりする仕掛けもおもしろかった。

小林幸子や水森かおりの紅白の衣装を思い出していただけると、近いイメージかな、と思いますニヤリ

 

まず多部ちゃんのアリスが、薬を飲んで、大きくなったり小さくなったりして、そのあと、しばらくして、多部アリスを追ってきたママアリスが全く同じ演出で大きくなるの。薬を飲むと、酔っ払っちゃうんだけど、その酔い方も、未成年っぽい多部アリスと、大人の女的ママアリスが全然違っていて、やっぱり役者さんはすごいな、って思いましたね。対比がすごく興味深かった。

 

個人的に好きだったのが、チシャ猫ならぬチュチェ猫

不勉強で「チュチェ」って知らなかったんですが、調べたら、北朝鮮の政治的思想を「チュチェ思想」と言うそうです。

神出鬼没でアリスを混乱に陥れる異能者のチシャ猫と、北朝鮮の独裁体制を正当化して国を混乱に導くチュチェ思想。

この絶妙なコンビネーションは、もう神の域なのでは?

 

で、このチュチェ猫。

2mはあろうかという、カラフルでどデカい口と、直径30cm?くらいのボール状の目玉だけでできてる。口と目だけ現れるとか、まさにアリスのチシャ猫そのもの!

2人の役者さんが、そのどデカい唇の両端を持って登場。それぞれ目玉も1つずつ持っていて、猫が喋っているときに、セリフに合わせてなんかいい感じに動かしてる。唇の真ん中には大倉孝二さんが立ってて、猫のでかい口を開け閉めして話している感じを出してる。話しながら、目がぐわーん、ぐわーんって動く感じとか、唇がぱくぱくする感じとか、本当にチシャ猫そのもの! これは、もう1回見たい!

 

感動的だったのは、

アリスの拉致シーン

「新世界」の音楽が流れるだけで、セリフがまったくないのに、アリスが友達と下校中に笑顔で「また明日~」って言って別れてから、薬をかがされて気を失い、袋に入れられて、小船で沖に運ばれて、そこから大きな船に積み込まれていくところまで、まるでナレーターがナレーションしているんじゃないか?って思うくらい、見事に説明的なシーンだった。だから、その長い無言の時間の後、意識の戻ったアリスが、袋から顔だけ出して「お母さん」て言ったときの、その言葉のインパクトったらなかった。しかも、何度も何度も呼び続けるの。10回くらい言ったかな。これはすごいよ。「お母さん」を10回だよ。すごく難しい演技だと思う。でも、その10回がとにかく必然性をもって伝わってきて、聞いているだけで胸が締め付けられました。これは、演出と演技の真骨頂ですね。

 

あと、これぞ野田秀樹って思ったのが、

前口上と結びの口上

前口上はこんな感じ。

 

不条理の果てにある海峡を、兎が走って渡った。その夜は満月。大きな船の舳先が、波を蹴散らしては、あまた白い兎に変わった。アリスのふる里から逃げていく船は、代わりに兎をふる里に向かって走らせた。僕はその兎の一羽。不条理の果てからアリスのふる里へ、とりかえしのつかない渚の懐中時計をお返しにあがりました

で、これと同じ口上が最後に繰り返されるのよ。

ただし、最後の部分は、

 

とりかえしのつかない渚の懐中時計を……とうとう……お返しすることが……叶いませんでした

ってなってる。

 

冒頭で聞いたときはもう、何言ってんのかさっぱりわからないんだよね。アリスの物語としてしか受け止められないから。でも、最後に聞くと全部腑に落ちるわけ。

 

アリスは拉致被害者で、兎は北の工作員。

北の国から、何人もの工作員が白い波に乗って日本にやってくる。拉致した日本人を乗せて逃げ帰る船は、代わりに多くの工作員を日本に運んでくる。主人公はその工作員の1人。でも脱北して、北の国から被害者を帰国させようとがんばったんだけど、巻き戻すことのできない時の流れの中で、結局、帰国させることはできなかった、と。

 

いやもう、これ、すごくないですか?

入り口の「アリスの物語」と、本テーマの「拉致問題」が最後の最後でぴったり重なる感じ。

たまりません。

こういうところ、本当にブレないですよね。

野田ワールド。

 

 

  役者

役者さんについては、

高橋一生が、すごくよかった。びっくりするくらい馴染んでた。

前作のフェイクスピアは、「けっこうやるな。頑張ってるな」って印象で、ところどころぎこちなさを感じたりもしたんだけど、今回のはもう違和感ないっていうか、舞台上で生きてた。コミカルなものより、シリアスなもののほうが得意なのかな。それとも、2度目で野田芝居に慣れてきてるのかな。とにかく、よかった。また出てほしい。

 

