(131)奈良県 明日香村 甘樫丘(あまかしのおか)と

雷丘(いかづちのおか)

◎甘樫丘(あまかしのおか)標高148m

蘇我入鹿の首塚から

 

 

大和三山や飛鳥寺などを一望でき、古代飛鳥の華やかなる都を想像してしまう。

 

耳成山

 

畝傍山

 

 


右側・香久山

 

飛鳥寺と明日香村

 

そんな甘樫丘だけど、15年前に発掘が行われた東麓遺跡で

蘇我蝦夷か入鹿の邸宅跡(焼失の痕跡)らしき遺物や遺構が

見つかり話題になったが、

当時の乙巳の変もまたこの丘の歴史の一つでもある。

展望台は二つあるがいずれも徒歩で登らなければならない。

所要時間は15分程度。
レンサイクルが便利で、駐輪場とトイレもある。

◎雷丘(いかづちのおか)



Google ストリートビューより

甘樫丘を下りて、300mほど歩くと「雷」という交差点表示がある。

 

 


そのすぐ横に急な石段があり、5分ほど登ると丘の上につく。

標高は110mほど。


近くには豊浦寺跡や水落遺跡などがあり、飛鳥時代の

推古天皇の宮がこの周辺にあったらしい。

雷丘の名前は、万葉集(奈良時代)に・・
「大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも」
という柿本人麻呂が読んだ歌があるので有名に。

日本書紀(奈良時代)や日本霊異記(平安時代)にも・・
雄略天皇から「雷神を捕らえてこい」と命じられた家臣の

少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雷神を捕えたのがこの雷丘らしい。



参考/奈良県「奈良の歩き方新提案HP」・明日香村観光ポータルサイト「旅する明日香ネット」・Wikipedia

(130)群馬県太田市 女体山古墳(東日本最大の帆立貝型古墳)

群馬県は、東日本きってのすばらしい古墳が数多くある県で、

古墳時代には東日本では最も栄えていたであろう

毛野という国の巨大さをうかがい知ることができる。

女体山古墳は前回のブログの天神山古墳(男体山)から150mほど離れたところにある。

駐車場がないため、近くのコンビニで買い物と合わせて利用したい。


◎女体山古墳(東日本最大の帆立貝型古墳)


後円部から突端を望む

 

 

帆立貝型古墳で、全長106m、円丘部84m、高さ7m、前方部幅18m、長さ16m



周堀は幅11~19mある。



左側が突端部、右に周堀がある

 

周溝が完全な円であれば円墳に[造り出し]がついたものと判断されるが、

そうではないため帆立貝型古墳と判断されている。

墳形はとても良好に残っていて誰もが帆立貝型を実感できる。

 


墳頂部分

 

帆立貝型としては東日本最大で全国でも3番目に大きい。

1番目は宮崎の西都原古墳群にある男狭穂塚古墳(墳長175m)だ。

埋葬施設は時代的に竪穴式で、既に盗掘の痕跡があり、調査もされていない。

築造時期はAC410~440年ごろ(5世紀前半)で、天神山古墳よりも少し古いらしい。

 天神山古墳(男体山)と女体山古墳は、ほぼ同一時期に同一方向を向いて、

広い地割に基づいて造られていることから、2つの古墳に埋葬された人物には、

密接な関連があると考えられている。




引用/現地説明版・天神山古墳・女体山古墳リーフレット・太田市HP(文化財課)

(129)群馬県太田市 天神山古墳(東日本最大の前方後円墳)

群馬県は、東日本きってのすばらしい古墳が数多くある県で、

古墳時代には東日本では最も栄えていたであろう毛野という国の

巨大さをうかがい知ることができる。

◎天神山古墳(別名「男体山古墳」・東日本最大の前方後円墳)

 


後円部頂から前方部を望む

 

 


後円部から周堀への下り

 

天神山古墳はその中でも特別に大きく別名「男体山」とも呼ばれている。
駐車場から50mはあろうかという周堀を横切って

 

 

真横から墳丘に向かうのだが、東日本最大というだけあって

一目で見渡すことはできない。
墳丘の高さも5階建てを超えており樹木に覆われるなか隙間から

かろうじて墳丘を垣間見ることができる。

 


後円部(周堀から・高さ16.8m)

 

 


前方部(周堀よこから・高さ12m)

 

前方後円墳で全長210m、後円部直径120m・高さ16.8m、前方部幅126m・高さ12m

 



