「議定書」はさらに「ユダヤ人の民族の優越性、それゆえの純血性の徹底」、あるいは「戦争をしてでも、他民族が領土が増えないようにすべきあり方」、または「他民族の宗教との廃絶、権力の徹底と独裁」を説いていきます。
「議定書」はさらに「ユダヤ人の民族の優越性、それゆえの純血性の徹底」、あるいは「戦争をしてでも、他民族が領土が増えないようにすべきあり方」、または「他民族の宗教との廃絶、権力の徹底と独裁」を説いていきます。
はたしてこの「議定書」なるものは本物なのでしょうか?一般にいわれているようにこの「議定書」が偽書であるのなら、ナチスのホロコーストを生んだ深刻な原因として、看過されるべきものではありません。あるいはこの書物が「本物」だとしてもですが・・・。
端的に話をしてしまえば、「歴史上最悪」ともいえるこの2書、ヒトラーの「我が闘争」と「シオン長老の議定書」という不気味な書物が、まるで凹と凸が噛み合うように、その「基本的内容」がぴったりと合わさるということです。そしてこの2つの書物は、さらに現在の国粋思想(国家主義)とリベラル(自由主義)思想とに合致しているといるということです。
人によっては、このような内容は、国家に対する「統合」と「分解」の作用をみてくれば「当然」と思われるかもしれません。歴史をつぶさに観察する能力があれば、それをかなり明確に「文章化」できるといえるのでしょう。
この2つの書物はこの国粋とリベラルの原理的な傾向をよく説明しており、その対立の在り方と成り行きを指し示しています。この傾向を極端に示す人々こそが、我々の安寧とする生活と人生を破壊に導いているといって過言ではありません。
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<リベラル的なもの>
今日マスコミの力は絶大であって、一つの権力といって過言ではありません。今でも日大のスポーツ問題から首相の虚偽発言の問題まで、下手をすれば世論の誘導さえ行える状況にあります。当然、不正を働き取材を取られる側にまず問題ありきではありますが、しかし、当然のように取材をする側もそんなに偉いのか、と思えるほど横暴であり、責任感を感じません。
また再び同じ文脈を引用します。
「無尽蔵の饒舌家は国会と行政庁とを舌戦場と化し去った。大胆な新聞屋や、無遠慮な政治論客等は毎日行政官を攻撃して居る。権力の乱用は斯くて官衙の没落を誘致しつつある。五里霧中に徘徊する群衆の一撃の下に万事転覆するであろう。」
「リベラル」についていえる力は「解体」といえるでしょう。つまり、物事を研究し、細分化する力です。そのために彼らは「正しい」と思える「観念」を用い、全体の一部を取り出していきます。仮にどんな偉人でも粗を探せば何か問題が見つかる可能性が高いわけです。その問題に対して正しい観念を取り出して攻撃します。
「嘘つき」に対しては「誠実さ」を突き付けて攻撃します。しかし攻撃側がいいだした「誠実さ」とは?はたして攻撃ばかりする方にそんな「誠実さ」があるのでしょうか。「観念」的に正しい内容というのは、「実際」に対して実現が難しい場合がほとんどです。おそらく世間的に「誠実」だと思われている人でも、多分小さな「嘘」ぐらいついたことはあるでしょう。
つまり「リベラル」的な人々は「カッコいいこと」をいうため、実現不可能なことをいいだす人々と見られますが、同時にマスコミなどで力を得れば、それが強力な武器になっていきます。
「自由・平等・四海同胞なる語は、盲従的な我々の諜者によって世界の隅々にまで宣伝せられ、幾千万の民衆は我々の陣営に投じ、此の旗幟を担ぎまわっている。然るに実際を言ふと、此の標語は至る所平和安寧一致を破壊し、国家の基礎をも覆へし以つて非猶太人の幸福を侵食する獅子身中の蟲である。」
以上のように「議定書」にはあります。 議定書に於て、「自由、平等、博愛」の観念は革命の標語として、国の特権階級を駆逐する言葉として書かれています。しかし、また、同時に次のようなこともいえます。
人間が完全な自由を得ると、各自に差ができ、平等でなくなります。逆に世の中の人々を完全に平等にしようと思うと、人々は自由を失います。確かに「自由」と「平等」はありがたいですが、これも現実の「ケース・バイ・ケース」に照らしあわせて行わないと、お互いの観念、ここでは「自由」と「平等」ですが、それぞれが互いの観念と食い合い、どんどん身動きが取れなくなります。つまり「自由」を主張する人がいれば「平等」はだめだといいだす人がいるでしょう。逆もしかりです。こうして「リベラル」内でも意見の「相違」ができて行って、次々に「分離」していくことになります。
