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ことのは徒然

日々の徒然に思いついたことを書き留めてます。

「学習スタイル診断」というものを受けてみました。

こういうものは、すがりついてしまうとアウトだけど、

物事を整理したいときの糸口としてはとても有効。

 

実践統合型の心理学という感じかな。

その人の持って生まれた本質を見るというよりも、

今の顕在状態を言語化して確認するイメージ。

 

web上でそれなりの数の質問に答えて、

その回答から結果が導き出される。

出てきた数値だけだと何が何だがわからないんだけど、

個別にレポートを作成した上で、

ちゃんと時間をかけて解説してくれるので、

きちんと理解できました。


特に興味深かったのは、

「学びの特性」と「優位感覚」。

 

「学びの特性」は、5つのカテゴリーがあって、

合計80点で点数が配分される。

 

発明型(いわゆるゼロイチタイプ)

思索創造型(沈思黙考タイプ、孤高の芸術家肌)

関係影響型(人間関係重視タイプ)

表現実行型(考えるより行動派)

組織的遂行型(組織的なものを好む人)

「あなたはこれです」って1つを提示されるのではなく、

自分の中に、どれがどのくらいの割合で入っているのかっていう見せ方が好み。

「私ってこういう人間」というふうに決めつけて終わるのではなく、

結果をもとに、どういう学び方をすると楽しく効率的に身につけられるのかを考えるための資料。

 

「優位感覚」は、大きく「聴覚型」「視覚型」「触覚運動感覚型」の3つあって、それぞれさらに細分化されてる。

全8タイプ。

 

聴覚型

――聴覚型(聞く)

――発話型(話す)

視覚型

――ピクチャー型(図や動画を見る)

――活字型(文字を読む)

触覚運動感覚型

――触覚型(手を使う・触る)

――記述型(文字を書く)

――スケッチ型(図や絵を描く)

――全身型(全身を使う)

本来は、小中高のお子さんと親御さんに受けてもらって

よりよい学習環境を整えていくためのツールのようです。

 

うちは娘2人は、もう成人しちゃってるけど、

今までの振り返りも兼ねて、親子で診断してもらいました。

 

 

  学びの特質

で。

「学びの特質」で親子3人の明らかな共通点発見!

「組織的遂行型」の点数がめっぽう低いびっくり

 

母: 0

子A: 5

子B:-2

 

いやいや。マイナスって!!!

マイナスってあるんですか?

って思わず聞いちゃったよ笑い泣き

 

どおりで我が家は、いっつもばらんばらんのカオス状態だったはずです。納得。

社会性皆無親子。

社会との距離感で一番苦しんでいた子Aがいちばん点数が高かったというのもびっくり。

そうか、少し社会性があるからこそ、苦しかったんだね。

 

私も、5年前に受けてたら、多分20~30点はあったんじゃないかな。

「ねばらない」で生きてたからね。

だから、「とうとう0点まできたか。少しずつMUST思考を手放せてるんだな。」って、むしろうれしかった。

 

5つの特性のうち、「発明型」と「思索創造型」はどちらも頭の中で考えるという点で連動しているから、合算で考えるらしいんだけど、私、なんと合計で60点近かった。

で、「表現実行型」がたったの3点。

 

えーーー、だめじゃん!

考えてばっかで何も行動できないヤツ!!!

わかってたけど!!!!!!!

 

でも、客観的な数値として提示されると、

冷静に「なるほどね」って思える。

現状がわかれば、あとは、単に選択の問題じゃないですか。

この数値差でもあえて「表現実行」の部分を伸ばす努力をするのか、

あるいはもう諦めて「表現実行」が強い人とチームを組むのか。

 

まだ10代なら、少し補強したほうが将来楽かな、とか

もうン十歳だから、得意なところを出していこう、とか

考え方はいろいろ。

 

いい悪いじゃないのよ。

足りないものを努力して伸ばしたからって、

幸せになるとも限らない。

でも、幸せになるかもしれない。

 

すべて選択。

後悔しないためには、

こうやって、情報を得て、考えて、自分で選択する。

自己責任なら結果を受け止めやすいし、

受け止められれば、また次の手を考えられる。

これが私の考える国語力なんだよね。

 

で、私はどうしようか。

ということで、

現在、国語力をフル回転させて熟考中です😊

(はよ、決めて行動せい!)

 

  優位感覚

せっかくだから「優位感覚」についても

書いておきます。

全8タイプ中上位3タイプを教えてもらえるんだけど、

自分の結果を見て、

「ああ、やっぱりな」と思ったのが

「活字型」が入ってなかったこと。

 

この仕事してますが、

実は文字を読むのが苦手。

とにかく遅い。

打ち合わせとかで、突然資料を渡されて

「ちょっと今、目を通してもらえますか?」

って言われるのがもう拷問。

しかも国語のプロなわけだから、

もうハードル上がりまくりだからね。

「平澤さんなら、ささっと読めますよね」的な。

 

確かに理解はできるのよ、でも「おそろしく遅い」の!

 

なので、この結果にちょっとホッとした。

もう仕方ないや、と思うしかない。

 

「優位性がない」っていうだけのことで、

「できない」わけではない。

いや、むしろ苦手だから、じっくり読むしかなくて、

だから、今、この仕事ができてるわけなんだよな、と思うと

もう、「逆天職」だよね、これ。

 

で、インプットとしての「活字型」は入ってないのに、

アウトプットの「記述型」は入ってるの。

笑える。

だから、やっぱり執筆業は天職なんだろうね。

 

 

で、おもしろかったのは、

物心ついたときから本の虫だった娘も

「活字型じゃなかった」ってこと。

 

これはびっくり。

あー、やっぱり外れることもあるんだ、と思ってたんだけど、

ふと気づいた。

そういえば、この娘。

物語は、アホみたいに読むけど、

論説文的なものとか、実用書とかは一切読まないな、と。

 

そう。

彼女の場合、あまりに「思索創造型」の気質がすごすぎて、

「活字の不得意さ」を軽く凌駕しちゃってた、ってこと。

私の解釈では、

物語の世界が大好きな彼女の場合、

その世界に没入してるから、

文字を追うっていうより、

文字に先走るようにイメージが膨らんでいるってことなんだと思う。

自分の中で膨らむイメージを推進力にして読んでる。

そう考えると、読むのがやけに速いのも納得できる。

で。

だから。

好きなもの以外は読む気が起きない。

おそらく、読んでも頭に入ってこないんだと思う。

 

なるほど。

そうすると、

私が想像力豊かな小学生までは本が大好きだったことも、

絵本や児童書なら、今も楽しく読めることも、

なんか説明がつく感じがするな。

 

ふむ。おもしろい。

 

私もビジネス書や実用書はめちゃくちゃ苦手で、

頭に入ってこないんだけど、

やっぱり「学ばなきゃ」とは思うわけで、

そういうときは本じゃなくて、

優位性を活かしたツールを使えばいいってことね。

書籍に関わる仕事をしていてどうなの?

