ヒマジンノ国 -52ページ目

 ヒマジンノ国

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最後にもう少し書きますが、一番初めに何者か権力者がいるんじゃないかという話をなぜ書いたかというと、今の世界が「全世界的な規模」でどういう形を目指して進んでいるか、ということが気になっていたからです。「世界規模の独裁制」というものを、ある人たちが模索してるんじゃないかと。まあ、証拠らしい証拠もない話で、一体どういっていいかも分からないことではありますが・・・。

 

そういう人達がいるのなら、自分はその方向性は間違っていると思います。

 

また、「シオン長老の議定書」も本物かどうかなんてわかりません。ただ一つ、この書物にいえることは、著者の、かなりの洞察力が働いているかな、と思える書物だということです。結局、この本は政治の在り方のほとんど全ての内容を取り込んでいて、しかもその内容が互いに打ち消し合うように試みられていますね。そういう意味では政治的意見を持つものはこの書物に簡単に取り込まれてしまいますし、同時に、他の意見を批判しなければいけなくなります。そういう変わった書き方がされています。

 

多くの人が揉めているうちに、火事場泥棒的に私腹を肥やしている人がいてもおかしくはありません。グローバル化した資本家は必ずしも国に縛られません。国なんかよりずっと自由が利きます。そこで何やらこそこそしている人の一群がいてもおかしくはないかと。ただ、それがユダヤ人がどうかなんてことも分かりませんけども。

 

「議定書」にしても「ユダヤ人」を主語に書かれているところが多いですが、仮に本の内容が本当だとしても、本当に「ユダヤ人」がやっているのかは分かりません。単に都合よく、迫害の歴史を持つ「ユダヤ人」に責任を転嫁しているだけかもしれません。だから、考え出すとどんどんドツボにはまります。

 

ですので、「影の権力者」や「ユダヤ人の陰謀説」について書くのはそろそろやめにします。結論が出ませんね。

 

ただなぜこのような文章を書いたかというと、まず第1に<現実世界の傾向をみていると、割と「議定書」や「陰謀論」的な感じがでてきている部分があるということ>、そしてそれに関して無関心でいられない自分があるということです。第2に、<すくなくとも「議定書」は批判的な意味で、洞察力に満ちており、反面教師的に現代に生かせるところがある>と思ったからです。

 

ということで、感じていることは一通り書きました。

 

下らない話ですが、お付き合い下さって、ありがとうございました。

 

ヤニック・ネゼ・セガンによる「ブルックナー交響曲全集」(2006-2017)。

 

最近聴いた音源から気に入ったものについて書きます。
 
まずはセガンによるブルックナー(10枚組)。
 

結構良かった全集です。音に透明感がなく、曲の構造の素晴らしさを表現するというより、感情的な表現を優先させてますが、テンポは動かさず、インテンポです。スケールは大きく、迫力もあります。モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の響きの味わいも独特で、輝きと情感とを一体化させています。

 
最近はネルソンスのブルックナーを頑張って聴いてきましたが、セガンのブルックナーを聴いて、求めていたのはこれか、という思いです。セガンの演奏で、交響曲はメンデルスゾーンしか聴いてなかったものですから、驚きました。ブルックナーは良いと思います。何よりブルックナーを始めて聴いた時のような、ブルックナー特有の旋律にある新鮮な感動が蘇ってきて、それが何より嬉しかったです。
 
ジュリーニに影響を受けているそうですが、旋律の歌わせる際の粘り方は、確かにジュリーニを思い出しました。ただジュリーニよりはあっさりしてますかね。比較すれば、ですけども。自然体で、のびのびと歌っていますね。
 
 
マウリツィオ・ポリーニによる「ドビュッシー、前奏曲2巻」(2016)。
 
ポリーニのドビュッシーは初めてです。しかも2巻だけの発売なんですね。内へ内へと研ぎ澄まされるような演奏です。音は固く、強音部もドビュッシーならもっと甘い響きの余韻を味わっても良いかと思いますが、彼は殆ど粘りません。感性よりも知性、静的よりも動的の演奏という感じです。初めてこの曲の1巻を聴いた時、コルトーの演奏でしたが、初めの一音からして鮮明な赤色を思い出した記憶があります。色彩と感性が生きる曲だと思いますが、ここでのポリーニは鋭い演奏です。ミケランジェリでももうちょっと響きに頼ってた気もしますけどね。
 
神経質なまでの繊細さもありますが、円熟味も感じました。
 
今の時代にふさわしい感じがします。結晶化した美的空間の演出をしようとしているのでしょうか。美演というところではないでしょうか。
 
 
ロヴロ・フォン・マタチッチによるワーグナー、「ローエングリン全曲」(1959)。
 
マタチッチとかクナパーッツブッシュだと、オーケストラの響きを透明でマスにまとめ上げて、豪快に鳴らします。フォルテシモはちょうどゾウの咆哮のように響きますね。
 
最近、恐竜の研究が進んで、カモノハシ竜にある後頭部の突起が空洞になっていて、コミュニケーションのために、楽器の役目をしたのではないかといわれ始めています。昔は空気をためて水に潜るため、とかいわれてましたが。
 
象の鼻も楽器の役目をするんでしょうね
 
それは鼻の形状からしても金管楽器を思わせるものがあります。同様に巨漢マタチッチでの指揮でも金管楽器群は強烈な咆哮を奏でます。金管群が物をいうことの多いワーグナーの楽劇において、それは強烈な印象を残します
 
正直最高です。マタチッチのワーグナー全曲は他にマイスタージンガー(イタリア語歌唱)ぐらいしかないのかなあ、残念です。自分の中ではローエングリンはこれで決まりかもです。やっとたどり着いた感じです。
 
久しぶりに聴いていて幸せを感じました。
 
テンポは野暮ったくて、ちょっとのろめですが、前奏曲からして呼吸が深く、峻烈です。クナの表現はロマンを感じましたが、マタチッチの表現はリアルですね。少し物足りないと思ってましたが、スケールが大きく、ローエングリンの世界に入っていくのに無理がなくて良かったです。
 
それでも第1幕はもう少しロマンティックな感じは欲しいかな。しかし第3幕、豪快な結婚行進曲から始まって、ローエングリンの出生を語る口上の瑞々しさ、スケールの大きさと彫りの深さ、その巨大さのまま全曲を幕引く迫力と感動。
 
垂涎の憧れと、遠いかなたの聖杯の城。神秘がきらめきます。ローエングリンの育った故郷のモンサルヴァ―トがどんなに美しいかと思います。
 
マンネリで、こういういい方はしたくないですが、「これぞワーグナー」。
 
録音は残念ながらモノラルですが、悪い音質ではないです。比較的パリっとして、デッカを思わせます。オーケストラの音も良く入ってますね。自分は許容範囲です。バイロイト音楽祭のライヴです。

