(160)私の古墳の楽しみ方(その3・石棺・壁画)


◎石棺の造り

◎古墳時代前期

 【刳り抜き式】割竹形(わりだけがた)石棺 

   割竹形木棺を真似て造られた

 

 

福岡 沖出古墳

 

 


◎縄文時代後期(東北)~古墳時代全般

 【組み合い式】箱式(はこしき)石棺  

  石板を箱型に組み合せた上に複数の石板を乗せた

 

岡山 王墓山古墳

 

福岡県 丸隈山(まるくまやま)古墳

 

鹿児島 軽石組合屋根型箱式石棺

 


◎古墳時代前期~古墳時代後期  (4世紀後半~) 

 【刳り抜き式】舟形(ふながた)石棺  

  身と蓋石ともに一枚岩を刳抜いて造られ、それぞれに対角に縄掛突起が複数ついている

 


岡山 造山古墳

 

 

群馬 保渡田古墳群 八幡山古墳

 

◎古墳時代中期 (5世紀)

 【組み合い式】長持形(ながもちがた)石棺 

  5枚の石板を箱型に組み合せた上に、一枚岩を丸く加工し対角に縄掛突起が複数ついた蓋石が乗る。

 

西都原「古墳群


◎古墳時代中期~晩期 (6世紀~)

 【刳り抜き式】家形(いえがた)石棺

  一枚岩を刳り抜いた箱形の身の上に、一枚岩を屋根型に加工し縄掛突起がついた蓋石が乗る。

 

 

岡山 こうもり塚古墳

 

静岡 賤機山(しずはたやま))古墳

 

奈良 都塚古墳

 

滋賀県 円山古墳

 

滋賀県 甲山古墳

 

大阪 金山古墳

 

山口 大日古墳

 

【組合式】家型石棺

 

福岡 石人山古墳

 

熊本 江田船山古墳 

 

おまけ

◎弥生時代 甕棺墓

 

吉野ヶ里遺跡



◎石材の産地
 

石棺の材質は、家型石棺など大型のものになるほど凝灰岩が特に多く使われる。産地では特に熊本の阿蘇火砕流によってできた阿蘇溶結凝灰岩(ピンク石・馬門石)や兵庫の播磨の流紋岩質凝灰岩(竜山石)、奈良の二上山凝灰岩が有名。

凝灰岩は、花崗岩などに比べると加工しやすく、壊れにくい特長をもっていたからだろう。


◎壁画(装飾古墳)

九州西部(福岡・熊本)では装飾古墳が多く、同心円文や三角文、両脚輪状文、武具(靫や盾)、馬、格子柄、星や月・太陽、船などが見られる。これらは被葬者の葬儀礼の様子を描いたとか、生前の権威の様子を現しているのではなど諸説ある。

 

熊本 チブサン古墳

 

茨城県 虎塚古墳

 

福岡 五郎山古墳

 

福岡 弘化谷古墳

 

 福岡 王塚古墳  蕨手文 

 

福岡 王塚古墳   魔よけの三角  

 

福岡 王塚古墳

 

  

福岡 王塚古墳 靫(ゆぎ・弓やを入れた背中に背負う筒)

 

福岡 王塚古墳  双脚輪状紋(帽子を上から見た形) 

 

なお双脚輪状文はこれまで意味の分からない文様だったが、近年、帽子の形であることが和歌山県の井辺八幡山古墳と大日山35号墳から出土した埴輪で判明した

 

和歌山県井辺八幡山古墳

 

和歌山県 大日山35号墳

 

また四国、香川県の線刻画などがある。


香川県 宮が尾古墳


古墳時代終末期の高松塚古墳やキトラ古墳の石室になると四方四神である青龍、白虎、朱雀、玄武や宮廷の衣裳を着た人物などが描かれていて古墳時代と大きく異なる。



青龍(せいりゅう):東を守る竜

 


朱雀(すざく):南を守る鳳凰

 


白虎(びゃっこ):西を守る白虎

 


