織田信長と那古野城 | にっくんのブログ

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織田信長と那古野城


那古野城石碑 那古野城説明文

名古屋城二の丸の那古野城址の石碑と説明文


 織田信長が初めて城主となった那古野城は、現在の名古屋城二の丸にありました。
 那古野城を築いたのは、駿河の守護大名、今川氏親で大永年間(1521~28年)の初め頃でした。
 一時期、尾張の国は、今川氏が守護を務めていた時期があり、守護が斯波氏に変わっても、今川氏の一族の那古野氏がこの土地に居続けました。
 応仁の乱以降、尾張の国は守護の斯波氏が兄弟で争い、実権を握っていた守護代の織田氏も岩倉の伊勢守家と清洲の大和守家の二つの家が争い、国は弱体化していきました。今川義元の父、氏親は虎視眈々と尾張の地を狙い、一族である那古野氏の養子として末子の氏豊を送り込みました。
 しかし城主の今川氏豊はまだ歳若く、この地を狙う織田信秀の餌食となりました。信秀の那古野城攻略にはこのような逸話が残されています。
 若い氏豊はその頃流行った連歌好きとして知られ、それを聞き及んだ信秀は連歌を習得し、そして氏豊が行う連歌会に招かれるようになりました。勝幡城から那古野城の間では約12キロ以上あり、その往来は困難だろうと、氏豊は那古野城内に信秀の屋敷を持つことを許しました。信秀はその屋敷に自分の兵を忍ばせておき、信秀が城外から那古野城を攻めると、それに呼応して城内から那古野城を攻め、氏豊を追い出し那古野城を乗っ取ることに成功しました。
 それが天文元年(1532年)2月11日のことだと言われていますが、この説には異論があり、天文7年(1538年)という説もあり、実のところよく分かりません。この時代の尾張の国は、残された資料が乏しく、分からないことが多いようです。
 そのため天文3年(1534年)に産まれた信長は、父信秀の前の居城である勝幡城で生まれたのか、那古野城で誕生したという二つの説が出てきました。


織田信長公象

織田信長像


 信長公記によれば、天文4年(1535年)、信秀は古渡城に居城を移し、信長、幼名吉法師はわずか二歳で那古野城の城主となっています。もちろんいくら信長といえども、二歳の幼子が城主の責任を全うできるわけはありません。信秀は信長に、林秀貞、青山与三右衛門、内藤勝介、そして守り役の平手中務政秀の四人の宿老を付けられ、実務は彼らが行いました。 信長は天文15年(1546年)13歳で古渡城で元服し、織田三郎信長と名乗り、翌年には平手政秀の後見の下、三河の吉良大浜に出陣し、初陣を飾りました。
 その頃、信秀は三河で今川氏と、美濃では斎藤道三と争っていました。しかし三河の安城城を奪われ、美濃では加納口の戦いで大敗を喫し窮地に立っていました。
 信秀は平手政秀の薦めで斎藤道三と和睦を結び、道三の娘、帰蝶を信長の嫁に迎え那古野城で婚儀が行われました。帰蝶は濃姫と呼ばれました。
 信秀は古渡城から末盛城に移り天文21年(1552年)に脳溢血で亡くなります、享年42歳。織田家の家督は“うつけ”と揶揄されながら、嫡子の信長が継ぎました。
 織田家を相続した途端、鳴海城の山口教継、教吉親子が今川氏側に寝返りました。信長は赤塚に出陣しますが、勝敗は決着できずに那古野城の戻りました。
 天文22(1553年)年7月12日、清洲の織田大和守信友の重臣、坂井大膳が主家である守護、斯波義統を清洲城内で殺害する事件がありました。たまたま城外に出ていた義統の子、義銀は那古野城の信長の下に逃げ込みました。信長はこれを口実にかつての主家であった織田信友の清洲城を攻めます。信友は信長の叔父の守山城の織田信光に内通を呼びかけます。それに呼応し信光は清洲方に付き、信光を信頼した信友は信光の兵を清洲城内に入れさせます。しかしこれは信長と信光の間で事前に打ち合わせられた謀略でした。清洲城に入った信光は弘治元年(1555年)4月20日、兵を忍ばせ、信光の元に来る坂井大膳を討とうとしますが。変事を察した坂井大膳は清洲城を脱出し、今川へと逃げていきました。信光は清洲城に残された守護代、織田信友を主家の斯波義統殺害の件で切腹させ、清洲城を信長に引き渡し、新たに那古野城の城主となりました。その信光もその年の11月26日に家臣の坂井孫三郎に殺害されました。これには信長が一枚噛んでいると言われています。
 その後は那古野城の城主に織田家の重臣、林秀貞が城代として入ります。その秀貞も信長の弟、信行を担ぎ信長廃嫡を画策、弘治2年(1556年)稲生が原の戦いで敗れると、信長に詫びを入れ許されますが、24年後の天正8年(1580年)にその事件を理由に追放され、那古野城は廃城となりました。