って思わなくもないけど笑い泣き

 

で。

スポーツが得意で

3人のうち、最も活字と縁遠いほうの娘に

「活字型」が入っていたという皮肉。

 

ま、人生なんてそんなもんなんでしょう。

お後がよろしいようでてへぺろグッド!

 

 

自宅に来た知人がノートを置き忘れて帰ってしまいました。

 

後で気づいた私は、
慌ててLINEに
「ノート忘れたみたい。」
と書こうとして、

ん?

なんか、これだと私が忘れたみたいだよね?と。

スマホのフリッカー入力が苦手な私は、

最小限の文字数で正しく伝えたい。
さて、どうしたでしょうか?






答え
「ノートお忘れみたい。」


おー、敬語便利~!!!

尊敬語を使えば、主語は相手で確定です。
同じ文字数なのに、誤解のないカンペキな内容👍

中学の敬語学習。
めちゃ大事ですよ!

エッセイ講座。課題提出締切日です。

もうほんと。

毎回締め切りギリギリで、

毎回書こうか諦めようか迷って。

 

今月は、それでもまだ明るいうちにアップできそうです。

正直、いろいろ不安要素はあるのですが、

もう、えいやっと。

ニンゲン思い切りも大事てへぺろ

 

ライターとして四半世紀やってきたとはいえ、

ずっと、言われたことを形にするという請負作業をしてきました。

 

どれだけクライアントの意向に沿って、

クライアントが思っていた以上の形で提供できるか。

それが、最重要ミッションでした。

 

なので、いざ、まっさらな状態で、

「好きに書いていいよ」と言われると、

恐怖がわいてくるんですよ。

こんなこと書いて意味あるんだろうか?って。

だれのためになるんだ?って。

 

でも、自ら発信したい、っていう強い思いもある。

 

なので、毎回。

断崖絶壁から飛び降りるような気持ちで

「投稿する」ボタンを押してます。

 

前フリが長くなりました。

 

今月の課題本はこちら。

伊藤亜紗『記憶する体』

 

体について研究している筆者が、11人の障害を持つ方にインタビューした身体の使い方や身体の記憶についての物語。

 

以下、エッセイです。

 

*********************

 

障害をもっている方の身体は二重性、多重性を持つ。

筆者はそう言っていた。

 

例えば、中途障害者の方。健常者だったころの身体の記憶と、障害をもつようになってからの身体の記憶。2つの記憶が融合して、その人の身体のローカル・ルールが作られているという発想。

 

これを聞いたときに思ったのは、

これは、障害の有無に関わらないのでは?ということ。

 

たとえば野球の剛速球投手。

若い頃。普通に投げさえすれば、球はビュンビュン走って、ジャンジャン三振がとれた。

なのに、いつの間にか。

同じように投げているはずなのに打たれるようになる。

 

そのまま、豪速球のイメージが捨てきれず、肩や肘を壊して引退していく選手。

逆に、緩急を使い分ける技巧派に生まれ変わって再ブレイクする選手。

 

前者は自分の老いを、つまり、若いころの自分と年齢を重ねた自分という、身体の二重性を受け入れられなかった例。

後者は受け入れて新たなローカル・ルールを生み出した例。

 

老いは障害と違って、変化が緩やかだから本人が気づきにくいし、受け入れにくい。

 

かくいう私も、いつの間にか右腕が上がらなくなっていた。

いわゆる、ン十肩というヤツである。

 

中学校までは器械体操をしていて、体は人一倍柔らかかったはず。

あのころは、ブリッヂして自分の足を手で摑めたはず。

でも今は。

右腕が痛くて、後ろで手を組むことすらできない。

 

なのに!

 

デスクで仕事をしている最中に、真後ろにあるものを取ろうとして、ひょいと右腕を伸ばしてしまい、激痛に苦しむ……なんてことがちょくちょく起こる。

 

両腕が自由に動いたころの記憶が、身体にしみついているからなんだろう。

豪速球が諦められない投手みたいだ。

 

もちろん、動かないから諦めようというのではない。

 

これまで、何のメンテナンスもしてこなかったツケでもあるわけだから、そこは、これからも長く使えるように、少しずつメンテナンスをしながら、

でも、無駄に抗うのではなく、

「右腕が動かない」という新しい身体の記憶を融合させて、新しいマイ・ルールを作っていこうって思ったら、なんだかこの先、新しい世界が広がっていそうで、これからの人生まだまだ楽しめそうな気がしてきた。


 

 


最近、週末の夕食後は娘とのDVD鑑賞がルーティーン化してます。

 

先週末は、

『シャーロック・ホームズ』(2009年)、

『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』(2011年)を2晩連続で鑑賞。

 

シャーロック・ホームズ(吹替版)

 

シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム (吹替版)

 

 

基本、殴り合いの映画です爆  笑

 

我が家では、カンバーバッチのドラマ『SHERLOCK』も好んで鑑賞されることから、差別化するために「野蛮な方のシャーロック」と呼んでます。

#3『最後の誓い』

 

 

  個性的なキャラクター

とにかく、キャラが濃い。

 

まず、シャーロックがクズすぎる。まあ、それはカンバーバッチの方もかなりエキセントリックなんだけど、あの方、そこはかとなく気品があるじゃないですか。

ダウニーJr.は顔が濃いし、どっちかっていうとワイルドよね。それがクズいから、もうちょっと救いようがない感じ? しかも、キャラ設定が武闘派すぎる。なぜか戦闘シミュレーション機能が脳に搭載されてて、戦う前に戦闘パターンを予測するのよ。まるで戦闘ヒーロー。さすがアイアンマンの中の人だよ、って思っちゃう(笑)。しかも、賭けボクシングに戦う側で参加しちゃうし。で、戦闘シーンの音楽がまた、ちょっとフォークロア的で高揚感を煽ってくるんだよね。なんだろう、汗臭いというか、湿度を感じる。

 

で、驚くのは、なんと、敵のモリアーティ教授も戦闘シミュレーション機能搭載。

えええーーっ!

それなりに年配の紳士的外見なのに???

頭脳だけでなく身体も使うんですか、って感じ。

 

相棒のワトソンを演じるのはジュード・ロウ。

常に三つ揃えをビシッと決めていて、いかにも英国紳士って感じだから(まあ、ちょっと武闘派オーラはあるけど)、ホームズのだらしなさをフォローするのかと思いきや、賭けと酒が絡むと信じられないくらいのダメ男くん発揮。クズシャーロックに介抱される始末。自分の結婚式当日、泥酔明けのボロ雑巾のような格好で教会に到着。ひどい二日酔い状態なのに、甲高いバグバイプのお祝いの演奏で迎えられて、ほんとご愁傷様です。自業自得だけど。

 

しかも、ワトソンLOVEすぎるシャーロックに、婚約者メアリーとの仲を邪魔されまくり。で、そんなホームズの傍若無人な振る舞いにうんざりしてるから、事あるごとにシャーロックとの相棒解消を宣言しているくせに、結局毎回ホームズについていってしまう。類友なんだよね。というか、愛? 結局ホームズ大好きなのよ。

 

そして、シャーロックの兄のマイクロフトは全裸で登場する変態ぶり。

いや、あのシーンは笑える。名シーンだと思ってる。

全裸のおっさんを前にして、目のやり場に困るメアリーの演技もいい感じだし、高齢で挙動不審の執事も名演技。

何よりマイクロフトが全裸のくせに、普通に有能な感じで仕事をしてて、

もうどこを見ても笑える。

(今の時代だとセクハラとかになっちゃうのかもしれないですが)

 

鑑賞中に「ねえ、これ、コナン・ドイルは草葉の陰で泣いてるよ」って3回は言った。いや、泣いてるんじゃなくて笑ってるかも?