 

加藤典洋著、「戦後入門」

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少し前に読んだ本などから、ちょっとだけ書きます。あんまり書くと日本型のファシズム礼賛ともいわれそうな気がします。しかし自分は本来この手の話はあんまり詳しくないので、ほんの触りだけですね。

 
引用から始めます。

 

<ドーアは現在のように「ボーダーレス状態に近づいた世界」における主権国の外交の目的は、1、国の安全保障、2、国民の経済的福祉の増進、3、国民に誇りを持たせることの三つに大別できるといっています。そしてそのうち、第三の「誇り」の内実として、

 
外国人に接したり、あるいは新聞で外国人の時刻に対する評価を読んだりするときに、「何々国に生まれてよかった」という感じが湧いてくるような感じを確保すること。
 
と述べています。そのうえで、この三つを安全欲、利益欲、プライド欲と呼び、「日本人の日本外交に対する不満」は昭和初期以降、現在に至るまで「第三のプライド欲に集中している」と指摘するのです。>
 
日本は戦後、経済大国になり、そのせいで、上に引用した、加藤氏のいう、「プライド欲」が緩和されてきたように思います。しかし、その経済力も中国に抜かれ、今後はアジアや南米諸国の躍進などもあり、どうなるか分かりません。55年体制が崩壊し、経済力に陰りが出てきた現在、われわれの「プライド欲」はむき出しとなり、そこを何で埋めるかが問題の一つになっているように思います。
 
今回はあんまり説得力もないですが、簡単に書いておきます。
 
自分もこのことは考えたことがありました。一点はやはり真っ先に思いつくことは「日本が戦争で負けたこと」、ですかね。戦後は特に自由主義の考え方を教えられて、それ以前の日本の歴史との断絶を生んでいることです。だから、我々は自分達を「どれぐらい日本人か」と考えても分からないでいる、ということです。「どれぐらい日本人か」、という問いかけ自体、変ですけども。
 
個人的には世界史には色々裏側があるかなと思いますが、ちょっとだけ触れてみます。もしかしたら日本は敗戦せずに済んだかもという視点で見てみます。
 
日露戦争以来、日本陸軍の最大の敵はロシア(ソヴィエト)でした。個人的には今でも中国よりロシアの方が本当は怖い気はしますがね。
 
明治時代から、大陸の関東州が植民地だということもあって、日本軍(関東軍)は大陸に出て行っています。その後、朝鮮半島も日本の領地でしたが、中国をバックアアップするアメリカ、ソ連のおかげもあり満州鉄道沿線の領地などでも排日運動が激化し、その沈静化のため、石原莞爾や板垣征四郎によって満州国が作られます。昭和初期の頃ですね。ポイントは日本がこの満州国をどのように扱ったかですね。大分端折って書きますが。
 
大本営の方はこの満州国を植民地として扱いますが、この満州を作った立役者、石原莞爾はそれに異を唱えました。この地には日本人、漢人、朝鮮人などを含む5種の民族がいて、これらの人々をできうる限り平等に扱いたかったようです。国家経営初期には日本が手を出さざるを得ないですが、後には独立国家として認めたかったようです。しかし、軍の本部はこれと異なり、植民地化していったため、軋轢ができ、石原莞爾は東条英機らともめ、若干52歳で軍を去ります
 
ちなみに、石原莞爾や板垣征四郎らは軍本部の意向を離れ、彼らの独断といってよいやり方で満州国を作りました。そのため彼らは英雄視されます。現代に活躍している、指揮者の小澤征爾の名前はこの二人の軍人からとられているといいます。
 
話を本筋に戻しますが、ここに見えるのは当時の原理主義的な考え方の解釈の違いですね。当時の日本軍は朝鮮や中国を一つ下に見ていたと思いますが、石原莞爾は当時の日本の考え方をもっと詰めて考えていますね。
 
大東亜共栄圏の思想の根本には「八紘一宇」の思想があると思います。今日、これは大日本帝国が世界征服を掲げた根本の思想だとしていますが、本来は必ずしもそうではありません。ただ多くの日本人はこうした言葉の内容を、日本人の尊大な義務感と一緒くたにして考えていた感じはあります。原理的なことは扱いが難しく、人によって毒にも薬にもなります。戦前、戦中の日本はほとんど毒だったような気がしてます。
 
さて、この原理的な言葉を使いだした一人にこの石原がいたようです。
 
 
石原莞爾著、「最終戦争論」。
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石原莞爾の著作から引用します。
 
<・・・(中略)・・・これは石原の信仰の師、田中智学氏が、日本書紀に出ている神武天皇建国の詔勅の中の、
 
・・・・・・六合を兼ねて以て都を開き八紘を掩(おお)うて宇(いえ)を為さん・・・・・・
 
から、その意味を端的に表現して作った新しい表現である。今は詔勅の前後を、すべて省略したが、真意は全く日本の世界征服でなく、道義に基づく世界統一の理想を述べているのである。田中智学氏が造語したのは昭和二年だとのことであるから、石原たちは「流行」するよりも大分前から、日本建国の理想を表す言葉として盛んに使っていたのであった。>(最終戦争論、石原莞爾。用語の解説から)。
 
日本書紀の内容から作り出した言葉ということです。「八紘」は八方で全世界を指し、それが一つの「宇」(家)となる、ということです。そしてその家長は天皇、ということになります。ただこの言葉も結局は造語なので、そこにあんまり神秘性を求めるのもどうかとは思います。
 
石原莞爾は東洋文明は「王道」であり、西洋文明は「覇道」である、と主張します。王道は仁義に叶うもの、覇道は手段を選ばず目的を達するもの、といえばよいでしょうか。覇道主義派は「力」に頼りますので、とても強いですが、世界を治めるには「力」だけでは道義性を反故にすることにもなり、人の道の反するということになります、故に東洋文明の「王道」こそ世界の統一には欠かせないといいます。色々問題あると思いますが、引用します。
 
<われらは、天皇を信仰し心から皇運を扶翼し奉るものは皆われらの同胞であり、全く平等で天皇に仕え奉るべきものと信ずる。東亜連盟の初期に於て、諸国家が未だ天皇をその盟主として仰ぎ奉るにいたらない間は、独り日本のみが天皇を戴いているのであるから日本国は連盟の中核的存在即ち指導的国家とならねばならない。しかしそれは諸国家と平等に提携し、われらの徳と力により諸国家の自然推挙によるべきであり、紛争の最中に、みずから強権的にこれを主張するのは、皇道の精神に合しないことを強調する。日本の実力は東亜諸民族の認めるところである。日本が真に大御心を奉じ、謙譲にして東亜のために進んで最大の犠牲を払うならば、東亜の諸国家から指導者と仰がれる日は、案外急速に来ることを疑わない。日露戦争当時、既にアジアの国々は日本を「アジアの盟主」と呼んだではないか。>
 
