(121)茨城県大洗町 磯浜古墳群 車塚古墳

(直径95m・巨大円墳)




この古墳は茨城県大洗町の磯浜古墳群(大型円墳1・前方後円墳2・前方後方墳1)の

うちの巨大円墳で全国3番目の規模。



墳頂に鎮座する石塔

 

平成21年に測量調査・23年に範囲確認調査が実施され

墳丘の構造が明らかになっている。



大洗観光協会「よかっぺ大洗」HPより上空写真

 


直径は95m・高さ13m、周壕を含めると直径120mに達する。



2段目のテラス

 

墳丘は3段築成で、斜面には扁平な礫が葺かれている。

 

南側斜面には葺石を縦に区画した目地も存在した。
格段のテラス(平坦面)には葺石よりも小振りな敷石が敷き詰められていた。

埴輪は墳頂部・中段・下段の各テラスの外側に

朝顔型円筒埴輪(縦長方形の透孔がある)が立ち、一部普通の円筒埴輪も見られる。



南側の中段テラスからは壺型埴輪が20個体以上出土。

築造はAC360-390年ごろ(4世紀後半・古墳時代中期のはじめ)で、

 

この磯浜古墳群の中では最後の築造とされる。

被葬者は、那珂川・涸沼川水系や海の漁労や水運を掌握した地域の豪族の可能性。



引用/現地説明版・(一社)大洗観光協会「よかっぺ大洗」HP・Wikipedia
 

(120)茨城県大洗町 磯浜古墳群 姫塚古墳

 (3世紀後半築造・全長29.4m・前方後方墳)



 

この古墳は茨城県大洗町の磯浜古墳群(大型円墳1・前方後円墳2・前方後方墳1)のうちの前方後方墳で築造時期が一番古い。

 



全長は29.4mで、前も後も方形の前方後方墳。

高さは4.4mで、後方部は縦長の形態(幅の1.25倍)を持っており、

前方部は大きくハの字形に開いている。



 

周溝が確認されており、後方部外縁は楕円形に近く、前方部は狭小。

このような特徴は弥生時代の前方後方形墳丘墓にみられる。

出土品は小型丸底鉢が墳丘から転落した状態で見つかっており

葬送に伴う土器配置の一端を示すとともに、

近くの弥生時代後期の一本松遺跡出土の土器に似た特徴を持つ。



これらのことから姫塚古墳は弥生時代と古墳時代の境に当たる古墳とみられ、

那珂川流域、河口部における古墳文化の波及を考える上で

特に重要な遺跡となっている。

埴輪はない。

古墳の築造はAC260-290年ごろ(3世紀後半ごろ)




引用/現地説明版

(119)津屋崎古墳群 宮地嶽古墳(宮地嶽大塚・丸塚古墳)

出土品は国宝(直径35m・円墳)

この古墳は福岡県富津市にある「光の道」で有名な宮地嶽神社の境内にある

津屋崎古墳群の中の一つ。
古墳は今から280年以上前に発見され、石室は山崩れにより口を開けたらしい。

 


直径35mの円墳
現状は南北27m、東西34mとなっている。

横穴式石室が開口しており奥行23m・幅と高さは5m以上ある。

 

長さは明日香の石舞台古墳(20m)よりも巨大で、実際に公開されている石室では日本最大。残念ながらこの日は石室内に入れる日(1月28日、2月28日、7月28日)

ではなかったため見ることができず写真がないため

富津市教育委員会HPに掲載されている写真を掲載させていただきました。

 

富津市教育委員会HPに掲載されている写真より

 

石室の奥には横口式石槨があるとのこと。
 

主な出土品は金銅製馬具類、金銅製頭椎大刀柄頭、緑瑠璃丸玉などで

数十点は国宝に指定されている。

 

 

古墳の築造はAC690-710年ごろ(6世紀末から7世紀初頭・古墳時代末期)