どんなに野党が「平和」、「平和」と叫んでも具体性がないために相手にされないのもこうした傾向のせいでしょう。かつて民主党が色々な綺麗ごとをいって政権を取りましたが、現実味がなく失敗しました。そういったことも同じだと思います。グローバルな傾向を示すには、伝統とか文化的なことよりも、各国で共通に通用する考え方や、合理性が必要なんだと思いますが、形だけになることが多いと思います。
しかしだからといって、こうした「観念的な言葉」が不必要かといえばこれは違います。人間は物事を「考えて」から動きます。そうなると「観念的」な目標が必ず必要になります。その際、綺麗ごとの「観念」は必ず必要になります。国そのものを「平和にしたい」という「気持ち」は必ず必要です。実際、人間は「思考中」、こうした現実味のない「抽象性の高い観念」をもとに考えていることが多いですね。考えること自体、実際の物がある、または発生している行為ではないので当然といえば当然といえます。
問題はそれを現実に照らし合わせて、どう実現するかです。
抽象性の高い観念と、実際の世界とでは同じ目標であってもやり方を変えねばいけません。
<愛国者たち>
今日ネットにはネトウヨなどと呼ばれるネット右翼が溢れていますが、彼らの書く文章を見ていると、どうしても自分には思い出されてくることがあります。どれもこれもどこかで読んだことがあるような内容なわけです。
それはまさに「我が闘争」とそっくりなわけだと気づくわけですが・・・。
彼等が主張する、中国、朝鮮の人たちが日本国内で工作活動をしている、ということなど、相手を「ユダヤ人」に変えて読めばほとんどナチスのプロパガンダといえます。ほぼ「同じ」といって良いですね。多分「我が闘争」のことは読んでない人が多いと思いますが、それにしても口ぶりや内容が本当にそっくりです。
激しい意見になれば国内から彼らを排除せよ、とさえもいってますね。もしかしたら彼らのいうように工作活動をしている当該の国の人もいるかもしれませんが、しかし歴史の教訓というものがない、ネトウヨのいいまわしには開いた口がふさがりません。彼らは自分達こそ「日本人」だといい張りますが、もっと平均的な今の日本人の考えなら、時代錯誤がひどいというと思います。
彼等はまた「天皇」に恭順の意を示す自分達、を演じます。どれぐらい「天皇陛下」が素晴らしいかを力説します。そのこと自体、構わないと思いますが、しかし結果、その「天皇」を敬う自分達もまた、素晴らしい、という論調になりますね。ここには明らかに「民族の特殊性」を誇示しようとする彼らの態度が見え隠れします。日本の「皇室」が世界でも類をみない王室である、という理屈は良いと思います。しかし、この「皇室」を敬うからといって、それを主張する、「本人らが偉い」こととは無関係です。尊敬に値する人、つまりここでは「天皇陛下」を敬うような民族であれば、もう少し謙虚だったりしないかと思いますが、どんなものなんでしょうか。
他民族への嫌悪と、自国民の特殊性や優秀性を誇示する態度は、もうすでに「民族主義的世界観」の萌芽があるといって過言ではありません。
そしてこうした人達の議論は最終的に「軍事力」で日本をどうするか、という話に大概なっていきます。憲法改正を求めているので、その点もあるんでしょうけども・・・。
まあ、GDPの2%に軍事費をしろ、とかそれなりに理由はあるかもしれませんが、話を聞いていると「戦争」はしなければいけない、という風に聞こえてきます。仮想敵国を考える際に、実際何が起こるかを考えることは重要かと思いますが、それにしたって、中二病のようになんでこんなに軍事マニアが多いのか?本来なら軍事は外交の最終手段にすぎないわけです。
かつてヒトラーの元にはヒムラ―、ゲッペルス、ゲーリング、ヘス、ボルマンのごときチンピラのようなルサンチマンが多く集まりました。はたしてそれが彼のいう「優生人種」の代表だといわんばかりでした。この極右の傾向がしめす、中二病的な傾向(まあ、自分も偉そうなことはいえませんが・・・)もまた、一種のルサンチマンを示しているように思えます。
こうした書き方をすると当然、ステレオタイプな書き方で、そんな人たちばかりでないという人もいるでしょう。その通りだと思います。右翼も左翼も色んな意見を持つ人がいます。こういう決めつけ方自体が危ないのかもしれません。