 

 

 

  おもしろポイント満載

とにかく笑える映画です。

なんだろう。本格コント系映画?

 

例えば、ホームズは、自分の部屋の一部に擬態して隠れていてワトソンにいたずらをする趣味があるんだけど、その擬態用の服が、もう滑稽。

ダブダブの全身タイツみたいな服に、絵を書いて、部屋の一部になりきってるんだけど、その作りが学芸会並みに雑。前面はそれなりに頑張って似せてるんだけど、背面は何も描いてないから、隠れているときはいいんだけど、動くとなんとも間抜けなの。それをおもしろおかしく強調するように動き方が演出されてて、でもホームズは至って真剣だから、ますます笑えるんだよね。これはもう、コントと言うしかない気がする。

 

あるいは、続編の冒頭。ホームズが中国人に変装するシーンで、頭頂の薄い、黒髪ロン毛のカツラをつけているんだけど、それがいかにもコントで使うような安物のガバガバのシロモノで、もみあげのところとか、浮いちゃってるの。いかにも「カツラつけてます」って感じで、おいおい、それは変装としてどうなの?ってレベル。そんな情けない格好で、尾行していたアイリーンに出し抜かれて、屈強な男4人に囲まれちゃうんだけど、それでも強がってる姿がダメダメすぎて笑えます。

 

それから、毎回出てくるレストランでの食事のシーン。ホームズはなぜか、大好きな人との食事をすっぽかされるめぐり合わせになっていて、待ち人が来ないことがわかると、白いナプキンをおもむろに首にかけて、一人で食事を始めるんだよね。で、そのときの「寂しいけど、僕平気だもん!」っていう感じのダウニーJr.の表情が、なんとも言えない情けなさで、これまた笑えるのよ。

 

ということで、この野蛮な方のシャーロックの映画は、ぜひ、おもしろポイントを探しながら鑑賞することをオススメします。

 

ちなみに私は、ずっと字幕派だったのですが、

最近は娘の好みに合わせて、吹き替えで見ることが多いです。

なので、ダウニーJr.のキングズイングリッシュはまだ聞いたことないんだよね。

次回は覚えていたら吹き替えで見てみよう。

 

 

今日ご紹介するのは

戸谷洋志『SNSの哲学』


私の友人が編集をしている

「あいだで考える」シリーズ。

ありがたいことに、わざわざ送ってくれたのですラブ

大感謝!!!

 

こちらのブログの本紹介は、

古めの本の掘り起こしを意識しているのですが、

ここのところ新しい本続きで恐縮です爆  笑

 

でもでも、この本は、特に中高生にぜひぜひ読んでもらいたい。

もちろん大人にも!!

 

 

  SNSと哲学のつながり

『SNSの哲学』というタイトルを見たとき、

SNS利用に関する倫理的なあり方とかが書かれてるのかなぁ、と思ったんですが、

全然違います。

 

ざっくり言うと、SNSを入り口にした哲学の本です。

といっても、哲学的な知識を詰め込むのではなく、

SNSについての説明を読みながら、哲学的な捉え方を知っていき、SNSを使っている自分とは何者なのかについて考えようという試み。

自分で考えるために必要な道具を、さりげなく提示してくれている感じ。

 

筆者が言っているように、

もう私たちはSNSなしの生活には戻れません。

スマホやSNSの善悪を論じる時期はとっくに終わって、

それらがデフォルトになった世の中で

私たちは、SNSを「道具」としてではなく、

私たちが生きる「社会システムの一部」として捉えるべきフェーズにきてるんだな、と。

それが、この本を読んだ最初の感想でした。

 

つまり、私たちが「自分とは何者か」を考えるとき、

SNSを避けては通れないっていうことなんです。

 

それは、最初の「承認」についての章を読めば明らかです。

SNS疲れという言葉があるように、

SNSの沼にハマってしまうと、承認欲求に振り回されて、自分が壊れてしまったりする。なんとなく承認欲求は悪いもののように思われがちだけど、筆者が指摘するように、社会的動物である人間は、他者の承認なしにはそもそも生きられないんですよね。SNSに関係なく、人間に備わってるんですよ。「承認欲求」は。

とするならば、なんでSNSではそれが暴走しちゃうのか。

そのあたりを、「自律性」「他律性」という言葉を使い、さらにはヘーゲルの考え方を紹介しながら、丁寧にわかりやすく説明してくれます。

 

用語の噛み砕き方とか、有名な哲学者の考え方の説明とか、中学生でもわかるように平易に言い換えていく技術がすばらしいんです。表現技術だけでなく、説明の順序とかもすごく考えられていると思います。すうっと頭に入ってくるわかりやすい文章!! 参考にしたい。

 

難しいことを平易に簡潔に説明するのって、本当に難しくて、私も教材を書くときにいつもいつもいちばん苦心するところなので、そういう意味でもすごく勉強になりました。

 

 

  構成とオススメポイント

全体は5章から成っていて、章のタイトルは次のようになってます。

 

1章 なぜSNSで承認されたいのか?

2章 SNSにはどんな時間が流れているのか?

3章 SNSではどんな言葉が交わされているのか?

4章 SNSに偶然はあるのか?

5章 SNSで人は連帯できるのか?

タイトルだけだとわかりにくいかも。

やっぱりぜひ読んでもらいたい。

「承認」「時間」「言葉」「偶然」「連帯」という5つの切り口からSNSの正体に迫っている感じ。

 

どれも新鮮な切り口なんですが、特に2章の「時間」はおもしろかった。

筆者は「タイムラインには時間が流れていない」というんです。

ちょっと逆説的で、え?って思うけど、読めば納得。

確かにそう。

ああ、だからいろんな誤解や問題が起こってしまうんだー、と。

本当は時間が流れてないのに、誰もがみんな時間が流れてると思ってるから、そのギャップが危険なんですよね。それを知っているだけで、随分見え方が違うはず!

 

もう1つおもしろいと思ったのは、各章で1人ずつ哲学者が紹介されているんです。

1章はヘーゲル、2章はハイデガー、3章はウィトゲンシュタイン、4章はベルクソン、5章はハンナ・アーレント。

で、何がすごいって、1章に1人しか出てこないこと!

