(141)香川県善通寺市 野田院(のたのいん)古墳

 (積石の前方後円墳・有岡古墳群)


有岡古墳群は香川県善通寺市内にある当地域の歴代の首長墓郡で古墳時代前期(3世紀末)に築造された野田院(のたのいん)古墳をはじめ、鶴ヶ峰4号墳(4世紀)、磨臼(すりうす)山古墳・丸山古墳(5世紀)、大墓(おうはか)山古墳(6世紀)と連続して築造された。



今回はNHK「ミステリアス古墳スペシャル」で「まるでバースデーケーキ」と

紹介された野田院古墳。

 

◎野田院(のたのいん)古墳 (積石の前方後円墳)

野田院古墳は山の中腹、標高400mにあるため、視界は良好で、

丸亀平野・三豊平野・瀬戸内海さらには吉備(岡山)・安芸(広島)・伊予(愛媛)まで

展望できる。



展望台からの眺め

 

墳形は積石の前方後円墳で、全国でも極めて特異な姿を見せている。


全長44.5m、後円部直径21m・高さ2m、前方部長さ23.5m・幅6m・高さ1m

前方部は古い時代のため細長く三味線の撥形にやや開く

 

後円部下から前方を望む



前方部下から後円部を望む

 

後円部は3段築成、前方部は2段?。

後円部は斜面の上に積石されており、1段目に崩れ防止の土木技術が見られる。



 

前方部は、後円部を積石する際に運搬作業道として使われ、

後円部が完成してから、前方部にさらに土を盛り、

石を拭いて完成させている。

後円部と前方部の接続部分

 

 

古墳廻りと石室の上には赤く塗った壺型土器が並べられていた。

後の時代には埴輪にとって代わる。



 

埋葬施設は2基の竪穴式石室がある。

第1主体部 全長5.15m・幅0.9m・高さ1m
第2主体部 全長5.7m・幅1m・高さ1m

被葬者はよくわかっていない。

築造時期はAC275~300年ごろか(3世紀末)

この古墳は復元されており、後円部側に展望台が作られているので、

全景を上から見ることができる。訪問者の期待を裏切らない、

非常によく考えられた復元整備がなされている。



なお現地には5台以上の駐車場がある。

登り口から標高350mはあるので車でないとかなりキツイ。


引用・参考/現地案内版・NHK「ミステリアス古墳スペシャル」

(140)香川県善通寺市  宮が尾古墳・2号墳(円墳・有岡古墳群)

有岡古墳群は香川県善通寺市内にある当地域の歴代の首長墓である古墳時代前期(4世紀)に築造された野田院(のたのいん)古墳・鶴ヶ峰4号墳、中期(5世紀)築造の磨臼(すりうす)山古墳・丸山古墳、後期(6世紀)築造の大墓(おうはか)山古墳、そして今回ご紹介する、終末期(6世紀後半~7世紀初頭)築造の宮が尾古墳の6基を主とした古墳群を指すようです。

◎宮が尾古墳



手前は2号墳

 

円墳で直径46m、後円部直径28m・高さ6m、前方部幅28m・高さ5m



柵越しに石室を撮影


埋葬施設は両袖式の横穴式石室。

石室は入口に柵があり入れないが、柵越しに見ることはできる。
石室は全長9m、玄室4.5m・幅2m・高さ2m、羨道長4.5m・幅1.2m・高さ1.7m

 

なお石室の復元模型が現地に展示してあるのはうれしい。

 

両袖式の石室

 

壁石から中四国では珍しい線刻画が発見された

 

 


人物・船・騎馬人物などで葬送儀礼の殯(もがり)を表現したものとも
絵自体はそれ程繊細なものではないけれど!