玄武(げんぶ):北を守る亀蛇

引用・参考/現地案内板・発掘された日本列島展(群馬)・奈良文化財研究所(キトラ古墳壁画保存管理施設)など

(160)私の古墳の楽しみ方(その2・石室の形式・構造)

◎石室の防水土木技術  
 

㈱火山灰考古学研究所の早田勉先生は、早稲田大(考古調査士コース)授業で、古墳の石室(石(棺)の遺物の残存状況が比較的良いのは、古墳時代にすでに粘土層による防水技術(キャピラリー・バリア)があり、石室の周りに粘土層を造ることで、雨水を周りに流す築造を行っていたのではないかとのことでした。

 

香川県善通寺市の王墓山古墳の石室にも同様の技術が使われていました。


◎石室の場所  

古墳の主被葬者は後円部、追葬などで前方部などに造られる場合が多い。 
まれにくびれ部に造られることもある。


古墳時代初期は竪穴式石室

 

 

中期以降は横穴式石室が主流となる。



南九州では、地下式横穴墓が多数存在するが、宮崎県の生目古墳群の7号墳(全長46m、後円部直径24m・高さ3.9m、前方部幅24m・高さ4.4m)には、竪穴式石室も横穴式石室もないが後円部直下に向けて造られた地下式横穴墓が存在する。

 

◎石室の配置と形式 

 玄室には単室と複室、両袖と片袖・袖ナシかどうかが素人的には一番気になるところ。




玄室の入口である玄門は、敢えて玄室を大きく見せるために床面に框石(かまちいし)、天井に垂石(天井から垂れ下がる)・楣石(まぐさいし)

 

楣石(まぐさいし)

 

そして両側もしくは片側のみに袖石(そでいし)を配置してわざと入り口を狭くしている。

 

香川 宮が尾古墳

 

あの世とこの世の明確な区分のためともいわれている。

なお片袖にも奥壁から見て右袖式と左袖式がある。

さらに玄門に閉塞石(ふた)をはめ込んだものや、床面に砂利敷き・石敷きや排水溝の設置、あるいは玄室に向かって勾配をつけたものもある。

玄室の奥壁は巨石で構成されることが多く鏡石(かがみいし)ともいう。
鏡石の形や組み合わせ方にも個性があり楽しい。


   

墓の入口に前庭や墓道があるもの、羨道を経て玄室に至る単室構造、羨道から前室を経て玄室に至る複室構造であるかどうかも面白い。副室や前室を持つ石室もある。



埼玉 八幡山古墳(複室石室)

 

九州地方では石棺がない代わりに石屋形で囲まれたエリアがあり四角形の石組の屍床に遺体が納められたものもある。

 



玄室の天井の形も様々でドーム型や台形のものもある。かべに石棚がついたものもある。 
      

◎石室の主な石積み方法

「乱石積み」大小さまざまの自然の石を積みあげる

滋賀 雪野山古墳


「模様積み」大小の河原石を模様を描くように積み上げる

群馬 伊勢塚古墳


「割石積み」自然石を割って加工し積み上げる

福岡 丸隈山古墳

 


 

「切石積み」四角く加工し隙間なく積上げる


千葉 上宿古墳

 

西都原古墳群 鬼の窟屋古墳

 

「切石切組積み」石の形状に合わせて切組み合わせて隙間なく積み上げる



群馬 宝塔山古墳


 

作図/まえかた あとまる
引用・参考/香川県善通寺市教育委員会の史跡有岡古墳群(王墓山古墳)保存整備事業報告書・早稲田大考古調査士コース(西田先生資料・早田先生資料)・古墳及び石室の現地説明版など

(159)私の古墳の楽しみ方  

その1「前方後円墳の多様な形と比率」

古墳を巡る楽しさや古墳の魅力を知人や友人に語ると、10年前まではちょっとマニアックな人として見られることが多かったが、古市・百舌鳥古墳群が世界遺産に登録されてからというもの、古墳巡りが観光の一部として認知されるようになったと思う。

