大溝城祉
琵琶湖の西岸、高島郡にある大溝城は、織田信長の甥(信長の弟、信行の長男)津田信澄により天正6年(1578年)に築城されました。縄張りは信澄の舅の明智光秀と言われています。
信澄は弘治元年(1555年)頃に産まれたと言われています。
弘治2年、父の信行が、織田家の重臣、林秀禎、信行の家老、柴田勝家と共に信長と対立、庄内川の河畔、稲生ヶ原で合戦となり大敗を喫します。信長、信行の母、土田御前の取りなしで赦されますが、翌弘治3年に信行は再び信長に反旗をひるがえし、岩倉の織田信安と計らい篠木三郷の横領を画策しましたが、柴田勝家の通報で発覚しました。
信長は病を装い、末盛城の信行に見舞いに来るように命じ、清洲城に見舞いに来た信行を北櫓に幽閉し暗殺しました。
信行の遺児、信澄を信長は許し、柴田勝家の元で養育されました。信長を憚り津田姓を名乗りました。元服し信長の元に出仕し頭角を現し、明智光秀の娘を娶りました。
天正10年(1582年)、明智光秀が本能寺で信長を討つ本能寺の変が勃発。その頃信澄は四国征伐のため大坂城にいました。信澄は光秀の娘婿であったため、信長の三男、信孝は、信澄が光秀に内通しているのではと疑い、大坂城を攻撃しました。そして信澄は大坂城千貫櫓で自害しました。
大坂城千貫櫓
大阪城西の丸にあり大手門を守るための櫓です。
信長の甥、信澄は、本能寺の変後、信孝に攻められ千貫櫓で自害しました。
千貫櫓は大坂城が石山本願寺の頃からあったと言われ、大坂夏の陣後、徳川幕府により再建されましたが、千貫櫓の名前は受け継がれました。
大坂城千貫櫓で自害した信澄には昌澄という子がいましたが、かつて信澄に仕えていた藤堂高虎に仕官し文禄の役に出陣します。その後藤堂家を離れ豊臣家に仕え、大坂の陣で活躍しますが、夏の陣で豊臣家が滅びると徳川家康の元に出頭します。高虎の計らいで家康から赦されました。
元和4年(1618年)に徳川秀忠に出仕し、旗本として近江国甲賀郡その他に2000石の所領が与えられました。
昌澄は天正7年(1579年)に産まれ、母は明智光秀の娘。本能寺の変の直後に、大坂城千貫櫓で信澄が自害した時はわずか三歳でした。父と同じく数奇な運命を辿りましたが、秀忠に仕え旗本になってから人生が安定し、家督を次男信高に譲り、寛永18年(1641年)に63歳で亡くなりました。
大溝城天守台
天守台の石垣のみが、大溝城の遺構として残っています。
大溝城三の丸
三の丸には現在、分部神社や高島総合病院が建っています。
乙女ヶ池
大溝城は琵琶湖の内湖である乙女ヶ池を天然の堀として巧みに取り入れ、築城されました。
大溝陣屋総門
大溝には元和5年(1619年)に伊勢国上野より分部光信が二万石で入封し、かつての大溝城の北西に大溝陣屋を築き、明治維新まで約250年余り大溝藩を支配しました。
大溝城(陣屋)図
右側が大溝城になります。大溝陣屋は大溝城の三の丸を取り入れ、大溝城の西側に築かれ、西側に武家屋敷が設けられました。
大溝港
大溝城の北側にある港で、琵琶湖水運の要衝として発展しました。
大溝陣屋付近図
大溝陣屋は東西に長く、東西約450メートル、南北約150メートルほどあります。
陣屋の北側に城下町が開かれました。
陣屋北側の通り
右側が大溝陣屋になり、左側が城下町になります。