織田家と勝幡城 | にっくんのブログ

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織田家と勝幡城


勝幡城址

勝幡城址 稲沢市平和町六輪字城之内にあります。



 名古屋駅から西へ十二キロほど行ったところに勝幡城址があります。
 この勝幡城は織田信長の祖父の織田信定が永正元年(1504年)頃に三宅川の河畔に築いた城です。東西29間、南北43間の方形の土塁で囲まれた城郭でした。
 信長の家は代々弾正忠(だんじょうのじょう)を名乗り、弾正忠家と呼ばれてきました。信定の頃は尾張の南半分を収める清洲の守護代、織田大和守家の三奉行の一人に過ぎませんでした。


勝幡、津島近辺

津島近辺の川の流れの推測図。当時の川の流れを水色で記しました。



 信定は勝幡城南西四キロほどのところにある津島の街を手中に収めました。当時、津島の街は、牛頭天王を祀る津島神社の門前町であるとともに、尾張西部を流れる萩原川と三宅川が合流した天王川の湊(河川港)としても栄えていた町です。
 この時代、物資を運ぶ最大の手段は水運で、船が通る河川は現在で言う幹線道路でした。この頃の川の流れは現在と大きく異なり、一宮に端を発した日光川は萩原川と呼び、現在は名古屋港へと流れていますが、この時代は津島の上流で、稲沢市に端を発する三宅川と合流、天王川と名を変え津島を流れ、佐屋で木曽川の支流、佐屋川に合流し伊勢湾へと流れ込みました。一宮も尾張国府のある稲沢も古くから開けた土地で、そこからとれた産物は津島に集められ、伊勢湾各地へと運ばれました。室町時代中頃から津島の街は尾張西部の物資の一大集積地として栄えました。
 津島の街を支配していたのは、南朝系の四家七氏と言われる武士団で、津島進出を図る信定に抵抗しましたが、大永4年(1524年)信定はその長である大橋氏に娘のお蔵を嫁入りさせることで懐柔し、事実上津島の街を手に入れました。
 信定の子である信長の父、信秀は、津島の街の経済力を背景に力をつけ、尾張東部へと勢力を広げていきます。主家である清洲の織田大和守家や、尾張上四郡を支配する岩倉の織田伊勢守家を凌ぐ力を持ち、事実上、尾張の盟主となり、隣国の三河や美濃へ攻め入りました。



三宅川

三宅川。この河畔に勝幡城が築かれました。



津島神社

津島神社



 現在の名古屋城二の丸にあったと言われる那古野城は、駿河の守護大名、今川氏親の子供で、義元の弟と言われる今川氏豊が城主でしたが、信秀は氏豊から那古野城を奪い居城としました。しかしその時代が不明で享禄5年(1532年)説と、天文7年(1538年)の二つの説があります。織田信長が生まれたのが天文3年(1534年)で、その時に信秀がどこに居城していたかにより、信長が生まれたのが勝幡城説と那古野城説の二つの説が出てきました。
 信秀が居城を那古野城に移したあと、勝幡城には城代が置かれていたようですが、城の重要性が失われていくとともに廃れて廃城同様となり、いつしか忘れられていきました。


 信長公記などでは尾張上四郡(丹羽郡、葉栗郡、春日井郡、中島郡)を岩倉の織田伊勢守家が支配し、下四郡(愛知郡、知多郡、海西郡、海東郡)を清洲の織田大和守家が支配したと書いてありますが、実際は織田伊勢守家は丹羽郡、葉栗郡、春日井郡、海西郡を支配し、織田大和守家は愛知郡、海東郡、中島郡を支配していました。知多郡は幕府の直轄領でした。



ずいぶん前に作ったホームページですが、興味があったら見てください。

 http://www.k4.dion.ne.jp/~idea-12w/page002.html