3段築成で表面には川原石の葺石があり、

今も墳丘のいたるところで大量に確認することができる。



二重の週堀があり、墓域全体は長さ364m×288mに及ぶ。



北東と西に陪塚がある。

埋葬施設は竪穴式で、既に盗掘を受け長持ち型石棺が

一部露出しているとの記載だが、倒木や土砂で埋没し見ることはできなかった。

埴輪は墳丘及び中堤帯に円筒埴輪が並び、

後円部墳頂には機材は庭が樹立していたらしい。




築造時期はAC450年前後(5世紀前期・中ごろ)

被葬者は、ヤマト王権と強いつながりのあった毛野国の大首長と考えられている。

次回はこの古墳と対をなす女体山古墳をご紹介します。

引用/現地説明版・天神山古墳・女体山古墳リーフレット・太田市HP(文化財課)

(128)群馬県藤岡市 皇子塚古墳・平井地区1号墳(円墳)

この2基の古墳は鮎川の河岸段丘上に築造されており、

現在、藤岡市によって毛野国白石丘陵公園として保存整備されている。

 

この公園には、ほかにもいくつかの円墳があるほか、

近くには見ごたえのある100m越えの前方後円墳が

2基(七輿山古墳・白石稲荷山古墳)や

 

出土物も見れる藤岡歴史館(大きな駐車場と竈まで再現した竪穴住居)が

あるから家族連れにもおすすめ。


◎皇子塚古墳(円墳)



 

直径31m、高さ6mで4段築成

埋葬施設は、横穴式石室で両袖型、羨道・前室・玄室からなる複室構造

現在は埋め戻されてみることができないので藤岡市HPの掲載写真より。
 

 

藤岡市HPより(玄室部)

 

藤岡市HPより(両袖式石室の前室部)

 

藤岡市HPより(石室の外に細長い前庭部)


石室は全長9.33mで墓道(ぼどう)状の細長い前庭部を含めると12.16mに達する。

前庭部~全室までが乱石積み、玄室は切石切組みとなっている。


墳丘からは埴輪(円筒・朝顔・人物・馬・盾・靭・大刀・鞆など)。
石室からは人骨、馬具、刀装金具、ビーズ玉、鉄鏃・弓金具、耳環。

 


 

前庭からは単龍環頭大刀の柄頭、須恵器等が出土。

築造はAC550~590年ごろ(6世紀後半)で640年ごろ(7世紀前半)まで追葬があったとのこと。
前庭部~全室までが乱石積み、玄室は切組み手法の石積みとなっている。



 

築造はAC550~590年ごろ(6世紀後半)で640年ごろ(7世紀前半)まで追葬があった。

◎平井地区1号墳(円墳)



 

直径24m、高さ3.5m。
二段築成で幅広の基壇を持っている。


北に横穴式石室で切石積みの両袖型。羨道、玄室からなり長さは6.8m。
出土品は墳頂から埴輪(家・太刀・靫・帽子・鞆)や須恵器・土師器が、

石室からは装飾大刀・直刀・挂甲・鉄類・馬具・耳環など。

 


特に装飾太刀の銀象嵌円頭大刀と単鳳環頭大刀は

群馬県の重要文化財に指定されている。

築造はAC550~590年ごろ(6世紀後半)




引用/現地説明版・藤岡歴史館・藤岡市HP(「皇子塚」教育委員会文化財保護課)




 

(127)群馬県藤岡市 七輿山(ななこしやま)古墳

(全長146m・前方後円墳)



この古墳は鮎川の河岸段丘上に築造された巨大な前方後円墳。


古墳の後円部入口からほどなくしてテラスに首のない石仏が

整然と並んでいるさまは、初めて見る者をギョっとさせる。



前方部から後円部を望む・手前の石は葺石

 

七輿山古墳は周辺の地形を利用してつくられた三段築成の前方後円墳。

墳丘は登ることができ、よく整備されているので、全体像や起伏がよくわかる。


全長146m、後円部直径87m、前方部幅106mメートル、高さは前方部・後円部ともに16m。



前方部・内堀・中堤帯が見える

 

範囲確認調査では、内堀、中堤帯、外堀、外堤帯、埴輪列が確認されている。

出土物は埴輪(円筒・朝顔形・人物・馬)
特に、円筒埴輪は直径50㎝・高さ110㎝で、

7条の突帯(とったい)が回っておりめずらしいとのこと。



藤岡市HPより「7条の突帯のある円筒埴輪」


築造はAC500~550年ごろ(6世紀前半)でこの当時では東日本最大級


藤岡市HPによると藤岡市周辺は、『日本書記』に書かれている535年に設置された

緑野屯倉に推定される地域で七輿山古墳との関係が注目されているとのこと。

なお古墳の名である「七輿山」の由来は羊太夫の伝説がきているとのこと

伝説・・・奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束の小脛という神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。

