「はじめの言葉ありき」と聖書にありますが、言葉とは何かを正確に理解している人は多くありません。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1:1)
結論から天下り式に言えば、認知科学においては、言葉とは部分関数です。
部分関数というのは、世界を2つ以上に分ける関数です
知識と考えても良いですし、名指しと考えても構いません。
世界をAとA以外に分けるのが、部分関数の機能であり、言葉もそれに従います。
たとえば整数列から2の倍数だけを取り出す(分ける)関数を「偶数」と読んだり、evenと言ったりします。
たとえば、自然数から2の倍数である偶数を取り出す関数をeven(n)と定義するならば、この関数は自然数全体(NaturalNumber)を飲み込んで、偶数だけを吐き出していきます。
N(自然数) → even(n) → 2,4,6,8,10,12、、、、
そしてその残りが奇数です。
ですので、自然数を2つの集合に分けるのが偶数という部分関数の機能ということになります。
(このような数学上の定義はたしかに不変的で普遍的なものに感じます。でもそういうときは歴史を振り返りましょう。ユークリッド幾何学の第5公準は偉大な公理としてアプリオリのような顔をしていましたが、書き換えられました。
5が偶数になることはたしかになさそうですが、たとえば足し算の延長が掛け算であるというあまりに当たり前な前提は望月先生によって再定義され、その強いつながりが引き剥がされようとしています)
同様に情報空間の全体を想定して、そこから「犬」だけを取り出すのが、犬という言葉であり、関数です。
犬(w)という関数があるとしたら、世界を入力すると、犬だけが出力されます。
(これも数学の例と同じです。言葉の定義は揺れます。たとえばかつてクジラは魚でした)
世界 → 犬(w) → ドーベルマン、チワワ、柴犬、、、、
だからこそ「知は力」なのです。
知っていればいるほど、世界の切り方が多様になります。
知識が多い方が、世界の見方が立体的になるのです。
じゃあ、知識が多い方が良いのかと言えば、、、そうとも言えません。
そもそも知識の多さではグーグルのサーバーにすら、いや自分のラップトップのコンピューターにすら叶いません。メモリが桁違いに小さいのです。
メモリが小さい上に、知識というのはネットワークの中で生かされています。だから多く知っているよりは、少ないことを深く知っている方がいまの時代には「適応」だと僕は思います。
少し話をすすめると、、、
では、言葉に敏感になったり、言葉の定義にうるさいとどんな良いことがあるのでしょう?
これは非常に面白い実験があるので、その実験を通じて実感してもらうのが早いと思います!
たとえば、「まといのば」では「足はどこから生えている?」とか「腕はどこから生えている」という言い方をしますが、足を操作したり、腕や手を操作しているときに、従来の常識的な定義では、身体はとても不自由にしか動かないのです。
それに対して、足(というか下肢)は腸骨からであり、仙腸関節がいわゆる「足(下肢)」の付け根であると知ると、足の操作は大きく変わります。
腕も同様です。僕らはパッと見た印象で、手が肩から生えているように錯覚します。
そしてその考え方のままで身体を操作すると、肩や肘を傷めやすくなってしまうのです。
なぜなら、それは間違っている定義であり、誤った知識だからです。
鎖骨や肩甲骨も腕(上肢)であることを認識すると、腕の使い方がガラッと変わります。
これは知識(情報)が物理(肉体)を書き換える良い例であると同時に、我々の区分や分け方をわずかにでも修正すると、パフォーマンスが変わる例でもあります。
たとえば、手のひらもそうです。
手のひらの指の付け根を意識して指を操作しているうちは手を使いこなせません。
しかし正確にMP関節で指を折るようにすると、、、、手の表情が大きく変わります。
僕らは骨で肉体が構成されていることを知っているのですが、その知識に少しコンタミ(汚れ)があるのです。
わずかにずれたところで、教わっているのです。
誰がそんなことをしているのでしょう、、、
これは周りの人間です。もちろん好意であったり、無知が原因であることがほとんどで、悪意があるケースは少ないものです。しかし、そのような間違った知識、それも大きく間違っているのではなく、ほとんど合っているけれど、ちょっとだけ間違っている(コンタミしている)というのが一番厄介なのです。
大きく間違っているのであれば、ちょっと指摘すればその砂上の楼閣は脆(もろ)くも崩れるのですが、99%が「正しそうな」知識で、1%が明らかな間違いだと、その構造は悪い意味で「反脆い」ものになります。
間違いを指摘しても、それが亀裂にならず、吸収されてしまうのです。
だからこそ丁寧さが必要になってきます。
ティールの言い方で言えば「細やかな神経」です。