 

なお残念なことに、この石室は江戸時代に博打場として利用されていたようで、線刻画下部は焚火のため焼かれて剥落してしまっているとのこと。

 

出土遺物は耳環や刀子、須恵器など。


◎宮が尾2号墳

宮が尾古墳発掘調査時に偶然発見された古墳。



円墳で直径31m(どこにも記載がないので目測)くらいか?・上部は削平されている。
埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、長さは7m程度、幅は1.5m前後
 

小さな線刻画が見つかっている。



 

次回のご紹介はNHK「ミステリアス古墳スペシャル」でも紹介された野田院古墳。

築造時期は宮が尾古墳・2号墳ともに同時期に築造されており

AC575年~625年ごろか(古墳時代終末期・6世紀後半~7世紀初頭)



引用・参考/現地案内版・善通寺市文化財保護協会「史跡有岡古墳群(宮が尾古墳)調査報告PDF・1993」

(139)香川県善通寺市  王墓山(おおはかやま)古墳(前方後円墳・有岡古墳群)


王墓山(おおはかやま)古墳は有岡古墳群の中心に位置しており、

善通寺・大野原線の道路沿いから異様な姿を見ることができる。



現地は30台は止まれるであろう駐車場があり、史跡公園としてきれいに整備されており、

墳丘も登ることができた。この時はわが愛車プレリュードしかいなかった。

私が訪れた時は夕暮れまじかで、墳丘は急こう配で、足を踏みはずす怖ささえ

感じるほどだった。

 

前方部から後円部を望む

 

こうした墳丘の急こう配は、茨城県の古墳とよく似ていると思った。

平面では同じ前方後円墳でも墳頂までの勾配は様々で、

これまで登った古墳の中でも5本の指に入るくらい勾配がきつい。



後円部墳頂より前方部

 

 

墳形は前方後円墳で全長46m、後円部直径28m・高さ6m、前方部幅28m・高さ5m




埋葬施設は後円部に両袖式の横穴式石室がある。



石室の羨道は柵越しに撮影可能

 

 

玄室には九州(特に熊本)でよくみられる石屋形があるが、瀬戸内・四国地方では少ないことから、この古墳の被葬者は九州地方と交流があったか、九州出身であった可能性もある。

 

玄室の石屋形



発掘された玄室と石屋形


また石室から須恵器、首飾りなどの装飾品、武具・馬具類、大和政権が配下に入った地方豪族に渡したという金銅製冠帽(こんどうせいかんぼう)や銀象嵌(ぎんぞうがん)を施した鉄刀が出土。

ヤマト王権との強いつながりを持った有力豪族としての被葬者像も想定される

墳丘表面では円筒埴輪・形象埴輪が検出されている。

次回でご紹介する同じ香川県善通寺市の野田院古墳・宮が尾古墳、

そして王墓山古墳の石室は毎年4月29日(善通寺市古墳の日)に一般公開されているらしい。

 


築造時期はAC550年ごろか(6世紀半ば)


なお前方部の裾には貴重な3世紀の弥生時代の集団墓がみれる。

 





 

引用・参考/現地案内版・1992年善通寺教育委員会作成「史跡 有吉古墳群・大王墓山古墳 保存整備事業報告書PDF・Wikipedia

(138)大阪府南河内郡 金山古墳(双円墳・NHKで紹介)


金山古墳は1年前にNHKの番組「ミステリアス古墳スペシャルⅢ」で紹介されていた古墳で、墳形がこれまた全国でも珍しい大小二つの円丘が連結した双円墳なのだ。



手前が北丘

 

上から見るとひょうたん型。

現地は6台程度の駐車場があり、古墳解説の説明版がとても分かりやすい。
古墳もきれいに整備され、石室の中がよく見れるよう照明がついている。

さらに墳頂まで登ることができるうえ周堀がはっきりしているため

周りの住宅も写真撮影の邪魔にならない。

 

全長は85.8m

駐車場から撮影・手前が南丘

 



北丘の直径38.6m・高さ6.8m


南丘の直径55.4m・高さ9.4m

墳丘は両丘同時に築かれ、北丘が2段、南丘が3段築成。



格段のテラスと墳頂には敷石がある。

葺石はくびれ部の西側のみ。



周堀があり深さ1.4mで水をためる機能はなかった。

築造時期が古墳時代末期のせいか埴輪は無かったようだ。



北丘の墓道と石室入口

 

埋葬施設は両丘とも墓道を伴う横穴式石室があり、

調査された北丘の石室(全長10m)の中には家型石棺が2つ



 

