人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし人間は考える葦である。
L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature; mais c'est un roseau pensant.
という印象的なフレーズから始まるパスカルの「考える葦」は子供の頃に多くの人が親や教師や(校長先生から朝礼などで)幾度と無く聞かされたのではないでしょうか?
そしてオチとして「だから、正しく考えるように努めよう」と高らかに宣言されます。
*葦(アシ)、アシは悪しに通じるからといって、ヨシ(良し)とも言う、、、、ってアホですよね。ですから、イネ科ヨシ属のヨシが正式名称です。まあ、良し悪しですね(^^)
ちなみに、古事記では上つ巻に「天照大御神(あまでらすおほみかみ)の命(みこと)もちて、『豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穂(みづほ)の国は、あが御子正勝吾勝々速日天(みこまさかつあかつかちはやひあめ)の忍穂耳(おしほみみ)の命(みこと)の知らす国ぞ」と、言因(ことよ)さしたまひて、天降したまひき。」とあり、「とよあしはら」と「あし」と読みます。
葦(あし)はもちろん古事記から来るのではなく、聖書から来ます。彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか(マタイ11:7)
パスカルのパンセから「考える葦」の部分を引用します。
人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、宇宙全体が武装する必要はない。一条の蒸気、一滴の水があれば、これを殺すのに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶすとしても、それでも人間はこれを殺すものよりも尊いであろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことを、そして、宇宙が自分よりすぐれていることを、知っているからである。宇宙はこのことを何も知らない。
して見ると、われわれの尊厳はすべて思惟にある。われわれが立ち上がらなければならないのは、ここからであって、空間や時間からではない。空間と時間はわれわれには満たすことのできないものである。だから、正しく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。パスカル『パンセ』
重要なポイントを整理しましょう。
・人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦
・宇宙は人間を殺すことは簡単
・しかし人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分よりすぐれていることを知っている
(ひるがえって宇宙はこのことを知らない)
・人間の尊厳は思惟にある
(空間と時間の中に立ち上がっても仕方ない)
僕はここにヨブの沈黙を見ました。
人間はとことん弱い存在であり、宇宙はこの人間を殺すのは赤子の手をひねるようなものです。
「宇宙全体が武装する必要はない」という大げさな言い方がまたいいですね。
しかし、宇宙全体がもし武装して、宇宙が人間を押しつぶすとしても、「それでも人間はこれを殺すものよりも尊い」のです。
そのポイントがメメント・モリであり、自分が死ぬことを知っており、そして宇宙が自分よりすぐれていることを知っているからです。ポイントは「知っている」ことでしょう。
すなわち起きている現象に唯々諾々と従うのではなく、その現象全体を俯瞰しメタ視点で認識しているからです。
これはまさにヨブの物語ではないかと思います。
ヨブが神と直面したときに、ヨブは神が自分よりすぐれていることを知り、自分が死ぬことを知り、そして「宇宙はこのことを何も知らない」ことまで見抜き、そして沈黙を選びました。
神は「空間や時間」を「満たします」が、ヨブも人間も時間と空間の限られた一点を占めるに過ぎず、神の全知に対して無知に等しいのがわれわれです。われわれの尊厳は視点の移動にあるのです。ヨブがそうであったように、われわれは神の視点すらも超えることができるのです。
というわけで、ヘーゲルがナポレオンに世界精神を見たように、われわれはパスカルの考える葦がヨブに見えます(^^)
サタンの口車に乗せられ、義人であるヨブをさんざんいじめて、最後には逆切れする神様に対して、ヨブはこう答えます。
(引用開始)
そこでヨブは主に答えて言った、
「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。(旧約聖書「ヨブ記」42章)
(引用終了)
まさに「宇宙が人間を押しつぶすとしても、それでも人間はこれを殺すものよりも尊いであろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことを、そして、宇宙が自分よりすぐれていることを、知っている」ということです。
そもそも神は傲慢であり傍若無人です。
ユングはこう書きます。
すなわちヤーヴェは一方では自然災害やそれに似た不可解なことどもを真似して無茶苦茶に振舞い、他方では彼は愛され、敬われ、祈られ、正しいと称賛されたいのである。彼はほんの少しでも批判が込められていそうないかなる片言隻句にも敏感に反応するくせに、他方で自らの行為が自らの定めた道徳律に抵触しても一向に意に介さないのである。(C・G・ユング「ヨブへの答え」p.40)