「人は完全に模倣から逃れることはできません。でも細やかな神経があれば、それだけでその他大勢の人間を大きくリードできます」(ピーター・ティール)
手や肩や鎖骨や肩甲骨という言葉は知っているし、解剖学的に「上肢」に上肢帯(鎖骨と肩甲骨)が含まれるのは知っているのですが、それが身体に落とし込めるかどうはまた次の「知識」の問題です。
腹落ちするとか、腑に落ちるというフェイズもまた「知識」なのです。
身体で覚える、というやつですね。
身体でしっかりと「分かった!」となる段階まで「知る」必要があります。
そう考えると、世界とは言葉でできており、言葉の定義(世界の分割の仕方)次第で、世界がガラッと様相を変えることが分かります。
補助線と似ています。
難しい幾何(数学の図形の問題)でも、補助線1つで様相がガラッと変わることがあります。
全く手がつかない難問に見えたものが、補助線ひとつでスルスルと解ける問題に変わります。
言葉の定義を変えたり、言葉に対して「細やかな神経を持つ」ことで、世界の切り方が変わるのです。世界を観るときの補助線が変わるのです。
これが「内部表現の書き換え」の本質的なカラクリです。
強引に次の話をすると、、、、
我々の世界なり、我々の身体というのは、我々以外の人によって間違って書き込まれているのです。間違っているからこそ、一見正しそうなのですが、機能しなくなるのです。
Jobsはこんな風に語っています。
(引用開始)たったひとつ、単純な事実に気づけば、人生は可能性がずっと開けたものとなる。それは、自分を取り囲んでいるすべてのもの、人生と呼んでいるものが、自分より賢いわけではない人々が作り出しているということだ。(引用終了)
自分より賢いわけではない人々がつくりだしているのが、あなたが自分のものだと思っているところの人生であり、自分を取り囲んでいる世界です。
正直言えば、自分より賢いか否かはどうでも良くて、少なくとも間違っている知識が正しいものとして流通しており、それが自分の世界と自分の人生を構成しているということです。
何かを指摘されたときに、自分が攻撃されたと感じる人がいますが、その「自分」というのが、多くの人が寄ってたかって書き込んだ間違った情報なのです。それは「自分」ではなく他人が書き込んだ他人ものだと見做すことです。
繰り返しになりますが、完全に間違った情報ならば反証も楽なのですが(反証という概念を理解していれば)、多くの情報は99%が正しそうな情報で、1%だけが大きく誤っています。
足(というか下肢)の付け根が股関節だと思うことや、腕(上肢)の付け根が肩関節だと思うのと同じです。言葉としては間違っていないのですが(定義をいじれば正しくなります。脚は大腿骨までなので、脚の付根は股関節です)、実際に身体の動きにその知識を適用する上ではその「正しい」知識が逆に困難を引き起こすのです。
まとめますが、言葉や知識の本質は部分関数であるということ。
部分関数とは世界を真っ二つにもしくは3つ、4つ、5つと分けていくものであること。
しかし、その境い目が間違っていると、うまく機能しなくなるということです。
たとえば、スポーツをしたり、バレエや武術をする上で肩関節や股関節を駆使したら、身体は壊れます。
(ですので、丹田という概念や、脱力や、体幹、軸などの概念が生み出されています)。
ただし、丹田や軸という概念と中途半端な解剖学や常識がぶつかると、、、大概は丹田や軸を放り投げてしまいます。
(というか、指導法に問題がある場合もあります。人は自分が無意識でやっているものを言語化するのは得意ではありません。ですので、自分の無意識でやっているものを言語化しようとする一方で、相手の反応を見ながら「適当」に声がけして、効果のあるものを採用するという方法も有効です)
だからこそ、方針としては、ジョブズを採用しましょう。
たったひとつ、単純な事実に気づけば、人生は可能性がずっと開けたものとなる。それは、自分を取り囲んでいるすべてのもの、人生と呼んでいるものが、自分より賢いわけではない人々が作り出しているということだ。
人生と呼んでいるものが、「自分より賢いわけではない人々が作り出している」ことに気づき、自らひとつひとつ変えようと決めることです。
もっと大人になれよ、というアドバイスもまた洗脳です。
それは「自分より賢いわけではない人々が作り出している」のです。
大人になると、この世界とはこういうもので、自分の人生も、その中にある人生を生きることだ、と言い聞かされることになりがちだ。壁を叩くようなことはしすぎるな。良い家庭をもって、楽しみ、少しばかりの金を貯めよう。
その「単純な事実に気づけば、人生は可能性がずっと開けたものとなる」のです。
うまくいかないなと思ったら、どの言葉の定義が間違っているのだろうか、どの部分を修正するとパフォーマンスが変わるのだろうか、それはどの知識によるのかを考えることです。
ジョブズ節を続けましょう!
