(157)法隆寺五重塔・建立のなぞ

(70年間心柱だけが建っていた?)

2010「古代大和の謎」大和文化会編(富山大学の松浦正明教授の執筆「年輪に秘められた法隆寺創建」)を読んで、心ときめいたので、自分なりに租借・解釈し図化してみた。

専門家ではないので、細かい間違いはご容赦願いたい。

現在の法隆寺五重塔の規模は総高33.67mで、基壇1.11m・塔身22.87m・相輪9.69mである。

◎はじめに旧法隆寺(若草伽藍)の火災による消失について

607年に建立された法隆寺若草伽藍(旧法隆寺)は、天智9年(670)の火災で「一屋も余す無し」と記載されるほどに消失したとされていたが、発掘の結果、旧法隆寺の北辺を限る掘立柱塀の柱根が残されており、塀より北側の北方建物(607年~639年)は焼け残ったことが分かった。

 


焼け残った北方建物には「北堂」と呼ばれる仏堂があり、その中に現法隆寺(西院伽藍)金堂にある国宝・釈迦三尊像(法隆寺資財帳に記された「北堂」「丈六」・623年)が本尊として存在していた。


◎法隆寺西院の再建

法隆寺(西院伽藍)の再建はこの焼失を免れた若草伽藍北方建物と基礎を利用して始められた。
まず金堂の再建では、北方建物の旧楚石を転用しながら、元の建物より太い柱にし若草伽藍当時の金堂の再建をめざした。

次に五重塔は、金堂再建(持統7年(693年)頃までに完成)の後、判明している624年、631年、663年に伐採された木材によって小屋組みや軸組、5重の屋根が設置され和銅4年(711)に完成した。


しかし心柱だけは110年以上もさかのぼる594年伐採の木材が用いられていることが謎とされていた。あまりにも竣工年と伐採年が離れすぎているから。

(伐採年代は平成13年に奈良文化財研究所が発表。年輪年代測定法によるもので1年単位の精度がある)

<疑問1>なぜ伐採から70年近くもたった古材を心柱に使ったのか?

そこでヒントになるのが、飛鳥時代初期の伽藍創建工程。
最初に刹柱(さっちゅう)塔の建立から始められることが記録に残っている。
刹柱(さっちゅう)塔とは、仏舎利を高い柱の先端に納めて立てる「仏塔」をさす。
後に五重塔や三重塔を建立する際は、刹柱の上に納めた舎利を柱の根元に納め直し、礎石にその刹柱を建てて心柱に転用する法華経の流儀ともいえる流れがあった。

日本最古の仏教伽藍である飛鳥寺も法華経により、蘇我馬子の発願で造営されたが、先立つこと585年(敏達14年)に、馬子が大野丘北(飛鳥寺の北西)に止由良佐岐(とゆらさき)刹柱(さっちゅう)を建立、8年後の593年(推古元年)正月、飛鳥寺の塔造営の際にその刹柱の柱頭に納めていた仏舎利を心礎に納め直し刹柱が建立されている。
ということは寺の発願の際もまずは「仏塔(舎利塔)」である刹柱(さっちゅう)を建立することだったはずで、三重塔や五重塔建立に使われる柱材は、以前から立っていた古い刹柱を転用する場合があったことになる。

<疑問2>「層状の屋根も軸部もない高い柱だけの刹柱塔(舎利塔)」とは

どういう形だったのか?

法隆寺献納宝物の中に銅板でできた押出観音菩薩像があり、その裏面に点線打ち出し技法で描かれた「相輪刹柱塔図」というのがあり、それによると層塔の屋根と軸部を取り去った刹柱の頂に蓮弁型の水煙を乗せ、五輪と五蓋の垂飾を上から段々に重ねた独立柱を四方の支柱で支える構造だったらしい。



まさに日光・輪王寺の相輪塔とそっくりではないか!




<疑問3>法隆寺西院伽藍の五重塔建立も

最初は刹柱塔があったのか?

『聖徳太子伝古今目録抄』で法隆寺建立は594年とされており、五重塔心柱の伐採年代と一致することから法隆寺創建とされる594年は、刹柱を準備した起工年で、厩戸皇子が598年に『法華経』講説法会の際に後の北方建物の北堂となる隣あたりに相輪刹柱塔を建立したのではないかと考えられる。622年に厩戸皇子が亡くなり670年の法隆寺若草伽藍が焼失した後、北方建物の地に残っていた厩戸皇子ゆかりの刹柱を利用して現法隆寺西院の五重塔が再建されたのではないかというのだ。


<そのもう一つの物証>
現法隆寺西院の五重塔の心柱(直径約70㎝八角形で檜材)の根元は創建当初の670年代からすでに腐食しており、心柱の周りを縦板で保護し基壇を版築していることがあわかっている。このことからも、檜の巨大な柱の根元に空洞ができるほど、相輪刹柱塔として70年にわたって風雨にさらされていたと考えられる。



<結論>
つまり心柱の底に空洞ができていても新調せず、594年伐採の柱を使ったのは、一つに厩戸皇子ゆかりの刹柱であったから、二つ目に刹柱は伽藍造営の原点であったからで、法隆寺五重塔再建には欠かせない特別な柱だったということになる。

<おわりに>

法隆寺若草伽藍から法隆寺西院再建までの全体の流れを追ってみる。

594年 法隆寺相輪刹柱塔の起工(高さ30mの檜を伐採)
598年 厩戸皇子が推古天皇の要請で行った『法華経』講説法会時にあわせ相輪刹柱塔を建立  
607年 法隆寺若草伽藍完成。北辺を限る掘立柱塀の先には相輪刹柱塔が建っていた。
622年 厩戸皇子亡くなる
623年 厩戸皇子のために釈迦三尊像(国宝)が造立され、北方建物の「北堂」に祀られる。

670年 法隆寺若草伽藍・火災により焼失も「北堂」と厩戸皇子由来の相輪刹柱塔は残る
670年初め
    法隆寺西院の金堂再建が、焼け残った北堂の釈迦三尊像(国宝)を本尊として始まる
670年後半
    法隆寺西院の五重塔再建が、厩戸皇子由来の古い相輪刹柱塔を心柱に転用して始まる
679年     五重塔の工事中断
693年ごろ  金堂完成
690年後半  五重塔工事再開とともに中門および法起寺三重塔が相次いで着工
706年     法起寺三重塔完成 
711年     五重塔と中門完成。




引用・参考/2007年法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告・2010「古代大和の謎」大和文化会編(富山大学の松浦正明教授の執筆「年輪に秘められた法隆寺創建」)・日光輪王寺HP