松たか子は、キャラにピッタリ。突然姿を消した自分の娘アリスを探して仮想空間と現実とを走り回るんだけど、あの独特な話し方が、妄想と現実を境目なく行き来する感じにピッタリ。微妙に浮世離れしている感じがハマっていて、もうこの役はこの人しか無理じゃん?って思っちゃった。松たか子は個人的にもなぜか気になる女優さん。新感線の『メタルマクベス』も良かったし、あと『カルテット』もよかった。あれ、え、待って。カルテットは高橋一生と一緒じゃん! そうか。なんか、うれしいな。

まあ、何より、松たか子はスタ・レビのガチファンっていうのもある。スタレビファンに悪い人いないから。もう無条件で尊い。

 

多部未華子は、主役3人の中では、ちょっと出番が少ない役柄で、あまり印象強くはないな、なんて思って見てたんですが、クライマックスの拉致シーン。あの「お母さん」×10回の演技はもう鳥肌ものでした。声がきれいで通るから、余計に印象深かった。あれができればほかは何もいらないっていうレベル。役者さんとしての地盤を固めてますね、って思いました。テレビドラマとか見てると演技派っていう感じはしなかったけど、味わいのある人だなと思っていたので、こうして舞台で実力をつけた今後が楽しみです。実はこの方、随分昔に、とある教科書の朗読CDで朗読されてまして、別に私が立ち会ったわけじゃないんですが、その周辺の制作物に私も関わらせてもらってたっていうのがあって、以後、ちょっと親近感持ってます(笑)

 

それから、もう1人どうしても挙げておきたいのは大倉孝二。よかったです。重いテーマとシリアスなシーンが多い中、彼が出てくるだけでちょっとゆるむ。

ふっと空気を変えられるの、すごいなぁって。今回一緒にお笑い担当していたのが野田秀樹なんだけど、野田さんは、なんというか、強烈なエネルギーで笑わせる感じ? でも大倉さんはなんだろう、ふっとゆるむ。和みます。しかも、シリアスなテーマを壊しすぎないような、本当にいい塩梅だった。情けなくなりすぎてないのもよかった。

 

もちろん、野田さんがちゃんと出てるのも、めっちゃ安心感。

やっぱりね、あの甲高い声がないと、野田ワールドは締まりませんよね~ラブラブラブ

 

ということで、

書ききれなかったことは山ほどありますが、

ひとまず、

今回は純粋に、大満足のNODA・MAP 第26回公演『兎、波を走る』のレビューを前後半シリーズでお届けしました。

 

実は、今回のお芝居を見ていて、

野田演劇と昨今の思考力問題の共通点を感じたのですが、

これはまた、次回改めて書きたいと思います。

 

 

 

先月7月。
大好きな野田秀樹のお芝居に行ってきました。
NODA・MAP 第26回公演
『兎、波を走る』

 

いったん書いて寝かせたまま、

ブログにUPしそびれていたので、

遅れ馳せすぎるんですが、

レビューをUPいたします。


なんか、7月時点での書きぶりですが、

そこはご容赦ください。
備忘録的に。
ちなみに、めっちゃ長くなっちゃったので、

2回に分けました~爆  笑

******************

まだまだ先と思ってたら、もう7月。
ホントは仕事の原稿たまってて、
観劇とかしてる場合じゃないんだけど、
この息抜きで2ヶ月はがんばれる!と言い訳しいしい、出かけてきました。

午前納品の原稿仕上げて、
どうせ一人だからと、
手近にあるものを身につけてダッシュ!

途中、セブンイレブンで発券してそのまま劇場へ。

チケットは半券がほしいので絶対「紙」。
でもなかなか前もって行けなくて、いつもこの「行きがけに拾う」パターン。
発券機トラブルとかあったら、アウトだよなぁ、とか思いつつ、痛い目に遭わないと行動を改められない愚か者ですグッド!

一人のときは安い席、って決めてるんですが、同じ金額でも結構いい悪いに差があって、今回は残念ながらハズレ

舞台4分の1くらい見切れてた泣
でもまあ、一番後ろの席だったので若干伸び上がり気味でてへぺろ

めっちゃ安い席って、割と一人で来る芝居好きが多い気がする。若者ばっかりかと思ってたけど、意外と同世代もちらほら。うん、心強い飛び出すハート
さすがに学生じゃないんで、当日券に並ぶとかはしないけど、なんか、「芝居好きです」って感じがして、これはこれでいいなあ、って最近思ってる。

毎度のことながら、前置き長くてスミマセン。

で、見た感想はどうか、っていうと。

見終わって
「ああ、今日はもう仕事にならん。」
というのが第一声。

よかったのよ。
本当によかった。

パンフレットとかの販促物は、
きりがないので買わないことにしてるんですが、
今回は買っちゃった♪
パンフだけにしよう、と思って並んでたのに、
結局、戯曲掲載の月刊新潮も買っちゃった♪
そのくらい、すばらしかった。

なのでね、
席を立ってからもうずっと、頭の中の反芻がとまらない。
もう、こうなっちゃうと、書くしかないんです、私。
興奮が収まらないんですよ。
書くことが鎮静剤的な?

