(143)群馬県富岡市 弥生時代後期の高地性集落
中高瀬観音山遺跡(確認調査現地説明会)
今から約1900年前の2世紀後半、魏志倭人伝(『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人)
によるところで、倭国は大乱の時代であった。
大乱のあった地域や範囲は特定されていないが、群馬県富岡市の
関越自動車道建設の際に、平地から50mの台地上に弥生集落の跡が
発見(1989~0990年に発掘調査)されたことから、東日本の地域まで
その乱は及んでいたのではないかとの仮説が立てられるようになった。
その遺跡が中高瀬観音山遺跡で、当時の社会的な考証上重要として
1997年に国の史跡に指定された。
2022年6月11日に本年度行われた75号遺構や1号堀及び方形周溝墓などの
確認調査現地説明会が行われたので、東京から3時間車を飛ばして参加してきた。
◎中高瀬観音山遺跡の概要
弥生時代後期(1世紀中ごろ~3世紀中ごろ)の高地性集落で
平地から約50mの台地上(標高は230m)に約4.7haにわたって
弥生時代中期から古墳時代後期までの住居跡が見つかった。
各時期の遺構の数では弥生時代後期が圧倒的で、
しかも急激に膨張し、直後に急速に衰退していったと推定されており、
柵や物見台、V字溝、土塁・焼失住居などの跡が認められることから
倭国大乱や何らかの争いに巻き込まれた集落の可能性が捨てきれない場所である。
なお弥生時代の集落は7期に分かれており、各期で10~20家が
併存していたようだが、人口までは明らかになっていない。
遺構は東西6m、南北10mの弥生時代後期の大型住居跡。
住居入口に梯子を設置した柱跡があり、板材の断面が確認できる。
柱穴は4つ、穴の底には枕石が埋めてある。側柱もある
支柱は丸木の柱ではなく板材(厚さ10㎝ほど?)で、棟持ち柱も板材だった。
小さめの炉が二か所確認できる。
この遺構は平成の調査時に炭化材が大量に発掘された。
しかし今日、炭化材はすでに処分されてしまっていて写真のみが残る。
柱材の樹種は、周りの遺構から出土した残存木片がすべて栗であることから
おそらくこの住居の柱材なども栗だろうとのことだった。
炭化材が大量に見つかったことから、この大型住居は何らかの理由で
火災にあって焼失したと考えられ、遺構の北東側で梁が焼け落ちた跡も確認できる。
もしかしたら争いの際に燃やされた可能性もあるということになる。
なおこの住居の周りには周堤があった可能性があるとのこと。
◎1号堀(防御用?)
尾根をまたいで東西に彫られたV字型の堀が見つかった。
深さ1m以上で、堀の中から弥生時代後期(1世紀中ごろ~3世紀中ごろ)に限定される
土器片や3世紀末にプリニー式噴火があった浅間山の浅間C降下軽石(Am18)が
埋まっていたことからこの堀は弥生時代後期に掘られたと推測された。
また堀の北側には掘った土を盛って造られた土塁があったようで、
堀られた関東ローム層の黄色い土が、後に他の砂と交じって
北側から堀に流入していることから推測されるという。
このことから、集落を防御するための堀と土塁であった可能性がある。
なお堀の長さは未確認で、堀は回っておらず環濠集落ではなさそうだ。
◎1号・方形周溝墓か?
コの字形の溝のコーナーが確認できる
コの字型の溝が発掘された。
溝から弥生時代の土器の破片が発見されたが、古墳時代の土器片は出てこないため
弥生時代の方形周溝墓ではないかとのことだった。
ただし埋葬施設は確認されておらず、おそらく木棺であっただろうとのことで、
丘の上にあることから、砂の堆積が行われず、遺構が削られ続けたうえ、
畑にされていたため残存状況が悪いらしい。
この地域では集落と墓が近くに造られることから、周溝墓以外に
墓がある可能性もあるとのことだった。
◎発掘された土器たち
1年間縄文時代中期の発掘調査に作業員として従事したことがあるが、
縄文中期の土器と違って、弥生式土器の模様は極めて控えめ!
当然厚みは薄いが、まだ轆轤で造られたものではない。
◎天王塚
古墳と伝えられていた天王塚がある。
見た目直径20m程度の円墳で、上に石塔が立つ。
しかし残念ながらH3年の試掘調査で中世以降に築造されたものと判明し、
経塚(経典を供養し地下に埋納した場所)と考えられている。
引用・参考/現地説明会配布資料・現地解説者の口頭説明・現地案内板