これは石原莞爾の言葉ですが、前半は当時の日本人の天皇信仰を良く表していると思います。石原らしいのは後半だと思います。彼は諸民族と平等にならなければならないといい、強権的であることをやめるべきだといいます。こうした発言は石原の他の書物にも見られます。はたして、満州国を作った石原莞爾の建国の理想は、満州において各異なる民族が平等に暮らせる「5族協和」の理念を掲げます。これを実現できれば確かに、東アジアでの新しいコミュニティーのシステムができたかもしれません。これを発展させれば、「大東亜共栄圏」もそれなりの意味も持ったでしょう。
 
そしてその後は満州と日本が10年かけ、共同で国力を蓄え、アメリカとの戦争のそなえるというものでした。歴史のIFとしてもう少し書いておきます。
 
 
保阪正康著、「太平洋戦争を読み直す」。
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別の著作から引用します。
 
≪高木清寿は、東亜連盟の副代表(代表は石原)という立場であったが、石原が中国とのルートを使って、しきりに蒋介石と終戦工作の打診を行っていたとも証言している。その打診は結局は実らなかったのだが、その折に石原の世界最終戦争論の一端を耳にしていた。次のような内容だったという。
 
<蒋介石政府と和平交渉を実らせたあと、日本は南方要域とオーストラリアを一気に占領してしまう。南方はすべて中国軍と日本海軍にまかせる。1939年から40年は、アメリカもイギリスも手を出すことはできない。関東軍は満州国と共にソ連と対峙する。その間に東亜連盟の徹底的建設を決行して、アメリカを一撃で倒す体制を東亜に作り上げる。そのあとに絶対平和の建設に入る。>
 
高木は、これは決して夢想ではなかったといい、東亜の国々がそれぞれ独立して連携していくという石原の構想は、もっと国際社会で知られれば意味を持った、とも述懐していた。≫(太平洋戦争を読み直す、保坂正康著)。
 
しかしこれも大陸の人々を下に見る軍部の中央によって、失敗、満州国は傀儡化し、植民地同様の扱いとなっていきます。しかし日本の軍部がこの線にある程度沿っていったなら、あのようなひどい敗戦を体験せず我々は歴史の連続性を持てたのかもしれません。東条英機らのような傲慢さが軍部になければ歴史の連続性を保つことができ、またずっと日本人である、という認識を我々は保つことができたかもしれないと思ってます。
 
まあただ、このルートは戦争をすることを前提としていて、色々問題もあるし、戦争を避けるなら他のルートもあったかもしれませんが。実際には満州国を作ったせいで国際社会の非難を浴び、アメリカに戦争に誘導される原因ともなったわけです。また、満州国を作るために軍隊を動かす必要があったわけですが、その原因となった柳条湖事件は石原たちのやらせです。結局こうした事件を起こすなら戦争に勝利しないと意味がないわけです。当然敗戦したのですから、石原莞爾もまた批判されてしまうのは当然だといえましょう。
 
しかし、やり方によっては日本は今のような状況にいなかった可能性もあるということがいいたかったです。その場合は我々がちゃんとした「日本人」なのか、という命題も今日のような形でなかったでしょう。プライド欲もそれなりに満足していたかもしれません。
 
現代の極右はまた嫌韓で中国の批判ばかりとなっています。大陸の方も排日教育ばかりしていますからそれも問題ですが、仮にせめて石原莞爾の思想を少しでも引き継ぎたいと思うなら、現状は皮肉としかいいようがありません。
 
個人的には太平洋戦争は侵略戦争だと思います。しかし一応建前で、元々日本は米英の植民地支配に立ち向かうはずではなかったのでは?というのもあります。それにしては右思想の人々が中国や韓国の悪口ばっかりいうのも、どうかなという気はしますね。いえばいうほど軍事的にはアメリカべったりになりますし。その時にいわれたことにすぐ反応するのも昔の大本営のようで嫌だなあ・・・。
 
中国や韓国だってある程度分かっていて日本の戦時中のことを批判していると思いますけども。国連だって未だに敵国条項が残っているわけです。日本がまた極右みたいのに支配されれば、アメリカだって軍事的に支援しなければいけない理由もなくなります。第二次世界大戦の戦勝国である中国、アメリカ、ロシアは下手をするとまたすぐに敵国になるかもしれないです。もしポイントを事前に絞るのなら、せめてアメリカなりに今の彼らのやりは良くないんじゃないかといわないと。逆説的ですが、身内のアメリカのやり方がおかしいということです。中国なんかも認めるところがあると思います。
 
現在日本はアメリカの強い支配下にあります。その状況下で、中国はかつてお前たちは偉そうなことをいっていたが、今はどうだ、といってきてるようなものです。その矛盾は日本人自身にあって、アジアの盟主になるといいながら、大陸のアジア人を下に見ていたその在りよう、ですね。ちゃんとした理屈があって、アジアの盟主に成ろうとしたが、アメリカに負けたせいでそれはどこに行ったのだ、と。その正しい理屈は一体何だったのか、と。
 
本当の本丸はそこにあったんじゃないのかな。自分達の中にあったものです。結局現在は昔考えた戦争の大義とは全く逆の方へと少しづつ誘導されてる感じじゃないかなあ、と感じています。旧軍指導部と同じ傾向を日本から導き出すために、その点ばかりを刺激する。
 
プライド欲を何で埋めるかよく考えないと、どうなっても知りませんね。
 
自分は何もアメリカと戦争をしろ、とかいいたいんじゃないんです。日本型のファシズムを呼び起こそうとかいうのではないです。かつて日本人の考えた中にも、大事にしていい部分は確かにあるかな、という意味で、です。我々のアイデンティティーに関わるところでしょうか。
 
アメリカとの軍事同盟は必要だと思ってますし。仮に現在のフィリピン政府がやった時のように一度は米軍に出て行ってもらうにしても、です。日本が軍事的に完全に独立するのはもう多分無理だと思いますよ。太平洋戦争中どれだけ資源の確保に苦労したか考えてみるべきです。一体どれぐらいの領土がいるか、ということを考えるともう無理だと思いますね。
 
しかし、今でも戦争をしているアメリカのやり方が実は世界規模で我々を苦しめていることに対する批判とかはすべきだといってるんです。必要最低限以上のことをやっているでしょう。もっと道義のあるやり方はあると思いますね。石原莞爾などの思想を受け継げばその片鱗ぐらいはいいうることもありそうだと思いますね。軍事力だけで何でも解決するのなら、石原莞爾のいった「覇道」のやり方で、最終的には欧米の進めてきた「力」の支配する世の中になりますね。
 