でも、もりだくさんすぎて、どこから書けばいいんだろう?

舞台装置も、ストーリーも
どうしてここまで作り込めるんだ? 
というくらいに凝りに凝ってるのに、
ぜんぜん凝った感じに見えない。
職人芸です。

 

 

  オープニング

まずは、初っ端。印象的な演出で魅せます。
床も壁も黒一色なんだけど、
舞台床の真ん中に、というか、舞台の奥行きいっぱいに
月の表面のモノクロ写真みたな、でっかいグレーの「◯」がある。

開演と同時に舞台を横切る何本もの縄が登場。
両端を役者さんが持って、縄で月の表面をこすると
ザザーッ、ザザーッって波のような音がする。
そのうち縄が波を打って、躍動し始める。

そして、舞台奥から主役登場なんだけど、
飛び出してきた高橋一生がデジタルでビビる。
動くデジタル一生が舞台奥に登場して、
そのまま舞台最前端まですうーって移動してくるんですよ?

ナニゴト?
まじでビビった。
一瞬、ホログラムかと思っちゃった。
え、もうそんな技術が???って。

実は、紙に投影された映像で、
その紙をうしろからバーンと破って本人登場。

どこまでが映像でどこからがリアルかわからない。
この作品のテーマの1つである、仮想現実と現実の問題が、
セリフではなく、演出として提示されている。
初っ端から心鷲摑みです。
この威力。すごすぎる。
とにかく、とにかく、すごかった。
 

 

  舞台装置

ステージの奥は、黒い壁で隔てられていて、その壁の奥に第2ステージがあるんだけど、その壁の開き方が、またすっごくかっこいい。壁の真ん中に「◇」の穴が空いてね、それがすーーっと大きくなる感じで開いていくの。

なんていうか、カメラのシャッターみたいな感じ?

あの仕掛けがとにかくおしゃれ。

現実と仮想空間を行き来するテーマにピッタリの近未来感だった。

 

模型の写真撮影OKだったので、こんな感じ。

 

この模型だと、壁の「◇」が少し開いていて、

奥の第2ステージがチラ見えしてるね。

 

それから、鏡をふんだんに使ったエフェクトも秀逸。

鏡の迷路に入ったような、

合わせ鏡で人物が何重にも重なって見える感じとか。

アリスっぽいよね。

同時に、無機質な空間に迷い込んだ感じがすごくよく出てて、サブテーマの「仮想空間」を彷彿とさせる効果も満点。

 

そして、舞台奥でふりこになってゆれる大きな時計も印象的。

ぱっと見は、兎の懐中時計っぽくて、アリスの世界観なんだけど、

現実の「時間」の経過を暗示するものでもあって、

後半、長年放置された北朝鮮の拉致問題とクロスしていくっていう、重要なアイテムになってる。

 

という感じで、大道具系は硬質で無機質なイメージなんだけど、

小道具は、逆に、縄とか、布とか、油紙っぽい茶色い紙とか。マテリアル感が強い素材が使われてた。しかも、カラフル。

 

そういう質感とか、色とかの対比も、もしかしたらテーマとからんでるのかもしれない。1回見ただけじゃ、そこまで分析できないけどね。なんか、意図を感じました。

 

そうそう。装置といえば、舞台には、アリスの落ちた丸い穴もあったんだけど、あれも不思議だった。舞台に直径1~2m(?)くらいの穴が開いて、役者さんがそこから出入りするんだよね。妄想の世界への入り口になったり、螺旋階段になったり、こっそり早変わりの装置として使われていたり、とにかく、便利に有効活用されてたんだけど、穴が閉じるとどこに穴があるのか全く分からないの。すごい技術だよね。どうやって開閉してるんだろう。

 

ああいう装置って、演出家のアイディアを実現させるために、プロの技術者のみなさんがいろいろ知恵を絞るんだろうな、って思うと、もうそれだけでわくわくしてくる。ああ、楽しいだろうなぁ、って。いや、ほとんどは苦しいのかもしれないけど。

でも、「んなことできるかっ!」とか文句言いつつ、なんだかんだで実現させちゃうんだろうな、みたいな。大量生産じゃなくてね。その舞台のためだけにアイディアを絞るっていうのがもうシビれます。何箇所かで公演する場合は、舞台サイズも違うだろうし、そういう調整とか、どうしてるんだろう。そういう見えないところがどうしても気になっちゃう。

 

  衣装

衣装はもう派手派手のデコデコ。ただし、主人公を除いて(笑)

おもしろいよね。舞台と主人公が地味なの。

高橋一生は兎だから白一色だし、多部ちゃんはアリスだから水色。松たか子はアリスを彷彿とさせるけどちょっとくすんだ青を基調とした衣装。

 

でも、埋もれないんだよね。

例えば、派手派手衣装の子供たちの中に、多部ちゃんが混ざってた時。

子供たちは全身カラフルな細かい柄物なの。でも、多部ちゃんはべったり水色一色だから、シンプルなのにぱっと目がいくようになってる。なるほどー、って感じだよね。

 

