大宇陀
大宇陀、松山の街並み。緩やかにカーブしているのが分かります。
奈良県の大宇陀という古い町に行ってきました。
近鉄に乗って名古屋から奈良県の方へはよく行くのですが、榛原駅の南に大宇陀という町があることを知り、一度行ってみたいと思っていましたが、榛原駅から4キロと少し距離があるので、なかなか行くことが出来ませんでしたが、思いきって行ってみました。
大宇陀のある菟田野(うだの)は奈良盆地の南東、桜井市と背中合わせにある小さな盆地ですが、中心部を流れる宇陀川は奈良盆地へと流れず、反対側の名張へと流れ、木津川と合流市、京都府で宇治川、桂川と合流し淀川となり大阪湾へと流れています。
その歴史を繙いてみると、この辺りは古代宮廷の狩猟場で阿騎野と呼ばれていました。飛鳥時代の歌人の柿本人麻呂がこの地で「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」と呼んだことでも知られています。
戦国時代はこの辺りの土豪、宇陀三将の一つ、秋山氏が秋山城を築き城の西側の麓に城下町を開きました。この時代は町の名を阿貴と呼んでいました。
天正十三年(1585年)に大和の国は豊臣秀吉の配下になり弟の秀長が入ると、秋山氏が追放され豊臣系の大名が入り、松山城へと名を改めました。この時代に城下町は整備されていきました。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍が勝利すると、松山城には福島正則の従兄弟の福島孝治が三万石で封じられ、松山城を大改修し、石垣を持つ近代的な城郭に変貌しました。その福島孝治も大坂の陣で豊臣方に内通していたという嫌疑がかけられ改易されてしまい、元和元年(1615年)に松山城は小堀遠州の手により破却されてしまいます。
その後入ったのが、織田信長の次男、織田信雄でした。信雄は破却された松山城の麓に陣屋を構えました。織田信雄は大宇陀に三万千二百石と上州(群馬県)小幡に二万石の計五万千二百石の大名でしたが、大宇陀の地が大和と伊勢を結ぶ交通の要衝だったために町は「宇陀千軒」「松山千軒」と言われるほど繁栄し、大和の国では奈良、郡山に次ぐ規模の町でした。
織田氏が元禄七年(1694年)に相続のトラブルから播磨(兵庫県)の柏原に国替えになると、宇陀松山は天領となります。しかし町の繁栄は衰えず、明治に入ると、宇陀郡役所や裁判所が置かれこの辺りの政治、経済の中心地でした。
しかし昭和五年(1930年)に近鉄大阪線が北の榛原を通ると、町は次第に衰えていきます。駅の出来た榛原が大きく発展したのに比べて、時代に取り残された感じです。
2006年1月1日に大宇陀町、榛原町、菟田野町、室生村が合併し宇陀市になりますが、市庁舎は榛原駅の前に置かれました。
前川、建物の腰部分を犬矢来が被っています。
松山の町は、城山と宇陀川に挟まれた南北に細長い土地に、上町通りと下町通りの南北に走る二本の通りと、それを繋ぐ東西の通りによって構成されています。西口関門と春日神社の参道を結ぶ通りを本町通りと呼び、かつての大手筋で城下町時代の主要な通りでした。上町通りは緩やかにS字状にカーブしており、その両脇を前川という水路が巡らされています。この前川は当初は道の中心を流れていましたが、通行に不便なので両脇に移したそうです。
二階の軒高の低い厨子二階の民家。二階は漆喰で塗り固められ、虫籠窓が開いています。
古い街並みでは、二階の軒高が低く防火のために漆喰で塗り固められ、虫籠窓を開けた厨子二階の建物、一階は千本格子が嵌められ、腰を犬矢来で被われた古い様式の重厚な建物や蔵が至るところに見ることが出来、城下町の風情を醸し出しています。
春日神社の参道、石垣で枡形が組まれています。
春日神社の参道は大手筋になっており、入り口は石垣が組まれ枡形になっており、松山城の大手門だったのでしょう。 春日神社の脇から松山城への道がでています。
織田氏が治めていた時代には、春日神社の左手に陣屋がありました。