あとから入れたであろう二つ目の石棺は、玄室ではない狭い通路(羨道)に無理やり押し込められており、とても窮屈!よく入れたな!と思うありさま。

 

NHKでも話されていたが、よっぽど急を迫られた事態が起こったのではと推測される。


石棺の蓋は奥に比べ手前は突起が簡略化されているから

後の時代に造られたことがわかる。盗掘の穴も見える。


南丘の石室はあることが確認されたのみで調査は行われていない。

築造時期はAC570年~620年ごろか(6世紀末~7世紀初頭)




引用・参考/現地案内版・NHK「ミステリアス古墳スペシャルⅢ」

(137)大阪府南河内郡 磯長谷古墳群 山田高塚古墳

(推古天皇と竹田皇子の磯長山田陵)

磯長谷(しながだに)古墳群は、敏達・用明・推古・孝徳の4天皇陵と聖徳太子墓など約30基からなる古墳時代終末にあたる飛鳥時代の天皇中心の古墳群。

特徴としてめずらしい墳形の双方墳が二子塚古墳と葉室塚古墳に見られること。

◎山田高塚古墳(磯長山田陵・推古天皇と竹田皇子の合葬墓)



墳形は長方形の方墳(もしくは双方墳)の可能性がある。



全長は東西59m×南北55mで高さ11m


墳丘は3段築成で表面は葺石ではなく貼石。

時代が新しいので埴輪は無いようだ。

埋葬施設は天皇陵のため明らかでないが、前回ご紹介の二子塚古墳と同様に

横穴式石室が東と西の両方あり、かつ南方に開口していると推定されている。

被葬者は宮内庁より第33代推古天皇(628年崩御)および子の竹田皇子(崩御年不詳)の

合葬陵とされている。


 

築造時期はAC650年ごろ(7世紀中・古墳時代終末期・飛鳥時代)


引用・参考/現地案内版・ニッポン旅マガジン(一社プレスマンユニオン)・Wikipedia

(136)大阪府南河内郡 磯長谷古墳群 二子塚古墳(双方墳)


磯長谷(しながだに)古墳群は、敏達・用明・推古・孝徳の4天皇陵と聖徳太子墓など約30基からなる古墳時代終末にあたる飛鳥時代の古墳群。

◎二子塚古墳(双方墳)

道沿いの畑の下から遠く不思議な墳頂が二つある双方墳がみれる。

廻りに家もないので様々な角度からの写真映えも良い古墳だ。

 

二子塚古墳から望む磯長山田陵(山田高塚古墳)

 

二子塚古墳(双方墳)は第33代推古天皇・竹田皇子の磯長山田陵(山田高塚古墳)と

谷筋をはさんで、ほぼ同時期の7世紀中ごろに丘の上に築造されている。

 


墳形は一辺約25mの方墳が二つ連なった全長約66mの双方形。

 



東墳丘から西墳丘を望む

 

墳丘は3段築成



飛鳥時代になるため葺石や埴輪はない。

墳丘周囲に周溝あり



東墳頂から西墳丘を望む

 

 



東の石室(大きな天井石が見える)

 

埋葬施設は小型化した横穴式石室がそれぞれにある。



東墳丘の石室は、長さ約5m・幅約1.80m・高さ約1.60m、

西墳丘の石室は長さ約5.30m・幅約1.50m・高さ約1.55mで、

壁面に漆喰が残る。



石棺は両方ともほぼ同型の刳拔き式で全長約2.2m・幅約1m・高さ約0.70m、

蓋は加工が簡略化された蒲鉾形。

度々の盗掘を受け遺物は小皿形土器・鉄釘のみ。

この古墳こそ、被葬者が第33代推古天皇(628年崩御)と竹田皇子で、

真の合葬陵墓とする伝承があるとのこと。




築造時期はAC650年ごろ(7世紀中・古墳時代終末期・飛鳥時代)


引用・参考/現地案内版・大阪府太子町HP「国指定史跡二子塚古墳」・Wikipedia

(135)奈良県天理市 大和古墳群 下池山古墳(前方後方墳)


