(151)滋賀県野洲市 大岩山古墳群 円山古墳

(石棺が2つ、熊本県阿蘇凝灰岩製と奈良県二上山凝灰岩製)


大岩山丘陵から平野部にかけては、AC250~500年代までに

首長墓が連続して築かれました。

 

特に石室が素晴らしい円山古墳(円墳)・甲山古墳(円墳)と前方後円墳である天王山古墳は近江の後期古墳を代表するもので、これら含め現存する6基の古墳を大岩山古墳群と命名し、桜生(さくらはざま)史跡公園として整備されました。

◎円山(まるやま)古墳(円墳で直径28m・高さ8m)

 

 

円山古墳の石柱から登ります。

 

二段築成とも見えるが

 

墳頂への階段

 

墳頂からは野洲市が見渡せ、築造当時は下からも墳丘が

見えたのではないかと思われる。


埋葬施設は西口に開口する横穴式石室


6mの下り羨道を経て、玄室は右片袖式の長さ4.3m・幅2.45m・高さ3.1mあり

 


天井石も階段状に下っており、床には玉石が敷きつめられています。



手前の初葬家型石棺(熊本・阿蘇産)・残念ながら奥の組合式石棺は見れません

 

玄室には二つの石棺があり、



手前側が初葬の熊本県阿蘇凝灰岩製の刳抜家形石棺

長さ2.85m・幅1.43m・高さ1.83m
奥壁側が
追葬の奈良県二上山凝灰岩製の組合式家型石棺で、

およそ長さ2m・幅1m・高さ0.8m程度か?

盗掘を受けていましたが、約1万点のガラス玉、鉄製冠の立飾、銀製耳飾りや刀などの武器、武具、馬具などが出土したとのこと。

築造時期はAC500~525年ごろ(6世紀の初め)



引用・参考/現地音声案内及び案内板(野洲町教育委員会)

(150)滋賀県蒲生郡 木村古墳群 久保田山古墳

(2方向造り出し付き円墳)


 

この古墳の原型は、1700年以上さかのぼる岡山県の古代吉備地域にある弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の弥生楯築墳丘墓や4世紀後半(古墳時代前期後半)奈良県天理市の櫛山古墳にあるのではないかと個人的に思います。



弥生楯築墳丘墓や櫛山古墳は「双方中円形」と呼ばれ、弥生楯築墳丘墓の場合は円丘の北東側と南西側に台形の突出部がついており、キャンディの包み紙のような形をしています。

 

しかし残念ながら、久保田山古墳は「双方中円形」とはなっておらず

「2方向造り出し付き円墳」と、なんとも中途半端な表現がされています。



直径は57mで高さ6.1m、二段築成

 

前回ご紹介の天乞山古墳と同様、2方向に造り出しがあり、

久保田山古墳の場合は北と南に付いています。

 

 

しかし、よく見ると北側の造り出しは円の中心線から意図的にずらして配置してあります。

吉備の弥生楯築墳丘墓の突出部もズレており似ている気がします。

 


北側の造り出し

 

造り出しは長方形で
南側 幅15.4m・長さ12.5m
北側 幅13.4m、長さ8.2m

 

南側の造り出しより墳丘を望む

 

葺石は斜面全体

周壕は最大幅14mで卵型



埴輪は円筒型が下段テラスに0.6m間隔で一巡し、

造り出し部分にも埴輪がたてられていました。



埋葬施設は不明

 

築造時期はAC400~450年ごろ(5世紀前半)
 

 

 

引用・参考/現地案内板・雪野山古墳発掘説明会資料

(149)滋賀県蒲生郡 木村古墳群 天乞山(あまごいやま)古墳

(2方向造り出し付きの大型方墳)

木村古墳群は、滋賀県蒲生郡木村にある古墳時代中期に造られた主に6基の円墳と2基の方墳などからなる古墳群でしたが昭和35年の土地改良事業などで最大規模のケイサイ塚(直径80m・高さ10m)ほか、そのほとんどを消失させてしまい、現在は天乞山古墳と久保田山古墳(円墳)のみとなっています。

 


その反省からか、今は「悠久の丘 蒲生町あかね古墳公園」として駐車場・トイレなどが整備された公園となっており、2基の大型古墳は当時の姿に復元され、発掘時の写真を豊富に使った詳しい解説板も設置されて、かつ墳頂まで登ることができます。



◎天乞山古墳(2方向造り出し付き方墳・隅丸形)
天乞山古墳の墳頂から見える景色は雄大で、被葬者の権威の高さを知ることができます。

 


