ヘーゲルにおいては、概念もしくは思想、もしくはロゴス、理念、理性と言われるようななにものかが、絶対者すなわち神と考えられています。そしてこの概念が自己自身で展開し、外化し、それが歴史に足跡を残します。
*知の巨人、ヘーゲル
述語論理学風に言えば、あるx、それは概念であり、思想であり、ロゴスであり、理念であり、理性であり、絶対精神であり、神であるような何かです。
{x|x=概念、思想、ロゴス、理念、理性、絶対精神、世界精神、神}
これは、ヨハネ福音書の冒頭を想起させます。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ福音書)
「はじめに言葉ありき」です。
言葉が神なのです。
これはいわゆるギリシャ語のロゴス(λόγος)です。
というか、そもそも
Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος.
はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった
と書いてあったわけで、はじめにロゴスありき、ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった、と書いてあります。
そういえば、我々がラテン語版聖書(ウルガタ版)で学んだときは、Verbumでした(寺子屋「ラテン語」)。
in principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.
VerbumにせよΛόγοςせよ、ロゴスが神なのです。
神学における神はさておき、ヘーゲルの定義する神は変化していきます。変容します。
なぜかと言えば、神は彼岸にあるわけではなく、我々もその神のうちに含まれるからです。
これが絶対的他者としての神から、人を含む神という認識へのパラダイムシフトです。もちろんこの汎神論的な考え方は、ヘーゲルの死後に論争の種になります。
汎神論的な神、そして宇宙と神が同じものであり一体化しているのであれば、神という定義そのものが不要になるからです。汎神論の徹底は無神論に通じます(シュトラウス「イエス伝」)。
ちなみに、それまで仲の良かった哲学者のシェリングをヘーゲルは「精神現象学」において痛烈に非難しますが、それは神解釈がこのように異なるゆえでした。シェリング自体の神理解が問題というよりは、ヘーゲル以外の神理解というのは、神は無限遠にあり、永遠不滅であり同一の存在です。
変わらないのが神の本質です。
しかしヘーゲルにおいて、神は無変化的、自己同一的ではありえず、動的にみずから展開していき、現象の変化を通じて、歴史に自己を実現します。それが絶対者であり、神なのです。
ヘーゲルはこう言います。
(引用開始)
そこでは絶対者が、まるで、「闇夜にはすべての牛が黒い」という諺の、闇夜のようなものにされている。このような態度は、認識にかんして空虚であることからくる素朴さにほかならない。(引用終了)(精神現象学p.100)
神なり絶対精神が歴史に出現するとはどういうことでしょう。
この「精神現象学」を脱稿直前に、ヘーゲルはイエナに入城したナポレオンを見て、こうつぶやくのです。
「私は、皇帝、この世界精神が町を通って陣地偵察のために馬を進めるのを見た。この一地点にあって馬上に座しながら、しかも全世界をおおい、支配する人を見るということは、まったくなんとも言えない感じがする」と。
*ダヴィッド『アルプス越えのナポレオン』
これはヘーゲルから友人であるニートハンマーへの十月一三日の手紙です。
この良き友人が極貧であったヘーゲルのために奔走し、出版社と話をつけて原稿料を受け取れるように奮闘してくれたのです。精神現象学はこの良き友人の強引な交渉によって陽の目を見たわけで、ニュートンのために奔走したハレーと同様に偉大な精神のそばには偉大なサポーターがいます(ゴッホと弟のテオのように)。
ヘーゲルが神が歴史に姿を現すと言ったとき、それは形而上学的な意味ではなく(形而上学的にしか見えませんが)、本気なのです。本気で、「皇帝、この世界精神」なのです。
皇帝=世界精神
なのです。
{x|x=皇帝、x=世界精神}
です。
まあ、この述語論理学風の記述が意味があるのか不明ですが、ただ、ある何かを指し示して、AはAである、という言い方をヘーゲルは採用しません。概念は自己運動するものであり、概念は「三日会わざれば刮目して見よ」とも言うべき存在なのです。
AはAであるが、Aではないのです。
たとえば、犬は犬でありながら、哺乳類であり、動物であり、有機物であり、物質です(これだとなかなか伝わらないのは百も承知です。犬が猫との弁証法的な自己運動によって、哺乳類に止揚し、哺乳類がたとえば魚類との弁証法的な自己運動で動物に止揚するのです。「概念の自己運動」とはヘーゲルの言葉です)
とは言え、最初の著書(精神現象学)の最後の仕上げの最中に、プロシアに攻め込んできた隣国の皇帝に対して、世界精神(すなわち神)を観るというのは尋常ではありません(ヘーゲルはナポレオンを評価していました)。
それに対して、こちらもまた天才であるバートランド・ラッセルは非常に分かりやすいまとめをしています(ラッセルはヘーゲリアンでした)(ウィトゲンシュタインの先生としても有名ですし、ホワイトヘッドとプリンキピアを書いた人としても)
(引用開始)
ヘーゲルの生涯には、重要な出来事がほとんどなかった。青年時代に彼は神秘主義に強くひきつけられ、彼の後代の諸見解はある程度まで、最初に彼に神秘的な洞察と思えたものの知性化であるとみなしうる。(バートランド・ラッセル「西洋哲学史3」p.722)(引用終了)
