小浜城天守台
小浜城は若狭国若狭湾に流れ込む北川と南川の間にある三角州に築かれた城で、完成まで40年近くかかりました。
築城工事を始めたのは関ヶ原の合戦の際、大津城を守り、西軍を釘付けした恩賞で若狭国を与えられた京極高次でした。工事は慶長6年(1601年)から始まりましたが、築城普請は長期にわたり、京極氏の時代には完成を見ませんでした。
高次の後を継いだ高忠は寛永11年(1636年)に出雲国松江藩に加増転封され、代わりに譜代大名の酒井忠勝が武蔵国川越藩より入封し、小浜城の築城工事を再開し、翌年三層の天守が完成。そして寛永19年(1641年)にようやく完成しました。
小浜神社
現在小浜城跡には、寛永11年(1636年)より明治維新まで約230年あまりにわたり小浜藩を支配した酒井氏の初代、酒井忠勝を祀る小浜神社が鎮座しています。
明治8年(1875年)に旧小浜藩士らにより建立されました。
小浜神社本殿
酒井忠勝
酒井忠勝は天正15年(1587年)、酒井忠利の子として三河国西尾で産まれました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦に向かう徳川秀忠軍を真田昌幸、信繁父子が上田城に釘付けにし、本戦に遅延させた上田合戦で初陣を飾りました。
元和6年(1620年)に二代将軍秀忠の命で世継ぎの家光に仕えることになり、家光から厚く信頼され、家光が三代将軍になった寛永元年(1624年)に老中となり、寛永4年(1627年)に父忠利の遺領を引き継ぎ、武蔵国川越藩十万石の大名となりました。 寛永11年(1636年)に川越藩から小浜藩11万3500石に加増。家光から一代限りの国持ち大名と任じられました(譜代大名としては国持ち大名は唯一の例)。
寛永15年(1638年)より土井利勝と共に大老職となり、事実上の幕閣の最上位に付きました。
慶安4年(1651年)に家光が亡くなると、後を継いだまだ幼い四代将軍家綱を保科正之、知恵伊豆と呼ばれた老中松平信綱と共に補佐し、由井正雪の乱など難局を乗り越えます。
明暦2年(1656年)に家督を忠直に譲り隠居、寛文2年(1662年)に76歳で亡くなりました。
酒井氏は松平(徳川)氏と祖先を同じにする、譜代大名としては名門の家です。
松平氏の祖である松平親氏は徳阿弥という放浪の僧でしたが、松平郷の領主、松平信重の婿養子となり、松平家となります。その前に碧海郡酒井村の領主の娘を娶り、子供を造ります。それが酒井氏の始祖となる広親です。広親には氏忠と家忠の二人の息子がおり氏忠の家系が左衛門尉家であり、徳川四天王の一人、酒井忠次ぐはこの家系から出ていて、山形県の庄内藩主となります。
家忠の家系が雅楽頭家で、徳川家康の重臣、酒井正親が出ており、正親の次男、重忠の子孫が上野国前橋藩、後に姫路藩十五万石の藩主となり、三男、忠利の子が小浜藩主となる忠勝となり、両家から大老を輩出しています。
小浜城縄張り図
小浜城は小浜市を東西に流れる、北川と南川に挟まれた三角州に築かれました。
城域は東西156間(284メートル)、南北145間(264メートル)総面積は外堀を除き、15937坪(62492平方メートル)
本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、西の丸が囲む縄張りとなっています。
本丸は3130坪(10329平方メートル)、内堀3755坪。
本丸の南に藩主家族の住む二の丸があり、広さは2249坪(7422平方メートル) 東側の三の丸は兵糧米や武器を収める蔵、大手門があり、広さは3806坪(12560平方メートル)
北の丸は2584坪(8527平方メートル)、西の丸は3413坪(11263平方メートル)ありました。
軟弱な地盤に築かれた城らしく、図を見ると本丸の周囲に犬走りを廻らせ、その上に石垣が築かれています。
天守台より見る風景
天守台は15メートル四方の広さがあり、高さは約8メートルほど。
この上に三層の天守が立っていました。
小天守台
天守台の北側に、小天守台があります。
天守台より見る小天守台
本丸南側石垣
本丸は東側の石垣が取り払われましたが、南、西、北側の三方の石垣は残り、往時を偲ぶことができます。
本丸西側石垣
西側の石垣は、自然石を多用した野面積みとなっています。
埋め門跡
西の丸側に開かれた埋め門形式の門がありました。西の丸を結ぶ橋が極楽橋。秀吉の大坂城本丸搦め手にもある橋の名前で、豊臣系大名の京極氏時代に名付けられたのでしょう。
埋め門跡の算木済み
隅石は長方形の石を交互に積んだ算木積みとなっています。
石を割る際、掘った孔が残っています。
西櫓台
埋め門を守る櫓が建っていました。
北側御門跡
本丸の南が外枡形、北側が内枡形のもんがありました。
外側の石垣が取り払われたために、石段だけが不自然に残っています。
北側御門跡
打ち込みはぎの石垣が残っています。
小浜城北側の風景
小浜城北側には北川が流れていました。現在は治水のため分流し、手前が多田川、その奥が北川となっています。
八助稲荷大明神
境内の片隅に八助稲荷大明神のお社があります。
酒井忠勝公の時代、八助という仲間(ちゅうげん)がおり、小浜と江戸の間を、15日かかるところを、わずか6日で公用の文箱を運び、人々は感心すると共に不思議に思いました。
ある日、小田原で犬に噛み殺された白狐が見つかり、その狐は酒井公の家紋の入った文箱を首につけられていました。
その話は小浜にも伝わりました。その数日前から弥助の姿を見かけなくなりました。
これはきっと稲荷大明神が信仰の篤い忠勝公の御治政を、八助の姿に変えた白狐を遣わし助け給たものと思い、それ以来、八助稲荷明神と名付け、お参りするようになったのが、八助稲荷の由来です。
元々は北の丸にありましたが、明治維新後、この地に移されました。