しかし、反面そう見えることも多いのも確かです。
半藤一利著、「戦争と歴史」。
著者本人の過去の著作などから、明治初期から現代にかけて、役に立ちそうな文章をまとめたものです。とても読みやすいです。
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この著作の中で、軍事力の行使の仕方について、半藤一利氏は書いています。
<クラウゼウィッツの「戦争は別の手段をもってする政治の継承にすぎない」という大原則が、なぜか第二次世界大戦においては忘れられていたことに、わたしはびっくりしている。これこそが戦争を考えるときのいちばんの真理であると思っている。クラウゼウィッツは戦争は政治の道具だといっているのである。戦争という暴力行為は政治目的の表出であって、その代償行為ではない、と説いているのである。・・・
それを戦前の日本人は見事に誤読ないし誤解した。
第一の誤読が、政治と戦争の関係が可逆的であるとする見方である。早くいってしまえば、軍事こそが政治を有効なものにするという改竄である。さらには政治を単に外交へと切り詰めてしまうことである。外交の手段としての戦争と、戦争の手段としての外交という互換を勝手にしてしまったのである。
第二の誤読は、いったん戦争がはじまってしまったら、政治は作戦に干渉すべきではない、という純軍事論である。かつての日本帝国の`統帥権の独立`はまさにそれであった。最高統帥に完全な自由が与えられないと、戦争は勝利に結びつかないと信じこんでいた。
このように、軍事に強圧的にひきずられた日本帝国の政治に、政治的大戦略はありうべくもなかった。ドイツの勝利を唯一の頼みの綱として、戦勝後のドイツの世界戦略のアジアにおけるおこぼれにあずかる。それを大戦略と錯覚していた昭和の軍人や政治家が、クラウゼウィッツを読みこなしていたとは思えない。大東亜共栄圏も、戦争指導の根拠として、あとからとってつけた政治目標にすぎなかった。>
確かに物事の自発性には「愛」がいるんですね。主体性と自発性が右翼の方々の良いところだと思いますが、思想があるふりをしてますが、ありませんのでね。行動の指針が矛盾なく滞ることがないように思えます。行動を優先しすぎて、ルールを外します。必要悪のつもりなんでしょうが、必要悪のつもりなら物事は必ず成功させなければいけません。それには余程ちゃんとした計画がいります。この手の人々は、失敗しても責任を取りませんね。
愛国主義者は「国」を愛することが必要だとしています。国が一つにまとまらなけらばならない場合、「愛」こそ、一つの重要な動機になるといえましょう。我々は今いる国に住んでおり、その国が愛することが出来ればそれは素晴らしいことだといえます。
まさに「愛」は物事を一本化するために必要な要素だと思います。しかし、この愛が中々曲者で、扱いが難しいといえます。人は「愛して」さえいればなんでも大丈夫かのように思う人もいますが、違います。
「愛」には常に「理性」が付き添わなければなりません。自分の子が何か「悪いこと」をしたとします。しかし、親は自分の子を「愛する」あまり、その「悪いこと」を隠したとします。すると、その子は「悪いこと」を常習的に行うようになり、親も知らず知らずのうちにその「悪いこと」も愛するようになるかもしれません。
「愛」とはいいますが、「愛」は「悪」をも愛することが出来るのであり、知らない内に「愛」そのものが「悪」そのものに代わっている可能性もあるのです。「全体主義」や「国家主義」にその傾向が強いことは、先の大戦での我が国の教訓であったかとも思います。そのため、戦後は「合理的な」アメリカのような極めて理性の強い思考法がはいらざるを得なかったのだと思います。しかし、それが現在の「リベラル」のように観念的すぎて、現実にそぐわない場合、それは「行動」を伴わない「理想」という意味に於て「偽善的」となっていかざるを得ません。それゆえ、右翼側から、端的にいえば「愛」がない、というぐらいの意味でしょうが、「嘘」といわれても仕方ないところです。
ですがこれもまた、今の日本会議のいうような戦前回帰の発想では時代錯誤も甚だしく、今度は急に戦後の70年間を失ったようになります。もし仮に、戦後と戦前を結び付けたければ戦後の我が国の特徴も加味すべきだと思います。・・・加味している、といい張るのでしょうが・・・。