これだけ踏み込んだことを述べているのだから、きっと何人も出したくなったと思うんです。(あ、これは私の勝手な推測ですけど)

でも、そこであれもこれもという欲望に負けず、切り捨てる勇気!

 

そうなんですよ。

哲学にあまり興味のない人間が哲学書を読むときの大きなハードルの1つは、たくさんの哲学者が出てくること。それぞれの考え方は、似たような違うような、わかったようなわからないような。なので、いくつもの考え方が一挙に出てくるともう、わけわからなくなっちゃって、内容を追うだけで手いっぱいになりがち。

 

だからこの著者の方は、1章に1人、って決めてたんだろうなぁ、と思って。

知識の提示を必要最小限にすることで、読者の「考えるゆとり」を確保してる。

そういう書き手の自制心みたいなのを全編に感じました。

筆者が「はじめに」で述べているように、読者のなかに眠る「『考えたい』という好奇心を呼び起こす」ことに徹した、このストイックさにほれぼれします。

 

なので、哲学苦手な方でもめちゃくちゃわかりやすいと思います。

 

私は、学生の頃から、哲学とか思想とかが本当に苦手で。西洋の思想家の名前がじゃんじゃん出てくる本はまったく太刀打ちできませんでした。なので、哲学は嫌いだと思ってたんですけど、永井均の著書を読んだときに、え、哲学って自分で考えていいんだ、って目からウロコが落ちたんですよね。

この本も、今の中高生にとって、そういう本になると思います。

 

 

  リーフレット推し飛び出すハート

最後におまけですが。

もう一つご紹介。

よく、本に「新刊本の紹介」のリーフレットとか、挟まってたりしますよね?

この本には「あいだ新聞」というリーフレットが入ってました。

 

三つ折りになってて、外側はシリーズ続刊の紹介。内側は著者の戸田洋志さんの紹介。

内容も濃いんですが、デサインがかわいい。

見てください、これ。



なんだろうこの版画チックなタイトル文字。

味わいのある挿絵。

そして、蛍光ピンクとモスグリーン(青緑?)の絶妙は色合わせ。

作っている方々の意気込みを感じます。

もう、これ見ただけでシリーズのファンになりそうです。

 

 

ということで、

最後ちょっと脱線しましたが、

「10代以上すべての人に」

と銘打った、

この「あいだで考える」シリーズ2作目。

『SNSの哲学』を読んで、

SNSについて見識を深め、

SNSを使う自分について考えてみる方が増えますように。

全年齢にオススメです!!

 

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今日ご紹介するのは

ヨシタケシンスケ・又吉直樹

『その本は』

 

エッセイ講座の課題本でした。

エッセイは、書くには書いたんですが、

800字という制限と、

あと、趣旨も異なるということで、

改めて本紹介させてもらおうと思います。

 

死期の迫った本好きの王様が、

まだまだおもしろい本の話を聞きたいということで、

2人の男にお金を渡し、世界中からおもしろい本の話を集めて来させるという設定。

 

1年後、帰ってきた2人が毎晩交代で王様にお話を聞かせます。

 

  又吉直樹のターン

トップバッターは又吉さん。

「その本は……」で始まり、なんか本の説明をしているのだけれど、その説明が雲を摑むようでさっぱりわからない。1冊につき数行の説明なんだが、何だこりゃ?

 

最初は、既存の本について、独特な切り口で説明しているのかな、と思ったけど、うーん、どうなの? なんか違うっぽい。「本をドリブルしながら、学校に通う」とか、そんな物語が今までに存在したとは思えん。

 

え、じゃ、もしかしてなぞなぞ?

どこかに答えが書かれてるとか?

って、本気で答えを探したんですけどね。

なかったね。

 

どうやら、これは、この世に存在しない本のお話で、この記述の向こうには、又吉さんが創造するへんてこりんで愉快な物語が想定されているらしい。

 

そう気づくまでにかなりの時間がかかってしまった。

 

あああ。自分の頭の硬さに愕然とします。

答え探すとか!

アリエナイ💧

 

ところで。

実は私、一時期お笑いにハマっていて、深夜番組が生きるヨスガだったことがあります。

雨上がり決死隊やぐっさんがやってた「エブナイ」から、「はねるのトびら」あたり。「はねるのトびら」に又吉さんの「ピース」も出てたんだけど、正直、苦手だった。

又吉さんがいろんな着ぐるみ着て出てくるのが特につらい。

なんだろう。

あの下品な感じと、それをやってる又吉さんの繊細なイメージのギャップが、見ていて苦しかったんだと思う。笑えないのよ。なんか、痛々しくて思わず目を覆いたくなっちゃう。

 

下品なのは元々それほど得意じゃないけど、でも下品だからダメってわけじゃなくて、ロバートの秋山とか。あれはもう、下品の極みなんだけど、もうカラリと笑えちゃう。大好き。「どうかしちゃってる」という点では群を抜いてたよね。しっかり生き残っているの、納得しちゃう。

 

まあ、秋山はいいとして、とにかく、ピースに関してはそんな印象だったから、又吉さんが小説を書いたと知って、妙に安心した気がしたんだよね。収まるところにおさまった、みたいな。

そのころちょうど仕事で、中学生向けの通信添削本に関わっていて、そこで又吉さんのインタビューが掲載されていたんだけど、そこで又吉さんがものすごい読書家で、本に救われてきた人なんだって知って、「ナルホド、ナルホド」と腑に落ちたわけです。

 

で、脱線しちゃったけど、今回の第1夜を読んで、最初は、なんでいきなりこんな訳のわからないものを冒頭に持ってきた?って思ったんだけど、これ。又吉さんの笑いの原点なんだな、って感じました。

 

荒唐無稽な世界。なんでもありで、常識をひっくり返して、物理法則なんて完全無視の空間で広がる果てしない空想力。でも、ファンタジーではなくて、現実の日常生活に紐づいている感じ。そんなわけがわからない現象、実はあるよね? それを、そのまま楽しもうよ、みたいな姿勢。

で、これをお笑いで実現しようとして、ああなったんだろうな、って思ったら、なんか繋がった気がしたよね。(私の勝手な解釈ですケド)

 

そう考えると、この本の冒頭はこのくらいぶっ飛んでる方がいいんだな、と納得したわけです。

 

  ヨシタケシンスケのターン

実はこんなに有名な絵本作家なのに、読んだことがありません。

しかも、私。自称絵本好きで、絵本紹介もしているくせに。

 

わかってるんです。

怖いんです。

きっとおもしろいから。

絶対うらやましくなっちゃうから。

だから、今まで避けてきたんだと思います。

 

でも、今回は課題本だから避けることができなくて読みました。

予想通り。

すっと体内に入ってくるストーリー。

具体的でありながら、核心の部分を読者に委ねる感じ。

それがごく自然で、やっぱりすごいと思いました。

 

生きていくうえで発生する抽象的ななんやかんやを、具体的なものになぞらえていくメタファーが絶妙すぎる。

 