被葬者は宗像氏や磐井氏の関係者との説がある。



引用/現地説明版・富津市教育委員会HP・Wikipedia

(118)新原・奴山古墳群 20号・25号墳(円墳)



新原・奴山古墳群は福岡県富津市の台地にあり、前方後円墳5基、方墳1基、円墳35基からなり遠くに玄界灘を臨む。現在残っているのは41基とされ、

第20号・25号墳は35基の円墳のうちの主な2つ。



20号墳は直径30m・高さ5mの大型円墳

墳丘には葺石、墳頂からは須恵器や高坏など見つかる

 



25号墳は2段築成で直径36m・高さ6mの大型円墳

幅7mの周溝と葺石を確認

墳頂からは須恵器や高坏なども

築造は400~500年代(5世紀~6世紀ごろ)とされている。



被葬者はやはり宗像氏関係者なのであろう。

引用・現地案内版・『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画』に関する再検討「新原・奴山古墳群の整備計画」・富津市役所教育部文化財課発行のパンフレット

(117)福岡県富津市 新原・奴山古墳群 7号墳(一辺24m・方墳)




新原・奴山古墳群は福岡県富津市の台地にあり、

前方後円墳、方墳、円墳からなり遠くに玄界灘を臨む。

7号墳は方墳で、新原・奴山古墳群のある津屋崎古墳群では唯一。



古墳群の西端に位置し、一辺が最大24m


墳丘上に玉砂利が敷きつめられ、鉄斧や琥珀原石が表面で採集されたことから、

古墳であると同時に祭壇的な役割をもったのではないかとの説も。



墳頂

 


玉砂利が見える

 

 

2014~15年の地中レーダー探査によって埋葬施設の深さや範囲が明らかとなった。

 
築造時期は、出土した須恵器からAC410~40年ごろ(5世紀前半)とされている。

被葬者は宗像氏関係者なのであろう。

なお7号墳のすぐ近くには小さな円墳の8号墳がある。



 

引用・現地案内版・『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画』に関する再検討「新原・奴山古墳群の整備計画」・富津市役所教育部文化財課発行のパンフレット

(116)新原・奴山古墳群 30号墳(全長54m・前方後円墳)


パンフレットにもよく掲載される古墳

新原・奴山古墳群は福岡県富津市の台地にあり、

前方後円墳、方墳、円墳からなり遠くに玄界灘を臨む。

現在残っているのは41基とされ、第30号墳は5基の前方後円墳のうちの一つで

高台の展望台からよく見える特徴的な古墳。

 

 

墳丘の規模は全長54m・後円部高さは8m・前方部高さ6.5mで、

 

後円部直径は目測で27m程度、方部幅は30m程度か。



墳丘には葺石が見られる。

墳丘上で須恵器の甕や高坏が出土


築造は550年ごろ(6世紀中頃)


埋葬施設は後円部に横穴式石室があるらしいが未調査だった。



2021年8月時点で後円部の保存修理をかねての発掘調査が始まっていた。


 

2022年5月現在の発掘成果は不明。

引用・現地案内版・『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画』に関する再検討「新原・奴山古墳群の整備計画」・富津市役所教育部文化財課発行のパンフレット
 

(115)新原・奴山古墳群 24号墳(全長53m・前方後円墳)


新原・奴山古墳群は福岡県富津市の台地にあり、

前方後円墳、方墳、円墳からなり遠くに玄界灘を臨む。



現在残っているのは41基とされ、第24号墳は5基の前方後円墳のうちの一つで

一番墳形や周溝が美しく残っており、写真映えする古墳。


全長53.5m・後円部の高さ7m・前方部高さ5m

なお後円部直径は目測で28m程度、前方部幅は35mといったところ。



周溝、周堤、葺石がある。

埋葬施設は未調査。



築造は550年ごろ(6世紀前半)