<なぜ、自由主義史観者たち、あるいは日本会議論者たちの、「自虐史観」という謝罪反対の姿勢の対案が「自賛史観」に立った日本国内でしか通用しない「誇りある国づくり」となるほかないか。それが、しっかりと相手に向き合うことからの撤退をしか生み出さないのか、その理由もまた、同時に見えてくるはずです。そこにあるのは相手に必要な謝罪要求を行うことができない自らのふがいなさ、屈辱感を、別の相手からの謝罪要求に応えることへの否定によって埋め直そうという、後ろ向きの、ひ弱な心理的代償作用にすぎないのです。
 
なぜ、日本政府は自分のかつて行った過ちについて、アジアの隣国にしっかりと謝罪できないのか。このことは、なぜ、日本政府は原爆投下という誰の目から見ても非人道的な行為について米国に対し、抗議できず、謝罪要求を行いできたか、という問いと一対です。「自虐史観」批判と「自賛史観」肯定は謝罪及び謝罪要求の回避という一枚のコインの、裏と表なのです。>(戦後入門、加藤典洋)。
 
また加藤氏の言葉を引用しました。原爆を一方的に批判することは難しいと思いますが、他は基本的に賛成です。侵略戦争と軍部の暴走などの部分を反省して、そのうえでもう一度、世界平和のためには石原流にいう「覇道」政治ではないやり方を考えないといけないと思います。その部分で日本にできることはあると思いますけど。大陸の反日教育も、日本が戦後、アメリカと同じ路線に乗ったと思われているのもあるんじゃないか、ということです。どの国とも一気に敵国となるわけではありません。戦後の平和憲法と合わせて、ある程度軍隊も持ちつつも、アメリカとは路線を異にした平和主義とかできないものですかね。

 

憲法記念日だというので少し書きます。非常にざっくり書きます(もっと細かいことも書くべきですが、大量の文章になるのでそれは止めます)。

 
安倍総理が憲法改正に意欲を見せるコメントを出してます。現実的な視点でいうと多分、今後は安倍総理のいう方向に流れていくかな、と感じています。「現実」として、ということです。
 
一応中国なんかが軍事力を拡大しているので、日本も、というところですかね。護衛艦「いずも」も空母にするとかしないとか。いずもはたしか全長で250メートルぐらいあるんですよね。昔の日本の大型空母ぐらいの大きさがあります。就航したときからF35を乗せる気だと思ってきましたけど。マスコミが報道してますが、今さらという感じはあります。
 
改憲の議論がありますが、その哲学的側面の議論がほとんどないので、弱ります。そこをちゃんと詰めてくれるのなら、当面2隻ぐらいなら空母もありかな、とか思いますが、議論がないので、今のところはやはり反対です。
 
軍事予算をもっと増やせという人がいます。中国に対応しなくてはいけないから、ですか・・・。しかし、我々は一体どこまで軍事力を増やせば安泰なのか。まあ、どこまでいっても安泰、ということはないんでしょうが、今じゃ足りないとかで。
 
元々日本のまわりはアメリカ、ロシア、中国と大国ばかりで彼らは資源が豊富です。戦争は資源がないとできませんね。そんなところが相手だと多分どれだけ沢山の軍隊があっても厳しいのではないかと思いますが・・・。自衛隊の件を見直しても良いですが、やはり同時に外交と政治の在り方を見直さないとだめだと思います。
 
自分はあんまり日本史詳しくないですが、ちょっとだけ書きます。
 
第二次世界大戦前、一応日本は当時の大国の一つではありました。しかし、その時代の日本の指導者によって、日本は徹底的に叩き潰される運命に導かれます。どうしてもアメリカとの戦争だけは避けるようにいっていた人たちを無視して、戦争に突入します。ルーズベルトもアメリカと日本の国力の差は分かっていたでしょうから、アメリカ人の世論を戦争に導くために「最初の一撃を日本に」、とかいう意見を出すわけです。
 
日本がアメリカに開戦に追い込まれた、という意見も分からなくないですが、やはり反面自分達で追い込んでいった、という部分もありますしね。戦争を始めたタイミングも最悪で、あと数年たてばナチスがソヴィエトに敗れるのも分かったし、核兵器が開発されたことも認知された可能性があります。
 
満州を作った石原莞爾などは、最終的にアメリカと戦争になるだろうといいつつも、まず満州と日本においては「不戦10年」を唱え、ちゃんとした国力を育てる事が必要だとしていました。東亜連盟などは日中戦争に反対し、日本と中国が連携してアメリカと戦うことも模索していたようです。そういう形になれば「大東亜共栄圏」もそれなりに説得力があったかも・・・なんですね。しかしこういうものは当時の軍部の「統制派」に潰されてしまいます(石原自体を統制派と見る向きもあります)。結果的に東南アジア諸国を欧米の支配から解放したとはいえ、急ごしらえで、自存自衛の為がメインとなると、どう贔屓目に見ても、実質はナチスのレーベンスラウムに近いかなという感じですね。
 
当然資源の問題はありましたが、やはり、日本帝国軍は帝国憲法における「統帥権」を盾に、勝手なことをしすぎたように思います。当時の軍隊は天皇のもので、議会は必ずしもその影響力を行使できません。つまり日本帝国軍は天皇の名のもとに、自分達の判断で軍隊を動かし続けたわけです。軍人、それを支持した日本人に傲慢さがあったかと思いますし、それが日本を亡国寸前に追いやった一つの要素かと思います。
 
いわゆる右思想の人が東条英機を尊敬したりするのもありだとは思います。東京裁判では死刑を覚悟して、天皇を擁護したりとか、自分にもそれなりの人物像はあります。ただまあ、個人的意見では、ああいう戦争を指導するなら、あんなひどい負け方をしてはダメだとは思いますが。
 
日本の戦国時代のように、軍隊で日本を統一するような傾向が、世界史にもあっても良いとは思います。しかし、日本国内なら同じ民族同士の戦いですが、世界規模になれば戦争の敗北は一民族の絶滅につながりかねないものです。本来あのような博打のような戦争はすべきではありませんね。
 
今となってみると、あの戦争そのものはやはり容認しがたいものがあります。あの段階がぎりぎり日本が軍事的に成功する可能性のある時代だったかな、ということです。それを完全に失敗したんですね。ここはどうしたって立ち止まって考えてみるところだと思います。単純に自虐史観とかそうでないとかでなく、やはり一個の事実として、ですね。
 