方墳の規模としては全国4番目で、造り出しが2か所ある類例は少ない

方墳で一辺65m・高さ10.3m



二段築成

造り出しは


南側が幅8.4m・長さ6.8m
北側が幅15.5m・長さ11m



埋葬施設・竪穴式石室 長さ6.7m・幅1.3m・深さ1.5m


普通円筒埴輪が造り出し付近に立っていた。



葺石約8000個



周壕は幅20-24m、深さ1m

築造時期はAC400-450年(5世紀前半でこの古墳群のなかで最初に造られた)


引用・参考/現地案内板

(148)熊本県球磨郡山江村 山田大王神社 

(霊社・室町時代・国指定重要文化財)




山田大王神社に祀られているのは、源頼朝からこの地域の支配を任された豪族「平河氏」。
後に台頭してきた相良長頼によって謀反の罪をかけられ平河氏一族は殲滅されたが、後年に、霊を弔うためこの霊社が建てられた。

創建の時期は不明だが、棟札から1299〜1301年の間に創建されたと推測されている。



現存するのは、本殿が1546年(天文15年・室町時代)、拝殿及び神供所が1671年(宝暦11年・江戸時代)、鳥居は1745年(延享2年・江戸時代)、本殿覆屋が1781年(案永10年・江戸時代)、に建立されたもの。



中世(鎌倉・室町)にまでさかのぼる南九州では数少ない神社建築で、大変保存状態が良いことと社壇の景観がよく整っている点で評価が高く国の重要文化財に指定されている。



特に、三間社流造・板葺屋根の本殿には、朱色が美しく、「丹土塗り」という手法が用いられており、太宰府より南の地域では見られないもの。 

 

また、本殿正面のタスキ(×印)は、平河氏の怨霊を封じ込めるためとされている。


毎年11月には五穀豊穣を祈願する例大祭が行われるとのこと。


なお人吉周辺の神社では、青井阿蘇神社が国宝に指定されている。

引用・参考/現地案内板・人吉球磨観光地域づくり協議会「人吉球磨で出会える日ノン遺産」HP
 

(147)宮崎県宮崎市 生目古墳群 

14号・21号・22号墳(前方後円墳)


生目(いきめ)古墳群は、AC300~500年代の間に、100m越えの前方後円墳3基をはじめ、前方後円墳や円墳が50基築造された。現在「生き目古墳群史跡公園」として整備され駐車場・トイレ・あずま屋が設置されており、写真映えも良い。




◎14号墳(前方後円墳・復元)
 
 

長さ63m、後円部直径38m・高さ4m、前方部長さ25m



後円部は不明だが、前方部は2段築成

周溝はなかった。

葺石は表面全体に葺かれていた。



壺型埴輪が、段のテラスに並べられていた。

5号墳の「きのこ」形埴輪より古いタイプと位置付けられている。




 

築造時期はAC375~400年ごろ(古墳時代前期の終わり・4世紀後半)

22号墳の次の代の首長墓と考えられ、規模が2/3に縮小している。


◎21号墳(最も小さい前方後円墳)

長さ36mで後円部2段



 

葺石はなく壺や壺型埴輪出土

この古墳が築造されてから半世紀後に周溝内に古墳を囲むように

13基の地下式横穴墓(5世紀初頭)が造られている。



 

築造時期はAC300~350年ごろ(4世紀前半)


◎22号墳(101mの前方後円墳)


長さ101m、後円部直径60m・高さ9.2m



後円部3段、前方部2段築成で墳形は生目3号墳と相似形



葺石あり

墳頂とテラスに壺形埴輪が並べられていた。また土師器甕、高杯も出土



周溝内(幅8m前後、深さ0.7m前後)にコの字型の溝に囲まれた

「張り出し部」(長軸4m・短軸2.7m、高さ0.3m)と23号地下式横穴墓を確認

溝内から土師器の壷形土器、高坏、小型丸底壷 が出土

築造時期は、AC350年ごろ(4世紀中ごろ・古墳時代前期)で、

3号墳と前後すると判断されている。

23号地下式横穴墓が、22号墳被葬者に追従する者の墓であれば、

 23号地下式横穴墓が4世紀代に遡る可能性がある。

引用・参考/現地案内板・宮崎市教育委員会発行「国指定史跡生目古墳群ガイドブック」・宮崎市文化材調査報告書「史跡生目古墳群}PDF(H18宮崎市教育委員会)

 

(146)宮崎県宮崎市 生目古墳群 5号・7号墳(前方後円墳)