「ヘーゲルの生涯には、重要な出来事がほとんどなかった」と、これほど重大な人間であるヘーゲルに対して言い切れるのは、ラッセルくらいしかいないのではないかと思います。その舌鋒の切れ味の鋭さにはいつもながら感動します。
そしてそれに続く、青年時代に神秘主義にひきつけられ、のちのヘーゲルの思想がその当時の神秘的な洞察の知性化という主張は惹きつけられます。
ヘーゲルというとロジカルモンスターの印象があり、実際にそうなのでしょうが、そのロジカルモンスターの心臓部はもしかしたら神秘的な洞察なのかもしれません。だからこそ、論理だけだと思って読むと読めず、しかし神秘主義にしてはロジカルすぎます(もちろんシュタイナーのようなロジカルな神秘主義もありますが、しかしシュタイナーも前面に出てくるのは神秘体験です。しかしヘーゲルは神秘体験は前面に出てきません)。
「皇帝、この世界精神」という無邪気な言い方、そして「この一地点にあって馬上に座しながら、しかも全世界をおおい、支配する人を見る」という神秘体験的な明快さに比べると、歴史哲学などでの書きぶりはロジカルに明瞭です。
ヘルメス神と同様に、理念は真に諸民族と世界の指導者であり、その案内者の合理的にして必然的な意志たる精神は、世界史のもろもろの出来事を現在、指揮するものであるし、また過去もそうであった。(歴史哲学)
哲学が歴史の観照のために携行する唯一の思惟は、理性という単純な概念である。すなわち理性が世界の主権者であり、したがって世界史はわれわれに合理的な過程を呈示する、ということである。(歴史哲学)
世界史とは、統御されない自然的意思の鍛錬であり、その意思を普遍的原理に服従せしめ、それに主観的自由を与えることである。東洋は過去にそして現在においても、唯一者が自由であることを知っているにすぎない。ギリシャとローマの世界は、若干の者が自由であることを知っていた。しかしドイツ人の世界は、すべての者が自由であることを知っている。(「歴史哲学」)
ここにヘルメス神が出てくることに、ニヤリとする方も多いかとは思いますが(ヘルメス神は錬金術を始めたと言われます)、理念、精神というのは絶対者であり神です。神は「諸民族と世界の指導者」です。そして理性(神)が世界の主権者であり、世界史は神の合理的な過程を呈示したものというヘーゲルの理解です。
*写真はローマ神話のメルクリウス(マーキュリー)ですが、ギリシャ神話のヘルメスと一体とされます。メルクリウスの日は水曜日、ヘルメスの星は水星(マーキュリー)です。
ここだけを切り取るのであれば、ラッセルの言うとおりです。
ヘーゲルはあまりに無邪気すぎるように感じます。
ヘーゲルはまたこうも言います。
「東洋は過去にそして現在においても、唯一者が自由であることを知っているにすぎない。ギリシャとローマの世界は、若干の者が自由であることを知っていた。しかしドイツ人の世界は、すべての者が自由であることを知っている。」
東洋は王様のみ自由であり、ギリシャ・ローマは市民と呼ばれる特権階級のみが自由であり、そしてヘーゲルの母国であるドイツは万人が平等ということです。
1人⇒少数⇒万人
という形で神は自身の目的である自由を、歴史に発現させるのです。神の足跡が歴史として残ります。
世界史は東から西へと至る。それゆえヨーロッパは端的に世界史の終わりであり、アジアはその始まりである("Die Weltgeschichte geht von Osten nach Westen, denn Europa ist schlechthin das Ende der Weltgeschichte, Asien der Anfang." )
という、いわば傲慢な言い方はラッセルをしてこう批判されます。
宇宙的であると称される過程のすべてが、地球というこの惑星の上に、しかもその過程の大部分が地中海付近に生起した、ということは奇妙である。(ラッセル)
(とは言え、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」はこのヘーゲルの文脈で書かれました)
ラッセルの主張は全くその通りです。
そしてラッセル自身は「ヘーゲルの諸学説がほとんどすべて誤り」と断じています。
もちろんその部分だけを切り取ると文脈から切り離されるので、続きを引用します。
(引用開始)
ヘーゲルの諸学説がほとんどすべて誤りであるとしても(そしてわたしはそう信じているのだが)、なお彼はある種の哲学ーーそれは他の哲学者の場合には、整合性や包括性の程度が彼ほどに達していないーーのもっとも優れた代表者として、ただ単に歴史的なものではない重要性を保持しているのである。(引用終了)
ただ、それでも「重要性を保持している」というのは、まさにこの弁証法と呼ばれる運動にあると考えます。
その弁証法の運動を明瞭に述べている一つが以下の「精神現象学」の一節かと思います。
ここではヘーゲル先生が、ソクラテスおじさんに見えます。ソクラテスの産婆術です(そう言えば、ソクラテスの問答法は弁証法とも言われます)
(引用開始)
この人々によって真理とされているものに対し、それの曖昧なところや不都合なところを指摘するのは、さほどむつかしいことではない。そして、あることがらを真理だと意識している人々に対し、しばしばそれと正反対のものが当の意識自身のなかにふくまれているのを、彼らに示してみせることができる。彼らは、こうして自分の意識にひきおこされた混乱からのがれようと努力しても、またあらたな混乱におちいるだけであり、おそらく最後には爆発してしまって、『真理がかくかくであることは、はじめからきまっているのであって、それに対するこうしたやり方は詭弁にほかならぬ」と叫ぶであろう。
(略)