最近の極右の人達がかつての軍指導者達を純粋に尊敬するとなると、色々不安がよぎります。特に政治に影響のある日本会議の人達とかね。彼らの改憲の目的が帝国憲法、明治憲法のことですが、それの復活にあるといわれています。国体と統帥権の復活でしょうか・・・中々そこまでは分かりませんが・・・。ただ元々の自民党の改憲案にはその傾向が出ていることが憲法学者から指摘されています。
 
確かに今の日本の国家像の原型には明治憲法があると思います。今は象徴となってますが、国の王に近い形で皇室を定義したのはこの憲法です。個人的には天皇を国家元首にしても特に文句はないです。しかしあんまりそこに原理的にこだわるのはきびしいですね。旧態も、皇室崇拝が行き過ぎたように思います。天皇を現人神とし、そこを家長とする世界家族を作ろうとする目的がかつての「八紘一宇」の思想にありましたが、これも原理的なところがないと中々発想として出てこないものだと思います。一見世界家族の思想は中々面白いですが、どうしても神に選ばれた選民的な感触が付いて回ります。
 
ヒトラーもドイツ人を優勢人種と位置付けましたが、こうすることによって為政者は大衆コントロールがしやすくなるのです。皇室についてもおそらく江戸時代の人はほとんど存在すら知らなかったのではないでしょうか。また皇室の伊勢神宮参拝も明治以降のようです。明治以降、皇室が強力に神話化されたのは事実だと思います。先にもいいましたが、自分は皇室そのものに文句などありません。しかし、それを自分達の思惑でやたら持ち上げるのはどうかと考えています。皇室を信仰の対象にするのも構いません。しかしどこで線引きをするか、考える部分があると思います。
 
ナチスドイツ、イスラム国、大日本帝国、あるいは現代の中国など強力な独裁制の国家は、必ずといっていいほど、広大な領土目標を設定してきます。つまり自分達が生き残るためには「これだけの領土がいる」、という主張です。独裁制は孤立しやすく、特に自分達だけが頼りだと思っているのですから、沢山の領土を必要としてきます。しかしこの調子で各国が領土を主張しだしたら地球がいくつあってもたりません。どうしても強いもの勝ちの思想となっていきます。
 
さて、まあ・・・話を戻しますが、先に当時の軍人に傲慢さがあったといいましたが、そういうものが極右の人達にもあるのかな、という気はしてます。インテリジェンスがないんじゃないかと。まさにアナクロニズムでしてね。
 
日本会議の母体の一つに「生長の家」の存在があるといいますが、これは我々の感覚でいえば、宗教団体、といっていいものです。もう亡くなりましたが、教祖の谷口雅春氏は天皇信仰の強い教えで、戦争中も軍閥などに多くの支持者がいたそうです。どうしても原理主義的な傾向は強いですね。それが悪いとか一概にはいえないですが、閣僚に10人以上も日本会議に属する人がいると、ちょっと妙かな、とは思います。
 
変な話ですが、実際原理的な傾向を持つ人は政治的に扱いやすいようにみえます。独裁者、あるいは宗教的原理などで文句が言えない状況を本人が認めてしまうと、当人はその原理が与えられる場合は、ロボットがボタンを押されたように自動的に動いてしまします。
 
アルカイダなんかは元々ソヴィエトに対抗しようとして、アメリカに武器の供給なんかを受けていた訳ですが、後にアメリカ軍のアラブ駐留に反対して反米になりました。確かにアメリカも同時テロなどで被害はありましたが、結局オサマはアメリカに殺されてしまいます。イスラム国なんかもそうですが、最後はアメリカ軍の餌食になります。
 
何でこんなことを書くかというと、そうしたイスラム系の原理主義者と戦争前の日本の体制も良く似ていたと思うからです。国体、というべきですか。戦争前の日本は、太平洋戦争(大東亜戦争)は聖戦だともいってました。イスラム風にいえば「ジハード」です。アメリカはそこを見抜いていたはずです。
 
結局いつも思うのは、アメリカとかイギリスのような自由主義体制は、必要なら原理主義的な人々を利用するし、対決姿勢なら打倒してしまう、ということです。そういう意味ではこんなに判に押したように動き方の分かる人々は扱いやすいだろうと思います。
 
日本会議にしてもメディアで取り上げられた時期もありました。その時はアメリカやイギリスのメディアもカルトだといって反応していた訳です。しかし、今となってみると海外メディアは黙っている。多分これは日本に改憲して軍隊を公然と持ってほしいからだと思います。日本に軍隊ができれば、特にアメリカなど、色々利用価値があると思っているはずです。そのためには改憲しないといけないし、日本会議のような圧力団体が必要なら黙っておこうとか、そういうことじゃないかなあ。いつでも手のひら返すと思いますね。
 
原理主義者は欧米のある種の人々には美味しい相手に見えるんじゃないかと思いますよ。彼らはそういう人達を挑発するんですよ。やり方さえ間違わなければ、彼らの考えた方向に動かしやすいですね。釈迦の手のひらの孫悟空みたいなものでね。
 
イラク戦争を含め、アメリカが「テロとの戦い」で使ったお金は、第一次世界大戦と第二次世界大戦で使った金額より多いといいます。どれぐらいの金額が軍産複合体に流れたかよく考えなければなりません。アメリカなどは戦争、つまり喧嘩をすることで自分達が利する体制を作っているわけです。同時テロなんかがあったとしても、結局得をしてしまう人がいるわけです。戦争がなくなるわけがありません。アメリカとイギリスは中東にイスラエルを作ったことによって、中東を分断し、今では軍事と原油でもうけを出すような状況を作ってきたように・・・自分には見えます。
 
そういう意味では大航海時代以来、欧米の覇権を行使するやり方自体に問題がある訳で、多くの右翼などもその辺りの不満はかなり強いかと思います。だから、本来はその辺まで立ち戻る必要もあるんですが、欧米のプロパガンダは世界の隅々まで行き渡ってますし、中々難しいようです。
 
そういう状況の中で、単に戦争といっても本当に自衛のためなのかとか、あるいは、もっと別の目的があるのかとか・・・色々出てくるはずです。軍隊を持つのなら、ちゃんと理由を考えてほしいです。その辺安倍さんがちゃんと煮詰めてるかといえば、そうではないと思います。むしろもっと別の用途を考えてるような気もしますが・・・。
 