引用・現地案内版・『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画』に関する再検討「新原・奴山古墳群の整備計画」・富津市役所教育部文化財課発行のパンフレット

 

(114)新原・奴山古墳群 22号墳

(全長100m・帆立貝型前方後円墳・前方部喪失)




新原・奴山古墳群は福岡県富津市の台地にあり、前方後円墳、方墳、円墳からなり遠くに玄界灘を臨む。現在残っているのは41基とされ、第22号墳は5基の前方後円墳の中で最大。



墳丘の規模は全長80m・後円部直径は54m・高さ8m。



現状、前方部は失われているが、くびれ部があり、

宗像地域唯一の帆立貝形古墳(前方後円墳)と推定されている。



くびれ部付近

 

墳丘は後円部3段、前方部2段、周溝、周堤があり、

もっとも外側の周堤を含めると全長 100mを超えると推定されている。


周溝


墳丘や周溝からは円筒埴輪が出土、斜面には葺石も見られる。

なお須恵器も出土している



墳頂


埋葬施設は未調査だが、横穴式石室と推定されている。


築造はAC460~490年ごろ(古墳時代中期の5世紀後半)

なお近接する5世紀前半に造られた21号墳(円墳)の墳頂に鎌倉中期に造られた

石塔が8基立っているとの案内版があるが中には入れない。




引用・現地案内版・『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画』に関する再検討「新原・奴山古墳群の整備計画」・富津市役所教育部文化財課発行のパンフレット

(113)新原・奴山古墳群 12号墳(全長43m・前方後円墳)


新原・奴山古墳群は福岡県富津市の台地にあり、前方後円墳5基、方墳1基、円墳35基からなり遠くに玄界灘を臨む。

 



現在残っているのは41基とされ、第12号墳は5基の前方後円墳のうちの一つ。



国道495号線をまたいで、新原池と月花池の間にある中型の前方後円墳で、セメント工場?の敷地内にあり、説明版は見当たらなかった。

この古墳には、隣接する陪塚らしき円墳13号・14号がある。

13号墳(円墳・陪塚)

 


14号墳(円墳・陪塚)

 

墳丘の規模は全長43mと記載があるが、詳細は不明。見た目では後円部直径はおよそ30m程度・前方部幅25m程度といったところ。

 

整備計画書に掲載されている上空写真



 

この前方後円墳は墳形がとてもよく残っており、墳丘周囲に盾形の幅5メートルほどの平坦面(基壇)もある、墳丘の高さは基壇底から6m以上はありそうだ。


なお埋葬施設は未調査。

築造は510~540年ごろ(6世紀前半)とされている。

被葬者は1号墳と同様、宗像氏一族なのであろう。

引用・現地案内版・『国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画』に関する再検討「新原・奴山古墳群の整備計画」・富津市役所教育部文化財課発行のパンフレット

(112)新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群 1号墳(全長50m・前方後円墳・一部破壊)



 


 

新原・奴山古墳群は福岡県富津市の台地にあり、前方後円墳5基、方墳1基、円墳35基が残存し、遠くに玄界灘を臨む。




第一号墳は古墳群威厳存する前方後円墳5基うちの一つ。


墳丘の規模は全長50m・後円部直径29m・前方部幅31mで高さは道路面からみると6m以上と思われる。

墳丘の前方部は国道495号線によってほぼ削平・破壊されている。

後円部も一部破壊されているが2段築成であることと葺石が確認できる。




埋葬施設は後円部に横穴式石室があり南西に開口しているとのこと。現地では石室は見れないが発掘調査で異動された天井石が確認できる。

 



 

出土物は石室から鍛冶具や木工具が出土したほか武器、武具、馬具など

築造はAC450年ごろ(5世紀中頃)とされる。

被葬者はヤマト政権とのつながりのある有力者で、古代豪族の宗像氏と考えられている。

引用/現地案内板・富津市役所教育部文化財課発行のパンフ・古墳MAP