そもそも古代の日本(倭)の国(支配形)を作ろうとした私たちの遠い祖先の話でもあるから、ないがしろにはできないのが日本人の心というもの。

私の好物である古墳、特に前方後円墳は、3世紀から6世紀にかけてヤマト王権が、全国を支配下に治めていく過程で、特に前方後円墳という独特の「墳形と規模」をもった友好(服属?)のシンボルの築造を「地方豪族のステータス」あるいは「最先端の流行」に仕立て上げた優れた統治手法の一つだったと言っても過言ではない。

 そんなことを想像しながら、全国を渡り歩いて沢山の古墳を拝見するうちに、一口に前方後円墳といっても実は平面形や断面形、石室の構造などなど千差万別で、時代背景の変化だけでなく築造技量による影響が大きかったに違いないと思うようになった。

この墳形を地方豪族が築造するには、ヤマト王権の許可が必要であったなら、技師の派遣以外に粘土板や線刻画にして送っていてもよさそうだけれど、出土例がまだないのだ。

もしかしたら地方の築造担当者が、纏向の古墳を自分で見に行ったり、目撃者の話から想像して造ったり、自己流にアレンジしたこともあったに違いない。


ブログでは、様々な特徴のある前方後円墳の自分なりの楽しみとして、「六つの視点」を勝手に図化して紹介しようと思う。前方後円墳好きの方ならきっと共感いただけるに違いない。


◎その1・前方後円墳の多様な形と比率

平面形で前方後円墳といっても

 

指標1「後円部と前方部の大きさの比率」

 

 

箸墓古墳(3世紀末) 後円部直径160m:前方部幅147m 指標1=1.088

西都原古墳群・13号墳(4世紀末) 43.2m:25m=1.728

大仙陵古墳(5世紀前半) 249m:307m=0.811

茨城・富士見塚古墳(5世紀末) 38.4:49.4m=0.777

さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半) 67m:83.2m=0.805

 

 

指標2「全長に対する後円部の比率」

 

箸墓古墳(3世紀末) 後円部直径160m:全長280m 指標2=0.571

西都原古墳群・13号墳(4世紀末) 43.2m:79.4m=0.544

大仙陵古墳(5世紀前半) 249m:486m=0.512

茨城・富士見塚古墳(5世紀末) 38.4:80.2m=0.478

さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半) 67m:132m=0.507

 

ましてや前方部の長さや形
2段・3段・5段築成のテラス(平面部分)の幅も違う。

 



宮崎県・西都原古墳群・13号墳

 

断面形でみても

指標3「後円部と前方部の高低差」

 

箸墓古墳(3世紀末) 後円部高さ30m:前方部高さ16m 指標3=1.875

西都原古墳群・13号墳(4世紀末) 6.7m:4.1m=1.634

大仙陵古墳(5世紀前半) 35.8m:34m=1.052

茨城・富士見塚古墳(5世紀末) 8.5m:9m=0.944

さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半) 11.7m:13.7m=0.854

 

 

茨城県の富士見塚古墳

 

前方部から後円部へ向かう傾斜角度

2段・3段・5段築成の段ごとの高さも違う。

 



 

愛知県の志段味大塚古墳(帆立貝型)

 

「造り出し」もあったりなかったりで、設置場所も微妙に違う、二か所だったりする。
群馬の保渡田古墳群では、墳丘と周堤の間に複数の中島(陪塚ではない)まで存在する。



群馬県保渡田古墳群


周溝(堀)の形も、一般的には盾型だが、埼玉県の「さきたま古墳群」では

長方形(台形)で突出部までついている。

 

さきたま古墳群二子山古墳


周溝(堀)の深さも様々だが「空堀」だったり水が張ってあったりする。
格が上がると二重濠だったりする。堀を横切る「渡り」がある場合がある。

 

墳丘の形だけでもこれだけ違うから面白い!