そして、ヨブは二度にわたり神に全面降伏します。
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。
わたしはすでに一度言いました、また言いません、すでに二度言いました、重ねて申しません」。
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」
そのことで「人間は無力であるにもかかわらず神に対する裁き手にまで高められ」ます(ユングp.40)。
なぜなら「人間は自分が死ぬことを、そして、宇宙が自分よりすぐれていることを、知っているから」であり、宇宙すなわち神は「このことを何も知らない」からです。
そして、そこで見て知った神の姿というのは、かつて「聞いて」いたものとは大違いです。
ユングを再び引用します。
(引用開始)
実際彼はヤーヴェのことを「耳で聞いて」知っていただけであるが、今や彼はヤーヴェの本当の姿をダビデ以上に経験したのである。もはや忘れようのない、まことに強烈な教訓である。彼は初め素朴であった。彼はおそらく「愛の」神をさえ、あるいは慈愛あふれる支配者や公正な裁き手をさえ夢みていた。彼は「契約」とは正義に関わる問題であり、契約の当事者は自らに正義があるときはそれを主張できるものと、思い違いをしていた。神は正直で誠実であるか、少なくとも正しく、また十誡から推測しても何らかの倫理的価値を少しは認めているから、少なくとも自らの正義の立場を義務と感じているものと思い込んでいたのである。しかし彼はヤーヴェが人間でないどころか、ある意味では人間以下であることを、すなわちヤーヴェがワニについて言っているように、
「一切の高大なる者は是を恐れ、
諸々の誇り高ぶる獣たちの王である」
のを見て驚愕したのであった。
(引用終了)(pp.36-37)
ヨブははじめ素朴であり、「慈愛あふれる支配者や公正な裁き手」としての神を信じており、「神は正直で誠実であるか、少なくとも正しく、また十誡から推測しても何らかの倫理的価値を少しは認めているから、少なくとも自らの正義の立場を義務と感じているもの」と思い違いをしていたのです。
ヨブの結論は、いやユングの結論はヤーヴェはデミウルゴスであり、われわれが勝手に想定した神ではなく、ただの現象であり、いわば無意識であり無反省な自然現象でしかないということです(その後、変容し、進化成長しますがwまさにヘーゲル的です)
あと2点書きたいことがあるのですが、余白がないので、またの機会に!と思いましたが、書きます。「またの機会」など永遠に来ないので。
1点目は神の回心です。
詳細な議論は今度しますが、というか寺子屋「悪魔学」やアルケミアで触れていると思いますが、とりあえず引用します。
(引用開始)
人間愛と並んで、キリストの性格の中には、ある種の怒りっぽさが目立っており、情動的性質の人々にしばしば見られるように、自己反省の欠如が目立っている。キリストが自分自身に疑問を感じたということを根拠づける事実は、どこにも発見されない。彼は自分自身と対決したことはないように思われる。この法則にはただ一つ重要な例外がある、すなわち十字架上での絶望的な叫び「わが神よ、わが神よ、あなたはなぜ私をお見捨てになるのですか?」である。ここにおいて、すなわち神が死すべき人間を体験し、彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する瞬間に、彼の人間的な存在は神聖を獲得するのである。ここにおいてヨブへの答えが与えられる。(引用終了)(ユング「ヨブへの答え」pp.72-73)
ユングの傑作である「ヨブへの答え」の中でも、一つのピークがここにあります。
まさにタイトルの「ヨブへの答え」が与えられる瞬間であります。
ポイントは神とそしてイエスの「自己反省の欠如」です。
ヨブの経験を通して、神は全知である自分に欠けている部分が人間にあることを知り、そして聖母マリアを通じて、人間になるという体験をしました。天上界におけるように地上界でも自由気ままな神様(イエス)は、最後の最後にあって「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と詩篇を引用して叫びます。「神が死すべき人間を体験し」「彼の人間的な存在は神聖を獲得する」のです。
もちろんこれはヘーゲルを透かして見るべきかと思います。
神であるという完璧な系がヨブという変則性を通じて、自分の中に矛盾なりアンチテーゼを見たのです。そして受肉することで、明確に現象化させ、そしてイエスを通じて、「死すべき人間」を体験するのです。そこに自己反省の機会を得ます。
この自己反省というのは再帰として認識します。再帰とは「あるものについて記述する際に、記述しているものそれ自身への参照が、その記述中にあらわれることをいう」とWikipediaにありますが、いわばフラクタルやマトリューシカです。合わせ鏡のようなものです。アルケミアでは、自分を食べるウロボロス、そして自らを生み出し破壊するメルクリウスの蛇です。
もう1点目は、、、、、忘れました!
やはり「♬二度とは戻らない」ですね!
【引用開始】
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古事記は目で読むものではなく、耳で聞くものです。
最近ひたすらに聞いています。
河合隼雄さんの解説が楽しいです。
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