・・・すいません、疲れました。もう書くのをやめます。しかし、理屈に穴開きだらけで、これではとても足りませんね。
 
左翼がいうみたいに軍隊がいらないというのもかなり無理がありますね。「平和が大事」といっても順序とかやり方はあると思いますよ。
 
アメリカに対する批判を書きましたが、現状だとアメリカと軍事同盟を結ぶのは仕方ないと考えてます。ただ、政治的には日本は相手方にもっといえることはあるだろうと、政治家にはいいたい気持ちもあります。平和憲法は変えるにしても、理念は残せるかなと思います。ベトナム戦争で日本が参戦しなかったのは今の憲法のおかげだと思います。それに畢竟、日本を守るのは軍隊だけではないと思うので。政治家はもっとやってくれないといけないと思います。
 
安倍首相は急いでいるようですが、全然議論は成熟してないと思いますね。

 

昨日は平日ながら時間を取って、神奈川県へ出かけてきました。色々やらなければならないことの合間をぬって、時間を作ります。今年は海外に行く予定もないですし、近場ですませます。

 
去年のゴールデンウィークから、海岸に出かけて行ってないので、三浦半島の観音崎まで行ってきました。
 
非常に穏やかに晴れ、とても良い一日でした。
 
 
海も思いの外綺麗で、良いかな。
 
しかし最近は海の中や海岸にゴミが増えました。プラスチックが多いですね。昔より多くなってますよ。本当にひどい。食べ物に関するゴミが多いですね。飲み散らかし、食い散らかし、という感じ。これじゃあ、人間というより、獣と同じですね。
 
 
公園のレストランで昼食を取りました。こういうところにあるレストランは、大体ざっくりした食べ物を出すところが多いんですが、入ってみてしっかりしたところでびっくりしました。
 
カジュアルな感じですが、大衆的な感じではありません。最近はコンビニ食で夕飯をすませたりするぐらい食事が荒れてたので、心の準備ができずたじろぎました。
 
 
白いやかんにブイヤベースが入って出てきます。食べる初めに店員から講釈があり、最後は残ったスープをパスタにつけて食べるとかで。
 
美味しいけど、ちょっと足りないので、デザートをもらいました。有名らしいですが、個人的に初めてきいた「生プリン」。横浜の有名店と同じものが食べられるようです。こちらも店員の講釈があり、固まってないクリームと、卵黄、キャラメルを溶かして口の中でプリンにするとかで。
 
 
少しだけリゾートっぽい気分になりました。
 
 
横須賀美術館もありましたが、展示はほとんど興味を引くようなものがなかったので入りませんでした。
 
 
スティーヴ・ライヒの新作を買います。
 
「パルス」はライヒらしい音の揺らぎが味わえる佳曲だと思います。「カルテット」はピアノとパーカッションが入り、都会的な雰囲気と南国的な雰囲気が混じり合っていると思います。
 
全部で30分くらいかな。洒落てますね。

 

ブラームス、ヴァイオリン協奏曲(2006)。

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ユリア・フィッシャーによるブラームスのヴァイオリン協奏曲です。正直あんまり得意な曲じゃないです。普段は聴かないですね。元々はシェリングで聴いていた曲ではあります。
 
今回はユリア・フィッシャーのディスクを買ったので、色々と聴き比べてみようかと思いました。
 
カミソリのような音色のシゲティ(1959)、懐かしい甘美なクライスラー(1927)を少しずつつまみ食いすると、理由もわからず、用意していたオイストラフのディスクを聴くのが嫌になってしまいました。
 
で・・・オイストラフを飛ばして、カラヤンとムター(1982)のディスクを聴きだします。このディスクを聴くとこの曲はオーケストラの伴奏が大事なのが良く分かりますね。カラヤン、ムターともに豊かで押し出しの強い表現です。
 
クライスラーとムターのディスクは美しいと思います。クライスラーはブレッヒ、バルビローリの伴奏の両盤ありますが、どちらも好きかな。
 
それに比べるとこのユリア・フィッシャーのディスクは相当に洗練されてると思います。オケの音はそろえられて、透明感があり、ユリア・フィッシャーのヴァイオリンも瑞々しく、新鮮です。特に第1楽章の後半から、第2楽章にかけては瑞々しいブラームスで中々に美しかったです。ブラームスでないような気がしますよ。
 
 
透明感を保ちながらも曲調を外さない表現はこれが最近のブラームスか、という気がしました。
 
 
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(2009)。
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最近の女流ヴァイオリニストは容姿もかなり魅力で、ジュリア・フィッシャー、そしてこのジャニーヌ・ヤンセンもかなりのものがあります。
 
 
ヤンセンは初めて聴きます。しかし、このディスクは良くなかったです。どうなんでしょう、もしかしたら指揮者のパーヴォ・ヤルヴィのせいかもしれません(ノン・ヴィブラードでの演奏はこのオケの流儀らしいですが)。
 
ヤルヴィの伴奏なんですが、オーケストラの音色が原色で出過ぎるきらいがあります。音色はカラリとして、音彩が強調されてますね。だから官能性は良く出てます。ただ、マーラーとかR・シュトラウスならそれも分かるんですが、これはベートーヴェンなんですね。
 
ートーヴェンとかブラームスの音楽が録音が古くともそれなりに楽しめるのは、彼らの音楽が人間の感情の吐露を目的にした音楽だからだと思います。割と記号的な音楽の追い方で聴けるんです。それに比べると、ワーグナー、マーラー、R・シュトラウスなんかは、情景の描写が多く、楽器そのものの音色を気にして音楽を作っているので、ステレオ録音はかなり有利です。ラヴェル、ドビュッシーはいうまでもないですが。
 
ただまあ比較論の話ですので、この世にある音源が全てそうばかりともいいませんが。色んな録音がありますんでね。原理も現実には負けるときがあります。
 
さて、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はやはりロマンティックでまろやかな感情が出てると、聴いていて楽しいですが、ここではそれがあまり出てないですね。ジュリア・フィッシャーのように透明感のある演奏を狙っているのだと思いますが、もう一つ曲調を捉えていないと思いました。音色ばかり気にして表面的に聴こえます。
 
初めてこの曲を聴く人にはこれでも良いのかもしれませんが、自分はダメでした。ヤンセンを聴こうと思っていたんですが、これではちょっと実力は分かりませんでした。
 
こざっぱりした演奏だと思います。第2楽章はまあまあじゃないかなあ。
 

 

チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲(2015)。

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高尚的なファンには大きな声ではいえませんが、チャイコフスキーのVコンが好きなんです。チャイコフスキーの作品は交響曲を聴くのがしんどいものですから、コンチェルトとかセレナードに興味がいきます。彼の交響曲は暗いですが、コンチェルトは明るくて楽しい。
 
Vコンもヴァイオリンソロのパッセージは抒情的で美しいし、オーケストラの伴奏も主部では舞曲風で好きですね。
 
個人的には昔からアッカルドの演奏を聴いてきました。アッカルドのヴァイオリンは音色が明るく、甘美です。伴奏はコリン・デイビスで、あまりこだわりなくあっさりとやってくれるので、この曲の楽天的な感じが生きていて、好きでした。
 