指標1・2・3を総合的にみると確かに大仙陵古墳(5世紀前半) さきたま古墳群・二子山古墳(6世紀前半)は極めて相似形に近いと言えるだろう。


次回は(その2・石室の形式・構造と石棺・壁画)を図化してみたい。

図化するのにちょっと時間がかかるかも!

引用・参考/訪ねた前方後円墳及び現地案内版など

(158)千葉県山武郡芝山町 渡来人の王の埴輪か? 殿塚・姫塚古墳と中台3号墳

殿塚・姫塚古墳と中台3号墳は、芝山古墳群(前方後円墳4基、円墳13基)に属し、太平洋にそそぐ木戸川上流左岸の台地上にある。



両古墳の発掘の結果、倭人離れした風貌とスタイルをした人物埴輪など全国でも稀な形象埴輪の行列がほぼ完全な状態で出土し一躍有名になった。

早稲田大学がこれらの埴輪の3次元計測測定を行い報告書を出している。



これらの埴輪を見ると、とんがり帽子に三角のあごひげ、細面の顔などまるで西洋の魔法使いのようである。このような帽子をかぶっている埴輪は、ほかで見た記憶がない。
この古墳の被葬者や関係者の出自は一体いかなるところであったのだろうか?


◎殿塚古墳



前方後円墳 全長88.9m、後円部直径57.4m、前方部幅56.0m・高さ13m
2段築成 下1段対上一段の高さの比率は2:3

 


後円部

 

長方形の二重の周溝を持ち内溝(深さ1.6m)・中堤(幅3.5m)、外溝(深さ1.0m)がある

テラス面の幅は2.2m

真横から見たところ(左側が後円部

 


前方部

埋葬施設は後円部にあり、ひどく盗掘を受け大きな地滑りがあるためトレンチによる検出では単室構造の石室で墓道があった可能性がある。

◎姫塚古墳(特異な風貌の埴輪の行列が墳丘を囲んで配置されていた)


発見された形象埴輪の完全な行列

 

前方後円墳 全長59.3m、後円部直径35.0m、前方部幅36.4m・高さ6m


2段築成 下1段対上一段の高さの比率は1:4
テラス面の幅は3.5m
長方形の二重の周溝を持ち内溝(深さ不明)・中堤(幅5.0m)、外溝(深さ1不明)が
ある

殿塚古墳の2/3の規模

埋葬施設は前方部南側面テラスの下側 複室構造の横穴式石室で、砂岩の板と粘土で造られた墓道(幅1m・長さ3m)が発見されている。


◎中台3号墳



殿塚と姫塚に挟まれた場所に立地
長径22m、短径18m・高さ2.85mで墳頂にGPR探査で箱式石棺と思しき反応あり。



築造時期は6世紀末から7世紀の初頭で殿塚古墳、中台3号墳、姫塚古墳の順と考えられる。

この特異な埴輪は、「芝山ミューゼアム」「芝山町立古墳・はにわ博物館」で見ることができる。



引用・参考/現地案内板、「殿塚・姫塚古墳の研究」(六一書房・城倉正祥編)、「芝山町立古墳・はにわ博物館」

(157)法隆寺五重塔・建立のなぞ

(70年間心柱だけが建っていた?)

2010「古代大和の謎」大和文化会編(富山大学の松浦正明教授の執筆「年輪に秘められた法隆寺創建」)を読んで、心ときめいたので、自分なりに租借・解釈し図化してみた。

専門家ではないので、細かい間違いはご容赦願いたい。

現在の法隆寺五重塔の規模は総高33.67mで、基壇1.11m・塔身22.87m・相輪9.69mである。

◎はじめに旧法隆寺(若草伽藍)の火災による消失について

607年に建立された法隆寺若草伽藍(旧法隆寺)は、天智9年(670)の火災で「一屋も余す無し」と記載されるほどに消失したとされていたが、発掘の結果、旧法隆寺の北辺を限る掘立柱塀の柱根が残されており、塀より北側の北方建物(607年~639年)は焼け残ったことが分かった。