あとは、ライトの効果とか。

例えば、兎が軍隊で隊列組んで行進しているシーン。

全員白服。その隊列の真ん中あたりに紛れている高橋一生にちゃんと目が行くのはなんでかなぁ、と思ったら、高橋一生にだけ、うっすらスポットライトが当たってんの。

なるほどぉ。こういう使い方があるのね、ってね。

人の目の誘導の仕方。めっちゃ勉強になった。

 

で、その高橋一生の兎の衣装なんですがね。

これが、もう、めちゃくちゃかっこよかった。

欲しい。飾っておきたい。てか、なんなら着たい。

色は真っ白でシンプルなのに

デザインが凝ってる。

フード付きの白の長めのパーカーなんだけど、モッズコートみたいな感じ。

腰やら腕やらに共布ベルトがいっぱいついてて、躍動感がある。

演技で動くとさらに動きが出て、すっごく軽やかに見える。

あ、フードにはうさぎの耳みたいなのもぶら下がってたな。

 

とにかく、ちょーおしゃれ。

で、これまた高橋一生がさらりと着こなしてるから!!!

あの衣装で、高橋一生がランウェイ歩いてもいいんじゃないかと思っちゃったよ。

今回の衣装は、高橋一生が一人勝ちでしたラブ飛び出すハート

 

ということで、前半は、ここまで。

続きは、後半で!おねがい

 

 

 

 

実家の父が趣味で家庭菜園をしている。

夏は野菜の成長が速いので、

じゃんじゃん送られてくる。

 

 

実家のゴーヤーと

実家のモロヘイヤ。

実家のとうもろこしに

実家のピーマン。

にんじん、きゅうり。

 

今日は、実家産の緑黄色祭りだった。

 

食後は、実家のスイカ。

フルコースである。



父の農作業を見ていると、

全くの素人なので、

「育てる」というよりは

「育つのを見てる」という感じ。

野菜の成長する力に任せておいて、

いい感じのところでいただく。

 

だから、皮が硬かったり、

きゅうりみたいに巨大なオクラが送られてきたり。

 

たしかに、

売り物みたいに口当たりがいいものではないけれど、

味も色も濃い。

食べた時の歯ごたえが違う。

 

栄養価ももちろんだけど、

持っているエネルギーがそもそも違うんだと思う。

 

促成栽培の野菜より、露地物のほうが、栄養価も高くておいしい、というのは、

大人なら誰もが「まあ、そうでしょうね」ってうなずくレベルの常識なのに、

なんで、人間の育成は

促成栽培が最上級になってるんだろ、って。

改めて思う。

 

英才教育を否定するつもりはないし、

早めに環境を整えるのは大事だと思う。

 

でも、本人のペースを無視して

「無理やり成長させる」のは、本人にとっても、周りにとっても、決して良い結果にならない。色も味も栄養価もうっすい人間は、近い将来、機械に敗北してしまうだろう。

 

でも。

わかってるのに、なかなか実践できない。

 

父の作った、パプリカのような肉厚のピーマンを食みつつ、ふと、「助長」という故事成語が思い浮かんだ。

 

「社会の不安を助長する」

「国際化を助長する」

のように使われるこの言葉。

漢字からなんとなく意味が類推できますよね。

「助けてのばす(長)」的な。

辞書を確認すると、「人や物事に働きかけて、ある傾向を強めたり成長させたりする」というような定義で、良い意味でも悪い意味でも使います。

 

私は、個人的には悪い意味で使うことが多いです。

というのも、もともと悪い意味なので。

 

元となる故事を知ったとき、「ええー、そんなことある?」って思ったので、私の中では印象深い言葉の一つ。

 

簡単に言うと、作物を早く成長させたいと思った農夫が、苗が伸びるように一生懸命引っ張って成長の手助けをした結果、全部枯れてしまった、っていうお話。

『孟子』(公孫丑・上)に出ています。

 

丸1日、畑の苗を引っ張り続けて帰ってきた農夫のセリフが傑作で、こんな感じ↓

 

今日病(つか)れたり。予(われ)苗を助けて長ぜしむ。

今日はくたびれた。苗を引っ張って、早く生長するように助けてやった。

 

「オレ、今日頑張ったゼ」感がハンパない。

自分で何をやっちゃったか、全く気づいてないわけですよ。

 

で、それを聞いた息子が血相変えて畑に飛んでったら、案の定、作物は全滅してたというね。

 

いやいや。

びっくり。

はやく育てたい気持ちはわかるけど、いい大人なら、引っ張ったら絶対ダメなの、わかるでしょうよ! というのが最初の感想。

「ありえん」と。

しかも、息子の方が察しがいいってどういうこと?