生目(いきめ)古墳群は、AC300~500年代の間に、100m越えの前方後円墳3基をはじめ、

前方後円墳や円墳が50基築造された。

現在「生き目古墳群史跡公園」として整備され駐車場・トイレ・あずま屋が設置されており、写真映えも良い。


◎5号墳(前方後円墳・手作業で復元)


 
 

大型前方後円墳である3号墳の東となりに築造されている。
現在当時の姿に復元されていて美しい。



前方後円墳で長さ54m、後円部直径29m・高さ4.4m、前方部幅24m・高さ4.5m 

前方・後円とも2段築成。周溝は墳丘の西側のみ

葺石は表面全体に約9万個の川原石で葺かれていた。



埴輪は、全国に例のない「きのこ」形円筒?埴輪が墳丘の東側だけに並べられていた。

高坏やつぼ型土器も出土

埋葬施設は後円部の頂に時期的に竪穴式だろうとおもわれる。

周溝外側で19号地下式横穴墓を確認



築造時期はAC375~400年ごろ(古墳時代中期の初め・4世紀後半)


◎7号墳(前方後円墳・地下に大規模な玄室)




墳形は地上からは草が生い茂っていてよくわからないが、

大型前方後円墳である3号墳の南側・前方部のすぐ横に築造されているので、

3号墳前方部に上ると、7号墳の前方後円形が見える。



全長46m、後円部直径24m・高さ3.9m、前方部幅24m・高さ4.4m

2段構築で、前方部の方が高い



葺石は上段のみにあり、北側くびれ部に造り出しがある。

馬蹄形の周溝があり周溝外縁が最大1.8mも立ち上がっていた。

周溝の最大幅15m・最大深さ1m

埴輪は確認されていない。

注目すべきは、後円部中心に向かって伸びる18号地下式横穴があること。



後円部上部の黒い楕円状が地下式横穴墓の玄室

 

発掘の結果、後円部南側の陥没坑が、実は地下式横穴墓の

玄室天丼と羨道竪坑が崩落た跡と分かった。
竪坑(奥行3.64m)を周溝内に堀り、地下の羨道(幅2.15m・深さ1.85m)を通じて

大規模な玄室(長さ6.7m、幅3.4m)を設けている。

7号墳構築後に後円部中心に向かって18号地下式横穴墓を構築されたと確認。

これらから、この古墳の主体部である埋葬施設は18号地下式横穴墓以外に発見されておらず、周溝内から発見された8基、周溝外から発見された4基の地下式横穴墓は追葬や殉葬であった可能性も出てくる。

築造時期はAC450年ごろか?(5世紀後半より前)

引用・参考/現地案内板・宮崎市教育委員会発行「国指定史跡生目古墳群ガイドブック」・2006年宮崎市教育会発行・宮崎市文化財調査報告書第61集「史跡 生目古墳群」
 

(145)宮崎県宮崎市 生目古墳群 古墳時代前期で九州最大

生目古墳群は、宮崎市の標高25m、広さ9000㎡の丘陵上にあり、

AC300~500年代(古墳時代前期から後期)の間に、

100m越えの前方後円墳3基をはじめ、

前方後円墳や円墳が50基築造された。



国の史跡で「生き目古墳群史跡公園」としてきれいに整備された

古墳公園となっている。トイレやあずま屋も設置され、無駄な木は伐採されているので、

写真映えも良い。


◎1号墳(卑弥呼墓説も)



「邪馬台国は宮崎市にあった!」の著者・土田章夫氏は、生目1号墳を

卑弥呼の墓の可能性が高いと推察している。

理由は築造時期や墳丘規模・主軸の方向・殉葬の有無などを

検証した結果とのことだ。

それはさておいて、この古墳は最近発掘調査が行われ、

これまで生目古墳群の中で最も古い4世紀初めに築造された前方後円墳と

考えられていたが、墳形が4世紀後半に流行した形であることが明らかになった。



後円部

 

全長約130m・高さ17mで三段築成。

一説では箸墓古墳と相似形で、1/2サイズとも。

造られた当時は九州最大規模であったと考えられる

葺石は、発掘調査時に後円部でほぼ造られた当時のままの状態で発見されている。

 


特に
後円部の三段目の斜面では、丁寧に波状に葺石が積み上げられており、

 

 

さらに古墳の中で最も崩れやすい頂上と斜面の境部分を区画する

 

石列が見つかった。これらは全国でほかに例がないとのこと。

埴輪や土器は確認されていないよう

埋葬施設は時期的に竪穴式だろうとおもわれる。

被葬者は日向を治めた首長か、はたまた卑弥呼なのか?