 


焼け残った北方建物には「北堂」と呼ばれる仏堂があり、その中に現法隆寺(西院伽藍)金堂にある国宝・釈迦三尊像(法隆寺資財帳に記された「北堂」「丈六」・623年)が本尊として存在していた。


◎法隆寺西院の再建

法隆寺(西院伽藍)の再建はこの焼失を免れた若草伽藍北方建物と基礎を利用して始められた。
まず金堂の再建では、北方建物の旧楚石を転用しながら、元の建物より太い柱にし若草伽藍当時の金堂の再建をめざした。

次に五重塔は、金堂再建(持統7年(693年)頃までに完成)の後、判明している624年、631年、663年に伐採された木材によって小屋組みや軸組、5重の屋根が設置され和銅4年(711)に完成した。


しかし心柱だけは110年以上もさかのぼる594年伐採の木材が用いられていることが謎とされていた。あまりにも竣工年と伐採年が離れすぎているから。

(伐採年代は平成13年に奈良文化財研究所が発表。年輪年代測定法によるもので1年単位の精度がある)

<疑問1>なぜ伐採から70年近くもたった古材を心柱に使ったのか?

そこでヒントになるのが、飛鳥時代初期の伽藍創建工程。
最初に刹柱(さっちゅう)塔の建立から始められることが記録に残っている。
刹柱(さっちゅう)塔とは、仏舎利を高い柱の先端に納めて立てる「仏塔」をさす。
後に五重塔や三重塔を建立する際は、刹柱の上に納めた舎利を柱の根元に納め直し、礎石にその刹柱を建てて心柱に転用する法華経の流儀ともいえる流れがあった。

日本最古の仏教伽藍である飛鳥寺も法華経により、蘇我馬子の発願で造営されたが、先立つこと585年(敏達14年)に、馬子が大野丘北(飛鳥寺の北西)に止由良佐岐(とゆらさき)刹柱(さっちゅう)を建立、8年後の593年(推古元年)正月、飛鳥寺の塔造営の際にその刹柱の柱頭に納めていた仏舎利を心礎に納め直し刹柱が建立されている。
ということは寺の発願の際もまずは「仏塔(舎利塔)」である刹柱(さっちゅう)を建立することだったはずで、三重塔や五重塔建立に使われる柱材は、以前から立っていた古い刹柱を転用する場合があったことになる。

<疑問2>「層状の屋根も軸部もない高い柱だけの刹柱塔(舎利塔)」とは

どういう形だったのか?

法隆寺献納宝物の中に銅板でできた押出観音菩薩像があり、その裏面に点線打ち出し技法で描かれた「相輪刹柱塔図」というのがあり、それによると層塔の屋根と軸部を取り去った刹柱の頂に蓮弁型の水煙を乗せ、五輪と五蓋の垂飾を上から段々に重ねた独立柱を四方の支柱で支える構造だったらしい。



まさに日光・輪王寺の相輪塔とそっくりではないか!




<疑問3>法隆寺西院伽藍の五重塔建立も

最初は刹柱塔があったのか?

『聖徳太子伝古今目録抄』で法隆寺建立は594年とされており、五重塔心柱の伐採年代と一致することから法隆寺創建とされる594年は、刹柱を準備した起工年で、厩戸皇子が598年に『法華経』講説法会の際に後の北方建物の北堂となる隣あたりに相輪刹柱塔を建立したのではないかと考えられる。622年に厩戸皇子が亡くなり670年の法隆寺若草伽藍が焼失した後、北方建物の地に残っていた厩戸皇子ゆかりの刹柱を利用して現法隆寺西院の五重塔が再建されたのではないかというのだ。


<そのもう一つの物証>
現法隆寺西院の五重塔の心柱(直径約70㎝八角形で檜材)の根元は創建当初の670年代からすでに腐食しており、心柱の周りを縦板で保護し基壇を版築していることがあわかっている。このことからも、檜の巨大な柱の根元に空洞ができるほど、相輪刹柱塔として70年にわたって風雨にさらされていたと考えられる。