愚か者すぎる。

 

ああ。でも。

自分の人生振り返ると、やってたね。

子育てで。

 

たとえば、ウチの娘は小学2年生からバスケをやっていて、まあわりと早い段階からいい感じに目立ってたので、コーチとか顧問とかからも強豪校に入れたほうがいいとか言われてね。

スポーツ苦手だった私としては、ちょっと浮かれちゃってて、

強豪校の体験練習に連れて行ったり、

プロの下部組織に突っ込んだりして、

そこでそこそこやるもんだから、

ますます『私が』がんばっちゃって、

結局、バスケ嫌いにさせちゃった。

まあ、正確には「嫌い」の直前で踏みとどまったけど、今はもうやってない。未練もないらしい。母親としても、ファン1号としても、絶対やっちゃダメなやつだった。

 

丁寧に丁寧に苗を引っ張って枯らしたおバカさんのこと、全然笑えません。

大人の方が、したり顔でそういうことをやりがちなんだろうね。

 

植物を育てるのに必要なのは観察。

水は足りているか、栄養は十分か。

逆に過剰摂取になっていないか。

 

そんなの小学校の理科で最初に習う常識。

 

しかも。

その土地の特性や気候。日々変化する環境。

発育が教科書通りに進むわけがない。

 

芽や葉の様子を毎日欠かさずひたすらよく見て、

植物の声を聞く。

それがいちばん大事なのにね。

 

知識としてはよく分かってる。

なのに。

 

よくある育児指導とかに右往左往し、

周りの優秀な子と比べて一喜一憂しちゃうんですよね。

 

そのとき、何より問題なのは、

今、自分が、ほんとうに大切にしたいと思っているものに対して『助長』をしちゃってるという認識がないこと。

 

まあ、私自身が万事そんな調子の子育てで

ほんっーーーーーとに、いろいろありまして、

紆余曲折の末、到達した結論は、

「母は偉大なる傍観者となるべし。」

 

そのための細かいコツはいろいろありますが、

とにかく、請け負います。

間違いなくこのポリシーは万能薬。

 

 

 

 TODAY'S
 
今日は本紹介の日!

 

今日ご紹介するのは、

ふるたたるひ

『ロボット・カミイ』


子供のころ、何度も何度も読みました。「大好き」というのとは違うんです。なんだか、どうしても気になって読んでしまう。そんな作品。

 

主人公カミイのことはさっぱり理解できないし、まったく擁護する気も起きないのに、なぜか心惹かれてしまう。

とにかく、カミイのキャラ設定が秀逸すぎる作品です。

 

カミイとは、幼稚園児の「ようこ」と「たけし」が、いらなくなったダンボールで作ったロボットの名前。ようこやたけしと一緒に幼稚園に通っているんだけど、とにかく自分勝手で、いばりんぼうで、いじっぱりで、泣き虫。なのに、なんだか放っておけない。そんな存在なんです。

 

私がカミイと聞いてまず思い出すのは、涙の元。

ようこがカミイの顔を描いたときに、下がり目の泣き虫顔になってしまったので、本当に泣き虫になったらおもしろい!というたけしの提案で、水色のビー玉をいれたんです。そうしたら、本当に泣き虫になっちゃって、ビー玉のような大粒涙でわんわん泣く。

だいたいが駄々をこねての大泣きなんだけど、そうすると自分の涙でダンボールがふやけてとけてしまうんですよ。勝手なわがままで泣いてるんだから、100%自業自得なのに、なんだか読んでいるこっちまでハラハラしてかわいそうに思えてしまうのはなぜなんだろう。

 

泣くって、周りに迷惑をかけるものだと思っていたのに、むしろ真っ先に自分を攻撃してしまうわけ。しかも放っておいたら、完全にふやけて壊れてしまう。存在の危機。だから、ようこやたけしは毎回あわててなだめすかす羽目になる。で、うまいこと我儘が通っちゃって、カミイはあっさりゴキゲンになる、っていうね。

 

子供心に思いましたよ。

なにこれ。

いいの?

泣いたもん勝ち?

 

びっくりするくらい、子供に対する教訓がない。

むしろ、理不尽な子供らしさを、全部受け止めてしまいそうになる。そうなんです。これだけやりたい放題なのに、全然憎めない。このキャラクター設定が、独特で、絶妙すぎる。

 

そんなカミイですから、へんてこエピソードは、数限りないのですが、子供の頃からもやっとするお話の1つが、お店やさんごっこの回。

 

カミイのいるももぐみのみんなが手分けをしていろいろなお店を開き、小さな子が買いに来るという大イベント。

でんきや、おかしや、おもちゃや、花や……。

(ここで、一番の花形が「でんきや」なのが昭和感爆  笑

 

ももぐみの子供たちは、グループにわかれて協力して売り物を作っていくのだけど、カミイは意地を張ってしまって、ひとりグループで電気やさんをすることに。

 

1人だから商品はテレビと電気スタンドの2つしか作れず、しかもお店の飾り付けもできず。

隅っこでしょんぼり座っているから、お客さんも来ない。

 

おもしろいのは、そんなカミイの可哀想な状況を見て、ようことたけしは、まるで本物の親のように、はらはらしたり、イライラしたりしながら、遠巻きにカミイを見守っているんだよね。

で、やっとお客さんが入ったのを見てふたりともほっと胸をなでおろしたりしてる。なんて出来た子供なんだろう。

 

一方のカミイは現金なもので、自分のテレビが売れたら、一気にゴキゲンになっちゃって、

「ぼくのテレビはすぐうれる/ひとりグループだってへいきだよ。」

と、でたらめうたを歌い出す。

さっきまで半泣きだったのに!