大和古墳群は、総数約22基の前方後円墳・前方後方墳・円墳等で構成される

古墳時代初期の前期古墳群。下池山古墳はその中でも珍しい前方後方墳だ。



 

 

◎下池山古墳(前方後方墳)

道沿いからきれいな後方部がみれる。

高さは5階建てくらいあるので写真映えも良い古墳だ。


 

前方後方墳で全長約120m、後方部長さ約60m・幅57m・高さ約14m、

前方部長さ約60m・幅27m・高さ約6m。

周濠あり



 

埋葬施設は平成7と8年の調査で、後方部に

竪穴式石室(長さ6.8m、幅1m前後、高さ1.8m前後)が発見された。

内部から全長約6mの割竹形木棺や鉄製品などが見つかったほか

石室の北西側の小石室から直径37cmの内行花文鏡が出土している。

築造時期はAC300-350(4世紀前半・古時代前期前半)ごろ。


引用・参考/現地案内版・天理市観光ガイドHP(天理市観光協会)・

波多子塚古墳「後方部北側の調査成果」(天理市教育委員会)

(134)奈良県天理市 大和古墳群

(西山塚古墳・西殿塚古墳)

大和古墳群は、総数約22基の前方後円墳・前方後方墳・円墳等で構成される

古墳時代初期の前期古墳群

 


 

その中で「山の辺の道」沿いから望めた二つの前方後円墳と珍しい前方後方墳をご紹介。

なお前回の波多子塚古墳は写真を撮り損ねており、

文章や現地看板のみで大変失礼しました。


◎西山塚古墳(前方後円墳)
古墳の池から後方部の墳丘を望むことができる。

墳丘は果樹園などに利用されている。



左が後円部


前方後円墳で、全長114m、後円部直径65m・高さ13m、前方部幅65m。



前方部を北に向け、墳丘は3段築成。

埴輪、葺石、周濠あり(当時は空堀の可能性)


埋葬施設は未調査だが過去に家形石棺が確認されている。

 
築造時期はAC500~550年ごろ(6世紀前半) 

宮内庁が、6世紀に実在したとされる手白香皇女の陵墓としているのが西殿塚古墳。
しかし築造時期が3世紀後半とされており時代が合わないため、この西山塚古墳の被葬者こそ第26代継体天皇の皇后であった手白香皇女のものではないかと言われている。

◎西殿塚古墳・手白香皇女衾田(ふすまだ)陵 

(大型前方後円墳)



山の辺のから見えるが大きな森としか見えず、写真映えしない!

宮内庁管理のため立ち入りも不可。

被葬者は継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵墓

「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」とされている古墳だが築造時期が合わない。



 

前方後円墳で、全長230m、後円部直径145m・高さ約16m、

前方部幅130m・高さ11.3m

埋葬施設は宮内庁の管理のため確認されていないが、時代的に竪穴式石室と推定

築造時期はAC250-350年ごろ(3世紀後半~4世紀前半・古墳時代前期前半)
箸墓古墳の次に築造された古墳と考えられている。



引用・参考/現地案内版・天理市観光ガイドHP(天理市観光協会)・波多子塚古墳「後方部北側の調査成果」(天理市教育委員会)

(133)奈良県天理市 大和古墳群・波多子塚古墳

(前方後方墳・全長140m)

大和古墳群は、総数約22基の前方後円墳・前方後方墳・円墳等で構成される

古墳時代初期の前期古墳群。

 


波多子塚古墳

特徴は前方部が非常に長い前方後方墳であること。
全長140m、後円部の東西幅50m、前方部幅14m・前方部長90m。

 



埋葬施設は、近代に改変された墳頂部の石垣に板状の石材が

多く使われていることから竪穴式石室と推測されている。

葺石と周壕の存在が平成10年の発掘で確認されている。

埴輪は朝顔型・鰭付型・特殊器台型などが周壕から見つかっている。



東殿塚古墳の墳形と相似の可能性があり、同古墳の系譜をひく可能性が指摘されている。



築造時期はAC260~325年ごろ(3世紀後半~4世紀前葉)と考えられている。



引用・参考/現地案内版・天理市HP(文化財課)・波多子塚古墳「後方部北側の調査成果」(天理市教育委員会)