<結論>
つまり心柱の底に空洞ができていても新調せず、594年伐採の柱を使ったのは、一つに厩戸皇子ゆかりの刹柱であったから、二つ目に刹柱は伽藍造営の原点であったからで、法隆寺五重塔再建には欠かせない特別な柱だったということになる。

<おわりに>

法隆寺若草伽藍から法隆寺西院再建までの全体の流れを追ってみる。

594年 法隆寺相輪刹柱塔の起工(高さ30mの檜を伐採)
598年 厩戸皇子が推古天皇の要請で行った『法華経』講説法会時にあわせ相輪刹柱塔を建立  
607年 法隆寺若草伽藍完成。北辺を限る掘立柱塀の先には相輪刹柱塔が建っていた。
622年 厩戸皇子亡くなる
623年 厩戸皇子のために釈迦三尊像(国宝)が造立され、北方建物の「北堂」に祀られる。

670年 法隆寺若草伽藍・火災により焼失も「北堂」と厩戸皇子由来の相輪刹柱塔は残る
670年初め
    法隆寺西院の金堂再建が、焼け残った北堂の釈迦三尊像(国宝)を本尊として始まる
670年後半
    法隆寺西院の五重塔再建が、厩戸皇子由来の古い相輪刹柱塔を心柱に転用して始まる
679年     五重塔の工事中断
693年ごろ  金堂完成
690年後半  五重塔工事再開とともに中門および法起寺三重塔が相次いで着工
706年     法起寺三重塔完成 
711年     五重塔と中門完成。




引用・参考/2007年法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告・2010「古代大和の謎」大和文化会編(富山大学の松浦正明教授の執筆「年輪に秘められた法隆寺創建」)・日光輪王寺HP


 

(156)岡山県総社市 倭国防衛「鬼ノ城」664年~

大和朝廷は百済復興を企図し663年10月に唐・新羅連合軍と白村江の戦いに挑んだが大敗。倭国への唐の侵略を強く恐れ、664年以降、朝鮮半島南端から奈良に至る対馬(金田城碧・ピングシ土塁)~北九州(大宰府・水城)~岡山(鬼ノ城)~畿内の山間部などに山城などの防御施設を築き、防人を配置した。




鬼ノ城はその一つで吉備高原の南端、鬼城山(標高397m)の頂に築かれた。
瀬戸内海や総社の町が一望できるが、この高台で防御を継続しなければならなかった強い危機感と駐屯の困難さもまた知ることができる。



面積は30haにも及び、外周2.8㎞を石塁や土塁で囲み、東西南北に城門や要所に角楼などを設置している。食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場、溜井(水汲み場)もある。



城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6m。



要所には堅固な高い石垣を築き、また地形に応じて城内外へ「折れ」ている。

城壁を保護するための敷石も発見され復元されている。
 
◎西門跡



 正面幅12.3m、奥行8.3mで、中央の3m分が出入り口。
12本の堀立柱城門で、床面には大きな石を敷いており、その両側に6本の角柱が立つ。

 



門扉のつく柱は、一辺最大60cmもあり、扉は内開き。



扉を開け、4段の石段を上がると城内となるが、ほぼ3m間隔で4本の柱が立っている。この柱は、城内の目隠しと敵兵を分散させる板塀の柱と思われ、大野城(福岡県)大宰府口城門でも見つかっている。




ちなみに鬼ノ城の名称は、後世の文献で「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来。


城の麓に駐車場があり「史跡・自然公園」として整備・公開されている。
運動靴など歩きやすい格好で、気合を入れて2.8㎞を全周しましょう。

引用・参考/総社市公式観光WEBサイト「総社観光ナビ」鬼ノ城

(155)岡山県岡山市 桃太郎伝説の

吉備津神社と吉備津彦神社(分社)