今回はリサ・バティアシュヴィリのディスクですね。最近聴いたヴァイオリニストのうちではヒラリー・ハーンよりこちらの方が好みのヴァイオリニストかもと思い始めています。ハーンの演奏は丁寧ですが、ちょっと聴き手を待たせますね。音楽が水平的に広がるというか。演奏に時間がかかる。
 
それに比べるとリサ・バティアシュヴィリのの演奏は垂直的に楽曲に切り込んでいくように思います。うまい下手ではハーンの方がうまい、とかなるのかなあ。
 
しかしまあ、うまければ良いというものでもないし。
 
演奏家は楽曲に対して「君」の態度で挑むか、あるいは「臣」の態度で挑むかで大分と違うと思います。指揮者でいえばトスカニーニとかカラヤンみたいな「君」の態度であれば、楽曲をどう料理するか、みたいなところがありますから技術はうまいに越したことはないです。しかし、楽曲に対して「臣」の態度をとるのならば、どうしても楽曲の中身を掘り起こさなければなりません。そうなると、必ずしも演奏はうまくなくとも、その必死さとか、アドリブの良さなんかが求められますね。イマジネーションがいりますね。
 
今回リサ・バティアシュヴィリの演奏は結構念入りな演奏で良かったです。リサ・バティアシュヴィリの演奏は厳密に「君」とか「臣」とかいという態度ではないですが、この曲の内部を良く表現していると思います。
 
 
それに比べると同じ曲の演奏でも、ネマニャの演奏はもう一つ馴染めませんでした。自由闊達に弾いて、パッセージごとに拘っている感じは伝わってくるんですが、結局曲を捉え切っていないんじゃないかな。でもこのディスクもレコ芸なんかでは特選だったんですよね。
 
何が書いてあったかもうよく覚えていないんですが、レコ芸を本屋で立ち読みした時の感想は、技術的にもはっきりと批判するところもなくて、二人の立体評はどちらも推薦にならざるを得ず、結果特選に、という感じだったような。
 
でも「感動した」とかそういうことは書いてなかった気がします。ああいう評論は止めてほしいですね何も伝わってこないです。
 
やはりリサ・バティアシュヴィリの演奏と聴き比べると、彼女の方がちゃんと曲を捉えていると思いました。
 
 
アンドリス・ネルソンスのブルックナー、「交響曲4番」(2017)。
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すごく迷ったディスクなんですが、結局買ってしまいました。やはり改めてネルソンスのブルックナーを聴くと彼はブルックナー指揮者ではないと思いました。ですので、ネルソンスの個性から聴くブルックナー像を楽しむ方向でないと、聴けないと感じましたね。
 
ただ、この4番の演奏は3番の時よりも特徴が出ていて面白かったです。併録のローエングリンの前奏曲もそうですが、音が柔らかく、硬質な音響体であることが多い、この二人の作曲家の音楽をソフトな印象に仕上げています。
 
しかし自分はこういうもってりした響きで聴くと、ブルックナーはくどくなります。
 
おそらくですが、あんまり普段ブルックナーを聴かない人が聴いた方がしっくりくるのではないかと思います。それこそブラームスにふさわしい響きというか。いや、それもちょっと違うかな・・・。
 
ブルックナーの音楽っていうのは一見大らかなように見えて、実は作曲家の性格を反映してかなり細かい神経質なところがあるんですね。そこの再現とかあるとありがたいですが。
 
頑固一徹に見えるヴァントとか、スクロヴァチェフスキのブルックナーが評価されるのはそこに一因がある気がします。当然、ヨッフムとかはそんな感じではなく、もっと曲に対する共感があるようです。
 
ネルソンスは特にひらめきはないかなあ。丁寧に演奏して間延びする気がしてますね。
 
今後直ぐに7番もリリースされるみたいです。色々文句いってますが、多分買っちゃうな。こういう演奏方だと7番は合う気がしますね。5番とか8番は難しいんじゃないかな。3番もそんなに良くなかったですし。
 
3、5、8は音楽が地を這うみたいなところありますから。
 
ローエングリンの前奏曲は楽しんでます。全曲が出たら絶対に聴いてみたいと思っていますね。

 

 

今日も休日なので、ちょっとゆっくりしてました。自然に触れたいものですから、埼玉の奥地の方に。人間日の光に当たると大分と違います。疲れが大分と抜けたと思いました。

 

さて、先日は久しぶりに新宿に行きました。風邪が治ったような気がしましたし、色々欲しいものもありますので、出かけました。

 

とりあえず、大型のタワーレコードに行きたいとずっと思っていたので、新宿店に行きます。新宿店はまあまあの大きさがありますから。

 
 
 
デミ・ロヴァ―トの新譜が出てました。前作以上のパワーで、ここまで力強いアルバムも珍しいと思います。今一番脂がのっているんじゃないのでしょうか。すごいです。ステレオで音量上げてながしたいです。買いですね。
 
 
ギドン・クレーメル、ダ二ール・トリフォノフらによるラフマニノフのアルバム。試聴して買ったんですが、思ったより感動しませんでした。1曲目がフリッツ・クライスラーによる編曲バージョンで、これは良いんですね。ロマンティックだと思います。
 
メインのラフマニノフの悲劇のトリオ1番2番も名曲だと思うんですが、今の僕の感情にあいません。
 
 
リサ・バティアシュヴィリによるプロコフィエフのアルバム。プロコフィエフのヴァイオリン・コンチェルト1番と2番が収録されています。また、冒頭、中間、ラストにプロコフィエフのバレエ、オペラからキャッチーな曲が添えられていて、プロコフィエフ入門のアルバムとしても良いです。
 
リサ・バティアシュヴィリのアルバムを聴くのはこれが2枚目ですね。以前はブラームスのコンチェルトでしたが、大曲のせいもあって、ヴァイオリンの音色は輪郭線に強い印象がありましたが、今回は録音も良くなって、ヴァイオリンそのものの生の音が大分と入っている気がしました。
 
プロコフィエフの曲については、自分はヴァイオリン・コンチェルト1番の第3楽章のラストが好きです。小鳥のさえずるようなヴァイオリン・ソロの音色、あっさりした伴奏に支えられて、ピースフルな美しさがあります。オルガ・トカルチェクの小説を思い出しました。
 
他にも色々気になるディスクがありましたが、あんまり買い過ぎても聴き切れないので断念します。スティーヴ・ライヒの新作、あるいはネルソンスの演奏したブルックナーなど、後ろ髪を引かれる思いでしたが、新宿は後にしました。
 