はてなブログの「オヤコフン」さんが実際に1号墳にのぼられた

ブログがあるので以下のリンク先をご覧ください。

「生目古墳群 1号墳 宮崎県宮崎市大字跡江}
https://massneko.hatenablog.com/entry/2020/05/12/000000

◎3号墳(古墳時代前期で九州最大)



左後円部。右奥が前方部

 

3号墳は生き目古墳群の最大の前方後円墳で、古墳時代前期において九州最大。

 


この古墳は登ることができる。

 



左側が後円部

 

墳形は前方後円墳で、全長143m、後円部高さ12.7m、前方部高さ6.5m

 


後円部3段築成、前方部2段築成



前方部登り口からくびれ部を望む

 

墳形がとてもきれいに残っていて墳丘の前方部から後円部まで歩くことができる。


葺石は格段の斜面にあった。



後円部入口付近

 

埋葬施設は地中レーダー探査によって後円部の深さ2m下に、

8m×4mの竪穴式石室があると推測されている。


築造時期はAC350年ごろ(4世紀中ごろ・古墳時代前期)なので、

1号墳より先に造られたということになります。



また3号古墳の周囲には、地下式横穴墓が9基見つかっており、

未発見がまだ沢山ある可能性も。

引用・参考/現地案内板・宮崎市教育委員会発行「国指定史跡生目古墳群ガイドブック」・「邪馬台国は宮崎市にあった!」(著者・土田章夫)

(144)群馬県富岡市 北山茶臼山古墳

(円墳・中国製の三角縁神獣鏡)


群馬県富岡市甘楽(かんらく)の北山山頂にある円墳で、

中高瀬観音山と谷を挟んでいるだけで、地図上あまり離れていない。
せっかくここまで来たのだからとこの古墳に登ることにした。

しかし見事に道に迷ってしまった。
古墳入口の標識の向きからしてふつうに左の舗装道を進みたくなるが、その後

道なき道となり、やむなく斜面を直登することになってしまった。

 

そのため入口の標識から右の広い無舗装の道を100mほどまっすぐに進み、

突き当りを右に上るように尾根伝いに迂回する道がわかりやすい。

ほどなくして円墳の真下から直登が始まる。標識の入口からは20分ほどかかる。


北山茶臼山古墳は北関東屈指の古い古墳で、ヤマト王権の勢力が

北関東に及んできた4世紀末ごろに築造された。

墳頂

 

円墳で直径40m、北側に祭壇と思しき造り出しがあるらしい。


北側・手前に造り出しのような台形があるような?

 

 

葺石は目でも確認できるくらい墳丘に露出している。

 

 

埴輪は壺型や円筒型が墳頂円辺や周囲に並べられていたようだ。

埋葬施設は粘土槨が発掘され中国製の三角縁神獣鏡(宮内庁保管)のほか、

石の腕輪・勾玉・管玉・刀剣などが発見される。



特に三角縁神獣鏡は「神人車馬竜虎画像鏡」で同じ鋳型で造られたものが

奈良・滋賀・岡山でも発見されている。

したがって被葬者はヤマト王権と深い関係のあった者と考えられている。

築造時期はAC375~425年ごろか(古墳時代初め・4世紀末~5世紀初め)

引用・参考/現地案内板
 

(143)群馬県富岡市 弥生時代後期の高地性集落

中高瀬観音山遺跡(確認調査現地説明会)


今から約1900年前の2世紀後半、魏志倭人伝(『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人)

によるところで、倭国は大乱の時代であった。

大乱のあった地域や範囲は特定されていないが、群馬県富岡市の

関越自動車道建設の際に、平地から50mの台地上に弥生集落の跡が

発見(1989~0990年に発掘調査)されたことから、東日本の地域まで

その乱は及んでいたのではないかとの仮説が立てられるようになった。
その遺跡が中高瀬観音山遺跡で、当時の社会的な考証上重要として

1997年に国の史跡に指定された。

2022年6月11日に本年度行われた75号遺構や1号堀及び方形周溝墓などの

確認調査現地説明会が行われたので、東京から3時間車を飛ばして参加してきた。

◎中高瀬観音山遺跡の概要

弥生時代後期(1世紀中ごろ~3世紀中ごろ)の高地性集落で

平地から約50mの台地上(標高は230m)に約4.7haにわたって

弥生時代中期から古墳時代後期までの住居跡が見つかった。

各時期の遺構の数では弥生時代後期が圧倒的で、

しかも急激に膨張し、直後に急速に衰退していったと推定されており、

柵や物見台、V字溝、土塁・焼失住居などの跡が認められることから

倭国大乱や何らかの争いに巻き込まれた集落の可能性が捨てきれない場所である。
なお弥生時代の集落は7期に分かれており、各期で10~20家が

併存していたようだが、人口までは明らかになっていない。




◎75号遺構(焼失大型住居跡か?)