◎吉備津神社(備中・一宮)・・本殿及び拝殿は国宝



実在性が高いと言われる第10代崇神天皇の時、吉備津彦命は四道将軍の一人である西道将軍として吉備国に赴き、ヤマト王権に反抗していた温羅(うら)一族を平定した。この伝えが桃太郎伝説となったらしい。吉備津彦はこの地に宮を営み281歳の長寿で亡くなり吉備の中山の山嶺に葬られた。そして第16代仁徳天皇が吉備国の采女(黒姫)を慕って、吉備国へ行幸した際、吉備津彦の功績を聴き称え、吉備国の祖神として奉ったのが始まり。平安時代に掛かれた延喜式に明神大社として記載されているとのこと。

□本殿(国宝)

大きさは幅17.7m、奥行14.6m、高さ12m、面積255m²の大建築で、京都の八坂神社につぐ大きさがあり、また出雲大社の約2倍以上の広さとのこと。

軸部は柱径48cmの円柱で高さ6mのあすなろ材を68本使用。

入母屋の千鳥破風を前後に二つ並べ同じ高さの棟で結び全体を桧皮で葺き上げ、ひとつの大きな屋根にまとめた、全国唯一である『吉備津造り』と云われている。




□拝殿(国宝)


拝殿は本殿の正面に接続して突き出した建物で、本殿と同時期の再建で幅1.8m、奥行き5.4m、高さ12m、面積は78.5m²。柱は本殿と同じ太さの円柱を用い、本殿同様他に例のない独特の形式とのこと。



本殿・拝殿は過去2回の火事によって焼失し、現在の本殿・拝殿は1425年(室町時代・将軍足利義満の時)に再建されたもの。 

◎吉備津彦神社(備前・一宮)



吉備津彦神社は吉備津神社が大化の改新以降、備前・備中・備後に3分社された際の備前一の宮として創建された。

現在の本殿などは1697年の江戸時代(元禄10年)に再建されたもの。



引用・参考/吉備津神社(現地案内板・HP)、吉備津彦神社(現地案内板・HP)
 

(154)岡山県倉敷市 楯築(たてつき)弥生墳丘墓

(双方中円形・弥生時代後期)



楯築(たてつき)弥生墳丘墓は、王墓山丘陵に築かれた、

双方中円形古墳の原型ともいわれている。

 

全長は72mで、直径50mの主墳(円丘)の北東側と南西側に台形の突出部がついている。
しかし突出部は残念なことに団地造成や給水塔工事により大きく破壊されている。



 

主墳(円丘)の頂には5個の巨石(高さ2m以上)が円を描くように建てられ

まるでストーンヘンジのような様相を示しており圧巻だ。

 


中心に立つとなるほど埋葬の霊域を守るために立てられたんだろうと思う。


不思議なのは、5個の巨石の他にも様々に加工された巨石が配置されているている。

 

それぞれに何か意味があったのだろうか。



また墳丘斜面にも石列が見られる。

台形の突出部には石列が並び、飾られた丹塗りの壺型土器が多数置かれていた。

埋葬施設は、主墳(円丘)の地下1.5mに木製の槨と棺が発見された。
槨は長さ3.5m、幅1.5m、底板は二枚以上で排水施設があった。
棺は長さ2m、幅0.7mで、棺底には厚く朱が塗らており、その重さは30㎏以上あったとのこと


出土物は歯のかけら2つと副葬品として鉄剣、首飾り、多数の小管玉とガラス小玉。

また埋葬施設の上には埋葬の祭りに使われた弧帯石や人形土製品、特殊器台型土器、高坏、土製の勾玉・管玉などが壊されて積み上げられていた。



築造時期はAC150~250年ごろ(弥生時代後期・2世紀後半~3世紀前半)



この岡山県の楯築弥生墳丘墓や鳥取県の四隅突出形墳丘墓などがヤマト王権の時代に互いに影響を受け円墳に取り入れられて、やがて前方後円墳という倭独自の統一された格式高い墓が作られるようになったことはとても興味深い。

