◆6月の課題◆伊藤亜紗『記憶する体』 | ことのは徒然

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日々の徒然に思いついたことを書き留めてます。

エッセイ講座。課題提出締切日です。

もうほんと。

毎回締め切りギリギリで、

毎回書こうか諦めようか迷って。

 

今月は、それでもまだ明るいうちにアップできそうです。

正直、いろいろ不安要素はあるのですが、

もう、えいやっと。

ニンゲン思い切りも大事てへぺろ

 

ライターとして四半世紀やってきたとはいえ、

ずっと、言われたことを形にするという請負作業をしてきました。

 

どれだけクライアントの意向に沿って、

クライアントが思っていた以上の形で提供できるか。

それが、最重要ミッションでした。

 

なので、いざ、まっさらな状態で、

「好きに書いていいよ」と言われると、

恐怖がわいてくるんですよ。

こんなこと書いて意味あるんだろうか?って。

だれのためになるんだ?って。

 

でも、自ら発信したい、っていう強い思いもある。

 

なので、毎回。

断崖絶壁から飛び降りるような気持ちで

「投稿する」ボタンを押してます。

 

前フリが長くなりました。

 

今月の課題本はこちら。

伊藤亜紗『記憶する体』

 

体について研究している筆者が、11人の障害を持つ方にインタビューした身体の使い方や身体の記憶についての物語。

 

以下、エッセイです。

 

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障害をもっている方の身体は二重性、多重性を持つ。

筆者はそう言っていた。

 

例えば、中途障害者の方。健常者だったころの身体の記憶と、障害をもつようになってからの身体の記憶。2つの記憶が融合して、その人の身体のローカル・ルールが作られているという発想。

 

これを聞いたときに思ったのは、

これは、障害の有無に関わらないのでは?ということ。

 

たとえば野球の剛速球投手。

若い頃。普通に投げさえすれば、球はビュンビュン走って、ジャンジャン三振がとれた。

なのに、いつの間にか。

同じように投げているはずなのに打たれるようになる。

 

そのまま、豪速球のイメージが捨てきれず、肩や肘を壊して引退していく選手。

逆に、緩急を使い分ける技巧派に生まれ変わって再ブレイクする選手。

 

前者は自分の老いを、つまり、若いころの自分と年齢を重ねた自分という、身体の二重性を受け入れられなかった例。

後者は受け入れて新たなローカル・ルールを生み出した例。

 

老いは障害と違って、変化が緩やかだから本人が気づきにくいし、受け入れにくい。

 

かくいう私も、いつの間にか右腕が上がらなくなっていた。

いわゆる、ン十肩というヤツである。

 

中学校までは器械体操をしていて、体は人一倍柔らかかったはず。

あのころは、ブリッヂして自分の足を手で摑めたはず。

でも今は。

右腕が痛くて、後ろで手を組むことすらできない。

 

なのに!

 

デスクで仕事をしている最中に、真後ろにあるものを取ろうとして、ひょいと右腕を伸ばしてしまい、激痛に苦しむ……なんてことがちょくちょく起こる。

 

両腕が自由に動いたころの記憶が、身体にしみついているからなんだろう。

豪速球が諦められない投手みたいだ。

 

もちろん、動かないから諦めようというのではない。

 

これまで、何のメンテナンスもしてこなかったツケでもあるわけだから、そこは、これからも長く使えるように、少しずつメンテナンスをしながら、

でも、無駄に抗うのではなく、

「右腕が動かない」という新しい身体の記憶を融合させて、新しいマイ・ルールを作っていこうって思ったら、なんだかこの先、新しい世界が広がっていそうで、これからの人生まだまだ楽しめそうな気がしてきた。