なに、この全く反省のない感じ。

教訓皆無。

 

もちろん、ようこも、たけしも呆れてる。

 

でも、なぜかそれを見ている幼稚園のにしの先生はにこにこしてる。

なんでにこにこしているのか?

当時の私はもやもやしてどうにも腑に落ちなかった。

なんで、こんな勝手が許されてるんだろう?

 

なのに、カミイが嫌いになれないのは、なんでなんだろう?

 

で、そんなカミイにとんでもない事件が降りかかる。

なんと、ブレーキが壊れたダンプカーがお散歩中の子供たちの列に突っ込んでくる大ピンチ!

 

で、カミイが咄嗟に飛び出すのよ。

しかも、そこに悲壮感とか、ヒロイズムとか一切なし。

なんか、ぜんぜん普通に飛び込む感じ。

びっくりだよね。

自分は鋼鉄製だと思い込んでるから、ダンプカーを止められると思って疑わないわけ。でも、実際はただのダンボールだからね。止めることはできたけど、自分はぺちゃんこになってあっさり死んでしまう。

 

そのうえ、ももぐみのみんながカミイの死を悼んで、泣きながらお葬式をしていたら、いきなりけろっと生き返ってさっさとロボットの国へ帰っていくという、まさに嵐のようなお騒がせロボット。

 

自由奔放で、嫌われるギリギリのところでなぜか愛されるという、稀有なキャラクターだと思います。本当につかみどころがなくて、これは計算して生み出されたキャラクターなんだろうか?と、なんだかこわくなるほどです。「いい」とか「悪い」とかで片付けられない「リアル」があって、それが長く愛される理由なのでしょう。たぶん、実在のモデルがいたんじゃないのかな。って思う。もし、完全に頭の中だけで生み出したキャラクターだとしたら、本当にすごい。ふるたたるひ先生天才です。

 

とにかく、理解を越えた絶妙なバランスで成り立ってる愛されキャラ。

 

実家の本はもうボロボロだったので、

娘たちのために購入し直したところ、

我が家でも繰り返し読まれました。

 

「いい子」じゃなくていいんだよ。もっと感情のままに自由に行動してみよう。そんなメッセージを全身で表現しているカミイ。ああ、そうか。1ミリのウソもなく、全力で生きているから魅力的なのかも。

 

それで腑に落ちた。

私、あのころから、解放されたかったのかも。

このブログを書きながら、そんな気付きがありました。

 

あるべき姿を強いられて、

閉塞感の中で生きている今の子たちに。

いや、

「ねばならない」に疲れた大人たちにも。

ぜひ読んでほしい。

 

やんちゃ、上等!

 

 

 

 

 

先週、ン歳の誕生日を迎えました。

 

4月から大学生になり、

遠方で一人暮らしを始めた次女から、

誕プレが届きました。

北海道の海の幸。

 

バイト始めたから奮発したと。

私の大好きなホタテといくら飛び出すハート

 

5年分、前払いだそうですびっくり

誕プレの前払いとか、

初めて聞いたわ爆  笑爆  笑爆  笑

 

次女らしくて笑いますが、

実家にいたころは、私の誕生日なんて、全然気にもかけてなかったことを思うと、

離れたことで、親の姿が見えたのかもな、と思ったりして。

なんか、このあたりにも、親子関係に関するおもしろいヒントが隠れていそうだと感じています。

 

まあ、そういうことは、

また別の機会に考えるとして、

難しいこと抜きに、素直にうれしかった。

 

 

長女は毎年、仕事場に置く小物を贈ってくれます。

今年はハーバリウム。

 

私の好きなアシッドカラー。

ぱっと目を引く大きめの花も好み。

 

みごとに「相手の好きそうなもの」を見繕ってくるあたり、

ホントによく人のことを見ている。

 

 

でも、何よりもうれしかったのは。

それぞれの娘とゆっくり話ができたこと。

 

朝8時には、次女からの電話。

 

4月に北海道に行って以来、

「〇〇送って。」

「○○のお金振り込んで。」

以外は音信不通状態。

まあ、私も学生のころはそんなもんだったので、因果応報って、諦めてたけど。

 

でも、誕生日のお祝いには電話してくれるんだな、と思うと、かなりうれしい。

2時間近く近況報告を受けました。

親元を離れ、生き生きと新しい体験を積み重ねている話に、エネルギーをもらいました。

 

午後は長女。

昼食後の何気ない雑談から話が深まり、

なんと4時間半!