「我が闘争」と「シオン長老の議定書」における究極の2元論、つまり、国家主義かグローバリズムかというイデオロギーを我々はもっと早く脱皮しているべきだった、と自分は考えています。本来それだけの素材が日本にあったと思うからです。この2つの論法は最終的に「独裁制」を豪語しています。しかし、本来、このどちらの思考法も必ず「必要」な思考であって、その在り方はもう1度考え直すべきです。2元論から各自良い部分を抜き取って、第3点として設定していくべきです。
この2元論に於て、本質的な問題となるのはお互いがお互いを「憎みあっていること」に外ならず、その「内容そのもの」ではなく、根元にある「敵愾心」こそ最大の問題といえるでしょう。人間そのものの質の問題ですね。
もう少し他の著作なども見ながら、この問題を考えてみたいと思います。
エマニュエル・トッド著、「『ドイツ帝国が』世界を破滅させる」、堀茂樹訳。
3年前の本です。ヨーロッパから世界情勢を見ている本です。鋭い批評で面白いです。
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フランスの学者エマニュエル・トッドは次のようにいいます。
<グローバリゼーションによるストレスと苦しみの結果、何が起こっているか?先進諸国の社会は、いっそう開放的になって互いに一致していくどころか、むしろ反対に、それぞれの内部に、それぞれの伝統の内に、それぞれの人類学的基底の底に、グローバリゼーションに対処して自らを再建する力を見出しつつあります。
たとえば日本は、日本回帰の時期を迎えています。日本人は、ヨーロッパのあずかり知らぬところで自律的な発展を遂げた江戸時代を懐かしんでいます。
これと同じ力が、アメリカでバーニー・サンダースやドナルド・トランプのような大統領候補の出現を可能にしたのです。その力は、ネイションとしてのアメリカの再建を夢見て、「ワシントン・コンセンサス」やグローバル化の言説からの脱却を要求しています。>
そしてまた次のようになります。つまり、ネオリベラリズムは先にいう「議定書的」な傾向を持つものといえますが。
<今日の世界の危機は『国家の問題』として捉えなければなりません。中東を始めとして、いま真の脅威になっているのは、『国家の過剰』ではなく『国家の崩壊』です。喫緊に必要なのは、ネオリベラリズムに対抗し、国家を再評価することです。>
今日的な日本で右翼の台頭は仕方ないことだと思います。日本人がどう「日本」を捉えるか、その意識が希薄なためにある一群の人々は、かつての旧態依然とした価値観を持ち出してきました。しかしそれは、かなりの程度全体主義への傾向を含むもので、硬直した思想です。「国家を再評価する」ということがどういうことなのか、もう一度よく考える必要があるはずです。
たとえば日本会議の話があります。「日本会議」は必ずしも大きな組織ではなく、政治への影響力は少ないという人もいます。しかし、自民党の憲法草案へ彼らのブレーンが介入していることは間違いがないでしょう。
樋口陽一、小林節著、「憲法改正」の真実。
初期の自民党改憲案に対する批判の書です。憲法9条改正が改憲論において議論されていますが、実際問題になっているのはそれ以外の部分で多いということを教えてくれます。また9条の改正についても小林節氏のいう通り、自民党案でもなくやれるということ。もっとアメリカからの影響を排除して、日本の軍事の整備も可能だということを教えてくれます。今、最大の問題のなのは殆ど自民党の改憲案に賛成か否か、ということで改憲論が進んでいることだと思います。野党もちゃんと整理して、別案をだすべきでしょう。
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以下に引用します。
<小林 日本会議というのは、第一次安倍政権が大はしゃぎでやった教育基本法の改革などを支援してきた。山谷議員のジェンダーフリー反対論とか、有村治子前女性活躍担当大臣の閣僚靖国参拝支持論など保守強硬路線の人々が、みんなそこでつながっているという団体です。その前身のひとつに「日本を守る会」というのがあって、これは生長の家などの宗教団体の連合体だった。靖国神社や国柱会も入ってますよ。神社本庁、後は石原慎太郎の指示団体だった霊友会とかね。
樋口 戦前の道徳への回帰を目指すというのも、日本会議のテーゼですか。