どのお話も印象深かったけど、

第10話。

今ここで生きている自分に違和感を持っていた「ぼく」が、本来の自分を取り戻すお話。そこで「本」がきたかぁ、やられたわ、という感じ。「生きづらい人間」と「本」という、あり得ないものが結び付けられているのに、なんか納得してしまう。すごい。

しかも、設定はどう考えてもファンタジーなんだけど、全然ファンタジーに見えないところもすごい。

なんか、マジでありそう。

ってか、それあったらいいな、って思える。

 

それから、第8夜。「本」を否定しながら、「本」を書きたい衝動にかられてしまう「私」の話も好き。ここで、本を書いたら、自分が一生をかけてやってきたことを否定することになる。でも、どうしても書きたい、というジレンマ。で、書こうか書くまいかという切羽詰まった状況で、「私は今、迷っている。」という淡々とした、シメの言葉が効いている。自分の人生の価値を決めるような選択の前で、「苦しむ」でもなく「悩む」でもなく、「迷っている」というちょっと軽めの言葉のチョイスがいいんだよね。

「迷う」なんて、ゆるい言葉を使ってる時点で、この人、もう「書きたい」という欲望に負けそうだよ? この人が本を書いちゃう方に500円!

 

 

  本を作る人たち

本は、作家さんのものだけど、でも、作家さんだけじゃ生まれない。

どんな大きさにして、どんな紙を使って、表紙はどんなコンセプトで……。そういうのが全部、本のイメージを作り上げているわけです。

 

この本の装丁については、宝探し的なおもしろさがあって、私はすごく楽しかった。

それについてはエッセイの方で書いたので、気になる方はぜひお読みください。

 

https://ameblo.jp/mko-kotonoha/entry-12804646579.html

 

気づく人、少ないんじゃないかなぁ。

いや、けっこういるのか?

でも私、見つけたとき、心の中でガッツポーズしちゃいましたよ。秘密のメッセージを受け取った気分でしたねラブ

 

  創造という魔力

最終章の第13夜の最後で、又吉さんは「小説家はまだ生まれていない本をなんとか生みだそうとしています。」とシメています。

この1文のためにこの本が作られたのだと思います。

で、この1文に込められた思いは、エピローグでもっとおしゃれに描写されてます。直接明言する言葉は、まっすぐ心に刺さりますが、間接的な表現は、ふわりとこちらを包み込むようにイメージを残していくんですよね。

 

その、エピローグの最後のシーン。

世界中の物語を集めてくるという命令に対し、

どこにも行かずに、勝手にこの世にない物語を生み出していた2人。


いくつものニセの物語を勝手にでっちあげて、

いかにも世界中から探してきましたって風情で

王様に

「その本は…」

って、話して聞かせていたわけです。

 

それがバレて、王様をだましたということで有罪になったわけですが、

裁判官に「最後に何か言いたいことはあるか?」と聞かれたこの2人、

口をそろえて言うんです。

 

「その本は…」

 

びっくりびっくりびっくり

 

この飽くなき創作への情熱。

というか、もはや病気。

 

裁判所で裁かれ、有罪になったとしても、

それでも物語を生み出すことをやめられない。

この2人は、投獄されても、その罪の原点である「創作」をやめないのだろうと思わせる終わり方。

この余韻。いいわあラブ

 

情報が飛び交い、簡単に発信ができる現代。

その分、1つ1つの情報の濃度が薄まっている傾向にあると感じてしまう。あたりさわりのないところで、とりあえず発信しとこ、みたいな感覚。

 

でも、この2人は違うよね。

自分の命を賭けて書いてるよね。

この熱量。

ただ、ただ、尊いです飛び出すハート

 

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今日ご紹介するのは

小学館の図鑑NEOシリーズ

『図解はじめての絵画』


2023年2月発行。

珍しく新しい本ですニヤリ

 

このNEOシリーズ。

我が家の子育てで、それはそれはお世話になりました。

 

もともと図鑑は最低限のラインナップを揃えておきたいと思っていたんですよね。

で、上の娘が年中か年長くらいになったときに、ちょうどNEOがメキメキと売れ始めていたんで、買ってみたわけです。全部買おうと思ったんだけど、次々新刊が出るんで、十数冊でやめました爆  笑

 

子どもも大きくなったし、まさかまたNEOを買うとは思わなかったんですが、この絵画の本は、もう、ひと目見て「買い!」と思い、即アマゾンでポチりました。NEOさん、きっと何かやってくれちゃってるはず!!という確信がありましたね。

 

で、期待を裏切らない1冊でしたよ。

子どもも大人も楽しめます。

 

簡単に言ってしまうと、

どういう絵があるのか?

を知るための図鑑ではなく、

絵をどう見るのか?

を教えてくれる図鑑です。

 

章立ては次のようになっています。

 

第1章 何が描かれているか

第2章 どう表現しているか

第3章 絵画をもっとよく知ろう

第4章 素材と技法

第5章 美術館に行こう

時代も地域もごっちゃごちゃのまぜこぜで、誰が描いたかとか、時代はどうかとか、そういうのを超えたところで、そもそも「絵画」ってどんなものなのかを教えてくれる。こういう視点をもって美術館に行ったら楽しいよ、っていうのを教えてくれるんです。

 

  絵画の楽しみ方

私がいちばん「目からウロコ」と思ったのは、

第1章の「火事はどこだ!?」のページ。

ヤン・ファン・エイクの「ロランの聖母子」という絵画を扱ってるんですが、この絵、部屋の中で男性が幼いキリストと聖母に祈りを捧げている宗教的な厳かな絵なんです。何も知らなかったら「へー、キリスト教の何かなんだな」って思って終わってしまいそうなんですけど、この本の解説にしたがって細かいところを見てみると、部屋の外にいる人は、聖母たちに背をむけてあっち向いてるんです。すぐそこにキリストと聖母がいるのに、なぜか反対側を見てる。で、視線を追っていくとその先に小さく見える橋があって、その橋の上に、さらにちっちゃーく描かれた人がいっぱいいて、み~んなあっち見てる。ええー、みんな何を見てんの?ってさらに視線を追っていくと、なんと火事!

野次馬だったわけです。

ね? キリストと聖母も火事には勝てないのか目目、なんて、ちょっと思っちゃいますよね。

っていうか、なに、これ? 愉快すぎる!

