古渡城とお市の方 | にっくんのブログ

にっくんのブログ

ブログの説明を入力します。

古渡城とお市の方


古渡城址 古渡城址説明文

古渡城址の石碑と説明文 


 古渡城は天文3年(1534年)に織田信秀によって築かれた城です。しかし築城年には色々な説があり、詳しくはわからないようです。
 現在の東本願寺名古屋別院の境内が城跡に辺り、山門を入り左手に古渡城址の石碑と説明文があります。城の規模は南北約100メートル、東西140メートルで二重の堀に囲まれていた平城です。
 織田信長は天文15年に古渡城で元服しています。



お市の方


お市の方

お市の方肖像画


 戦国時代随一の美女と言われたお市の方は天文16年(1547年)に産まれているため、よく考えてみるとこの古渡城で産まれたことになります。それにはお市の方が信秀の正妻、土田御前であるという前提があります。
 この時代の女性のことは詳しくわからないために、お市の方には信長と同腹、異複、いとこ、いとこの子ではないかと様々な説があります。いとこの子説の根拠には、たまたま信長の従兄妹が浅井氏に嫁いだという資料が残っているからで、それがお市の方ではないかと言われている根拠です。しかし尾張北部、一宮にも浅井氏がおり、従兄妹が、浅井氏に嫁いで混同しているのではないかと言われています。
 異複説には、信長とお市の方は歳が13歳も離れているために、そのような歳では土田御前は子供が産めないのではないかと言うことからです。しかし女性は30歳半ばまでは子供を産むことが出来、20歳で信長を産んだとしても、13年後の33歳でも充分産めるはずです。徳川秀忠の正妻、お江与の方は34歳で末子の和子を産んでいます。
 同腹説の根拠には、信長はお市を可愛がり重要視していたこと。武家社会というのは意外にも母系社会。母方の兄弟を大切にする傾向があり、その結束は強いようです。お市が浅井家が滅びたあと、信長の弟、信包の元に身を寄せていましたが、土田御前も、信長の死後、孫の信雄のもとに身を寄せていましたが信雄が改易になると、津の信包の元に身を寄せて文禄3年(1594年)1月にこの地でなくなり、城下の四天王寺に墓があります。つまり信長、信行、信包、お市の母は同じ土田御前であるという説の大きな根拠となっています。
 信長と弟、信行は織田家の家督を巡り骨肉の争いを繰り広げました。結果は弟の信行が兄の信長に殺害されるという悲劇を生んでいます。その約80年後、同じ血を分けた一族の中から、兄が弟を討つという悲劇が生まれています。それは徳川家康の孫、家光と忠長の争い。結果は忠長の切腹。ともに母が兄を疎んじ弟を溺愛しています。信長、信行の母は土田御前。家光、忠長の母はお市の娘、お江与の方。お江与の方は土田御前の血を強く受け継いだのではないでしょうか。


その後の古渡城


 天文17年(1548年)11月。織田信秀は斉藤道三に攻められた大垣城を救援するために美濃に出陣します。しかしその間に道三と呼応した清洲の織田大和守達勝が古渡城を攻め、城下に火を放ちます。それを知った信秀は急ぎ古渡城に戻ります。幸い、古渡城は落城を免れ、信秀によって達勝の軍勢は蹴散らされました。
 これを期に信秀は、宿老、平手政秀の意見を受け入れ道三と和睦を結び、道三の娘、帰蝶を信長の元に輿入れさせます。そして信秀は美濃への野心を捨てる証として古渡城から、三河に近い末盛城へと居城を移すことになりました。天文十七年(1548年)のことでした。古渡城は廃城となりました。
 その後、尾張徳川家の時代になり元禄3年(1690年)二代藩主、光友が古渡城址を浄土真宗大谷派に寄進し、東本願寺名古屋別院が建立されました。


東別院

東本願寺名古屋別院