 
後は雑誌を見てちょっとメタルが聴きたくなりました。こちらの方は自分は殆ど初心者ですけど。
 
雑誌の、女性ボーカルの特集を見たんですね。エヴァネッセンスの3枚目のアルバムを今でも聴くものですから、はまった時の気持ち良さはいくらかでも分かるつもりです。
 
NIGHTWISH、EPICA、MYRKUR、ARCH ENEMY辺りをYOUTUBEであたってみました。そして最後に辿りついたのがイタリアのバンドのLACUNA COILです。
 
 
カッコ良いので早速CDを購入。曲でいうと、「I FORGIVE」なんか好きです。このバンドはもう20年以上もやってるんですね。知らなかったです。・・・無知とは罪ですね。
 
 
しかしARCH ENEMYのアンジェラとかもすごいですね。女なのにあんな怒号が出せるんですね。新宿のタワーレコードでも随分押してたんで気になってましたけど。多分中毒度は高いんでしょうが、とりあえずは・・・。
 
ということで、また音楽中毒気味の自分を発見しているこのごろです。

 

今年も風邪をひいてしまいました。絶対にひかないつもりでしたが。いけません。

 

そして、世間はオリンピックも開催中ですが、それほど興味もなく・・・。

 
仕事と休息に関する本を読みました。おかげさまで、人間の休息の重要性を認識しました。ワーカホリックが有効なのも短期間な事柄についてだけで、長期的な視野にたつと休息は人間に必ず必要だとのこと。有名な作家とかクリエイターなんかは1日4時間しか仕事しない人もいるようです。
 
自分も今日は休みです。午前中から正午ににかけては少し出かけましたが、後はしばらく音楽を聴きます。
 
 
チェリスト、カミール・トマによるサン・サーンス、オッフェンバックのアルバム。
 
最近は音楽を正面切って真面目に聴くより、「ながら」で楽しめるものが好みです。こちらはサン・サーンスとオッフェンバックということでフランス風のロマンティックな雰囲気が楽しめるアルバムです。
 
滑らかなチェロの音色にうっとりします。チェロ名曲集とかでも中々こういう風に楽しめるアルバムってないんですよ。優雅でエレガントです。
 
ただ最後のトラック、ヴィラゾンの歌う、オペレッタのボーナスはいらないかな。折角良い雰囲気だったのが台無しです。
 
新人のカミーユ・トマについては、初めてグラモフォンに契約した女流チェリスト、という触れ込みです。チェロの音色は明るめで、滑らかによく歌います。しかし、日本ではあんまり話題になってないですかね。自分は好きです。
 
 
エリー・ゴールディングのデリリアム。
 
これはいつ買ったか覚えていないアルバムです。1度聴いて、全く面白いと思わなかったんですが、近頃買ったディスクはほぼ聴いてしまい、新たに聴きたいディスクが無くて、仕方なく過去に買ったものを漁っていたら、これが出てきました。
 
ところが・・・改めて聴いてみると丁度今の自分に合うようで、繰り返し聴き始めました。
 
昔から自分は日本人の歌手が声をしぼって、いかにも心を込めました、という感じの歌い方がとても苦手です。それはそれで素晴らしいと思いますけども。日本人はあらゆる部位の力が「内へ内へ」と向かう傾向が生理的にあるので仕方ないと思います。
 
ただ自分は聴く側としては、どうしても開放感のある、パワーがある歌い口に惹かれます。
 
このエリーゴールディングも迫力があります。そのおかげで、彼女独自の世界観を力一杯広げてくれるので、その世界に浸れるのは悪くないです。
 
しかし、前のアルバムもそうですが、その世界には少し渋さがあります。何でしょう、独特の節回しがあると思うんです。不思議と、このアルバムを初めて聴いた時はちょっと拒否反応がありました。まあ、今は慣れてしまったので構わないんですが。
 
すごく夢中になる感じでは聴いてないんですが、全体に良いなと思います。
 
有名な「On My Mind」、「Love Me Like You Do」などは聴きどころだと思うし、「Don't Need Me」や「Lost And Found」などにも心を動かされます。
 
そして「Scream It Out」の、クリーム状の壮大で爽やかな世界は、夢見るような思いに浸れます。

 

フランク・ボーセージ監督の「戦場よさらば」。

 
1932年のアメリカ映画です。主演はゲイリー・クーパーとヘレン・ヘイズ。ヘミングウェイ原作の映画化です。
 
この映画について、映画評論双葉十三郎は「ぼくの外国映画500本」の中で<ヘミングウェイの原作から、角ばったものや不純なものを除き去り、美しい心を打つ、ふくよかな愛の物語が完成した。>とあります。
 
ほぼ絶賛といっていいですが、自分には全くダメでした。年配の映画に詳しい方はこの映画の「愛」の純粋な描かれ方に魅了されるようです。しかし自分は全く入り込めず、3度目か4度目の試行を繰り返して、やっと全編観終わったのでした。
 
お互い思いやりのある愛し方ですが、戦争によって二人は引き裂かれ、ラストは悲劇に終わります。
 
しかし自分はこんなにあっさり終わるのか、と思いつつ観終わりました。正直何がいいたいのか全く分からず、きょとんとしましたが、よく考えてみるとお互いの純粋な愛が描かれていたのかな、という感じです。
 
現代に自分が感じているような価値観とは違い過ぎで、ちょっと驚いた感じです。多分自分のほうが擦れてしまっているのでしょうね。
 
 
何だか時代を感じてしまいました。
 
 
 
ジョージ・スティーブンス監督の「シェーン」。
 
西部劇の名作といわれる作品です。1953年のアメリカ映画です。カラー作品で、割と落ち着いて観ていられました。壮大なワイオミングの背景をバックに、入植者とならず者との対決を描きます。早撃ちの流れ者、シェーンが主人公です。
 
内容は平均的な西部劇な気がします。映画の中に少年の視点を入れているところがこの映画を心に残る物にしているのかなと思いました。
 
ただまあ、今となってはどうでしょう。個人的には悪いとは思えませんが、面白いとも思いませんでした。良くまとまっているとは思いますが、こちらの作品も時代を感じます。
 
 
個人的に西部劇ではエドウィン・L・マリン監督の「静かなる対決」の方が面白かったです。1946年の作品です。
 
西部劇なので、相変わらず真面目な入植者と狼藉を働くならず者との対決、という構図です。そんなに派手な見せ場もないですが、開拓者が団結してライカー一味に立ち向かう姿など良かったです。
 
まあ、ただしぶい映画なのかも知れませんが。
 
 
古い映画を観ていると面白いとか面白くないは別にして、色々考えさせられるところがありますね。人間の徳みたいな部分については、古い映画で描かれているものの方が立派かな、とか考えさせられる時があります。