かなり深い話を延々と。

 

数年前。

親子関係が崩壊寸前だったことを思えば

奇跡的な回復。

 

ほんとうに何よりの誕生日プレゼントだった。

 

 

親子関係のキモは言葉。

話す言葉と話さない言葉の選択。

言葉にならない言葉のコントロール。

そのための思考のあり方。

 

苦労した私だからこそ

伝えられるものがあるんじゃないかと思ってる。

 

コツの1つは。

子供が自発的に話し始めたときの対応と言葉選び。

 

数年前。

とある事件をきっかけに、

私が少し考え方を変えて、

言葉に少し気をつけたことで、

子供たちが心を開いてくれるようになり、

積極的に自分のことを語ってくれるようになった。

 

親子関係は、

いつからでも変えられる。

 

「ことのは」の力が

やさしい親子関係を育むことを

多くの人に知ってもらいたい。

 

そして、

親子関係が安定すると、

子供は勝手に考え、

勝手に学ぶようになる。

 

思いを新たにした1日でもありました。

 

 

 

月に1度のエッセイ講座。

私はワークショップの制作側として関わりつつ、参加者としてエッセイも書いています。

 

ワークショップで伝えていることを

自分で100%実践できているのか?という点については。

解説者がよいプレーヤーであるとは限らないように、

なかなか胸を張って「YES」と言いにくい現状ではありますが、

失敗を恐れず、

プレイヤーとしてもこだわっていきたいと思っています。

 

今月の課題は

マシュー・サイド

『失敗の科学』

 

 

 

いつもは、書評寄りに書くことが多いのですが、

冒頭、医療ミスの話が出てきたために、

もう、このテーマ以外、思い浮かびませんでした。

 

エッセイはここから

 ↓ ↓ ↓

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義母が亡くなったのは、今からもう20年以上も前のこと。

54歳だった。

 

かなり太っていて腎臓が悪く、心臓も悪かった。

カテーテル手術を受け、経過は良好。

体重改善が長期課題として提示され

「散歩など積極的に身体を動かしてください」と言われた。

 

退院後、義母は毎日散歩を始めたが、

散歩中に苦しくなる、胸が痛いと医者に相談した。

医者は、体重のせいです、がんばってと義母を励ました。

義母は苦しさに耐えて散歩を続けた。

 

経過観察の検査の日。

付き添いに行っていた夫から

職場に突然の電話。

容態が急変したからすぐに病院に来て、と。

 

私が着いたときには、

もう手遅れの状態だった。

ベッドに横たわる義母の心臓が不自然に波打つ。

機械で動かしている状態。

機械を外すか否かの判断は、家族に委ねられたが、

外す以外の選択肢は、事実上なかった。

 

単なる検査のはずだったのに、なぜ?

 

家族が別室に呼ばれ、

2人の医師から説明を受けた。

 

「カテーテルの手術は、心臓の前側2本の血管に対して行われました。でも、実は、心臓の裏にも血管があったんですよ。その血管も詰まっていました。」

 

血管が1本詰まったまま運動を続けたせいで、病状が急激に悪化したとのことだった。

 

心臓の裏側に血管があることが新発見だった、というような医者の口ぶりを、私は今でも鮮明に覚えている。

 

医者でしょう?

心臓の裏に血管があるのは知っているでしょう?

見落としていたのは、「血管がある」ことではなく、「その血管が詰まっていた」ことでしょう?

 

そんな言葉をぐっと飲み込んで、

激昂する義父を、ただただなだめた。

 

そして、このレベルのミスは結構あるんだろうな、と肌で感じた。

なぜ、義母が「胸が痛い」と言ったときに、向き合ってくれなかったんだろう。

忙しかったから?

義母がちょっとめんどくさいタイプだったから?

 

あの担当医は、今ごろどうしているのだろうか。

術後の胸の痛みを訴える患者の声を、

ちゃんと聞いてくれているのだろうか。

 

私自身、とっさに失敗をごまかそうとしてしまうことは、正直ある。

でも、その度に、

「実は、心臓の裏にも血管があったんですよ」

という言葉を思い出す。

 

あんなカッコ悪いことは、

私は絶対したくない。

 

*****************

 

 

 

 

今日ご紹介するのは

兼好法師『徒然草』

 

1冊というより、

1段にフォーカスしてご紹介します。

 

この仕事をしていて、得してるなと思うのは、

自分が興味あるなしに関わらず、

与えられた文章と向き合わざるを得ないということ。

 

え、それってむしろ苦痛なのでは?