(132)奈良県奈良市 佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群は

200m級の前方後円墳群

大雨から小雨にかわり平城京跡の朱雀門を横目にして夕暮れ迫る佐紀盾列古墳群(西群)に向かうも、日没までに4つの古墳を見るのにぎりぎりで小雨も降る中写真写りはすこぶる悪かった。

4つの古墳は①佐紀石塚山古墳(伝・成務天皇陵)、②佐紀陵山古墳(伝・日葉酢媛命陵)、③佐紀高塚古墳(伝・称徳天皇陵)、④佐紀瓢箪山古墳。なお五社神古墳(伝神功皇后陵)や塩塚古墳は見ることができず。

◎佐紀高塚古墳
 高野陵・第48代称徳∼孝謙天皇陵



前方後円墳で後円部・前方部ともに3段築成
全長127m・後円部直径84m・前方部幅70m


前方部が西を向いており、南北を主軸とする他の古墳とは違うことからこの地域の主要古墳ではないと推測されている。

鍵穴形で幅の狭い周濠が巡らされる。
埋葬施設など発掘されておらず不明



 

築造時期はAC350年以降(古墳時代前期後半・4世紀後半)と推定されているが、

第48代称徳天皇∼孝謙天皇は770年8月4日崩御となっているから当然時代が合わない。


◎佐紀石塚山古墳
  狭城盾列池後(さきのたたなみのいけじり)陵・第13代成務天皇陵


前方後円墳で三段築成で、葺石がある。
全長218.5m、後円部直径132m・高さ19m、前方部幅121m・高さ16m


周濠があるが佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)とくっついて築造されている。

佐紀石塚山古墳と陵山古墳はほぼ同時期に築造されたとされているので

両古墳の被葬者には近しい関係があった可能性が指摘されている。

埋葬施設は後円部に竪穴式石室と長持形石棺があることが推定されている。



築造時期はAC350年以降(古墳時代前期末頃)と推定されており、

第13代成務天皇が実在したとすれば4世紀中ごろと推定されているため時期的に近い。


◎佐紀陵山(みささぎやま)古墳
  狭木之寺間(さきのてらま)陵・日葉酢媛命の陵(第11代垂仁天皇皇后)


前方後円墳で三段築成
全長207m、後円部直径131m・高さ約20m、前方部幅約87m・高さ12.3m



埴輪はキヌガサ形埴輪(高さ1.5m、横幅2m)と数個の盾形埴輪(高さ1m、最大幅0.8m)

殉死のかわりに初めて埴輪を御陵に立てたという説話が日本書紀に記されているのが

この古墳ではないかとされている。

1915年(大正4年)の盗掘事件後の復旧工事に伴う調査により

後円部頂上に竪穴式石室があり石室は長さ8.55m、幅1.09mで

石室の構造は全国的にきわめて特異なものであることがわかった。

出土物は仿製の銅鏡(流雲文縁変形方格規矩鏡、唐草文縁変形方格規矩鏡、直弧文縁変形内行花文鏡)、石製腕飾り類・石製模造品・管玉1、琴柱形石製品、石製臼1など



築造時期はAC350年代以降(4世紀後半?・古墳時代前期でも終わりに近い年代)

垂仁天皇や日葉酢媛が実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半の間とされているので、長生きしたとすれば古墳築造時期と近いともいえる。

墳形が兵庫県の五色塚古墳と相似形らしく、当時の近畿圏の権力範囲が推定される。

◎佐紀瓢箪山古墳



 

陵墓などに指定されていないため唯一見学可能な古墳だったが、

夕闇迫るギリギリのタイミングだったため、鮮明な写真が取れなかった。

前方後円墳で全長は96m、後円部直径60m・高さ10m、前方部幅45m。高さ7m。

周濠があるが全周していない。



墳丘には葺石がふかれ、埴輪もあったとのこと

1913年(大正2年)に前方部で土砂取りが行なわれた際、

粘土槨が発見され琴柱型石製品3点が出土したとのこと。




引用・参考/現地案内版・奈良県文化財ウォーキングマップ⑤「佐紀の古墳群と松林苑」・Wikipedia