以上述べてきたように、学問が真に学問として存在するにいたるのは概念の自己運動による、というのが私の考えである。(略)
真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透してゆく。このことをわれわれは信念とせざるをえない。真なるものは、その時がきたときにのみ現れるのであり、したがって決して早く現れすぎることも、未熟な公衆しか見いださないということもない。(精神現象学序論)
(引用終了)
「あることがらを真理だと意識している人々に対し、しばしばそれと正反対のものが当の意識自身のなかにふくまれているのを、彼らに示してみせること」、これこそが弁証法の肝であると思います。
まさにソクラテス的な手法です。
この手法を受講生の1人はパラダイムシフトにおける変則性と譬(たと)えましたが、まさにその通りと思います。
寺子屋「パラダイム論」をひっぱりだして、トマス・クーン「科学革命の構造」の引用を見てみましょう。
(引用開始)
変則性はパラダイムによって与えられた基盤に対してのみに現れてくる。そのパラダイムがより正確で、より徹底したものであればあるほど、変則性をより敏感に示すことになり、そしてそこからパラダイムの変更に導くのである。 (引用終了)(トマス・クーン「科学革命の構造」pp.72-73)
これを踏まえて、ヘーゲルを読むとその気持が理解できます。
変則性はそのパラダイムのど真ん中にいて、そのパラダイムを維持発展させようとする人にしか見えてこないのです。
また「真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透してゆく」という言い方にある種の諦観を感じます。時が来なければ、浸透しないのです。
量子論の父の1人が、論争に勝利するとは、論理が勝つことではなく、その論争相手がひとりまたひとりと死んでいくのを見ることだと言ったのも思い出します。
(引用再掲)
真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透してゆく。このことをわれわれは信念とせざるをえない。真なるものは、その時がきたときにのみ現れるのであり、したがって決して早く現れすぎることも、未熟な公衆しか見いださないということもない。(引用終了)
ヘーゲルにおいては、その出力(歴史認識)ではなく、弁証法という運動を見るのであれば、我々はそこに大きな果実を得るのではないかと思います。
そして弁証法とは、形而上学的な運動ではなく、必ず現実とリンクした運動であるということです。
その点に関して、ヘーゲルはいわゆる概念と妄想を明確に区別しています。
存在するところのものを概念において、把握するのが、哲学の課題だ。というのは、存在するところのものは理性だからである。個人に関していえば、だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学がその現在の世界を超え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである。その個人の理論が実際にその時代を超え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在しているけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことのでも想像できる柔軟で軟弱な境域のうちにしか存在しない。
この文章自体はあの「ここがロードスだ、ここで跳べ」に続く内容ですが、まさに妄想なりいわゆる形而上学の批判と僕は読みます。形而上というのはメタフィジックスならば良いのですが、メタではなく切り離されているのです。
ちなみに、「存在するところのものは理性だからである」という言い方はあの「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」を思い出します。これは理性的なものは現実的で、現実的なものは理性的と読んではまずい内容です。
理性的≡現実的、なわけはないのです。
エンチクロペディーの第六節において、この言葉に注釈を加え、現実的というのはなんでもかんでもOKというわけではなく、現実的なものから偶然的なものを取り除いた本質的なものを意味すると言います。現実のうちにある理性的なものということです。目の前の物体に質料を見出すアリストテレスのようなものです。
*おなじみのアテナイの学堂におけるプラトンとアリストテレスです。プラトンはイデアは天上界にあると主張し天を指し、アリストテレスは「いやいや先生、質料(イデア)は物質の中にあります」と地を指します。
また「なんらかの哲学がその現在の世界を超え出る」とは、合理的で啓蒙的な「普遍」に対する痛烈な批判です。我々は「時代の息子」であり、「哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたもの」だからです。時代を無視した哲学や思想というのは、妄想でしかないのです。
「その個人の理論が実際にその時代を超え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在しているけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことのでも想像できる柔軟で軟弱な境域のうちにしか存在しない。」
「どんな好き勝手なことのでも想像できる柔軟で軟弱な境域」のなかにポツンと存在するだけであり、現実に機能を果たさないのです。
明日、寺子屋「ヘーゲル」追加開催です!お楽しみに!!
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