小林 ええ、そうでしょうね。「かつての崇高な倫理観」を取り戻すと言ってます。>
本来、このような旧態依然とした宗教団体を含む圧力団体の思想と、ネオリベラリズムという、グローバリゼーションの思想は相いれないものです。現在トランプが大統領とはいえ、日本会議のような組織に日本が引っ張られていけば、リベラリズムの根源のひとつともいうべきアメリカとどう付き合っていくかという、問題に突き当たっていくはずです。その際、思想的な柔軟性がなければ、選択肢は「従う」か「反抗する」かの二択しかなく、どちらに流れても日本の一般国民には不幸だと思います。
その為にはやはり、論陣を張る陣営同士が「敵愾心」のみでやり合うのではなく、必要な場合に合わせてケース・バイ・ケースで政策を出し合うべきかと思います。
エマニュエル・トッドは日本についてこう述べています。
<ヨーロッパから見て、日本のイメージは悪くありません。「伝統」と「モダン」が絶妙にブレンドされた、洗練された国というイメージです。ただ、「第二次世界大戦時の軍国日本の横暴」という中国のプロパガンダは無視できない影響力を持っています。「サムライと特攻隊の国」という強烈な印象も残っています。さらに日本人自身が自分達の国が危険な国であると必要以上に思い込んでいるようです。
しかし、安全保障は、過去の歴史とは区別してプラグマティックに考えるべきです。確かに明治以降、欧米を模倣して日本も軍事大国化しましたが、日本の長い歴史から見れば例外的な一時期です。むしろ総体として平和の歴史でした。とくに江戸時代には、250年もの間、戦争せずに文化と経済を飛躍的に発展させたのです。世界的にも稀なことです。半ば冗談ですが、日本はそうした平和な歴史をアピールしながら、アメリカを助けるために一隻か二隻、空母を作るべきです(笑)。>(エマニュエル・トッド著「ドイツ帝国」が世界を崩壊させる、から)
個人的に憲法改正は構わないと思っていますが、その内容ですね。軍事力をある程度増していくのは良いとも考えています。しかし、その軍事力で守るものは何か。当然、国民やその財産というものもありますが、「実際の物」以外に何かしらの「思想的な理念」がないといけないと思います。戦後のスローガンだった「軽武装・経済第一」ももう守るべきものではないのでしょうから、新たなものがいると思います。エマニュエル・トッドのいうように、「軍事力」をある程度高めながらも「平和」についてのアピールは可能でしょう。その際、アメリカの影響力は我々の理念に合わせて、押さえていく必要があるはずです。
<小林 ・・・(中略)・・・ しかし、アメリカがはじめた戦争でまともに終わった戦争はない。ヴェトナムもアフガニスタンも、結局は動乱が拡大した。アメリカがかった戦争はないのです。
それなのに、むやみに戦争をしたがるアメリカに日本がついていったら、新しい敵をつくるし、人も殺さなくてはならないし、国内ではテロによる報復を恐れなくてはならない。しかも軍事費がかさんだ挙句、アメリカのように国家が破産寸前の状態に追い込まれる。なにもいいことはないですよ。だからこの路線は取れません。
かといって、日本が今さら完全に独立した軍隊をもって、米軍の力は一切借りませんというのも、現実的でないと思います。
これまで、アメリカの二軍になるのを防いできた9条の条文を明確化して、距離を取りつつ、日本を守るというのが私の考えです。>(樋口陽、小林節著「憲法改正」の真実、から)
今の敵愾心むき出しの極右や極左のような考え方では、物事の程度の調節ができず、糞も味噌も同じに扱ってしまうことになります。日本が第二次世界大戦に負けた後、確かに占領軍から彼らに「連合軍の正義」を押し付けられて、我々がこの時代の在り方を顧みる可能性を著しく潰されたのは事実のように思います。それを自虐史観というのは分かります。しかし、改めてこの時代のことを確かめてみて、我々がすべて正しかったというのはおかしいでしょう。
今の時代もう一度日本人がこの時代の日本の歴史を自分達の眼で見ることは有意義だと思います。結局ケース・バイ・ケースで見ていかなければ、難しいことばかりですし、やはり全体として戦中のことを見る限り、反省事項の方が多いと思います。
半藤一利、秦郁彦、平間洋一、保坂正康、黒野耐、戸髙一茂、戸部良一、福田和也著「昭和陸海軍の失敗」。