なんでそんなサブストーリー盛り込んだの?って、描き手に興味持っちゃいますラブ

 

で、ああ、これ、国語の読解と同じだぁ、って、職業病を発揮。

こういうふうに、作り手がちりばめたヒントを元に、何かを手繰り寄せていく感じ。

そうか、文章も絵画も同じなんだなぁ、ってしみじみします。

 

絵の中の人の顔だけを取り出して実物大で並べてあるページも興味深かった。

源頼朝とモナ・リザが並んでいて、頼朝の顔が意外にでっかくてびっくり。

しかも、そうやって並べると、筆致の違いもすごくよくわかるんです。日本画の繊細な線とか、フランドル派が描く宝石のリアルさとか。写実派のリアルは半端ないですよね。以前、フェルメール展に行ったときも思ったんですけど、あの写実にかける恐ろしい情熱は何なんでしょうね。不透明なはずの絵の具で、布や宝石の光沢を表現するっていうのが、絵心のない私にとっては、もう奇跡としか思えなくて、何度見ても信じられないというか、ちょっとぞわぞわするような奇妙な感覚に囚われます。

 

さて。

第2章の「どう表現しているのか」もおもしろい事例がたくさんあります。

例えば、静止画の中で蒸気機関車の「速さ」をどう表現しているのか、とか、目に見えない「雨」を表現するにはどんな方法があるのか、とか。特に、日本の円山応挙「雨竹風竹屏風図」では、なんと、竹のしなり具合で雨の重さを暗示することで、雨を描かずに雨を表現しているんだって! 言われてみれば確かにそうかも。なんとなく感じ取っていることを、言語化してもらえると、知識として身につくんですよね。他の絵を見るときにも役に立つし、自分で描くときにも応用できそうです。(ワタシは描かない、もとい、描けないけど爆笑

 

第3章は、基本的な絵のお約束について。絵画って、歴史があるから、いろんな約束事があるんですよね。その基本を教えてくれる章です。

赤・青・黄の色の三原色や、聖母マリアを表す記号、画中画の意味などなど。知っているとより深く絵を楽しめそうな知識のあれこれが紹介されています。どの説明も堅苦しくなく、古今東西の絵を眺めながら「なるほど~」って楽しめる感じがいいんです。


最後の晩餐の13人の配置の仕方の変遷を、時代に沿って並べているページがあるんですが、それを見ると、技術の発展というのは長い歴史の積み重ねなんだなぁと実感します。あからさまな2次元が、だんだん奥行きをもって3次元になっていく感じ。ああ、これ。子どもの絵の成長と同じかも、って。


個人的には、去年日本に来ていたフェルメールの「窓辺で手紙を読む女」の修復後の絵が「画中画」のページで紹介されてて、なんかうれしかったですね。実物見たぞ!って思うと無意味に親近感が湧いてしまうのは、私だけでしょうか爆  笑

 

  「絵を描く」「絵を展示する」の裏側

第4章と第5章は、絵そのものではなく、絵にまつわる周辺知識の紹介。

第4章は、絵画を制作するときの知識。顔料や筆、さまざまな技法の説明です。美術館に行って「リトグラフ」とかあると、「版画っぽいヤツ?」くらいの知識しかない私にはとても役に立ちそうです。


さらに、第5章がおもしろいなと思ったんですが、絵を展示する美術館の説明なんです。美術館はどんな構造になっていて、展覧会はどのように準備されているか、とか、裏方の部分もわかるんです。美術品そのものより、展示の方法なんかに興味を持つ子もいるんじゃないかなぁ、と。知ってたら文化祭の展示とかにも役立ちそうなノウハウも。


絵画に関わる仕事の一覧みたいなのもあって、「アトリエスタ」とか「キュレーター」とか、私が全く知らないカタカナ職業もありました。お仕事って、ほんとうにいろいろあるんですよね!

 

とにかく、いろんな方面から絵の楽しさを教えてくれるから、ずっと眺めていて飽きない!

 

ちなみに私は、芸術方面は感性も知識も持ち合わせていないので、美術館に行ってもどう鑑賞していいかわからず、仕方なく編み出したのが、「絵を買いに来た」っていう設定てへぺろ

「私ならどれを買うかなぁ。」と考えながら見ると、この色いいなあとか、この構図がかっこいいとか、絵の中のいろんなところに目が行くんですよね。

うちの娘もその血を引いたのか、この前一緒に兵馬俑展に行ったとき、「イケメン探し」してましたよ。「ねえ、お母さん的にベストイケメンはどれ?」って聞かれて、そうか、そういう見方もあったか!と爆  笑グッド!

 

今後はこのNEOさんでもっと勉強して、より自分に合った絵を探せるようにしていきたいと思います。買いません、、、もとい、買えませんけどね笑い泣き

 

ということで、堅苦しくないのに、きちんとした知識を教えてくれて、楽しく絵画を鑑賞できるように導いてくれる1冊。こういうのをパラパラ見ておくと、絵画が身近に感じられるようになるので、まだ字の読めないお子さんにも、超オススメです❤

 

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毎月1冊本を読み、エッセイを書いて講評し合う「ふみサロ」。
実は今回は、途中まで書いていたのですが時間切れで課題提出できませんでした。


急な仕事が入っちゃったし、仕方ないかぁ、って思ってたんですが、他のみなさんが逃げずに書いているのを目の当たりにして、このまま書かずに終わるのはダメだな、と思い、こっそり仕上げて、ひっそりUPしますてへぺろ

5月の課題本は
ヨシタケシンスケ・又吉直樹『その本は』



エッセイはここから

 ↓ ↓ ↓

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これって『千夜一夜物語』のオマージュ?
読み始めてすぐ、そう思いました。
千夜一夜物語では、王様に話をするのは妻だけど、この本は、妻じゃなくて、なんかへんてこりんな2人がへんてこりんなお話を王様に語って聞かせる。世界中から集めてきたというテイで。

そう、実は全部、ぐうたらな2人がでっちあげたデタラメのお話。

でもね。
その話を聞いて、王様が満足して最期を迎えられたのだとしたら、それってすごいことじゃないですか?
本ってそういうもの。
楽しんでナンボでしょ?
そんな作り手の声が聞こえてくる。

その思いは、装丁にも遺憾なく発揮されている。

「この本の装丁だけどさ、せっかくだから全体を古めかしく見せようよ。」
「全ページ紙焼けしてたら、それっぽくない?」
「おー、いいね、いいね。」
「ところどころシミとか汚れがあるとリアルだよね」
「えー、やっちゃう? 汚しちゃう?」

そんな会話があったかどうかはわからないけど、全ページ紙焼け印刷されてます。
で、ワタクシ、なんとシミも発見!
「あれ? 私、何かこぼしたっけ?」
って思うくらいリアルなシミ。裏まで染みてるの。
笑う。

もしかして他にもあるかもー、って探したら、
汚れた手で触ってしまった指紋の跡とか。
テープが貼りついちゃってるところとか。
あと、ペンの試し書きしてあるところもあった。
おいおい、本をメモ用紙代わりに使うなや笑い泣き

こんなところにこだわれる余裕がかっこいい。

作り手が楽しんでるのが伝わってくる。
だからこっちまで楽しくなる。

書籍制作なんて、スケジュールに追われて、楽しいより大変なことのほうが多いはず。でも、関わっている人たちが「いいものを作りたい」って思いで、あれやこれやの困難を乗り越えて、ここにこうしてこの本がしれっとあるんだなあ、と思うと、なんかもうそれだけで感動してしまう。