ある日、羊太夫は悪ふざけで昼寝をしている小脛の両脇に一本づつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷へ日参できなくなりました。

朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣しました。

八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と言う名称が伝えられています。

 

近くにはAC400~425年ごろに築造された巨大な

白石稲荷山古墳(全長155M・前方後円墳・ブログNO3)があるので

一緒に見るのがおすすめ!。

 


七輿山古墳の近くにある白石稲荷山古墳(全長155M)

 

 

引用/現地説明版・藤岡市HP「七輿山古墳」(群馬県藤岡市教育委員会文化財保護課)




 

(126)鹿児島肝属郡 唐仁古墳群 

100号・16号墳(前方後円墳)

唐仁古墳群は鹿児島県の大隅半島の南東部の旧砂丘帯(縄文時代)にありAC360年~400年代(4世紀末~5世紀)に築造された。築造時期は宮崎の日向地域の生目古墳群(ブログno18)に続く古墳群で、地理的には鹿児島県志布志の横瀬古墳(ブログno100)を南下すると唐仁古墳群に至る。
 

前方後円墳5基、円墳134基の計139基が確認され、首長墓とみられる古墳の築造順は1号墳(唐仁大塚古墳)→100号墳(役所塚)→16号墳(薬師堂塚)と考えられている。

◎100号墳・役所塚(前方後円墳)



畑の真ん中にあり、墳丘の木々も伐採されており、

とても美しい前方後円墳の形を残している。

写真映えもGOOD!

 


下の写真の大崎町にある横瀬古墳と同型

大崎町にある横瀬古墳

 

全長57m・後円部直径25.5m・高さは7.2m、前方部幅は後円部直径と同程度に見える。


前方部から後円部を望む

 


後円部から前方部を望む


後円部の墳頂に葺石を見ることができる。

 

この葺石にまつわる怖い話・・・

「桜島の大正3年の大噴火の後、串良川の河川改修工事が行われた時、この100号墳の葺石を掘り出して工事に利用した人がいた。その人は、掘り出した日から石がのどに詰まって苦しむ夢を見た。それが何日も続き、古墳の祟りだと思い掘り出すのを止めた」そうです。

築造時期は、横瀬古墳(5世紀半ば)と同型とするとAC450年前後か?

◎16号墳・薬師堂塚(前方後円墳)



全長42m・高さ5.1m

築造時期は首長級では最後と思われる古墳で、5世紀末のAC460年以降か


引用/現地説明版・郷土研修館・東串良町教育委員会作成の「国指定史跡・唐人古墳群」紹介パンフレット及び東串良町文化財保護審議会も加わった別冊「史跡名勝天然記念物・唐人古墳群」・国指定史跡ガイドより

(125)鹿児島肝属郡 唐仁古墳群 

1号墳(唐仁大塚古墳・柄鏡型前方後円墳)



 唐仁(とうじん)古墳群は鹿児島県の南東部の肝属川の砂丘帯にあり、

築造時期は宮崎の日向地域の生目古墳群(ブログno18)に続く古墳群で、

AC360年~400年代(4世紀末~5世紀)。

地理的には鹿児島県の志布志にある横瀬古墳(ブログno100)から

南に下ると

唐仁古墳群に至る。

 


 

 

前方後円墳5基、円墳134基の計139基が確認され、

首長墓とみられる古墳の築造順は

1号墳(唐仁大塚古墳)→100号墳(役所塚)→16号墳(薬師堂塚)と考えられている。


 

◎1号墳(唐仁大塚古墳)柄鏡形の大型前方後円墳



唐仁大塚古墳の墳頂には大塚神社がある。

神社の入口は前方部にあり前方部上に参道が築かれ、

 

後円部の神社へは一筋の急峻な石段がある。

訪問時は石段の崩壊が進み、う回路が作られていた。

全長140m(周濠を含めると185m)・後円部高さ11m以上



九州では3番目の規模で、前方部が未発達の

時代的に古い柄鏡形をしており、後円部は3段築成



葺石があり、埴輪は確認されていない。



後円部には周濠が巡らされているが、南国らしく巨大な楠木が墳丘の周りに

枝を茂らせて、長い時間の流れと厳かさを感じさせる。

埋葬施設は、大塚神社の回廊の下に露出している竪穴式石室で、

蓋石5枚を見ることができる。

 


石室は長さ3.6m・幅1.2m・高さ0.85m
内部で見つかった石棺は屋根が丸く二つの柄がついた舟形石棺

下石と蓋石がそれぞれ一枚岩で、加工されている。

 


