半藤一利著、「戦争と歴史」。
著者本人の過去の著作などから、明治初期から現代にかけて、役に立ちそうな文章をまとめたものです。とても読みやすいです。
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この著作の中で、軍事力の行使の仕方について、半藤一利氏は書いています。
<クラウゼウィッツの「戦争は別の手段をもってする政治の継承にすぎない」という大原則が、なぜか第二次世界大戦においては忘れられていたことに、わたしはびっくりしている。これこそが戦争を考えるときのいちばんの真理であると思っている。クラウゼウィッツは戦争は政治の道具だといっているのである。戦争という暴力行為は政治目的の表出であって、その代償行為ではない、と説いているのである。・・・
それを戦前の日本人は見事に誤読ないし誤解した。
第一の誤読が、政治と戦争の関係が可逆的であるとする見方である。早くいってしまえば、軍事こそが政治を有効なものにするという改竄である。さらには政治を単に外交へと切り詰めてしまうことである。外交の手段としての戦争と、戦争の手段としての外交という互換を勝手にしてしまったのである。
第二の誤読は、いったん戦争がはじまってしまったら、政治は作戦に干渉すべきではない、という純軍事論である。かつての日本帝国の`統帥権の独立`はまさにそれであった。最高統帥に完全な自由が与えられないと、戦争は勝利に結びつかないと信じこんでいた。
このように、軍事に強圧的にひきずられた日本帝国の政治に、政治的大戦略はありうべくもなかった。ドイツの勝利を唯一の頼みの綱として、戦勝後のドイツの世界戦略のアジアにおけるおこぼれにあずかる。それを大戦略と錯覚していた昭和の軍人や政治家が、クラウゼウィッツを読みこなしていたとは思えない。大東亜共栄圏も、戦争指導の根拠として、あとからとってつけた政治目標にすぎなかった。>
確かに物事の自発性には「愛」がいるんですね。主体性と自発性が右翼の方々の良いところだと思いますが、思想があるふりをしてますが、ありませんのでね。行動の指針が矛盾なく滞ることがないように思えます。行動を優先しすぎて、ルールを外します。必要悪のつもりなんでしょうが、必要悪のつもりなら物事は必ず成功させなければいけません。それには余程ちゃんとした計画がいります。この手の人々は、失敗しても責任を取りませんね。
愛国主義者は「国」を愛することが必要だとしています。国が一つにまとまらなけらばならない場合、「愛」こそ、一つの重要な動機になるといえましょう。我々は今いる国に住んでおり、その国が愛することが出来ればそれは素晴らしいことだといえます。
まさに「愛」は物事を一本化するために必要な要素だと思います。しかし、この愛が中々曲者で、扱いが難しいといえます。人は「愛して」さえいればなんでも大丈夫かのように思う人もいますが、違います。
「愛」には常に「理性」が付き添わなければなりません。自分の子が何か「悪いこと」をしたとします。しかし、親は自分の子を「愛する」あまり、その「悪いこと」を隠したとします。すると、その子は「悪いこと」を常習的に行うようになり、親も知らず知らずのうちにその「悪いこと」も愛するようになるかもしれません。
「愛」とはいいますが、「愛」は「悪」をも愛することが出来るのであり、知らない内に「愛」そのものが「悪」そのものに代わっている可能性もあるのです。「全体主義」や「国家主義」にその傾向が強いことは、先の大戦での我が国の教訓であったかとも思います。そのため、戦後は「合理的な」アメリカのような極めて理性の強い思考法がはいらざるを得なかったのだと思います。しかし、それが現在の「リベラル」のように観念的すぎて、現実にそぐわない場合、それは「行動」を伴わない「理想」という意味に於て「偽善的」となっていかざるを得ません。それゆえ、右翼側から、端的にいえば「愛」がない、というぐらいの意味でしょうが、「嘘」といわれても仕方ないところです。
ですがこれもまた、今の日本会議のいうような戦前回帰の発想では時代錯誤も甚だしく、今度は急に戦後の70年間を失ったようになります。もし仮に、戦後と戦前を結び付けたければ戦後の我が国の特徴も加味すべきだと思います。・・・加味している、といい張るのでしょうが・・・。
「我が闘争」と「シオン長老の議定書」における究極の2元論、つまり、国家主義かグローバリズムかというイデオロギーを我々はもっと早く脱皮しているべきだった、と自分は考えています。本来それだけの素材が日本にあったと思うからです。この2つの論法は最終的に「独裁制」を豪語しています。しかし、本来、このどちらの思考法も必ず「必要」な思考であって、その在り方はもう1度考え直すべきです。2元論から各自良い部分を抜き取って、第3点として設定していくべきです。
この2元論に於て、本質的な問題となるのはお互いがお互いを「憎みあっていること」に外ならず、その「内容そのもの」ではなく、根元にある「敵愾心」こそ最大の問題といえるでしょう。人間そのものの質の問題ですね。