ああ、私。
やっぱりみんなでモノを作るのが好きなんです。
なんにもないところからスタートして、
たくさんの人が知恵を出し合って形にする。
これは人間にしかできない。

こんな非効率的で愉快なこと、
絶対にAIにはできない。
だから、どんなハッタリでもいい。
ニンゲンの能力を最大限に発揮して、
王様を楽しませ続けようではありませんか。

 


 

 

 

 

今日ご紹介するのは

広島テレビ放送 編

『いしぶみ』


「広島二中一年生 全滅の記録」という副題から想像できるように、広島の原爆に関するドキュメンタリーです。タイトルの『いしぶみ』とは、爆心地に近い本川土手で被爆して亡くなった広島二中の4人の先生と、321人の1年生の慰霊碑のこと。

 

1969年、当時の文部省が主催した芸術祭のテレビドラマ部門で優秀賞を受賞した「碑(いしぶみ)」という1時間のテレビ番組がありました。1時間では収めきれなかった多くの取材情報をもとに、番組制作者の広島テレビ放送が編集して1970年に『いしぶみ』という本が出版されました。その本が改訂・文庫化されたのがこの1冊です。

 

私がこの作品を知ったきっかけは、国語の教科書でした。仕事で教材を作ることになった教科書に、この作品の一部が教材として使われていたんです。

 

広島原爆投下の8月6日の早朝から、広島二中一年生の最後の一人が亡くなった8月11日まで。いつ何が起きたのか。そのとき誰がどうしたのか。一人一人の足取りを追いながら、事実が時系列に並べられ、淡々と語られていくスタイル。何一つ過激な言葉はなく、感情を鼓舞するような言葉もなく、静かに語られていく文章から、なぜかどうしても目が離せませんでした。

 

国語教材ライターとしての仕事で文章を読むときは、仕事用の脳で読む必要があるんですね。文章から2、3歩離れてできるだけ冷静に俯瞰する。じゃないともう、全く仕事にならない。内容に感情移入したら成り立たないんです。

 

でも、この作品はダメでしたねぇ。

 

被爆という想像を絶する状況が、淡々と述べられている。その内容と語り口のギャップが逆にものすごい力になっていて、読む者を捉えて離さない感じ。出来事の場所や時刻も、とても細かく記述されていて、まるで記録映像を見ているような、ものすごい引力で、その情景の中に引きずり込まれるんです。

 

これだけの情報を手に入れるために、制作者はいったいどれだけの時間を費やしたんだろう。執念とも思えるくらいの圧倒的な取材量が、この書籍のリアリティをがっちり支え、制作者の強い思いを伝えています。

 

仕事とはいえ、この文章で読解問題なんか作ってしまっていいんだろうか。描かれている少年少女に、そして彼らの最期を伝えようとする作り手たちに失礼にはならないのだろうか。そういうことにわりと無頓着な私ですら、かなり躊躇したのを覚えています。(結局作りましたけどね、仕事だから💦)

 

引用されているのは、家族への手紙、書き残された日記、死の床で家族に語った被爆体験の言葉、そして、子供を看取った父や母の回想。言葉と共に掲載されている生徒の顔写真はどれもあどけない表情で、本当に、本当に不謹慎なことなんですが、自分の娘がこの時代に生まれていなかった幸運をありがたく思ってしまいます。そして、ありきたりだけれど、私がこうして呑気にブログを書いている今も、世界のどこかでこれと同じことが起こっていて、その火種がいつ自分のところに飛んでくるのかわからないんですよね。そう思うと、争いをやめられない人間の業の深さを痛感せずにはいられません。

 

この本の「はじめに」にも「あとがき」にも、制作者の平和への切実な願いが語られているのに、書籍発行から50年以上。状況はますます悲惨になってる。

 

この本は、広島二中の一年生たちと同じ年齢の子どもたちに向けて書かれたものです。文章は平易で、おそらく小学生高学年から読めるレベル。このポプラ社のポケット文庫版ではかなり丁寧にルビが振ってあるので、漢字が読めないという問題もないと思います。

もちろん、大人が読んでも問題ない、というか、大人も読むべきです。

日本人なら、いや、人間なら、1度は読んでおいてほしい。

 

夏になると、日本では戦争に関連する特別番組が増えますが、最近特に思うのは、戦争の取り上げ方が随分変わってきたなぁ、ということ。

私が子供の頃は、戦争がいかに非道で、悲惨なものであったかをテーマとするものが多かったように思うんです。ただただ怖かった。子供だったから何でも怖かっただけかもしれないけど、なんとなく「こんなに悲惨です」「こんなに悪いことです」という、主観に訴える描き方が主流だった印象でした。

 

一方、最近の番組は、歴史研究というような視点のものが多い。新しい資料、新しい分析、新しい解釈という、アカデミックなアプローチ。それはそれで興味深いのだけれど、研究対象というのは、どうしても「自分とは一線を画した向こう側にあるもの」という印象になってしまって、実はそれは自分の身にも起こりうるっていうのを忘れてしまいがちだなぁ、と。

 

戦後20数年で書かれたこの本は、「こんなに悲惨です」「こんなに悪いことです」という主観的な描き方はしていないけれど、私たちと同じように普通に暮らしてきた人に、こんなことが起きていたのだという実感レベルの記述になっていて、戦争を自分ごととして考えるきっかけになるんじゃないかなと、今回、この『いしぶみ』を読み直してみて改めて感じました。この本は絶版になってほしくないなぁ。

 

ちなみに、1969年のテレビ番組は、「語り部」の手法を取り入れた構成になっていて、広島二中の一年生たちの写真を背景に、女優の杉村春子さんが1人で静かに語るという内容だったそうです。2017年には、是枝裕和監督が、綾瀬はるかさん出演でリメイクされているようですね。私はどちらも見ていないので、本との比較はできないのですが、まずは、まっさらなところで本を読むことをおすすめしたいです。

 

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今年のGWは、娘の希望で、マックデリバリーを堪能しつつ、映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』を鑑賞する会を開催爆  笑

 

こちらです

 ↓ ↓

 

マックデリバリーは置いておくとして、この映画、私は3回目なんですが、やっぱりモヤモヤしましたわぁ。

 

初めて観たときの衝撃と言ったら!

深夜で、後半眠くなってたんですが、あまりにびっくりの終わり方で、バッチリ目が覚めました。

え。本気ですか?

なんでこんな映画作ったんですか?

と。

 

(以下ネタバレあります)

 

マクドナルドの創業者の話ということだったから、キラッキラのアメリカンドリーム話かと思ったら、「創業者」なる人は、本当の意味での「最初の人」ではなかったという衝撃の事実! 

 

「創業者」レイ・クロックは、マクドナルド兄弟(「創業者」と区別するために、私は「創始者」と呼ぶことにします)が自力で開発したシステムを、(最初は悪気はなかったにせよ、)結果的に乗っ取り、当初の契約も金にモノを言わせて反故にし、再契約の際には、あろうことかロイヤリティ1%の項目の書面化を拒否。紳士協定(言葉だけの契約)を飲ませたうえで、まさかの「踏み倒し」っていう結末。踏み倒した金額。今の価値なら年間1億ドルですって!