蓋石の長さ2.68m・幅0.87mだが、石棺内は昭和7年当時の調査時に

重すぎて開けるに至っていないため不明。

築造時期は、AC360-390年ごろ(古墳時代中期初頭の4世紀末頃・国指定史跡ガイド)
なお東串良町教育委員会と東串良町文化財保護審議会が作成した「史跡名勝天然記念物・唐人古墳群」によると5世紀中~後期と記載されている。




引用/現地説明版・郷土研修館・東串良町教育委員会作成の「国指定史跡・唐人古墳群」紹介パンフレット及び東串良町文化財保護審議会も加わった別冊「史跡名勝天然記念物・唐人古墳群」・国指定史跡ガイドより

(124)日本最南端の前方後円墳群 

塚崎古墳群(鹿児島県肝属郡)

塚崎古墳群は鹿児島県の大隅半島の南東部の海岸近くにあり

AC300年~400年代(4世紀~5世紀)に築造された。

宮崎の日向地域から生目古墳群(ブログno18)・西都原古墳群(ブログno51.67.90-97)と南下し鹿児島県の志布志にある巨大な横瀬古墳(ブログno100)・唐人古墳群を経て

塚崎古墳群に達する。

現在発見されているのは前方後円墳5基・円墳54基・地下式横穴墓20基などで、

特に1号墳の天然記念物クスと日本最南端の前方後円墳があることで有名だ。


◎1号墳 

 

直径15m・高さ3.3mの円墳

周溝があり、墳丘に国指定天然記念物の楠木が生えている)

以前のブログ(52・国史跡!円墳の上に25mのご神木)でご紹介済み。
天然記念物の「塚崎のクス」は8階建ての高さ(25m)で、円墳の上にそびえており、幹廻りは約14mに達する。樹齢は1200年~1300年と推測されている。また塚崎大塚神社のご神木とされ、地域の崇敬を受けている。


◎51号墳(旧39号) 

 

本土最南端の前方後円墳(全長52m・高さ8m)
埋葬施設は石棺墓

1号墳から約8分ほど南に歩くと本土最南端の前方後円墳の51号墳がある。

案内表示板から後円部へは直登できる。

 


墳頂には石塔(旧39号の表記)が立ち、後円部から前方部にかけて木々が伐採してあり

見通しがよく前方後円墳であることが確認できた。

 


 

築造はこの古墳群で最も新しく4世紀末ごろか

◎11号墳 

この地域の最古の前方後円墳(全長41m・高さ5m)

 


前方部が細いことから時代が古いことを示す。

 

墳頂の石柱

 

築造はAC310~340年代(4代世紀前半)か、周溝も確認されている。


後円部から前方部を望む

 

奈良県の纏向古墳群と同型と考えられている。


引用/現地説明版・鹿児島県「塚崎古墳群」PDF・ふるさと元気風ネット「ふるさと探訪記」
・肝付町立歴史資料館展示物

(123)茨城県大洗町 磯浜古墳群 

坊主山(ぼちゃのやま)古墳(全長63m・前方後円墳)




この古墳は茨城県大洗町の磯浜古墳群(大型円墳1・前方後円墳2・前方後方墳1)の

前方後円墳のうちの一つ。

 

 

後円部が一部削平されているが、全体の起伏やくびれ部などが明確で

前方後円墳である事がよくわかる。



全長は63mほどで範囲確認調査が現在行われている。


築造はAC310-340年ごろ(4世紀前期)とみられている

この古墳は民家の一部になっているものなのか古墳の説明版が見当たらなかった。

唯一後円部正面に鳥居が立っている。

 


引用/(一社)大洗観光協会「よかっぺ大洗」HP

(122)茨城県大洗(おおあらい)町 磯浜古墳群 

日下ヶ塚(ひさげづか)古墳

(別名・常陸鏡塚古墳・全長103.5mの前方後円墳)


この日下ヶ塚(ひさげづか)古墳は茨城県大洗町の

磯浜古墳群(大型円墳1・前方後円墳2・前方後方墳1)のうちの

前方後円墳で全長100mを超える。



くびれ部

 

後円部頂には石碑

 

全長103.5m・後円部直径65m・後円部高さ12m



平成24年の範囲確認調査では二段築成の前方部や周溝が確認されるとともに

墳丘に極めて胴の長い壺型埴輪が出土。



 

埋葬施設は昭和24年の発掘調査により後円部の粘土槨から人骨、鏡2面、石製模造品53点、玉類・鉄製品22点など4100点以上の副葬品が見つかった。

 

 

築造はAC360-390年ごろ(4世紀後半)

被葬者は、那珂(なか)川・涸沼(ひぬま)川水系の河口部の

水上交通を掌握した者が考えられている。



引用/現地説明版・(一社)大洗観光協会「よかっぺ大洗」HP