人生だと思っていたことも、突いてみることができ、自分が何かを押し込むことで、反対側で何かが突き出たりするのだと悟り、人生は変えることができると理解すれば、自分で人生を造形していくことができる。それこそが、おそらく何よりも大切なことなのだ。
人生は変えられるのです。
それも思ったより簡単に。
苦しんでいる根本原因は、周囲から教わった間違った定義、間違った補助線を使い続けているだけの可能性があります。
それをひとつひとつささやかな修正を加えていくだけで、世界の切り取り方が変わり、人生が大きく変わっていきます。
【動画紹介】
周りから見れば、あなたはCrazyかもしれませんが、それはあなたの周りが狂気に満ちているのかもしれません。
c.f.狂気は個人にあっては稀有なものである。だが集団、党派、国家、時代にあっては通例である(ニーチェ) 2019年03月01日
その世界では、我々はカッサンドラのように扱われるかもしれませんが、もしそうであるならば共同体を変えることです。同じ「狂気」を持つ集団が必ずあるからです。
c.f.わたしはひとりじゃないんだ、外の世界は自由で無限に広がっているんだ(中川翔子) 2019年08月22日
共同体を変える以前に追い出されたり、殺されることもあるでしょうが。
この知性が私と、私の愛していた人々との間に楔を打ち込み、私を追放した。私は前にもまして孤独である 2017年11月17日
c.f.「でも、あなた、気をつけて。ソクラテスが最後にどうなったかを知っている? 毒を飲まされたのよ」 2017年01月23日
(引用開始)
1994年のPBSのドキュメンタリー番組『One More Thing』のインタビューで、ジョブズは次のように述べている。
When you grow up, you tend to get told the world is the way it is and your life is just to live your life inside the world. Try not to bash into the walls too much. Try to have a nice family life, have fun, save a little money.
That’s a very limited life. Life can be much broader once you discover one simple fact, and that is - everything around you that you call life, was made up by people that were no smarter than you. And you can change it, you can influence it, you can build your own things that other people can use.
The minute that you understand that you can poke life and actually something will, you know if you push in, something will pop out the other side, that you can change it, you can mold it. That’s maybe the most important thing. It’s to shake off this erroneous notion that life is there and you’re just gonna live in it, versus embrace it, change it, improve it, make your mark upon it.
I think that’s very important and however you learn that, once you learn it, you’ll want to change life and make it better, cause it’s kind of messed up, in a lot of ways. Once you learn that, you’ll never be the same again.
大人になると、この世界とはこういうもので、自分の人生も、その中にある人生を生きることだ、と言い聞かされることになりがちだ。壁を叩くようなことはしすぎるな。良い家庭をもって、楽しみ、少しばかりの金を貯めよう。
そういうのは、とても制約された人生だ。たったひとつ、単純な事実に気づけば、人生は可能性がずっと開けたものとなる。それは、自分を取り囲んでいるすべてのもの、人生と呼んでいるものが、自分より賢いわけではない人々が作り出しているということだ。周りの状況は自分で変えられるし、自分が周りに影響を与えることもできるし、自分のものを自分で作ることも、他の人々にもそれを使ってもらうこともできるのだ。
人生だと思っていたことも、突いてみることができ、自分が何かを押し込むことで、反対側で何かが突き出たりするのだと悟り、人生は変えることができると理解すれば、自分で人生を造形していくことができる。それこそが、おそらく何よりも大切なことなのだ。それこそが、人生はそこにあり、自分はその中で生きるしかないという誤った考えを揺さぶって振り払い、人生を抱きしめ、変化させ、改善し、自分自身の痕跡を刻み込むということなのだ。
私はこれはとても大切なことだと思うし、どのようにそれを学んだかに関わらず、それを学んだ者は、このいろいろな意味で厄介なことがらを抱え込んだこの人生を変化させ、より良いものにしようと望むことになるのだと思っている。一度このことを学べば、それまでのままではいられないのだ。 (引用終了)Wikipedia『Think different』