 

おまけにレイの策略でマクドナルドの名前は商標登録されてしまい、マクドナルド兄弟はそれまで使っていた本名の「マクドナルド」を店名として使えなくなる始末。

ええー、本名なのに?目目

(あれ、そういえば、ちょっと前に日本でもそんな女優さんが問題になっていたような💧)

 

創始者のマクドナルド兄弟は、仕方なく店名を変えて営業を続けたけど、近くの競合店との競争に負けて3年で閉店したそうです。

 

マジかぁ。

その追い込み方の徹底ぶりは、いっそ清々しくすらあるけど、これ、映画化していい内容なのかしら、というのが、正直な感想。やり方がえげつなくて、素直に「すご〜い!」とは思えなかった。

 

どうしても映画製作者の意図が読めません。

 

エンドロールで「紳士協定で約束されたはずのロイヤリティが払われることはなかった」って敢えて流す感じからすると、創業者は悪者?っぽく見えちゃうんだけど、でも、そこで創業者本人の映像も流れて、「マクドナルド」っていう名前に目をつけた自分の眼力を自慢げに語ってたりするわけですよ。創始者を出し抜いて横取りした名前ですよ? この映画を観たら、とても功績には見えないんだけど、、、

 

ただ、本人映像OKということは、現マクドナルド側は、この映画の内容に異議はないということですよね?

 

えええぇ、、、そっかぁ、この数々の所業は、胸を張って自慢できることなのかぁ。時に非情になってでも、粘り強く目的遂行することの重要性を説いてる?

 

ううーん、でも。なんか、国民性の違いなのかなぁ。少なくとも、日本人はマクドナルド兄弟に同情的になってしまう気がするんだけど、そう感じるのは私だけ?

 

まあ、マクドナルド兄弟の方も良くない点はあるのよ。フランチャイズやるって契約しておきながら、自分たちの店のことしかやってない(ように描かれてる)し、レイの新しい提案も拒否ばかりで歩み寄る気配もなかったし、レイの暴走を放置してたし。

 

正直、どっちもどっちという感じはする。

ビジネスマンと職人さんがビジネス協定を結んで、折り合いがつかずにビジネスマンの一人勝ちっていうストーリー。

 

もしかして、タイトルの「ファウンダー」は、創業者と創始者の両方を指していて、両者をフラットに描いているつもりなのかしら? と思ったりもしたけど、原題は「The Founder」って、単数だった。ということは、やっぱり、レイ・クロックが主人公ですよね?

 

やっぱり、ビジネスで成功するためにはここまで徹底的にコトを進めるべき、っていう教訓なんだろうか?

 

でもねぇ、プライベートもなかなかのものなんです、この人。

奥さんはいわゆる「良き妻」で、夫レイがビジネスに全振りでほとんど家に帰らなくても寂しさに耐え、協力的にがんばってきた人なの。次から次に新しいビジネスに飛びつくレイが揶揄されたときなんか、仲間の前で堂々と夫を庇ったりしてね。なのに、レイは、他に好きな女性ができたからってあっさり奥さんを捨てちゃうんですよ。

 

別れるときに、「家も車も全部くれてやる!」って言ってるから、少しは妻に申し訳なく思ってるのかなぁ、と思いきや、ビジネス関係の譲渡は断固拒否。「1株たりとも譲らない!」と、弁護士に噛みつかんばかりに宣言するのよ。

 

このシーンの意図も理解に苦しむ。この執着の描写は、奥さん軽視っぽく見えてレイの印象を悪くするとしか思えないんだけど、描き方としては、なんか「創業者のビジネスに対する強い思い」というプラスの面として挟み込まれている風情なんだよね。感心するべきところなんだろうか?

 

確かにすごい人だと思うんですよ。

まずもって、ビジネスに対する熱量がハンパない。

そして、アイディアと行動力もすごい。

例えば、フランチャイズを始めた当初は、富裕層の友人たちに手軽な金儲けとして声をかけていくんだけど、金持ちの余興では、現場運営がゆるすぎて、ブランドイメージが保てないと見てとるや、「真面目」な「持たざる者」に目をつける。そして即行動!(映画では上流階級の会員制クラブのディナーと退役軍人会の食事会が対比的に描かれていて、レイの方向性の転換がわかりやすく描かれてました。そして、やっぱりアメリカの退役軍人会ってすごい存在感なんだな、と。異文化も垣間見られた感じ。)

 

で、その熱意とアイディアと行動力で、逆境から勝利の流れを引き寄せる。

 

印象的なのは、「店は繁殖してるのに赤字が募って行く」という状況に陥っていたときに、偶然に優秀なビジネスコンサルタントに出会うシーン。まあ、彼の入れ知恵で創始者のマクドナルド兄弟は壊滅的な打撃を受けたわけですが、あの出会いがなかったら、マクドナルドはここまで大きくなってなかっただろうし、私も今こうしてデリバリーのバーガーとか、この日本で食べられてなかったんだろうなぁと思うと、何だか複雑な気持ちになりながら、届けて頂いたマックフライポテトをほおばってました。

 

そんなこんなで3回も見たのにまだ私の中で落としどころが決まってない映画です。

 

国民性の違いや、私自身に圧倒的にビジネスマインドが欠けている点が、色々と腑に落としきれない原因なのかもしれないな、とは思ってます。

 

マクドナルド兄弟の結末については、もう、「やるせない」の一言に尽きるのですが、かわいそうと言ってしまうのは違うんですよね。だって、繁盛し始めた店をいったん閉めて、世の中にない全く新しいシステムを作り出そうという姿は最高に粋です。今のマクドナルドに採用されている、カウンターで注文をとって即座に客に出来立てを渡すシステムは彼らがゼロから生み出したものです。テニスコートに実寸の厨房のレイアウトを描きながら、スタッフと導線を確認しつつ、効率的なシステムを求めて試行錯誤するシーンは、何度見ても血湧き肉踊ります。いちばん好きなシーンかも。ゼロからイチを生み出せるって、もう羨望しかない。そして、惜しみなくその技術を開示してしまうところが、もう最高にかっこいい。

 

でも、彼らは発明した技術を広めるのには向いてなかった。というか、それを広めることの大きな価値を理解してなかった。だから、発明はできないけど「いいもの」を見出して広めるのがめちゃくちゃ上手い人に、いいところを持っていかれてしまった。それだけのこと。

 

世の中には、レイみたいな人がいてもいいし、マクドナルド兄弟みたいな人がいてもいいんだと思います。

 

ただ、個人的には、マクドナルド兄弟みたいな美意識をもった人たちが、等身大の幸せをつかめる道を確保してあげるくらいの大らかさはあってほしいなぁと思ってしまうのですが、それはやっぱり私が職人びいきだからなのでしょうか。