名古屋城二ノ丸 | にっくんのブログ

にっくんのブログ

ブログの説明を入力します。


二ノ丸御殿図

二ノ丸御殿図


 戦国大名である徳川家康は、実戦に基づき名古屋城を築城しました。その際最後の砦となる本丸は籠城を考え、小さめに造られました。
 名古屋城の本丸は内堀の外縁が105間(約190メートル)四方、面積1万1000坪余り。郭内の平地面積が約3782坪あり、中小大名なら十分な広さがありました。玄関、表書院、対面所の北側に、藩主の生活する御座所、藩主夫人の住む広間や奥女中の生活する長局がありましたが、61万石の大名の御殿としては手狭でした。そこで東に隣接する二の丸に御殿を造営し、本丸御殿は将軍が上洛する際の宿舎に当てられました。
 二の丸は徳川家康の重臣で、義直の付家老であった犬山藩主、平岩親吉の屋敷があり、ここで尾張藩の経営にあたりました。しかし慶長16年に親吉は病に倒れ亡くなると、親吉には嗣子がいなかったために平岩家は改易となり、同じく付家老の成瀬正成が新たに犬山藩主となり、二の丸の屋敷は尾張藩に返され、慶長17年に徳川家康が来城した際に御座所が建てられました。
 二ノ丸御殿の工事は元和3年(1617年)から行われ、元和6年(1620年)にはほぼ完成し、義直は本丸御殿から移りました。
 二ノ丸の広さは2万6555坪と、本丸と御深井丸、西の丸を合わせたほどの広さがあり、藩の政庁である表御殿の北側に、藩主の生活する中奥があり、さらに東側には藩主夫人の御殿のである御内証(大奥)があり、江戸城を除けば最大級の御殿でした。
 表御殿、中奥には本丸御殿にはなかった能舞台が設けられ、御内証には広大な長局があり、二ノ丸御殿の北側には庭園が造営されました。尾張藩では二ノ丸を御城と呼びました。




名古屋城縄張り図

名古屋城縄張り図


 名古屋城の縄張りは本丸を中心に北西に御深井丸、南西に西の丸、東に二ノ丸が置かれ、西と北側には御深井大堀と言われる水堀に守られ、南および東を三の丸に囲まれていました。
 本丸は内堀も合わせて約190メートル四方ありますが、それに比べて二ノ丸の大きさがわかります。
 特に本丸は厳重に造られ、南の表枡形門の外には大手馬出し、東の枡形門の外には搦め手馬出しが置かれ、本丸の北西に五層の大天守、他の三隅に二層三重の隅櫓が置かれ、その間を多門櫓でつながれていました。
 直線を多用し、後の実戦を経験していない机上の空論だけの軍学者には評判が悪いようでしたが、関ヶ原合戦の前哨戦で大津城が大砲により落城したことを検証し縄張りされたものです。

 全国各地に実戦に基づいた城が築城された慶長期の最後を飾る城郭と言えるでしょう。





那古野城跡

那古野城跡の碑


 二ノ丸は名古屋城の前身である那古野城跡に築かれました。那古野城は尾張に進出した今川氏により築かれ、今川義元の弟、氏豊が城主でしたが、織田信長の父、信秀に攻められ落城し、以降織田氏の城郭となりました。信長はこの城で産まれたという説がありますが定かではありません。

 信秀はまだ幼い信長を那古野城の城主に置き、信長は弘治元年(1555年)に清洲城を攻め手に入れると、清洲城に移り、以降信長の叔父の織田信光が城主となります。信光が死ぬと信長の家老の林秀禎が城代となりますが、天正8年1580年)に秀禎が追放され那古野城は廃城となりました。





二の丸広場

二ノ丸西側


 正面の櫓は本丸南西櫓です。

 この辺りに尾張藩の政庁である二ノ丸御殿の表御殿や、藩主が生活する中奥がありました。





二の丸庭園

二の丸庭園


 二ノ丸御殿の北側には、尾張藩領である木曽の寝覚ノ床を模した二の丸庭園がありました。

 

 




権現山

権現山


 二の丸庭園の北側には、西に栄螺山、東に権現山という築山があります。

 権現山の頂には、秋葉、稲荷神社の祠がありました。それ以前は熊野権現、愛宕権現の祠があったようで権現山と名付けられました。





二ノ丸

二ノ丸東側


 二ノ丸の東には御内証(大奥)がありました。

 広大な二ノ丸御殿も、明治維新後破却され、陸軍が接収し名古屋鎮台の司令部や兵舎が建てられました。名古屋鎮台は第六連隊に名を変え、終戦まで二ノ丸に置かれました。

 戦後は第六連隊の兵舎は、名古屋大学の校舎に転用されました。昭和39年頃まで名古屋大学が使用し、その後は競売にかけられ解体され、引き取られていきました。





二ノ丸南園

南池


 二ノ丸東庭園の中心には南池という大きな池があり、その周辺に茶席が設けられました。






排水溝  

北暗渠遺構


 雨などの排水はこの暗渠を通り、北側の御深井堀に流しました。





埋め門

二ノ丸埋門


 左が搦め手馬出しの石垣、奥が御深井堀です。

 わかりにくいですが黒い楕円で囲ったところが、二ノ丸の埋門になります。

 有事の際に、藩主はこの埋門から脱出し、御深井堀を渡り、土居下同心(三の丸の北側には大きな土居があり、その外側に住んでいたことから土居下同心と呼ばれました)に守られて木曽に落ち延びる手はずになっていました。