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引用します。
<保坂 ・・・(中略)・・・まず今村の話からしていきましょうか。・・・太平洋戦争では開戦直後に第16軍を率いて、オランダ領東インド(現在のインドネシア)を攻略し、ジャワ島に上陸してわずか9日間でオランダ軍を降伏させました。
福田 今村の業績としてまず挙げられるのが、占領したジャワで素晴らしい軍政をおこなったことです。
・・・(中略)・・・
半藤 ほかにもあります。今村はまず2年間、税金の免除を約束しました。そしてオランダ軍から没収した金で各所に学校を作らせたのです。こうした政策によって、ジャワの人たちがとても親日的になり統治がうまくいった。大宅壮一は「これが本当の大東亜共栄圏か」と思ったという。また敵のオランダ人も、兵隊でない一般の人は住宅地に住まわせ、外出も自由に認めていたそうです。
保阪 ところが、この政策が「生ぬるい」として軍中央の不興を買うんですね。参謀長の杉山元をはじめ、軍務局長だった武藤章、人事局長の富永恭次(25期)などがジャワに来て、強圧的な政策に転換するように求めますが、今村は陸軍の『占領地統治要網』から`公正な威徳で民衆を悦服させ`という一節をひいて、「職を免ぜられない限り、ジャワ軍政の方針を変えるわけにはいかない」と突っぱねます。
半藤 「八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」とも述べていますから、今村は他の地域で行われた強圧的な軍政には批判的だったんでしょう。
結局、わずか一年足らずでジャワ島方面軍司令官の職を解かれてしまい、第八方面軍司令官としてニューギニアの東にあるラバウルへ赴任して、終戦までこの地にとどまります。残念なことに今村の後任の原田熊吉中将(22期)は、着任した途端にこれまでの宥和政策をすべて止めてしまった。レコードも没収です。ジャワ島民がこれに反抗してゲリラ戦が始まるのですが、大宅壮一は「とても居られない」ということで、日本へ帰ってきてしまったそうです。>
日本の過去のことを反省ばかりして、そこにいたすべての人が駄目だった、といういい方は確かに問題があると思います。尊敬できるような軍人もいたと思います。それと同時にやはり、軍国主義の当時の日本は尊敬できるかといわれれば「否」なんだと思います。だから極右、極左共にあってもいるし、間違ってもいる。彼らのような一部の偏った人たちの考えではなく、もっと現象ごとに丁度良い判断ができないと、過去を振り返ったことにならないように思います。
また、かつてを「反省」するといっても、「謝罪」がメインではなく、まず我々自らが、過去のような「嫌がることを強権的に押し付ける人間」でないことを証明してくことにシフトすべきでしょう。そういった自覚があれば「謝罪」もむしろ正々堂々とできるでしょう。昨今の日本では「権力者」が嘘をついてまで自分達を守ろうとする様子がマスコミでさんざん流されています。マスコミの報道の仕方も問題なのかもしれませんが、報道されてる方に問題がないとはとてもいえません。その「権力者」達の在り方が、昔の質の悪い軍人を思わせるという意見もありますね。
あれだけ嘘をつけば、パワハラなんて日常茶飯事でしょう。こういう人達が「謝れない」のは自分が大昔と変わってないからで、そのまま謝れば「自分を曲げる」で「自虐」になるというだけでしょう。ちゃんと変わっていれば、謝罪もそんなに難しくないと思います。
リベラル的に過去をみれば戦後と戦前が分断されたように思えてきます。他方、日本会議的に見れば、戦後70年を無視しかねません。国に主体性がいる場合は確かに「愛国心」は必要だと思います。戦前、戦後を含めて我々は日本人なのですから、極左、極右的に動くのではなく、戦後基本は反省して戦前の良いところを取り入れつつ、ある程度欧米のラディカルな思考も合わせた柔軟なあり方の方が多くの人には合っていると思いますね。
エマニュエル・トッドのいう<「伝統」と「モダン」が絶妙にブレンドされた、洗練された国というイメージです>がかなり正確なこの国のイメージかな、と自分は思っています。
そして極右や極左のごとき、極端な人々の方以外の人が実際は日本には多くて、そういう人の方がこの日本を支えていると思います。そして選挙になると投票するところがないと思っている人達は彼等でしょう。日本をより良いものにするのなら、彼等こそ声を上げねばなりません。