引用・参考/現地案内板(1987年・倉敷市教育委員会・岡山大学教授・近藤義郎)

(153)滋賀県野洲市 大岩山古墳群 

天王山古墳(前方後円墳)

大岩山丘陵から平野部にかけては、AC250~500年代までに首長墓が連続して築かれました。特に石室が素晴らしい円山古墳(円墳)・甲山古墳(円墳)と前方後円墳である天王山古墳は近江の後期古墳を代表するもので、これら含め現存する6基の古墳を大岩山古墳群と命名し、桜生(さくらはざま)史跡公園として整備されました。



◎天王山古墳(大岩山古墳群唯一の前方後円墳)



後円部から前方部を望む

 

 

全長50m、高さ8m、前方部幅25m、後円部直径24mで前方部を北方に向ける。

前方部幅の方が後円部幅より大きくわずかに高くなっているため、

古墳時代後期の特徴を現している。自然の地形を整形して造られた古墳。

 


前方部から後円部を望む

 

墳頂に上ると、墳丘斜面の急峻さに驚く

 

幅24mに対し高さが8mであるから勾配は平均約35度であるが、

下段は勾配が緩いから墳頂付近は45度前後となる。

墳丘表面で葺石・埴輪は認められていない。



主体部の埋葬施設は、後円部では明らかでないが、前方部の横に

花崗岩の石室の天井石が一枚露出しているように見える。


発掘の結果、全長4.3mで、1.4mの狭い羨道から、長さ2.4m、幅1m以上の玄室があり

左袖式の小さな横穴式石室が発見された。
石室は花崗岩の板石を積んだ構造となっているようだ。

出土物は須恵器・土師器・韓式土器など



築造時期はAC500~525年ごろ(古墳時代後期の6世紀初頭頃)



引用・参考/現地案内板(野洲町教育委員会)・Wikipedia

(152)滋賀県野洲市 大岩山古墳群 

甲山(かぶとやま)古墳

(円墳・阿蘇凝灰岩製石棺)

大岩山丘陵から平野部にかけては、AC250~500年代までに首長墓が連続して築かれました。特に石室が素晴らしい円山古墳(円墳)・甲山古墳(円墳)と前方後円墳である天王山古墳は近江の後期古墳を代表するもので、これら含め現存する6基の古墳を大岩山古墳群と命名し、桜生(さくらはざま)史跡公園として整備されました。

◎甲山(かぶとやま)古墳(円墳)



円墳で直径30m・高さ10m

墳丘表面の葺石や埴輪はなかったようだ。



埋葬施設は西に開口する横穴式石室ですでに盗掘を受けている。



7.5mの下り羨道を経て、玄室は右片袖式の長さ6.8m・幅2.8m・高さ3.3m


床には玉石が敷きつめられている。



石棺は長さ2.6m・幅1.6m・高さ2mの熊本県阿蘇凝灰岩製で、刳抜式家型石棺。

前回ご紹介した円山古墳の石棺も熊本県産阿蘇凝灰岩であったから、重い巨石をわざわざ熊本から滋賀の野洲まで運び入れた関係性や特別な理由があったようだ。
この阿蘇溶結凝灰岩は石切場の名前である馬門石または阿蘇ピンク石といわれ、約9万年前の阿蘇山噴火の火砕流(Aso4)でできた。この馬門石は熊本県宇土半島産出でありながら、5世紀中頃から6世紀前半まで九州で使用されているのは地元のみで、中国・近畿地方の有力者の石棺に限られていることから、ヤマト王権がこの石切り場を独占し、石棺に利用していたと考えられている。


出土物は、装身具(金糸・銀製くちなし玉、空石、碧玉製切子玉、ガラス玉)、鉄製武具(甲冑・大刀、矛、鏃、刀子)、馬具(金銅製鏡板付き轡・金銅製透彫入雲久珠・馬鎧)


築造時期はAC500~550年ごろ(6世紀前半)





引用・参考/現地案内板(野洲町教育委員会)・Wikipedia