遺構は東西6m、南北10mの弥生時代後期の大型住居跡。
住居入口に梯子を設置した柱跡があり、板材の断面が確認できる。

 


黒い土の跡が丸ではなく板状

 

柱穴は4つ、穴の底には枕石が埋めてある。側柱もある
支柱は丸木の柱ではなく板材(厚さ10㎝ほど?)で、棟持ち柱も板材だった。

小さめの炉が二か所確認できる。

この遺構は平成の調査時に炭化材が大量に発掘された。

 


しかし今日、炭化材はすでに処分されてしまっていて写真のみが残る。
柱材の樹種は、周りの遺構から出土した残存木片がすべて栗であることから

おそらくこの住居の柱材なども栗だろうとのことだった。

炭化材が大量に見つかったことから、この大型住居は何らかの理由で

火災にあって焼失したと考えられ、遺構の北東側で梁が焼け落ちた跡も確認できる。

 


焼け落ちた梁が落ちた跡!斜めに黒い線がある

 

もしかしたら争いの際に燃やされた可能性もあるということになる。

なおこの住居の周りには周堤があった可能性があるとのこと。


◎1号堀(防御用?)



尾根をまたいで東西に彫られたV字型の堀が見つかった。
深さ1m以上で、堀の中から弥生時代後期(1世紀中ごろ~3世紀中ごろ)に限定される

土器片や3世紀末にプリニー式噴火があった浅間山の浅間C降下軽石(Am18)が

埋まっていたことからこの堀は弥生時代後期に掘られたと推測された。
また堀の北側には掘った土を盛って造られた土塁があったようで、

堀られた関東ローム層の黄色い土が、後に他の砂と交じって

北側から堀に流入していることから推測されるという。
このことから、集落を防御するための堀と土塁であった可能性がある。

なお堀の長さは未確認で、堀は回っておらず環濠集落ではなさそうだ。

◎1号・方形周溝墓か?



土嚢の□は保存のためのもの。白いロープの部分が溝

 

 

コの字形の溝のコーナーが確認できる

 

コの字型の溝が発掘された。
溝から弥生時代の土器の破片が発見されたが、古墳時代の土器片は出てこないため

弥生時代の方形周溝墓ではないかとのことだった。
ただし埋葬施設は確認されておらず、おそらく木棺であっただろうとのことで、

丘の上にあることから、砂の堆積が行われず、遺構が削られ続けたうえ、

畑にされていたため残存状況が悪いらしい。

この地域では集落と墓が近くに造られることから、周溝墓以外に

墓がある可能性もあるとのことだった。

◎発掘された土器たち

 


1年間縄文時代中期の発掘調査に作業員として従事したことがあるが、

縄文中期の土器と違って、弥生式土器の模様は極めて控えめ!

当然厚みは薄いが、まだ轆轤で造られたものではない。

◎天王塚



1号方形周溝墓の道横には、光厳天皇陵や修行の霊場あるいは

古墳と伝えられていた天王塚がある。
見た目直径20m程度の円墳で、上に石塔が立つ。

しかし残念ながらH3年の試掘調査で中世以降に築造されたものと判明し、

経塚(経典を供養し地下に埋納した場所)と考えられている。


引用・参考/現地説明会配布資料・現地解説者の口頭説明・現地案内板

(142)香川県讃岐市 富田茶臼山古墳

(前方後円墳・四国最大)

この古墳は県道10号線を走っていると巨大な後円部が現れるからすぐわかる。
後円部の墳頂はとても眺望がよく、長尾平野が一望できる。



墳形は前方後円墳で、全長139m、後円部直径91m・高さ15.7m、

前方部長さ48m・幅77m・高さ11.8mは四国最大。



墳丘は3段築成で葺石があり廻りに盾形の周壕や周庭帯がある



埴輪は円筒・形象型が墳丘及び周壕より発見



後円部墳頂より

 

埋葬施設は不明だが竪穴式石室が推測されている。

また陪塚である方墳(1辺14m-24m)が3基見つかっている。




築造時期はAC400~450年ごろ(5世紀前半)

被葬者は四国を代表する首長であると推測される。

なお日本武尊陵や仁徳天皇陵もしくはその皇子である難波皇子の墳墓と推定する説や寒川皇子、讃岐国造の祖とされる神櫛皇子の墳墓とする説もある。




引用・参考/現地案内版・文化遺産オンライン・Wikipedia