と思うかもしれません。

 

まあ、確かに娘とバンバンやりあった後に、親子不仲の小説の問題を作らなくちゃならなかったりすると、けっこう凹みます。というか、客観視できなくてしばらく仕事になりません爆  笑

 

あるいは。

すごく前向きな小説の解説しなくちゃならないのに、運悪く私自身がメンタル落ちてたりすると、けっこうしんどいです。

でも、それもまた、何かの気づきになったりするわけで、

結果的に、浮上できたりもします。

できないときもあります爆  笑

 

で、今回は今抱えているもやもやの突破口となるような文章に、ピンポイントで出会っちゃったので、

ホットなうちにそれをご紹介しようと思いました。

 

  古典エッセイのいいところ

『徒然草』は鎌倉時代末期のエッセイ。

隠居生活を送っている兼好法師さんが、

日々のヒマにまかせて書いてます。

けっこう『枕草子』の影響を受けているんですが、

それはまた別の機会に書けたらいいなぁ、と思います。

 

で、古文のいいところは、

内容が比較的シンプルで根源的だということ。

 

物事って、進化していくうちに細分化されていくじゃないですか。

 

例えば学問。

多分古代ギリシアでは「学問」=「哲学」とか「神学」とか、ほんとざっくりした捉え方だったんだろうけど、今じゃ、学問の分野なんて数え切れないほどあって、細分化・専門化が進んでる。

 

古文は、いまから数百年、中には1000年以上前に書かれているものもあるくらいだから、細分化されて複雑になってしまった現代よりも、生活や考え方がシンプルな時代のもの。だから、書かれるものもシンプルで根源的。

 

なので、いろいろ複雑に考えすぎて頭の中がごちゃごちゃになったときに、「そもそもどうなの?」というそもそも論に戻れるっていうんですかね。余計なことを取り去って、本筋を考えるのにすごく役に立つと思ってます。(あくまで個人的な考え方です。)

 

  『徒然草』188段からのアドバイス

教材ではよく使われている段なので、何度も教材化してるし、内容もわかってるんだけど、このタイミングで巡ってきたことに、すごく意味があった。

 

実は私、少し前からいろいろ新しいことに手を出して、それぞれ展開し始めちゃったものだから、手一杯になってしまって身動きとれなくなりつつあるんです。どれも成功させたい、でも、それぞれにかける時間がうまく捻出できなくて、いろいろ遅れ気味。

いらいら。

そんな私に、この文章は響きました。

 

要約すると、何か成し遂げたいのなら、何が大事なのか、いちばん大事なことを見極めて、あとは捨てなさい、って話。


例えば、「説教師(仏教の布教活動をする人)になろう」って思ってた人が、まず馬に乗る練習を始める。説経会場に行くのに、馬に乗れないとかっこ悪いからね。で、次に当時流行っていた歌謡を練習し始める。説経をしたあと、檀家さんが宴会してくれるときに、何の芸もないとちょっと残念かな、とか思っちゃってね。真面目だからがんばっちゃって、馬も歌謡もなかなかの熟練になってきたもんだから、もっと立派にできるようになりたいって思っちゃって、結局説経のほうを学ぶヒマがなかったっていうお話。

 

アホか。って思うんだけどね。

でも、よく考えてみると、結構似たようなことやってんのよ。

いろいろ言い訳しながら、枝葉末節に逃げちゃう。

自分の中心である「幹」の部分で本気で勝負して失敗したら、もう立ち直れない気がするから、まずは周りから固めていこう、みたいな。

ありませんか?

私だけかな。

 

今回の私は、「新しいことに挑戦する」という、ちょっといい感じの言葉を隠れ蓑にして、「本来本気でやるべきこと」から逃げてたかもなぁ。と。

 

兼好法師さんが言うんです。

 

「一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るるをも痛むべからず。人の嘲りをも恥づべからず。万事に代へずしては、一の大事成るべからず。」

一つのことをなんとしても成し遂げようと思うのならば、他のことがだめになっても嘆いてはならない。他人の嘲笑も恥じてはならない。すべてのことと引き換えにしないで、一つの大事が成就するはずはない。

 

つまり、馬に乗れなくて笑われたとしても、何の芸もなくて残念なやつと思われたとしても気にするなってこと。あんたは説経師なんだから、説経が抜群だったら問題ないよね、ってこと。

 

多分、これは、1つのこと以外しちゃダメってことじゃなくて、優先順位の話をしているんだと思うのよ。あと、なんとしてもそれをやり切るぞ、っていう覚悟ね。

一事をなすためには、退路を断って進め、と。

で、それで成功したら、改めて次に行けばいいってことなんだよね。

 

まあ、人それぞれだからね。

マルチタスクが得意な人もいるから、これがすべての人に当てはまるとは言い切れないけど、でも、いろいろごちゃごちゃになって立ち往生している人にとっては、すごく響く言葉なんじゃないかと思う。

 

まさに。今の私!

兼好法師さん、ありがとう。

 

こんなシンプルなアドバイスがほしいときには、

『徒然草』オススメです。

時空を越えた先達の言葉。

最近は読みやすい訳もいっぱい出てます!