(156)岡山県総社市 倭国防衛「鬼ノ城」664年~

大和朝廷は百済復興を企図し663年10月に唐・新羅連合軍と白村江の戦いに挑んだが大敗。倭国への唐の侵略を強く恐れ、664年以降、朝鮮半島南端から奈良に至る対馬(金田城碧・ピングシ土塁)~北九州(大宰府・水城)~岡山(鬼ノ城)~畿内の山間部などに山城などの防御施設を築き、防人を配置した。




鬼ノ城はその一つで吉備高原の南端、鬼城山(標高397m)の頂に築かれた。
瀬戸内海や総社の町が一望できるが、この高台で防御を継続しなければならなかった強い危機感と駐屯の困難さもまた知ることができる。



面積は30haにも及び、外周2.8㎞を石塁や土塁で囲み、東西南北に城門や要所に角楼などを設置している。食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場、溜井(水汲み場)もある。



城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6m。



要所には堅固な高い石垣を築き、また地形に応じて城内外へ「折れ」ている。

城壁を保護するための敷石も発見され復元されている。
 
◎西門跡



 正面幅12.3m、奥行8.3mで、中央の3m分が出入り口。
12本の堀立柱城門で、床面には大きな石を敷いており、その両側に6本の角柱が立つ。

 



門扉のつく柱は、一辺最大60cmもあり、扉は内開き。



扉を開け、4段の石段を上がると城内となるが、ほぼ3m間隔で4本の柱が立っている。この柱は、城内の目隠しと敵兵を分散させる板塀の柱と思われ、大野城(福岡県)大宰府口城門でも見つかっている。




ちなみに鬼ノ城の名称は、後世の文献で「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来。


城の麓に駐車場があり「史跡・自然公園」として整備・公開されている。
運動靴など歩きやすい格好で、気合を入れて2.8㎞を全周しましょう。

引用・参考/総社市公式観光WEBサイト「総社観光ナビ」鬼ノ城